最強国「秦」の「天下統一」を阻止しようとした趙の名将「李牧」。
その「生涯」と「強さの秘密」を、わかりやすく解説いたします。
「秦の始皇帝による天下統一を阻止した、最強の敵将」
悲劇の名将・・・歴史上、屈指の強さを誇る李牧。その強さの秘密は「孫子の兵法」だった
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この記事を短く言うと
・李牧とは、最強国「秦」の侵攻から「趙国」を守って戦った武将。通称「守戦の名将」
・李牧は「雁門関(がんもんかん)」という、モンゴルの騎馬民族と対する防衛軍の長官を務め、後に秦国の名将「王翦」たちとたたかうこととなる
・李牧が強かった理由・・それは、「孫子の兵法」の基本を大事にしたから
李牧の史実をわかりやすく解説!その功績とは
趙の名将「李牧」
滅亡寸前の「趙」を、最強国「秦」から守ろうとする悲しき名将
その生涯について解説していきたいと思います。
李牧の功績
李牧の功績を一言で解説いたします。
・滅亡寸前の趙国を、最強国「秦」から守り、何度も秦国軍を撃破した。
・春秋戦国時代末期、最強・秦の軍を、一時的にでも撃破し、そのうえ秦国の領土を奪い取ったのは「李牧」のみ。
秦国の侵攻を一時的にでも撃退したのは「李牧」と楚国の「項燕」のみ。しかし李牧は項燕の上をいっており、撃退のみならず「領土を奪っている」のです。
簡単年表
年代不明
趙国・北の国境「雁門関」の長官として、匈奴(モンゴル)の騎馬民族を防ぐ防衛長官を務めていた
紀元前243年
燕国を攻撃、武遂・方城を攻略
紀元前234年
趙の「幽繆王(ゆうぼくおう)」から大将軍に任命される
紀元前233年
宜安に侵攻してきた秦の将軍「桓騎」を撃破。かつての秦の名将「白起」になぞらえて「武安君」に任命される(白起は武安君という名の領主に任命されていた)
紀元前232年
秦軍が趙国へ侵攻。李牧はこれを撃破し、秦の領土を奪い返した
紀元前229年
王翦・楊端和・羌瘣が趙国へ侵攻。李牧は、趙の将軍「司馬尚」とともに迎撃するが、秦国の策略にハマり、幽繆王に処刑される
紀元前228年
李牧が死んだ三ヶ月後、趙国滅亡
李牧の子孫
李牧には三人の子がいたと言われています。
- 「李汨」
- 「李弘」
- 「李鮮」
そして孫もまた三人いました
- 「李諒」
- 「李仲車」
- 「李左車」
この三人の孫の内「李左車」だけは、有名な2つの「ことわざ」を生む活躍をしています。
秦国が全国統一を成し遂げた15年後、秦国は「楚国」の項燕大将軍の孫「項羽」によって滅ぼされます。
しかしその後、楚の軍団は2つに分裂。「項羽」と「劉邦」という二人が天下を争う「楚漢戦争」が勃発するのです。
劉邦の家来だった大将軍「韓信」は、趙国を攻略。
その時「李左車」は、趙の将軍として戦ったが、韓信に敗北。李左車は捕虜となってしまいます。
韓信は趙国を滅ぼした後、「燕」と「斉」を攻撃しようとしますが、その時「李左車」を参謀に採用して、作戦を尋ねます。
この時「李左車」は、こう言います。
「敗軍の将、兵を語らず」
しかし、韓信は礼を尽くして李左車に頼み込みます。これに感激した李左車は
「智者は千慮に一失が有り、愚者も千慮に一得が有る」
(賢者も千に一つはしくじる。愚者も千に一つは成功する)
と言い、自分の意見が「愚者の意見」であることを前置きした後
「韓信の軍は疲弊著しく、休養が必要」「燕・斉は韓信を恐れている」「趙の戦没者遺族を大切にし、彼らで燕・斉を攻撃する」
という作戦を進言。これに従った韓信は、「燕」を攻略することに成功します。
その後「李左車」は歴史から忽然と姿を消しますが、李左車が残した2つの名言は、その後の日本にも伝えられるほど長く残ることとなります。
生涯年表
李牧の生涯を解説いたします。
対モンゴル軍の司令官として活躍
趙国の李牧・・・当初は趙国の北、国境地帯の防御拠点「雁門」の長官をしていました。(余談だが、雁門とは、映画「ドラゴンブレイド」でジャッキー・チェンが守備していた砦)
その仕事はモンゴルの遊牧民族「匈奴」「林胡」「東胡」などの、いわゆる「北狄」と呼ばれる異民族からの防衛。
後に「チンギス・ハーン」を生み出すモンゴル・・・この頃から「馬」の機動力を活かした戦い方で、趙国を苦しめていたのです。
李牧は徹底的に防御に徹し、これに自信を深めた「匈奴」の猛攻に対して、李牧は伏兵を利用して「10万」の匈奴兵を虐殺。その後「林胡」「東胡」なども撃破し、その後十数年、北の国境は平和を保ったのでした。
対「秦国」との戦い
李牧は趙国の「幽繆王」により将軍に任命され、首都「邯鄲」へ召喚されます。
この時、趙国は最強国「秦」の圧迫を受けて、存亡の危機に立たされていたのです。
背水の陣・・・・・後に名将「項羽」や「韓信」が編み出した戦い方のことですが、趙国はまさに「背水の陣」という状態にあり、王も民も将軍も必死でした。
秦国の軍を「宜安」「番吾」などの地で撃破した李牧。秦から領土を奪い取る快挙を成し遂げます。これに喜んだ「幽繆王」は
「そなたは我が白起なり」
と絶賛し、秦国の名将「白起」と同じ「武安君」に任命し、大将軍とするのでした。
悲劇的な最期
紀元前229年、李牧は、趙国の名将「司馬尚」とともに、秦国の「王翦」「羌瘣(きょうかい)」「楊端和」などの将軍を迎撃します。
李牧は善戦し、秦国軍は苦戦・・・。秦国は作戦を変更。
郭開・・・幽繆王の側近。秦国の謀臣「李斯」と将軍「王翦」は、この奸臣に賄賂を送り、「李牧と司馬尚が謀反を企てている」という噂を幽繆王の耳に入れます。
45万の趙軍が生き埋めとなった「長平の戦い」で、秦国は内部工作により名将「廉頗」を罷免させ、愚将「趙括」に交代させて大勝利をおさめました。その時と全く同じ手を使ったのです。
疑心暗鬼になった幽繆王は、李牧と司馬尚の軍権を剥奪。しかし李牧は、危急存亡の危機であることを理由に命令を無視。これに激怒した幽繆王の手で処刑され、司馬尚は逃亡。
紀元前228年、李牧が亡くなった3ヶ月後、趙国は首都「邯鄲」が陥落し滅亡。
邯鄲で苦しい人質生活を送っていた「始皇帝・嬴政(えいせい)」は、母親と仲が悪かった者たちを粛清、生き埋めにし、帰国。
幽繆王の兄「嘉」が、逃亡して「代」という地で王を名乗りますが、その「代」もまた「王翦」の子「王賁」の手で「紀元前222年」に滅亡します。
その翌年、秦国は最期の敵「斉」を滅亡させて、ついに天下統一を成し遂げるのでした。
李牧はなぜ強かったのか?強さの秘密とは
なぜ李牧はあれほど強かったのでしょうか?
強さの秘密は「孫子」
李牧の強さの秘密とは、何なのでしょうか?「史記」を記した歴史家「司馬遷」は、李牧を「守戦の名将」と評価しています。
李牧の戦い方には、一つの特徴があります。それは「まず守備を堅めた後に、敵の油断・意表を突いて攻撃する」ということ。
「孫子の兵法」には
「まず負けないように準備を整えてから戦え」
と記されているのですが、李牧はその基本を非常に大切にした戦い方をしているのです。
「まず負けないようにする。次に攻撃」
しかもその攻撃の仕方も「孫子の兵法」に記された「兵は詭道なり(戦いは騙しあい。敵の裏をかいたほうが勝つ)」という基本を大切にしています。
李牧が強かった理由・・・それは「孫子の兵法」の基本を徹底的に守っていたからではないでしょうか。
当時、最強最大だった「秦軍」・・・秦軍と戦うためには、「城」や「砦」という強力な防御施設を最大限活かして戦うことが有効です。
李牧はそれがとても上手かったのです。
もしも李牧が生きていたら・・・
歴史に「もし」はありませんが、李牧が生きていたら、趙国はどうなっていたでしょうか?
李牧により秦国が撃退され、始皇帝による天下統一は起こらなかった・・・のでしょうか?
「織田信長」が本能寺で死ななかったら、どうなっていたか・・・「おそらく信長は塩分過多による脳溢血で、上杉謙信のように、遠くない将来に亡くなっていた」という説があります。
つまり信長は何をしても、死神から逃れる事は出来なかったということです。
「真田幸村」が生きていたら、「豊臣家」は滅びなかったのか?
「淀殿」や「大野治長」のような問題児がいるなかでは、いくら天才「真田幸村」でも、「徳川家康」に勝利することはできなかったでしょう。
李牧に降り掛かった「破滅」の運命も同じく、回避することは出来なかったでしょう。李牧が生きていたとしても、圧倒的な物量を誇る「秦」に敵対出来ず、亡くなっていたと思います。
いくら李牧が名将でも、その智謀には限界があるでしょうし、趙国の「郭開」や暗君「幽繆王」では、内患が多すぎます。
実際、李牧は「秦国から領土を奪い返した」とはいえ、それ以前に、趙は秦国にかなりの領地を奪い取られているのです。その「奪い取られた領地」に比べたら、李牧が奪還した土地など、本当に小さいものでした。
それだけ秦国のチカラは圧倒的でした。
とはいえ、「秦国から領地を奪還」したのは、あの時代では「李牧」ただ1人。一時的に秦国を撃退した楚国の名将「項燕」ですら、防衛しただけで、領地奪還はできていません。
李牧が名将であることは事実ですが、残念ながら生きていたとしても「趙」の滅亡は避けられなかったと思います。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・李牧は、趙国最期の名将として、最強「秦軍」を何度も撃破した名将
・李牧は紀元前229年、主君・幽繆王の手で亡くなっている
・李牧が生きていたとしても、趙国滅亡は止められなかっただろう
以上となります。
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