漫画「キングダム」にも登場した、「戦国四君」の一人「春申君」。その暗殺の真相を解説いたします。
「数々の功績を残しながら、欲におぼれて破滅した英雄・春申君」
大歴史家「司馬遷」に「老いた」と酷評されるほど、みじめな最期だった。
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この記事を短く言うと
・「春申君(しゅんしんくん)」とは、「信陵君」たちとともに「戦国四君」と呼ばれた「4人の名将たち」の一人。楚国の「考烈王(こうれつおう)」を補佐し、連合軍をひきいて秦国と戦った
・春申君は、我が子を「楚の王」にしようとたくらみ、「李園(りえん)」に暗殺された
・「春申君老いたり」とは、「司馬遷」が残した言葉で、春申君を批判した言葉
春申君とは何者か?どんな功績を残した人?
春秋戦国時代の中華、その地で最強国「秦」を相手に存在感を発揮した四人の貴族。
彼らは後世「戦国四君」と呼ばれました。
その「戦国四君」最期の生き残りが「春申君」
春申君は、人気漫画「キングダム」にも登場していました。
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春申君の本名は「黄歇(こうあつ)」
「春申君」は、一体どんな功績を残して、後世に名前を残したのでしょうか?
「春申君」の功績
春申君の功績を短く解説いたします
・秦国の人質となっていた楚の太子「完」を助け、楚王に即位させた・・・後の「考烈王」
・「考烈王」の時代に「令尹(れいいん・最高位の大臣)」に任命され、国政を担った
・「長平の戦い」に大敗した趙国が、秦将「白起」に首都「邯鄲」を包囲されたとき、魏の「信陵君」とともに、趙を救援した
・軍を率いて「魯国」を滅ぼし、楚の領土を拡大させた
・趙国の将「龐煖」と協力して、合従軍(諸国の連合軍)を組織・・失敗したものの、秦国・函谷関を攻撃した。
大臣として内政を主な仕事としていたはずが、軍事においてもかなり活躍していたみたいですね。
しかし、そんな大活躍の春申君でしたが、晩節を汚す過ちを犯しています。
春申君暗殺の真相
春申君には、3000人を超える「食客(用心棒)」がいました。その中には「韓非子」や秦国宰相「李斯」の師である「荀子」など、優秀な人材がたくさんいました。その中に「李園」という人物もいました。
李園の妹は大変美しく、春申君から寵愛されることに・・。李園はいずれこの妹を「考烈王」の妃にし、出世を果たそうと目論んでいたのです。
「美人計」、有名な「兵法三十六計」の一つです。
歴史上、美女の罠として「呉」を滅ぼした「西施」、後漢時代「董卓」を滅ぼした「貂蝉」などがいますが、この「李園の妹」もまた、「美人計」に利用されました。
李園の妹は、春申君の子を妊娠。これを知った李園は、春申君に「妹を考烈王に差し上げるように」と進言します。
「考烈王」には正式な後継者がおらず、今男児が生まれたら、きっと後継者になる。その子が楚王に君臨したら、実の父である「春申君」は、絶大な権力を握ることとなります・・・と・・・・。
「合従軍による秦攻撃」にしくじっていた春申君は、考烈王から煙たがられていました。そのため、いつ没落してもおかしくない状況に焦っていたのです。
春申君はその作戦を承諾。考烈王に「李園の妹」を差し出し、彼女は寵愛を受けて「男児」を出産します。
李園の妹は后となり、その兄「李園」もまた、重要なポストに付けられます。しかし李園は、秘密を握る春申君の暗殺を計画。
春申君は食客から「李園が暗殺を企んでいる」と警告されますが、李園を甘くみて無視。
紀元前238年、考烈王が病没。葬儀に向かう春申君は、李園の刺客により惨殺。
李園の妹が産んだ子は、後継者として「幽王」となり、10年後の紀元前228年には、幽王も亡くなり、李園の妹が産んだもう一人の子「哀王」が即位。
しかし、考烈王には「負芻」「昌平君」という別の子供達がおり、「哀王」は「負芻」に暗殺されて王の地位を奪われます。
その「負芻」は名将「項燕」とともに秦国に対抗。
秦将「李信」「蒙恬」を撃破するも、秦国の名将「王翦」に破れて亡くなります。
「負芻」の跡を継いだ弟「昌平君」も、秦将「王翦」「蒙武」により滅ぼされ、紀元前223年、楚国は滅亡するのでした。
さて・・・この春申君の最期・・・「我が子を王にしようとした」という逸話ですが、後世の創作という噂があります。
既に身ごもっている美女を権力者に差し出し、その子を後見する形で権力を奪う・・・。
こういう類の疑惑は
『織田信長の姑・斎藤道三とその子・斎藤義龍』
『平清盛と、後白河法皇』
『豊臣秀吉と豊臣秀頼』
など、ありとあらゆる権力者にあるもので、信憑性にとぼしいです。
春申君が暗殺されたのは、我が子を王にしようとしたからではなく、楚国内での派閥争いに破れたからではないでしょうか。
自らが王位に据えた「考烈王」という最大の後ろ盾を失った春申君・・・・楚の名将「呉起」や、秦の名宰相「商鞅」も、後ろ盾を失った瞬間に反対派によって暗殺されています。
春申君の死の真相もまた、案外単純な派閥争いなのではないでしょうか。
『春申君老いたり』とは、誰の言葉?
権力欲にまみれ、李園という食客に滅ぼされた春申君に対して「春申君老いたり」というキツイ言葉で批判した人物がいます。
歴史書「史記」を記した大歴史家「司馬遷」です。
「当に断ずべくして断ぜざれば、返りて其の乱を招く」
「決断しなくてはならない局面で、決断しないと、かえって身を滅ぼし、混乱を招くものだ」という意味の言葉です。
司馬遷は、春申君の「李園」を甘く見て決断しなかった態度を、このように批判しているのです。
戦国四君の中で、この「春申君」と「信陵君」の二人は、けっこう悲惨な最期を遂げています。
特に春申君は暗殺という最期をむかえたことで、「晩節を汚した」のかもしれません。
ちなみに魏の「信陵君」は、兄である魏王にその絶大な力を疎まれて左遷され、最期は酒浸りになって亡くなります。死因は、飲み過ぎ・・・。
「春申君」について「ひとこと」いいたい
春申君老いたり
かなり強烈な言葉です。
確かに、「考烈王」を秦国から救出し、命がけで楚王に就任させた若き春申君からすれば、暗殺されるなんて凡ミスはあり得ません。
個人的に、「戦国四君」の中で最も優れているのは、「孟嘗君」だとおもいます。
合従軍を率いて秦を討ち、斉の暗君「湣王(びんおう)」を支えて斉国の最盛期を迎えさせ、魏の宰相も務めた「孟嘗君」。
なぜ「孟嘗君」が最も優れているのかというと、他の三人には、それぞれに失敗したエピソードがあるからです。
平原君は趙国没落のきっかけ「長平の戦い」を引き起こしています
「信陵君」や「春申君」は、最期が悲惨・・・。
そんな中でも、「春申君」は暗殺されるなんて凡ミスをやらかしているのです。
「春申君」の最期は、酒の飲み過ぎで亡くなった「信陵君」よりも情けない終わり方だと思います。
「春申君が自分の子を王にしようとした」というのは、後世の創作とも言われています。
しかしそれでも派閥争いに負けて暗殺されるなんてのは、あり得ません。
「孟嘗君」も、暗君「湣王」に疎まれて殺害されかけましたが、鮮やかに引退し、魏国へ亡命。
孟嘗君は魏国から「宰相」に任じられます。
孟嘗君は、食客の一人「馮驩(ふうかん)」から
「うさぎは逃げるための巣を3つ持っている(狡兎三窟)」
と教えられ、亡命先を複数用意していたのだとか。
春申君もまた、孟嘗君を見習って、絶頂期に引退していたら、後世に汚名を残すこと無く済んだかもしれません。
「春申君老いたり」
的確に的を射た言葉です。
さすが司馬遷と言わざるを得ません・・・。
ちなみに、孟嘗君を殺そうとした斉の「湣王」は、燕国の名将「楽毅」ひきいる合従軍に大敗して亡くなり、斉国は滅亡寸前まで追い詰められることとなります。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・春申君とは、戦国四君の一人にして「楚」の大臣を務めた人物
・最期は自らの食客「李園」に暗殺された
・歴史家「司馬遷」は、春申君を「春申君老いたり」と言って痛烈に批判している
以上となります。
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