この記事では、豊臣秀吉の子供たちについて、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば、秀吉の子供たち全員を、一覧表でカンタンに理解できます。
秀吉は数多くの養子を持っていたものの、実子にはほとんど恵まれなかったため、子供が出来ない体質だったといわれているのです。
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この記事を短く言うと
1,豊臣秀吉の実子と養子とは?
秀吉には
- 石松丸秀勝
- 女子
- 鶴松
- 豊臣秀頼
という実子がいた。
養子には
- 結城秀康
- 池田輝政
- 豊臣秀勝
- 豊臣秀次
などがいた
2,秀吉は子供が出来ない体質だったのか?
秀吉の側室・淀殿と南殿が、秀吉の子供を産んだと言われているが、本当に秀吉の子なのかどうか、信ぴょう性にとぼしい。秀吉は子供が出来ない体質であった可能性が高い。
3,秀吉の側室・淀殿(別名・茶々)が産んだ二人の息子・鶴松と豊臣秀頼は、秀吉の子ではないのか?
一説によると、鶴松と秀頼は、淀殿の幼馴染・大野治長の子であると言われている
豊臣秀吉の子供たち一覧
天下人・豊臣秀吉の子供たちを、実子だけではなく養子や猶子も含めて、一覧でご紹介いたします。
生涯において、ほとんど子宝に恵まれることのなかった豊臣秀吉。
そのためか、養子は数多くいたようです。
ちなみに猶子とは、養子であるものの、家督相続権などは持たない、いわば形式的な養子のこと。
豊臣秀吉の子供たちは、以下のとおりです。
秀吉の実子
- 石松丸秀勝
母は側室・南殿 - 娘
詳細は不明 - 鶴松
母・淀殿(茶々) - 豊臣秀頼
母「淀殿(茶々)
秀吉の養子
- 羽柴秀勝
織田信長の四男・幼名は於次丸 - 豊臣秀次
秀吉の姉・とも(別名・日秀)の長男。秀吉の甥 - 豊臣秀勝
秀吉の姉・とも(日秀)の次男。秀吉の甥であり、浅井三姉妹の三女・江の二人目の夫 - 池田輝政
織田信長の乳兄弟・池田恒興の次男 - 結城秀康
徳川家康の二男・幼名は於義丸 - 小早川秀秋
秀吉の正妻・北政所の兄・木下家定」の五男 - 豪姫
五大老筆頭・前田利家の娘であり、五大老・宇喜多秀家の正室。秀吉から愛され『男なら関白になれた(豊臣家の後継者になれた)』といわれた - 摩阿姫
前田利家の娘。豪姫の姉にあたる。のちに秀吉の側室となった - 菊姫
前田利家の娘だが、早世した - 小姫
織田信長の次男・信雄の娘。家康の三男・徳川秀忠の正室となったが早世した - 竹林院
大谷吉継の娘。真田幸村(信繁)の正室 - 大善院
秀吉の弟・豊臣秀長の娘。毛利秀元の正室 - 茶々
浅井長政とお市の方の長女。秀吉の側室 - 初
浅井長政とお市の方の次女。京極高次の正室 - 江
浅井長政とお市の方の三女。佐治一成・豊臣秀勝・徳川秀忠と、三度に渡って嫁いだ。徳川家光の母 - 糸姫
蜂須賀小六の娘。黒田官兵衛の息子・長政の正室 - 宇喜多直家の娘
吉川広家の正室
秀吉の猶子
- 宇喜多秀家
宇喜多直家と、のちに秀吉の側室となったお福の息子。秀吉の養女・豪姫の婿であり、秀吉の婿養子にもあたる - 智仁親王
誠仁親王の第6皇子。八条宮を創設した - 伊達秀宗
伊達政宗と側室の息子。のちの伊予・宇和島藩主 - 近衛前子
秀吉の養父・近衛前久の娘。後陽成天皇の女御で、後水尾天皇の生母
秀吉は子供ができない体質だったのか?
豊臣秀吉は子供がつくれない体質だったと噂されています。
女好きだった秀吉は、生涯に数多くの側室をもっていました。
しかし秀吉の子供を産んだのは南殿。浅井長政とお市の方の長女である淀殿。この二人だけなのです。
秀吉の側室の中には、宇喜多秀家の母・お福のように、前の夫とのあいだに子供を出産した経験のある女性も数多くいました。
ところが、秀吉はそんな出産経験ありの女性との間にも、子供ができなかったのです。
そのため秀吉は、子供ができない体質だったのではないかといわれています。一説によると、幼い頃に【おたふく風邪】にかかって、子供ができない体質になったとか。
では南殿と淀殿が産んだ4人の子供の父親は誰なのか?
南殿の産んだ1男1女は、資料が少ないため、詳細はまったくわかっていません。
しかし淀殿が産んだ二人の息子には、数多くの噂が、当時からあったようです。くわしくは後ほど解説します。
詳細はまったく不明ですが、南殿が産んだ秀吉の子供たちも、秀吉の子ではなかったのではないでしょうか。
淀殿(茶々)の息子・鶴松と豊臣秀頼は、秀吉の子ではない?
淀殿が産んだ秀吉の子は、以下の2人です。
- 鶴松
- 豊臣秀頼
この二人の父親は、当時から大野治長という人物であると噂されていました。
大野治長は、淀殿の乳母・大蔵卿局の息子です。
美男子で高身長だったという大野治長は、淀殿の幼馴染であり、淀殿との関係が当時から噂されていた人物です。
「豊臣秀頼は巨体だった」
一説によると、豊臣秀頼は小柄だった父・秀吉には似ても似つかない巨体だったとのことです。
10人がかりで持ち上げる岩を、たった1人で持ち上げるほどの力持ちで、しかも美男子だったのだとか。
実際に、豊臣秀頼は豊臣秀吉の子ではなかったと、筆者も思っています。(根拠となる資料は何もないので、筆者の妄想でしかありません。)
実は秀吉、側室・淀殿が秀頼を妊娠した際に、淀殿のそばでつかえていた者たちを処刑したといわれています。
その理由は、はっきりとはしていません。
秀吉は淀殿が妊娠した際に、身に覚えがなく、誰か他の男性の子供であることを確信したのではないでしょうか。
だから秀吉は、淀殿の近辺警護を担当していた者たちを処刑したのだとおもいます。
これは、筆者の推測でしかありません。
詳しくは後述いたしますが、淀殿が秀吉以外の子供を妊娠したとしても、秀吉には淀殿を処分することができない特殊な事情がありました。
それだけではなく、生まれた秀頼を後継者とするしかない事情もあったのです。
ちなみに、淀殿が産んだ最初の子・鶴松や、南殿が産んだ子供たちは、幼くして亡くなっています。
→→→→→【豊臣秀頼の最期と遺体のゆくえ】についてくわしくはこちら
淀殿は秀頼を産むことで、母・お市の方の復讐を果たした?
ここからは、筆者の仮説です。
根拠となる資料はまったく存在しておりません。
妄想といっても良いくらいです。
なにとぞ、これを史実とはみなさず、一つの夢物語としてお読みいただきたい。
淀殿は秀吉の子と偽って豊臣秀頼を産むことで、母親・お市の方の復讐を果たしたのではないでしょうか。
実は秀吉は、淀殿からすれば、いくら憎んでも憎み足りないカタキなのです。
淀殿の母であり織田信長の妹だったお市の方は、【1583年】に柴田勝家とともに、秀吉に討たれています。(賤ヶ岳の戦い)
それだけではありません。
【1573年】、淀殿の父・浅井長政が小谷城の戦いで戦死した直後、秀吉は淀殿の兄・万福丸を、関ヶ原という場所で磔にして処刑しています。
つまり淀殿からすれば秀吉は、母と兄のカタキということです。
秀吉を憎んでいるはずの淀殿が、なぜ秀吉の側室となったのか?
秀吉は、農民出身である自らの出自に、大きなコンプレックスを抱いていました。
そのため、織田信長の娘や名門・京極家の娘など、とにかく家柄の良い女性を好んで側室として、家柄の良い子供をつくろうとしたのです。
中でも淀殿は、織田信長の姪という、まさに一流の血統でした。
だからこそ秀吉は、淀殿を側室に求めたのでした。
一流の血統、特に織田信長の血を引く女性に、自分の子供を産ませることで、豊臣政権の大半を占める織田家の家臣団に、我が子への忠誠を誓わせようとしたのでしょう。
淀殿に子供を産ませれば、その子は織田信長の血を引く御曹司ということになります
そうすれば、旧織田家の家臣団も、秀吉の子に忠誠を誓わざるを得ないでしょう。
淀殿は、その秀吉の求めに応え、以下の通りに返事をしたといいます。
あなた様の求めに従います。
ご存分になさってください
淀殿は、秀吉からの誘いに対して、こう言って応えたといわれています。
しかし、淀殿はおそらく秀吉に復讐するために、側室となったのでしょう。
淀殿は、秀吉の子と偽って他の男の息子を産むことで、豊臣家を乗っ取ろうとしたのではないでしょうか。
秀吉が、淀殿の身辺警護の者たちを次々処刑したことは、さきほど解説しました。
では、なぜ妊娠した淀殿は、処分されなかったのか?
おそらくですが、淀殿は妊娠した事実を、すぐに広く世の中に知らしめていたのです。
淀殿が秀吉の子を妊娠したという事実が、広く世の中に知られてしまった後で、秀吉が淀殿を処刑したりしたら、どうなるでしょうか?
世の中には、あらゆる憶測が広がるでしょう。
秀吉は、側室の淀殿を、他の男に寝取られたのだ。
だから妊娠した淀殿は、処刑されたのだろう
そんな噂が広まることは、目に見えています。
そんなことになったら、天下人である豊臣秀吉のメンツは丸つぶれです。
後世まで、秀吉は笑い者とされてしまうでしょう。
実際に秀吉は、鶴松が自分の子ではないということを暗示するような落書きをされて激怒し、門番たち100人以上を処刑しています。
激怒したということは、すなわち、自分の子ではない可能性について、思い当たることがあったのでしょう。
天下人としての威厳は失われ、秀吉に従っている戦国大名たちは、一気に秀吉を侮り始めるでしょう。
そんなことになったら、せっかく統一した天下が、再び戦乱の地獄に戻ってしまうかもしれません。
特に農民出身の秀吉には、先祖代々の家臣団がいないため、力と利益でつなぎとめている各地の外様大名に見放されたら、豊臣政権はあっという間に崩壊します。
秀吉からすれば、そんな事態を防ぐ方法は一つしかありません。
それは淀殿が産んだ、誰の子とも知れない豊臣秀頼を、実子として育て、豊臣家の後継者に指名することです。
秀吉からすれば、苦しみ抜き、悩み抜いた末での決断だったことでしょう。
淀殿は、そこまで計算していたのかもしれません。
妊娠して、それを天下に広めてしまえば、秀吉が自分の子ではないと知っていても、秀頼に天下をゆずるしかない
というわけです。
淀殿からすれば、秀吉の血を引かない我が子・秀頼が、豊臣家を乗っ取ったことで、母・お市の方と兄・万福丸の仇討ちに成功したことになるのです。
秀吉の天下を継承する豊臣秀頼は、秀吉の血は引いていないものの、秀吉に討たれたお市の方の孫なのですから。
お市の方の孫・秀頼は、秀吉の天下を乗っ取ったともいえるのです。
秀吉の甥で、後継者として指名されていた豊臣秀次は、もしかすると秀頼が秀吉の実子ではないということに気づいていたのかもしれません。
しかし秀吉からすれば、秀頼が実子ではないことを、世間に知られるわけにはいきません。
秀次を切腹においやったとされる秀吉は、断腸の思いで甥・秀次を死なせたのではないでしょうか。
なぜなら秀頼という実子がいながら、甥で養子の秀次を後継者としたら、秀頼は秀吉の実子ではないという噂を認めることになりかねないからです。
だからこそ秀吉は、秀次が【秀頼は秀吉の実子ではない】と世間に暴露する前に処分しなくてはいけなかったのです。
(ただ実際のところは秀吉は、秀頼を後継者にしたいがために、秀次に無理に罪をなすりつけ、でっちあげ、死に追いやり、妻子まで虐殺している)
【1598年】、豊臣秀吉はこの世を去り、わずか6歳の豊臣秀頼が後継者に指名されます。
これで淀殿の復讐は完成した・・・と思いきや、そうはいきませんでした。
【1600年】、兄・万福丸が秀吉に処刑された因縁の場所、関ヶ原で、豊臣家の没落が決定的となる事件が起こります。
それは、天下分け目の関ヶ原の戦いです。
これに豊臣家を守りたいと考えていた石田三成が敗北し、徳川家康が勝利します。
家康によって、豊臣家は天下人の家柄から、わずか65万石の中級の大名へと没落させられてしまうのです。
【1615年】、完全に天下の覇権を失った豊臣秀頼と淀殿は、大坂夏の陣で亡くなります。
【人を呪わば穴二つ】ということわざをご存知でしょうか?
人を呪うものは、呪った相手だけではなく、自らの墓穴をも掘ることとなるという意味のことわざです。
秀吉を呪った淀殿は、最愛の息子・豊臣秀頼と、その父と噂されていた大野治長とともに、大坂城の籾蔵のなかで、自害して亡くなるのです。
さて、これはあくまで筆者の思い描いた仮説ですが、いかがだったでしょうか?
長々と解説しておいて恐縮ですが、この物語は根拠に乏しい推測でしかありません。
もっと言ってしまえば、筆者の稚拙な妄想でしかないのです。
ですので、参考または物語の一つとしてお読みいただければ幸いです。
→→→→→【茶々(淀殿)の生涯と秀頼の父親】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 豊臣秀吉には石松丸秀勝、鶴松、豊臣秀頼という実子がいた。養子には、結城秀康、池田輝政、豊臣秀勝、豊臣秀次などがいた
- 秀吉は子供が出来ない体質であった可能性が高い。秀吉の側室・淀殿と南殿が、秀吉の子供を産んだと言われているが、本当に秀吉の子なのかどうか、信ぴょう性にとぼしい。
- 鶴松と秀頼は、淀殿の幼馴染・大野治長の子であるといわれている
以上となります。
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