豊臣秀吉の子供を一覧で紹介!秀吉は子供ができない体質だったのか?

この記事では「豊臣秀吉の子供たち」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「秀吉の子供たち全員」を、「一覧表」でカンタンに理解できます。
「秀吉」は「数多くの養子」を持っていたものの、「実子にはほとんど恵まれなかった」ため「子供が出来ない体質だった」といわれているのです。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「豊臣秀吉」の実子と養子とは?
秀吉には
- 「石松丸秀勝」
- 「鶴松」
- 「豊臣秀頼」
という実子がいた。
養子としては
- 「結城秀康」
- 「池田輝政」
- 「豊臣秀勝」
- 「豊臣秀次」
などがいた
2,「秀吉」は子供が出来ない体質だったのか?
秀吉の側室「淀殿」と「南殿」が、秀吉の子供を産んだと言われているが、本当に秀吉の子なのかどうか、信ぴょう性にとぼしい。秀吉は「子供が出来ない体質であった」可能性が高い。
3,「秀吉」の側室「淀殿(茶々)」が産んだ二人の息子「鶴松」と「豊臣秀頼」は、秀吉の子ではないのか?
一説によると、「鶴松」と「秀頼」は、「淀殿」の幼馴染「大野治長」の子であると言われている
目次
「豊臣秀吉」の子供たち一覧
天下人「豊臣秀吉」の子供たちを、「実子」だけではなく「養子」や「猶子(ゆうし)」も含めて、一覧でご紹介いたします。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」
生涯において、ほとんど子宝に恵まれることのなかった「豊臣秀吉」。
そのためか、養子は数多くいたようです。
ちなみに「猶子(ゆうし)」とは、「養子」であるものの、家督相続権などは持たない、いわば「形式的な養子」のこと。
「豊臣秀吉の子供たち」は、以下のとおりです。
実子
- 石松丸秀勝
(母は側室「南殿」) - 娘
(詳細は不明) - 鶴松
(母「淀殿(茶々)」) - 豊臣秀頼
(母「淀殿(茶々)」)
養子
- 羽柴秀勝
(織田信長の四男・幼名は「於次丸・おつぎまる」) - 豊臣秀次
(姉「とも(日秀)」の長男。秀吉の甥) - 豊臣秀勝
(秀吉の姉「とも(日秀)」の次男。秀吉の甥であり、浅井三姉妹の三女「江」の夫) - 池田輝政
(「織田信長」の乳兄弟「池田恒興」の次男) - 結城秀康
(「徳川家康」の二男・幼名「於義丸・おぎまる」) - 小早川秀秋
(秀吉の正妻「北政所」の兄「木下家定」の五男) - 豪姫
(五大老筆頭「前田利家」の娘。五大老「宇喜多秀家」の正室。秀吉から愛され「男なら関白になれた(後継者になれた)」といわれた) - 摩阿(まあ)姫
(「前田利家」の娘。のちに「秀吉」の側室となった) - 菊姫
(「前田利家」の娘だが、早世した) - 小姫
(織田信長の次男「信雄」の娘。家康の三男「徳川秀忠」の正室となったが早世した) - 竹林院
(「大谷吉継」の娘。「真田幸村(信繁)」の正室) - 大善院
(秀吉の弟「豊臣秀長」の娘。「毛利秀元」の正室) - 茶々
(「浅井長政」と「お市の方」の長女。秀吉の側室) - 初
(「浅井長政」と「お市の方」の次女。「京極高次」の正室) - 江
(「浅井長政」と「お市の方」の三女。「佐治一成」「豊臣秀勝」「徳川秀忠」と、三度に渡って嫁いだ。「徳川家光」の母) - 糸姫
(「蜂須賀小六」の娘。黒田官兵衛の息子「長政」の正室) - 宇喜多直家の娘
(「吉川広家」の正室)
猶子
- 宇喜多秀家
(「宇喜多直家」と、のちに秀吉の側室となった「お福」の息子。秀吉の養女「豪姫」の婿であり、秀吉の婿養子にもあたる) - 智仁親王
(「誠仁親王」の第6皇子。八条宮を創設した) - 伊達秀宗
(「伊達政宗」と側室の息子。のちの伊予・宇和島藩主) - 近衛前子
(秀吉の養父「近衛前久(このえ さきひさ)」の娘。「後陽成天皇」の女御)
「豊臣秀吉の天下統一」については、以下のリンク記事をどうぞ。
秀吉は「子供ができない体質」だったのか?
豊臣秀吉は「子供がつくれない体質だった」といわれています。
女好きだった「秀吉」は、生涯に数多くの側室をもっていました。
しかし秀吉の子供を産んだのは「南殿」
「浅井長政」と「お市の方」の長女である「淀殿」
この二人だけなのです。

《淀殿(茶々)》
「引用元ウィキペディアより」
秀吉の側室の中には、「宇喜多秀家」の母「お福」のように、前夫とのあいだに子供を出産した経験のある女性も数多くいました。
ところが、「秀吉」はそんな「出産経験ありの女性」との間にも、子供ができなかったのです。
そのため「秀吉」は「子供ができない体質だったのではないか」といわれています。
では「南殿」と「淀殿」が産んだ「4人の子供」の「父親」は誰なのか?
「南殿」の産んだ1男1女は、資料が少ないため、詳細はまったくわかっていません。
しかし「淀殿」が産んだ「二人の息子」には、数多くの噂が、当時からあったようです。
詳細はまったく不明ですが、「南殿」が産んだ秀吉の子供たちも、「秀吉の子」ではなかったのではないでしょうか。
「浅井長政」については、以下のリンク記事をどうぞ。
淀殿(茶々)の息子「鶴松」と「豊臣秀頼」は、秀吉の子ではない?
「淀殿」の二人の息子
- 「鶴松」
- 「豊臣秀頼」

豊臣秀頼 京都市養源院蔵:Wikipediaよりパブリックドメイン
この二人の父親は、「大野治長」という人物であると言われています。
「大野治長」は、「淀殿」の乳母「大蔵卿の局」の息子です。
美男子で高身長だったという「大野治長」は、「淀殿」の幼馴染(おさななじみ)であり、長く「淀殿」との関係が噂されていた人物です。
「豊臣秀頼は巨体だった」
一説によると、「豊臣秀頼」は小柄だった父「秀吉」には似ても似つかない「巨体」だったとのことです。
10人がかりで持ち上げる岩を、たった1人で持ち上げるほどの力持ちで、しかも「美男子」だったのだとか。
実際に、「豊臣秀頼」は「豊臣秀吉」の子ではなかったと、筆者も思っています。
実は秀吉、側室「淀殿」が妊娠した際に、「淀殿のそばでつかえていた者たちを処刑した」といわれています。
その理由は、はっきりとはしていません。
秀吉は「淀殿」が妊娠した際に、身に覚えがなく、「誰か他の男性の子供であること」を確信したのではないでしょうか。
だから秀吉は、「淀殿」の近辺警護を担当していた者たちを処刑したのだとおもいます。
これは、「筆者」の推測でしかありません。
詳しくは後述いたしますが、淀殿が「秀吉」以外の子供を妊娠したとしても、秀吉には「淀殿を処分することができない特殊な事情」がありました。
それだけではなく、「生まれた秀頼を後継者とするしかない事情」もあったのです。
ちなみに、「淀殿」が産んだ最初の子「鶴松」や、「南殿」が産んだ子供たちは、幼くして亡くなっています。
「豊臣秀頼」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「淀殿」は「秀頼」を産むことで、母「お市の方」の復讐を果たした?
ここからは、筆者の仮説です。
「淀殿」は「秀吉」の子と偽って「豊臣秀頼」を産むことで、母親「お市の方」の復讐を果たしたのではないでしょうか。

《お市の方》
『引用元ウィキペディアより』
実は「秀吉」は、「淀殿」からすれば、いくら憎んでも憎み足りない「カタキ」なのです。
「淀殿」の母であり「織田信長」の妹だった「お市の方」は、【1583年】に「柴田勝家」とともに、「秀吉」に討たれています。
それだけではありません。
【1573年】、「淀殿」の父「浅井長政」が「小谷城の戦い」で戦死した直後、秀吉は淀殿の兄「万福丸」を、「関ヶ原」という場所で「はりつけ」にしています。
つまり「淀殿」からすれば、「秀吉」は「母と兄」のカタキということです。
そんな秀吉を憎んでいるはずの「淀殿」が、なぜ秀吉の側室となったのか?
秀吉は、農民出身である自らの出自に、大きなコンプレックスを抱いていました。
そのため、「織田信長の娘」や「名門・京極家の娘」など、とにかく家柄の良い女性を好んで側室として、「家柄の良い子供」をつくろうとしたのです。
中でも「淀殿」は、「織田信長の姪」という、まさに一流の血統でした。
だからこそ秀吉は、「淀殿」を側室に求めたのでした。
「淀殿」は、その「秀吉」の求めに応えたのです。
「あなた様の求めに従います。
ご存分になさってください」
淀殿は、秀吉からの誘いに対して、こう言って応えたのでした。
しかし、淀殿はおそらく「秀吉に復讐するため」に、側室となったのでしょう。
淀殿は、「秀吉の子」と偽って「他の男」の息子を産むことで、「豊臣家」を乗っ取ろうとしたのではないでしょうか。
秀吉が、淀殿の身辺警護の者たちを次々処刑したことは、さきほど解説しました。
ではなぜ「妊娠した淀殿」は、処分されなかったのか?
おそらくですが、「淀殿」は、妊娠した事実を、すでに広く世の中に知らしめていたのです。
「淀殿が、秀吉の子を妊娠した」ということが、広く世の中に知られてしまった後で、秀吉が淀殿を処刑したりしたら、どうなるでしょうか?
世の中には、あらゆる憶測が広がるでしょう。
「秀吉は、側室の淀殿を、他の男に寝取られたのだ。
だから妊娠した淀殿は、処刑されたのだろう」
そんな噂が広まることは、目に見えています。
そんなことになったら、天下人「秀吉」のメンツは丸つぶれです。
後世にまで、秀吉は笑い者とされてしまうでしょう。
天下人としての威厳は失われ、秀吉に従っている「戦国大名」たちは、一気に「秀吉」を侮り始めるでしょう。
そんなことになったら、せっかく統一した天下が、再び戦乱の地獄に戻ってしまうかもしれません。
秀吉からすれば、そんな事態を防ぐ方法は一つしかありません。
それは「淀殿が産んだ、誰の子とも知れない『秀頼』を、実子として育て、豊臣家の後継者に指名すること」です。
秀吉からすれば、苦しみ抜き、悩み抜いた末での決断だったことでしょう。
淀殿は、そこまで計算していたはずです。
「妊娠して、それを天下に広めてしまえば、秀吉が自分の子ではないと知っていても、秀頼に天下をゆずるしかない」
と・・・。
淀殿からすれば、「秀吉の血を引かない我が子・秀頼」が、豊臣家を乗っ取ったことで、母「お市の方」と兄「万福丸」の仇討ちに成功したことになるのです。
秀吉の天下を継承する「豊臣秀頼」は、秀吉の血は引いていないものの、秀吉に討たれた「お市の方」の孫なのですから。
「お市の方」の孫「秀頼」は、秀吉の天下を乗っ取ったともいえるのです。
秀吉の甥で、後継者として指名されていた「豊臣秀次」は、もしかすると「秀頼が秀吉の実子ではない」ということに気づいていたのかもしれません。
しかし秀吉からすれば、「秀頼が実子ではないこと」を、世間に知られるわけにはいきません。
「秀次」を切腹においやったとされる「秀吉」は、断腸の思いで甥「秀次」を死なせたのではないでしょうか。
なぜなら「秀頼」という実子がいながら、甥で養子の「秀次」を後継者としたら、「秀頼は秀吉の実子ではない」という噂を認めることになりかねないからです。
だからこそ、秀吉は「秀次」が「秀頼は秀吉の実子ではない」と世間に暴露する前に処分しなくてはいけなかったのです。
【1598年】、「豊臣秀吉」はこの世を去り、わずか6歳の「豊臣秀頼」が後継者に指名されます。
これで「淀殿」の復讐は完成した・・・と思いきや、そうはいきませんでした。
【1600年】、兄「万福丸」が秀吉に処刑された因縁の場所「関ヶ原」で、「豊臣家」の没落が決定的となる事件が起こります。
天下分け目の「関ヶ原の戦い」です。
これに「親・豊臣家」だった「石田三成」が敗北し、「徳川家康」が勝利します。
「家康」によって、「豊臣家」は「天下人」の家柄から、わずか「65万石の大名」へと没落させられてしまうのです。
【1615年】、完全に天下の覇権を失った「豊臣秀頼」と「淀殿」は、「大坂夏の陣」で亡くなります。
「人を呪わば穴二つ」
「人を呪うものは、呪った相手だけではなく、自らの墓穴をも掘ることとなる」という意味です。
「秀吉」を呪った淀殿は、最愛の息子「豊臣秀頼」と、その父と噂されていた「大野治長」とともに、大坂城の「籾蔵(もみぐら)」のなかで、自害して亡くなるのです。
さて、これはあくまで筆者の思い描いた「仮説」ですが、いかがだったでしょうか?
長々と解説しておいて恐縮ですが、この物語は「根拠に乏しい推測」でしかありません。
ですので、参考の一つとしてお読みいただければ幸いです。
「お市の方」については、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「豊臣秀吉」には「石松丸秀勝」、「鶴松」、「豊臣秀頼」という実子がいた。養子には、「結城秀康」、「池田輝政」、「豊臣秀勝」、「豊臣秀次」などがいた
2,秀吉は「子供が出来ない体質であった」可能性が高い。秀吉の側室「淀殿」と「南殿」が、秀吉の子供を産んだと言われているが、本当に秀吉の子なのかどうか、信ぴょう性にとぼしい。
3,「鶴松」と「秀頼」は、「淀殿」の幼馴染「大野治長」の子であるといわれている
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
「豊臣秀吉」関連記事
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。