始皇帝が産まれる前、秦国で活躍した空前絶後の名将「白起」の功績と最期を、簡単にわかりやすく解説いたします。
人気漫画「キングダム」にも登場した「白起」
生涯に「100万」以上の敵兵を倒した名将は、始皇帝の曽祖父「昭王(昭襄王)」の命令で自殺していた!
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この記事を短く言うと
・名将「白起」と宰相「魏冄(ぎぜん)」のコンビが、後の「秦の始皇帝」による天下統一の土台をかためた
・白起・・・生涯に100万人近い敵兵を撃破した。「長平の戦い」では「45万人」もの趙軍を殺害した名将。
・亡くなる直前、白起は数々の虐殺を公開したような発言をしている。その上、長平の戦いでは、少年兵を助けている
《空前絶後の名将「白起」・・その評価がスゴイ!》
白起とは、中国史上において、最強クラスの名将です。
唐の時代には、それ以前の中国の歴史上でもっとも活躍した名将トップ10を、武廟十哲と呼んで祭りあげていました。
白起はその1人に選ばれています。
つまり、唐の時代に、すでに白起は歴史上トップの名将としてその名が知られていたのです。
ちなみに武廟十哲の他の9名は、以下の通り。
- 司馬穰苴
- 孫武
- 呉起
- 楽毅
- 韓信
- 張良
- 諸葛亮孔明
- 李靖
- 李勣
春秋戦国時代、後に天下統一を成し遂げる強国「秦」を中心に、「戦国七雄」と呼ばれる七カ国が戦争を繰り広げていた時代。
一人の名将が「秦」に登場し、残りの六国を震撼させます。
その名は「白起」・・・またの名を「公孫起」。
人気漫画「キングダム」にも、「六大将軍・筆頭」として登場する名将です。
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「公孫」とは、王の孫という意味であるため、もしかしたら「白起」は、秦王族の末裔だったのかもしれません。
白起
歴史書「史記」を記した大政治家「司馬遷」は白起について、このように評しています。
「敵の能力を正確に分析して巧みに戦い方を変化させ、無限に奇策を繰り出した。
白起の威は、まさに天下を震撼させたのだ」
「無限の奇策」
武将に対して最高評価をしていると言って良いでしょう。
司馬遷は「史記」の中で白起について、秦の天下統一を実現させた名将「王翦」と並び、「白起・王翦列伝」という一つの伝を記しています。
王翦と並び評価された「白起」は生涯において、相当な数の敵兵を撃破しています。
「白起」の戦績
紀元前293年、韓・魏国を「伊闕の戦い」で撃破。24万人の敵兵を斬首・5つの城を陥落。
紀元前292年、魏国を攻略し、61の城を陥落させた
紀元前278年、「鄢郢の戦い」で楚国を攻略し、楚の首都を攻略。
紀元前273年、「華陽の戦い」で「韓」「魏」「趙」の連合軍と戦い、13万人を斬首。
同年、趙軍と戦い、敵兵2万を黄河に沈める。
紀元前264年、「陘城の戦い」で韓を攻略。5万人を斬首。5つの城を陥落させる。
紀元前260年、「長平の戦い」で趙軍を撃破。名将「趙奢」の子「趙括」を倒し、25万の趙軍を倒し、20万の趙兵を生き埋めにした
上記の結果だけを見ても、白起は合計で「89万人」もの敵兵を殺害しているのです。おそらく、記録に残っていない人数を含めると、白起が倒した敵兵の数は「100万人以上」となるでしょう。
名将「白起」を見出したのは、「秦」の「昭襄王(始皇帝の曽祖父)」に仕えた宰相「魏冄(ぎぜん)」・・・昭襄王の叔父(母の弟)にあたる人物です。
この名将「白起」と、白起を使いこなす名宰相「魏冄」のコンビが、秦国の力を一気に拡張させたのです。
これにより、後に登場する「始皇帝」こと秦王「嬴政」による「天下統一」への土台が作られたのです。
《白起の能力と実績!「長平の戦い」で45万人生き埋め!》
紀元前262年、秦は強国「趙」と開戦。秦軍を率いたのは「王齕(おうこつ)」。趙軍を率いたのは名将「廉頗」
秦軍と三度戦い、数が少ない秦軍に三度とも敗北した廉頗は、「長平城」に入城して防御を固め持久戦に・・。
「戦・守・逃・降・死」・・・三国時代、魏国の名将「司馬懿」が、燕王・公孫淵を倒した際に、口にした言葉です。
「戦っても勝てないなら守れ
守れないなら逃げろ
逃げられないなら降伏せよ
降伏できなければ死あるのみ」
廉頗は、秦軍よりも多い45万の軍を率いていましたが、攻めても勝てないことを悟り、「城壁」の防御力を利用して「守備」に徹したのです。
名将「廉頗」の防衛策に困った秦・昭襄王は、名将「白起」に打開策を尋ねます。
白起はこう答えます。
名将「廉頗」相手では勝ち目がない・・・名将「趙奢」の子で、天才と呼ばれていたが経験不足の「趙括」なら勝ち目がある
「趙奢」とは、かつて「閼与(あつよ)の戦い」で秦軍を撃破し、廉頗や藺相如と並ぶ名声を誇る名将。
その息子「趙括」は、父を論破するほど兵法を知り尽くした天才でしたが、実戦には向かないとして、父から全く評価されない「机上の空論」を弄ぶだけの愚将でした。
「秦軍は廉頗を恐れていない。
むしろ、名将『趙括』を恐れている」
大軍を率いておきながら消極策をとる廉頗に、趙国では不満が高まっていました。その上、趙括を恐れているという噂・・・。この噂は、「魏冄」の後任の宰相「范雎(はんしょ)」が流したもの。
これを知った趙王「孝成王」は、指揮官を「廉頗」から「趙括」に交代。宰相「藺相如」や趙括の母がこれに反対するも、廉頗は更迭されてしまいます。
秦国は密かに名将「白起」を長平に送り込み、秦軍総大将に任命。
前任者「王齕」は、副将として「白起」を補佐。
紀元前260年、白起は巧みに趙軍を分断、包囲。兵法書を丸暗記していただけの「趙奢」は、応用が全く無かったため、模範解答のような攻撃を繰り返し、かえって予測しやすかったと言われています。
食料補給路を断たれた趙軍は、25万の兵を失い、残り20万の兵も降伏。
しかし捕虜20万の食料を確保できないと判断した白起は、「20万」の兵を生き埋めにし処刑。
この長平の戦いにより、趙国の国力は一気に衰退。「長平の戦い」から32年後の「紀元前228年」、名将「李牧」「司馬尚」の必死の防戦も虚しく「滅亡するのでした。
そしてこのすさまじい戦果が、かえって白起を死に至らしめることとなるのです。
《白起の最期!天才将軍の心に秘められた真実》
長平の戦いで趙国を滅亡寸前に追い込んだ白起。この大手柄を苦々しく見ていた人物がいました。
宰相「范雎」です。范雎は白起を見出した「魏冄」の後任者。その魏冄を追放処分にした張本人。白起にとって「魏冄」は恩人。その魏冄を追放したことで、范雎は白起と折り合いが悪く、そのため白起の功績を喜べなかったのです。
昭襄王・・・・50年もの間、秦国の王位にいたものの、昭襄王はあまりにも素直過ぎて、家来たちの意見を聞きすぎるという特徴がありました。
趙の首都「邯鄲」・・・・白起は、長平の戦いで勝利した勢いのまま「邯鄲」を陥落させるべきと進言。しかし范雎は白起の功績を恐れ、昭襄王にすすめて趙国と講和。
翌年、昭襄王は再び「邯鄲」を包囲。総大将は「王陵」・・白起は病気と称して出仕を拒否。
この戦いは、趙国では「戦国四君」の一人「平原君」の必死の防戦と、魏の「信陵君」、楚の「春申君」の援軍により、秦軍敗北。
昭襄王は白起に総大将を命じましたが、「長平の戦い」直後の「邯鄲包囲」を退けられた怒りから、命令に従わず。
激怒した昭襄王は、白起に剣を贈り、自決を指示。
自決のための剣を受け取った白起は、「なぜ自分が死ななくてはならないのか?」と自問。当時の人は、なぜ自分が自滅の運命を避けられなかったのかを、死の直前によく自問自答しています。始皇帝に仕えた名将「蒙恬」も、毒をあおる前に「万里の長城を建設して地脈を断ったことで、天罰を招いた」と言っています。
白起はこう言ったと伝えられています。
「長平の戦いで、趙軍20万人を生き埋めにした・・・。
この罪が原因で、天は私を裁こうとしているのだろう
私は死ななくてはならない。
敵兵とはいえ、20万もの人間を生き埋めにした。
私は天を怒らせる大罪を犯しているのだ」
名将「白起」は自刃。
100万人近くの敵兵を葬ってきた白起。その心には、趙兵を無残にも生き埋めにして処刑した「自責の念」があったのです。
実は白起、この「長平での生き埋め」に際して、「240名」の少年兵だけは命を助け、趙へ帰国させています。
おそらく、白起はこの20万人の趙軍をなんとか助けようとしたのでしょう。
食料確保が出来ず、また、捕虜にして帰国したとしても反乱のリスクもあります。それが叶わず、白起は苦しんだのかもしれません。
100万の敵兵を葬った名将「白起」・・・・その心には、武将に似合わず優しさが満ちていたのかもしれません。
《『白起』について、レビュー(評論)!》
白起・・・・もしも白起が生きていたらと考えずにはいられません。
もしも白起が死なずに、「范雎」という戦略に優れた名宰相とタッグを組んでいたら、秦国は「始皇帝」の登場を待たずして「昭襄王」の時代に天下統一を成し遂げていたかもしれません。
「楽毅」・・・・紀元前284年、弱小国「燕」の武将。秦と並ぶ最強国「斉」を滅亡寸前まで追い込んだ、白起と同じ時代を生きた名将です。
秦に唯一対抗できる強国「斉」が楽毅によって衰退し、それに次ぐ強国「趙」が「長平の戦い」で衰退。
秦国は既に最強国の地位を固めていたのです。そこに名将「白起」がいたら・・・。
白起は「昭襄王」の怒りをかい、自決させられました。実は楽毅も、主君「昭王」のあとを継いだ「惠王」に殺害されそうになっているのです。
白起は素直に自決しましたが、楽毅は暗君「恵王」の命令に背いて他国へ亡命。
命令に背いて亡命した理由を、楽毅は後に「自分を重用してくれた昭王の名を汚さないため」と言っています。
白起を殺害してしまったことで、昭襄王の評判はそれほどよくありません。楽毅を重用した「燕の昭王」は名君として歴史に名を残し、その子「惠王」は暗君とはされているものの、楽毅を死なせるという大失態だけは回避しています。
もしも白起がこのとき、自決命令を無視して他国へ亡命していたら・・・。
いつの日にか昭襄王の誤解も解けて、将軍として復権を果たすことも出来たでしょう。
「政治力」・・・・白起に欠けていて楽毅に備わっていたもの・・・。その政治力が白起になかったことが悔やまれます。
「孟嘗君」が宰相だったら
白起を見出した宰相「魏冄」・・・あまりに長く宰相の位にいたため、権力を独占しすぎて范雎と昭襄王に退けられた人物。
この魏冄の後継者として内定していたのが、戦国四君の一人「孟嘗君」でした。
孟嘗君は昭襄王から宰相として迎えられたものの、側近の讒言を受けた昭襄王に殺害されそうになります。その後孟嘗君は、「鶏鳴狗盗」の語源となった食客たちの活躍により秦の国門「函谷関」から脱出。
結局「魏冄」の後継者は「范雎」となったのでした。
作家「宮城谷昌光」さんの作品「孟嘗君」の中で、この孟嘗君の逃亡劇は「魏冄」の留守中に起こったこととなっています。
小説の中で、「孟嘗君」が逃げ去ったことを知った魏冄は愕然として、こうつぶやいたとされています。
「これで秦の天下は50年遅れる」
范雎は、昭襄王に「遠交近攻策」を推薦して、秦国の国土を広げた功労者とされています。
しかし、それ以上に「白起」を排除してしまったのは痛かったかもしれません。
もしも孟嘗君が秦の宰相だったら・・・・・。歴史はどうなっていたのでしょう。宮城谷昌光さんの小説が言う通り、50年早く天下を支配していたのでしょうか。
ちなみに「范雎」の後任として宰相となったのは、漫画「キングダム」にも登場する「蔡沢」。蔡沢の引退勧告を素直にきいた范雎は、鮮やかに引退したため、魏冄のように追放されるような終わり方をせずにすんでいます。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・白起とは、秦の宰相「魏冄」に見出され「昭襄王」に仕えた名将
・白起は生涯に100万近い敵兵を討伐している
・最期は「昭襄王」に自決を命じられて亡くなった
・長平の戦いで、趙軍を生き埋めにして処刑したことを、死ぬまで後悔していた
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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ありがとうございました
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コメント
コメント一覧 (2件)
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白起についてとてもわかりやすくていい記事ですが、広告を段落ごとに挟みすぎて見にくいので、
控えた方が良いと思いました。