【項燕とは】信を倒した覇王の祖父!【呪われた予言】と壮絶な最期

漫画「キングダム」の主人公「信」に勝利した「楚」の名将「項燕(こうえん)」について、わかりやすく解説いたします。
「李信と蒙恬を撃破した『項燕』」
彼が最期に残した「呪われた予言」とは?
その予言は覇王「項羽」によって果たされる。
2千年前、実際に起こった、壮絶な「呪いの物語」
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この記事を短く言うと
・「項燕(こうえん)」とは、秦国の「李信」「蒙恬」を撃破した、趙国「李牧」と並ぶ名将
・項燕は、「李信」には勝利したが、「王翦」に大敗した
・「秦国」への「呪いの予言」を残し、その予言は覇王「項羽」に託され、秦国を滅ぼした
目次
項燕の功績
春秋戦国時代末期、楚国の名将「項燕」
その功績とは何なのかを解説したいと思います。
『項燕』の功績
項燕の功績を短く解説いたします。
項燕・・・秦国滅亡の第一歩目となる反乱
「陳勝・呉広の乱」
において、打倒秦国の象徴となった名将です。
李信と蒙恬を撃破!王翦に大敗
項燕と秦国の攻防について解説いたします。
秦国の将軍「李信」「蒙恬」を撃破
紀元前225年
それまで「韓」「趙」「魏」を滅ぼし、「燕」を滅亡寸前まで追い込んでいた「秦国」は、最大のライバル「楚」への侵攻を開始。
秦軍20万を率いていたのは
人気漫画「キングダム」の主人公である「信」こと「李信将軍」と「蒙恬将軍」。
「楚国を亡ぼすには、秦国の全軍60万が必要」
と主張した秦国の名将「王翦」でしたが、その主張は通らず、「20万で十分」と主張した「信」が総大将に就任。
項燕は、若い「李信」や「蒙恬」の軍を撃破。
生きて帰れたものが、ほとんどいないほど、「信」は項燕に大敗したのでした。
秦国の名将「王翦」に大敗
「信」が大敗した翌年、紀元前224年
今度は「王翦」が60万という大軍団を率いて楚国へ侵攻。
項燕はこれを迎撃します。
しかし王翦は、項燕との直接対決を避け、防御を固めて一向に動かず。
まるで趙国が誇る「守戦の名将・李牧」を真似したかのような戦い方をします。
「正をもって合し、奇をもって勝つ」
(戦いはまず正攻法で相対し、次に奇策をもって勝利を決するものだ)
これは「孫子の兵法」における名言です。
王翦はこの孫子の教えに従い、まずは正攻法で項燕と相対するものの、防御を固めて絶対に負けない体制をつくります。
その後、項燕にスキが生まれるとすかさず奇襲をかけて楚軍を撃破。
項燕は、王翦との戦いに敗北。
紀元前223年
楚の首都「陳」が陥落し、楚王「負芻(ふすう)」は捕らえられます。
「昌平君」を招いて抵抗
楚王「負芻」を捕らえられた項燕は、一人の王族を楚王に迎え入れて、秦国に対抗します。
「昌平君」
秦国で楚国の人質として生活し、後に秦国で出世し、「相国」という最高位の大臣にまで上り詰めた秀才。
楚の考烈王と
秦の昭襄王の娘
その2人の間に生まれたのが、「昌平君」でした。
「楚と秦」
両国の王家の血を継いだ秀才「昌平君」
それまで尽くし続けた秦国を敵に回す決断をした理由とは?
それはもしかしたら、自らと同じく「人質」という身分から、天下統一を成し遂げようとしている秦王「嬴政(えいせい)」への対抗心・嫉妬心からだったのかもしれません。
最期
紀元前223年
秦将「王翦」は、「蒙恬」の父「蒙武」を従えて、項燕と再び対決。
項燕は、江南に存在していた「越」の軍を味方に引き入れて対抗。
しかし、所詮は寄せ集めの軍でした。
名将「王翦」にはまったく勝てず、項燕は大敗します。
「蘄(き)の戦い」
項燕は、この戦いで壮絶な戦闘を繰り広げた後に、命を落とします。
昌平君もまた、楚国復興を果たせずに命を落としたのでした。
「昌平君」の生涯については、以下のリンク記事で、さらに詳しく解説しております。
最期に残した【呪われた予言】
史実では、楚国が滅亡し項燕が亡くなった「紀元前223年」から、わずか17年後の「紀元前206年」に、「秦国」は滅亡しています。
これには、項燕が残した
「呪われた予言」
が関係しているのです。
「たとえ三戸となっても、秦を亡ぼすは楚なり」
(たとえ楚の人間がたった3つの家しかなくなったとしても、楚は必ず秦国を亡ぼすだろう)
この言葉の意味は
「何があっても、どんなことをしてでも、楚は秦を滅ぼして見せる」
という、項燕の怨念にも似た予言だったのです。
この言葉が誰の発言なのかは、諸説あるものの、項燕は
「蘄(き)の戦い」
において戦死する直前、この言葉を放ったとされています。
(仙人または道士がこの予言を残した、という説もある)
「秦を亡ぼすは楚」
この「呪われた予言」のためか、楚の滅亡後、「項燕」は楚国復興の象徴のように英雄視されることとなります。
そしてこの予言は、まるで奇跡のように果たされることとなるのです。
紀元前209年
天下統一を成し遂げた秦国を、滅亡寸前にまで追い込んだ「陳勝呉広の乱」が勃発。
この反乱を起こした首謀者の一人「呉広」は、反乱の正当性を主張するためなのか、「項燕」と名乗ります。
それほど項燕は楚の人間にとって特別な存在だったのです。
(陳勝は、始皇帝の長男「扶蘇(ふそ)」を名乗った。楚国の将軍「項燕」と、秦国の皇太子「扶蘇」が協力するなどありえないが、当時は信じられた)
「陳勝呉広の乱」は
秦の将軍「章邯(しょうかん)」
によって鎮圧されますが、この乱をきっかけにして、「項燕の予言」は実現へ向けて動き出します。
「陳勝呉広の乱」をきっかけとした争乱を利用して立ちあがったのが、英雄「項燕」の血を引く軍神「項羽」
この項羽によって、始皇帝が作り上げた超大国「秦」は、壮絶に「破滅」し「滅亡」するのでした。
予言を実現した項燕の孫・覇王「項羽」の一生
項燕の末子「項梁」は、自らの甥「項羽」とともに、陳勝呉広の乱をきっかけにして挙兵。
(おそらくキングダムでは、「項翼」の息子という設定だろう)
「項梁」は、秦の将軍「章邯」を相手に敗死。
しかし項羽は、後の前漢皇帝「劉邦」と協力して「秦国」を滅亡させます。
「阿房宮(あぼうきゅう)」
始皇帝が秦の首都「咸陽」に建設していた大宮殿のことです。
項羽はこの「阿房宮」に火をつけ、3か月も燃え続けたと言われています。
それほど、項羽は徹底的に秦を踏みにじります。
祖父「項燕」の恨みを晴らすために。
項羽は秦を滅ぼしたのち
「西楚の覇王(せいそのはおう)」
と名乗り、天下を統一しようとします。
しかし、かつての盟友「劉邦」と対立。
「楚漢戦争」
が勃発します。
この「楚漢戦争」に敗北した項羽は
「四面楚歌(しめんそか)」
「抜山蓋世(ばつざんがいせい)」
という「ことわざ」が生まれた有名な戦
「垓下(がいか)の戦い」
で滅びるのです。
「劉邦に負けたのではない。
天が私を滅ぼすのだ」
生涯70以上の戦いすべてに勝利してきた覇王「項羽」
祖父「項燕」と同じく、志を遂げられぬままに31歳の若さで滅びたのでした。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・項燕は「李信」「蒙恬」率いる秦軍を撃破し、楚国の滅亡を一時的にでも食い止めた
・秦国の相国「昌平君」を王に迎えて秦国に抵抗するも、王翦・蒙武に大敗
・「三戸(さんこ)となっても秦を亡ぼすは楚」という予言を残した項燕。その予言は項燕の孫「項羽」によって実現されることとなる
以上となります。
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