人気漫画キングダムの舞台である秦の統一後、中国大陸では項羽と劉邦という二人の英雄による壮絶な覇権争いが繰り広げられました。
この楚漢戦争は、キングダムの物語が終わった直後に始まり、その約400年後には三国志の時代へと続いていくのです。
多くの歴史ファンが混同しがちなキングダム、項羽と劉邦、三国志という三つの時代ですが、実はこれらは中国史の中で密接に繋がっています。
キングダムで描かれる始皇帝の中華統一は紀元前221年に達成されましたが、その秦帝国はわずか15年で崩壊し、項羽と劉邦の時代へと突入しました。
そして劉邦が建てた漢王朝が約400年続いた後、その末期に三国志の英雄たちが登場するという歴史の流れがあるのです。
本記事では、これら三つの時代の関係性や、キングダムと項羽と劉邦で共通する人物、さらには時系列の整理まで、歴史初心者の方にもわかりやすく解説していきます。
- キングダムから項羽と劉邦へ、そして三国志へと続く中国史の時系列と繋がり
- 項羽と劉邦という対照的な二人の英雄の生涯と、彼らの戦いの真相
- キングダムと項羽と劉邦の両方に登場する歴史上の人物たち
- 劉邦が建てた漢王朝から三国志の劉備へと続く血統の正統性
「キングダム」と「項羽と劉邦」の時代はどう繋がる?

| 時代 | 年代 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| キングダム | 紀元前260年頃〜紀元前221年 | 秦による中華統一 |
| 秦帝国 | 紀元前221年〜紀元前206年 | 始皇帝の統治とその崩壊 |
| 項羽と劉邦 | 紀元前209年〜紀元前202年 | 楚漢戦争 |
| 前漢 | 紀元前202年〜西暦8年 | 劉邦が建てた漢王朝 |
始皇帝の死から秦滅亡までの流れ
キングダムで描かれる秦の中華統一は紀元前221年に達成されましたが、この輝かしい統一帝国は驚くほど短命でした。始皇帝が紀元前210年に巡幸中に崩御すると、宦官の趙高と丞相の李斯による陰謀が始まります。
この陰謀は「沙丘の変」と呼ばれ、本来の後継者である長子の扶蘇ではなく、暗愚な末子の胡亥を二世皇帝として即位させるというものでした。趙高と李斯は始皇帝の遺言書を改竄し、扶蘇に対して偽の勅命で自害を命じたのです。
扶蘇は父である始皇帝の厳格な政策を諫めたことで、北方の蒙恬の軍に送られていました。偽の勅命を受け取った扶蘇は、蒙恬が「これは偽の命令かもしれない」と制止したにもかかわらず、「父が子に死を賜うのに、何の疑いがあろうか」と述べて自害してしまいます。
この扶蘇の死によって、秦帝国の運命は決定的なものとなりました。二世皇帝の胡亥は趙高に操られる傀儡となり、趙高はその後李斯をも「具五刑」という残酷な刑罰で処刑し、権力を独占します。このような政治的混乱と圧政に対する民衆の不満が爆発し、紀元前209年に陳勝・呉広の乱が勃発しました。
この反乱をきっかけに、各地で秦に対する蜂起が相次ぎ、わずか3年後の紀元前206年には秦は完全に滅亡することになります。統一からわずか15年という短さは、中国史上でも異例の早さでした。

キングダムの主要人物たちのその後
キングダムの読者にとって気になるのは、主人公の信をはじめとする登場人物たちがその後どうなったかということでしょう。
主人公・信(李信)の運命
主人公のモデルである李信は、中華統一後も秦の将軍として活躍を続けました。燕の太子丹を追撃して首を取るなど、若き将軍として名を馳せています。しかし、彼の軍歴において最大の汚点となったのが、楚攻略戦での大敗北でした。
始皇帝が楚を攻めるにあたり、老将の王翦が「60万の兵が必要」と主張したのに対し、李信は「20万で十分」と豪語しました。始皇帝は李信の若さと勇気を買い、彼を総大将に任命します。当初は快進撃を続けた李信でしたが、楚の名将・項燕(項羽の祖父)率いる軍勢の三日三晩にわたる追撃により、7人の都尉を失うという壊滅的な打撃を受けて敗走しました。
さらに興味深いことに、李信の子孫は歴史に名を残し続けます。前漢の武帝の時代には、匈奴との戦いで名を馳せた「飛将軍」李広が李信の子孫として活躍し、さらに時代を下って中国史上最も繁栄した王朝の一つである唐を建国した李淵(高祖)および李世民(太宗)も、系図上は李信を祖先としているとされています。

蒙恬の悲劇的な最期
キングダムで人気キャラクターの一人である蒙恬も、始皇帝の死後に悲劇的な運命を辿ります。扶蘇と共に北方の防衛を任されていた蒙恬は、趙高の陰謀によって扶蘇が自害した後、兵権を剥奪されて投獄されました。そして最終的には毒を仰いで自害に追い込まれたと史書に記録されています。
項羽と劉邦が活躍する時代背景
秦の圧政に対する民衆の怒りが爆発したのが、紀元前209年の陳勝・呉広の乱です。この反乱は短期間で鎮圧されましたが、各地で秦に対する蜂起が相次ぎ、その中で頭角を現したのが項羽と劉邦という二人の英雄でした。
項羽は楚の名門出身で、祖父の項燕がキングダムの時代に李信を破った名将です。一方の劉邦は、始皇帝とわずか3歳差(あるいは12歳差という説もあります)の同時代人でありながら、秦の時代には沛県の亭長という小役人として無為な日々を送っていました。
つまり、キングダムで信や政が中華統一を目指して戦っている頃、劉邦は楚の片田舎でヤクザ者のような生活を送っていたということになります。この対照的な二人が、秦崩壊後の覇権を争うことになるのです。
項羽と劉邦をわかりやすく解説!二人は何者?
| 項羽 | 劉邦 | |
|---|---|---|
| 出自 | 楚の名門・項燕の孫 | 農民出身の小役人 |
| 武力 | 天下無双 | 凡庸 |
| 知略 | 感情的な判断が多い | 柔軟で戦略的 |
| 人材登用 | 範増以外を重用せず | 韓信・張良・蕭何を活用 |
| 性格 | 誇り高く頑固 | 人情に厚く実利的 |
| 最期 | 烏江で自害(BC202) | 漢王朝を建国し皇帝に |
名門出身の英雄・項羽とその叔父・項梁
項羽(本名:項籍)は、楚の名将・項燕の孫として生まれました。項燕はキングダムの時代に李信率いる秦軍を大敗させた人物であり、項羽は幼い頃から祖父の武勇伝を聞いて育ったことでしょう。
項羽を育てたのは叔父の項梁です。項梁は反秦勢力の中心人物の一人として活躍しましたが、秦軍との戦いで戦死してしまいます。その後、項羽が楚軍の中心となり、巨鹿の戦いで秦軍を圧倒的な武勇で打ち破り、一躍「西楚の覇王」として天下に名を轟かせました。
史記によれば、項羽は「重瞳(一つの目に二つの瞳孔がある)」を持っていたとされています。これは古代の聖王・舜と同じ特徴であり、彼が常人離れした覇者の相を持っていたことを象徴しています。
項羽の武勇は伝説的で、「力は山を抜き、気は世を蓋う」と謳われました。単騎で数百人を倒すような描写もあり、個人の戦闘能力においては中国史上でも最強クラスの武将とされています。しかし、その性格は誇り高く頑固で、感情的な判断をすることが多く、これが後の敗北の要因となります。
農民出身の劉邦が天下を取った理由
劉邦は、項羽とは対照的に農民出身の小役人でした。沛県の亭長という地位は、現代で言えば町内会長のような存在で、決して高い身分ではありません。若い頃は無為徒食の日々を送り、酒と女を好む人物として知られていました。
しかし、劉邦には項羽にない大きな才能がありました。それは人の心を掴み、優れた人材を集めて活用する能力です。劉邦自身は武力も知略も凡庸でしたが、天才軍師の韓信、智謀に優れた張良、内政の達人である蕭何という最強のブレーンを得ることで、項羽に対抗できる勢力を築き上げました。
劉邦の人材登用の秘訣は、自分の無能を自覚し、能力ある者に権限を委譲することでした。「私は韓信に軍を任せ、張良に計略を任せ、蕭何に後方を任せた。だから天下を取ることができた」という劉邦の言葉は、彼のリーダーシップの本質を表しています。
正反対の二人が対決した楚漢戦争とは
秦を滅ぼした後、項羽と劉邦の対立は決定的なものとなりました。紀元前206年から紀元前202年までの約4年間にわたる戦いは「楚漢戦争」と呼ばれ、中国史上でも屈指の激しい覇権争いとして知られています。
当初、項羽は圧倒的な軍事力で劉邦を追い詰めました。有名な「鴻門の会」では、項羽の軍師である范増が「今こそ劉邦を殺すべき」と進言しましたが、項羽は劉邦の巧みな弁舌と低姿勢に騙されて殺害を見送ってしまいます。この判断が、後の項羽の敗北を決定づける大きな失敗となりました。
戦いが長期化するにつれて、劉邦軍の韓信が各地で連戦連勝を重ね、徐々に項羽を追い詰めていきます。そして紀元前202年、垓下の戦いで項羽軍は完全に包囲されました。四方から聞こえる楚の歌に、項羽は自軍が総崩れになったことを悟ります。これが有名な「四面楚歌」の故事です。
項羽は愛する虞美人との別れを惜しみながら、最後まで戦い抜き、烏江のほとりで「天が私を亡ぼすのだ。戦いに敗れたのではない」と叫んで自害しました。その散り際の美学は、後世の人々に深い感銘を与え、悲劇の英雄として語り継がれることとなったのです。
項羽と劉邦・三国志・キングダムの時系列を整理
| 作品・時代 | 年代 | 主な登場人物 | 時代の隔たり |
|---|---|---|---|
| キングダム | BC260頃〜BC221 | 信(李信)・政(始皇帝)・王翦・蒙恬 | ― |
| 項羽と劉邦 | BC209〜BC202 | 項羽・劉邦・韓信・張良・蕭何 | キングダムから約10〜20年後 |
| 三国志 | 西暦184〜280 | 劉備・曹操・諸葛亮・関羽・張飛 | 項羽と劉邦から約400年後 |
キングダム(紀元前260年頃〜紀元前221年)
キングダムの物語は、春秋戦国時代の末期を舞台にしています。紀元前260年頃の長平の戦いから始まり、秦の始皇帝(政)が中華統一を達成する紀元前221年までの約40年間が描かれています。
この時代、中国大陸には秦・楚・趙・魏・韓・燕・斉の七つの大国が存在し、互いに覇権を争っていました。秦の王である政と、大将軍を目指す信(李信)が中心となり、各国を次々と攻略していく過程が漫画で描かれています。
キングダムの時代における重要な戦いとしては、長平の戦い、鄴攻略戦、番吾の戦いなどがあり、最終的には紀元前221年に斉を降伏させて中華統一が完成します。この統一事業の中心となったのが、白起、王翦、蒙武、蒙恬、そして李信といった秦の将軍たちでした。
項羽と劉邦(紀元前209年〜紀元前202年)
キングダムで描かれる中華統一から約10年後、秦の圧政に対する民衆の怒りが爆発します。紀元前209年の陳勝・呉広の乱を皮切りに、各地で反乱が勃発し、その中で項羽と劉邦が頭角を現しました。
紀元前206年に秦が完全に滅亡すると、今度は項羽と劉邦の間で覇権争いが始まります。この楚漢戦争は紀元前202年まで続き、最終的には劉邦が勝利して漢王朝を建国しました。
この時代の特徴は、武力の項羽と人望の劉邦という対照的な二人のリーダーシップの対決でした。戦術レベルでは項羽が圧倒的に優勢でしたが、戦略レベルでは劉邦が韓信という天才軍師を得たことで形勢が逆転していきます。
三国志(西暦184年〜280年)
項羽と劉邦の時代から約400年後、劉邦が建てた漢王朝が衰退期を迎えます。西暦184年に黄巾の乱が勃発し、これをきっかけに各地の群雄が割拠する時代となりました。
この時代に登場するのが、劉備・曹操・孫権という三人の英雄です。劉備は劉邦の血を引く「漢室の末裔」を自称し、諸葛亮という天才軍師を得て蜀漢を建国します。曹操は魏を建国し、孫権は呉を建国して、中国大陸は三つに分裂しました。
三国志の時代は、キングダムや項羽と劉邦に比べて時代が新しく、史料も豊富に残されています。そのため、より詳細な人物描写や戦略の記録が可能となり、後世に多くの物語や創作が生まれることとなりました。

なぜ混同されやすい?3つの時代の違い
キングダム、項羽と劉邦、三国志という三つの時代が混同されやすい理由はいくつかあります。
第一に、いずれも中国大陸を舞台にした覇権争いという共通のテーマがあります。キングダムは秦による統一戦争、項羽と劉邦は楚漢戦争、三国志は魏・呉・蜀の三国による覇権争いと、構造が似ているのです。
第二に、登場人物の類似性があります。劉邦と劉備はどちらも「劉」姓を持ち、韓信と諸葛亮はどちらも天才軍師として描かれます。項羽と呂布はどちらも武力に優れた悲劇の英雄です。こうした人物の類型が、時代を超えて繰り返されるため、混同しやすくなっています。
第三に、日本における受容の仕方も影響しています。横山光輝の漫画「三国志」や「項羽と劉邦」、そして原泰久の「キングダム」と、いずれも漫画化されて広く読まれているため、作品同士が混同されることがあるのです。
キングダムと項羽と劉邦、両方に登場する人物
章邯(しょうかん)ー秦最後の名将
章邯は、キングダムの時代には若手将軍として描かれる可能性がありますが、項羽と劉邦の時代において重要な役割を果たした人物です。秦の二世皇帝の時代、各地で反乱が勃発すると、章邯は秦軍の総大将として反乱軍の鎮圧にあたりました。
章邯は最初、陳勝・呉広の軍を破るなど、秦最後の名将としての実力を見せつけます。しかし、項羽率いる楚軍との巨鹿の戦いで決定的な敗北を喫し、20万の兵と共に項羽に降伏しました。
降伏後の章邯は、項羽によって雍王に封じられましたが、最終的には劉邦軍に攻められて自害することとなります。秦を守るために最後まで戦った章邯の姿は、秦の滅亡という歴史の転換点を象徴する存在として記憶されています。
蒙恬(もうてん)の一族のその後
キングダムで人気キャラクターの蒙恬は、始皇帝の中華統一に大きく貢献した将軍です。彼は祖父の蒙驁、父の蒙武という武将の家系に生まれ、特に北方の匈奴との戦いで名を馳せました。
しかし、始皇帝の死後、趙高の陰謀によって扶蘇と共に自害を命じられ、悲劇的な最期を遂げます。蒙恬の死は、秦帝国の人材喪失を象徴する出来事として、後世の史家によって嘆かれました。
蒙恬の弟である蒙毅も、兄と同様に趙高の陰謀によって処刑されています。蒙氏一族は秦の統一事業を支えた功臣でありながら、政治的陰謀によって滅ぼされたという点で、秦の急速な崩壊を象徴する存在なのです。
李斯(りし)ー秦の丞相の悲劇的な最期
李斯は、キングダムの時代から秦の丞相として政治の中枢にいた人物です。法家思想に基づく厳格な統治を推進し、焚書坑儒などの政策を実行しました。李斯の改革によって、秦は中央集権的な統一国家としての体制を整えることができました。
しかし、始皇帝の死後、李斯は趙高と共謀して遺言書を改竄し、胡亥を二世皇帝として即位させます。この判断が李斯自身の運命を狂わせることになりました。趙高は権力を独占するため、李斯を謀反の罪で逮捕し、「具五刑」という残酷な刑罰で処刑したのです。
具五刑とは、鼻を削ぎ、手足を切断し、最後に腰斬(腰で体を真っ二つに切断)するという極刑です。李斯は処刑の直前、息子と共に「もう一度、故郷で黄色い犬を連れて狩りに行きたい」と涙ながらに語ったと伝えられています。秦の繁栄を支えた李斯が、自らの権力欲によって悲惨な最期を遂げたことは、後世に大きな教訓を残しました。
漫画「キングダム」に劉邦や項羽は登場する?
原作での劉邦・項羽の扱いについて
現在連載中の漫画「キングダム」において、劉邦や項羽本人が登場する可能性は低いと考えられています。なぜなら、キングダムの物語は秦の中華統一(紀元前221年)で終わると予想されており、劉邦や項羽が歴史の表舞台に登場するのは紀元前209年の陳勝・呉広の乱以降だからです。
ただし、項羽の祖父である項燕は、キングダムの物語において重要な役割を果たす可能性があります。史実では、李信(信)が項燕に大敗を喫する楚攻略戦が描かれると予想されており、項燕の活躍を通じて項羽の存在が示唆されるかもしれません。
一部のファンの間では、劉邦が楚の片田舎でヤクザ者として生活している姿がカメオ出演するのではないかという期待もあります。信(李信)が楚を攻略する際に、偶然にも若き日の劉邦と遭遇するというような演出があれば、歴史ファンにとっては非常に興味深い展開となるでしょう。
実写映画版での配役の可能性
キングダムは実写映画化もされており、これまでに3作が公開されています。今後、物語が秦の統一後まで進むとすれば、若き日の項羽や劉邦を登場させる可能性もゼロではありません。
特に、始皇帝の死や秦の崩壊を描くエピローグ的な場面で、次の時代を担う項羽と劉邦の姿を暗示するような演出があれば、観客にとっては歴史の連続性を感じられる魅力的な展開になるでしょう。
今後のストーリー展開で登場はある?
キングダムの作者である原泰久氏は、過去に読み切り作品「蒙武と楚子」を発表しており、この作品では楚の昌平君が秦を裏切って楚王となる展開が描かれています。このエピソードは、キングダム本編でも今後描かれる可能性が高いと予想されています。
昌平君の裏切りと楚攻略戦は、キングダムのクライマックスの一つとなるでしょう。この戦いにおいて、項燕が秦軍を破る姿が描かれ、その孫である項羽の存在が示唆されることは十分に考えられます。
また、李信が楚攻略で大敗を喫した後、最終的には斉を攻略して中華統一を完成させるというラストシーンで、「この統一は長くは続かず、やがて項羽と劉邦という新たな英雄が現れる」といったナレーションが入る可能性もあります。

項羽の強さと悲劇ー「西楚の覇王」の栄光と没落

巨鹿の戦いで見せた圧倒的な武勇
項羽が「西楚の覇王」として天下に名を轟かせたのが、紀元前207年の巨鹿の戦いです。この戦いで、項羽は章邯率いる秦軍の包囲網を突破し、趙を救援しました。
項羽の戦法は常に果敢で、この戦いでも彼は「背水の陣」を敷いて兵士たちの退路を断ちました。さらに、渡河後には船を沈め、炊事用の釜を割って、「三日分の食糧で勝負を決める」という決死の覚悟を示しました。この徹底した決断が、兵士たちの士気を極限まで高めたのです。
巨鹿の戦いで項羽は、40万の秦軍を相手に圧倒的な勝利を収めました。この勝利によって、項羽は諸侯の盟主として認められ、天下の覇権を握る存在となったのです。
追記・もう一人の覇王「江東の小覇王・孫策」の最期
余談ですが、覇王とは、項羽という一人の人物を指す称号です。覇王=項羽なのです。三国志の時代、江東を支配した猛将・孫策は、その強さを恐れられ「江東の小覇王」と呼ばれました。孫策は、三国志の一国である呉の皇帝・孫権の兄です。孫策は、滅亡した項羽に自分がたとえられたことに、激怒したといいます。筆者は思うのですが、項羽という人物は、三国志の時代には、まるで反面教師のようにとらえられていたのでしょう。そして孫策を「小覇王」と呼んだ人々は、きっと項羽のような愚かしさを、あざ笑い、孫策の末路を予期していたのでしょう。孫策は暗殺者に襲われ亡くなります。三国志演義という小説では、于吉という仙人の呪いによって命を落としています。孫策の最期は、覇王・項羽と似た愚かしいものに、筆者は思えます。
鴻門の会ー劉邦を逃した決定的な判断ミス
秦の首都である咸陽に最初に入城したのは、実は劉邦でした。項羽よりも先に咸陽を占拠した劉邦に対して、項羽は激怒します。両軍の緊張が高まる中、紀元前206年に「鴻門の会」と呼ばれる宴会が開かれました。
この宴会で、項羽の軍師である范増は「今こそ劉邦を殺すべき」と項羽に進言しました。范増は剣舞を装って劉邦を斬ろうとする刺客を送りましたが、劉邦の配下である樊噲が機転を利かせて劉邦を逃がしてしまいます。
項羽が劉邦を殺さなかった理由については諸説ありますが、最も有力なのは、劉邦の巧みな弁舌と低姿勢に騙されたという説です。劉邦は項羽に対して「私はあなたに従う臣下に過ぎない」と謙遜し、項羽の自尊心をくすぐりました。誇り高い項羽は、このような弱者を殺すことを恥と感じ、劉邦を見逃してしまったのです。
この判断ミスが、後の項羽の敗北を決定づける最大の失敗となりました。范増は「ああ、竪子(若造)と共に事を謀るべからず」と嘆いたと伝えられています。
四面楚歌ー愛する虞美人との別れ
紀元前202年、垓下の戦いで項羽軍は完全に包囲されました。劉邦軍の韓信が考案した「十面埋伏の計」により、項羽は逃げ場を失います。夜になると、四方から楚の歌が聞こえてきました。項羽は「楚の兵がすでに漢軍に降ったのか」と驚愕します。これが有名な「四面楚歌」の故事です。
この夜、項羽は愛する虞美人と最後の別れをします。項羽は「力は山を抜き、気は世を蓋う。時に利あらず、騅(愛馬)逝かず。騅の逝かざるを奈何すべき、虞や虞や汝を奈何せん」という詩を詠み、虞美人も応えて舞いました。虞美人は項羽の足手まといにならないよう、自ら命を絶ったと伝えられています。
項羽は少数の部下と共に包囲網を突破し、烏江のほとりまで逃れました。しかし、烏江の亭長が「江東に帰って再起を図るべき」と船を用意したのに対し、項羽は「江東の子弟8000人を率いて出陣したのに、一人で帰れるわけがない」と拒否しました。そして、天が私を亡ぼすのだ、戦いに敗れたのではないと叫んで自害したのです。
項羽の散り際の美学は、後世の人々に深い感銘を与えました。杜牧の詩「江東の子弟は才俊多し、巻土重来未だ知るべからず」は、項羽が再起を図っていれば歴史は変わっていたかもしれないという惜別の念を表しています。
劉邦が天下を取れた3つの理由
人望と人材登用の天才
劉邦が天下を取ることができた最大の理由は、その人望と人材登用の才能です。劉邦自身は武力も知略も凡庸でしたが、人の心を掴む天性の才能を持っていました。
劉邦は自分の無能を自覚しており、能力ある者に権限を完全に委譲することができました。これは、自尊心の高い項羽にはできなかったことです。劉邦は「私は計略では張良に及ばず、内政では蕭何に及ばず、戦争では韓信に及ばない。しかし、私はこの三人を使いこなすことができた。だから天下を取ることができた」と語っています。
また、劉邦は失敗を恐れず、何度でも挑戦する粘り強さを持っていました。項羽に何度も敗北しながらも、決して諦めることなく、最終的には韓信という天才軍師を得て勝利を収めたのです。
韓信・張良・蕭何という最強ブレーン
劉邦の勝利を支えたのが、韓信・張良・蕭何という三人の天才です。この三人は「漢の三傑」と呼ばれ、それぞれが異なる分野で卓越した才能を発揮しました。
| 人物 | 担当分野 | 主な功績 |
|---|---|---|
| 韓信 | 軍事 | 背水の陣、井陘の戦い、垓下の戦い |
| 張良 | 謀略 | 鴻門の会での機転、漢中王への進言 |
| 蕭何 | 内政 | 兵站の確保、法律の整備、韓信の推薦 |
特に韓信の軍事的天才は、中国史上でも屈指のものでした。韓信は「背水の陣」「十面埋伏の計」など、兵法学の常識を覆す奇策を次々と成功させ、項羽軍を追い詰めていきました。唐代に設置された武廟では、韓信は太公望に次ぐ名将として祀られており、その評価の高さが伺えます。
張良は、元々は韓の貴族で、秦への復讐を誓っていた人物です。始皇帝の暗殺を試みて失敗した後、劉邦に仕えるようになりました。張良の智謀は、鴻門の会で劉邦を救ったことに象徴されます。
蕭何は内政の天才で、劉邦が前線で戦っている間、後方で兵站を確保し続けました。また、蕭何は韓信の才能を見抜き、劉邦に強く推薦した人物でもあります。「蕭何月下追韓信」の故事は、蕭何が韓信を月明かりの下で追いかけて引き留めたという逸話で、人材の重要性を示す教訓として語り継がれています。また、蕭何は「黄老治術」という政策で、のちに文景の治と呼ばれる前漢の黄金時代を作り上げたことでも有名です。「黄老治術」とは、減税と規制緩和とそれに伴う歳出削減によって、民を富ませて国を潤す政策のことです。蕭何の後任者である曹参も、蕭何の政策を引き継ぎ、皇帝に怒られるほど余計なことを全くせず、前漢の黄金期を実現したのでした。ところが武帝が匈奴を相手に大戦争を強行し、前漢は傾き始めるのでした。
これは筆者の個人的意見なのですが、現在の日本も、蕭何の「黄老治術」を見習うべきではないでしょうか。蕭何は現在でいうところの「小さな政府」を実現したことで、国を繁栄させました。ところが現在の日本は全く逆です。国民に重税を課して「大きな政府」をつくりあげています。国民を疲弊させ、人口を減少させ、「失われた35年」と呼ばれる停滞を起こしています。日本の政府与党および歴代総理大臣は、2000年前を生きた名宰相・蕭何の足元にも及びません。
柔軟な戦略と撤退の判断力
劉邦のもう一つの強みは、柔軟な戦略と撤退の判断力でした。項羽は誇り高く、一度決めたことは絶対に曲げないという頑固な性格でしたが、劉邦は状況に応じて柔軟に対応することができました。
劉邦は項羽に何度も敗北しながらも、その度に撤退して再起を図りました。特に、彭城の戦いで項羽に大敗を喫した際には、父親と妻を捨てて逃げるという非情な決断をしています。この判断は非難されることもありますが、生き延びて再起を図ることの重要性を示しています。
また、劉邦は同盟関係の構築にも長けていました。項羽が孤立していく中、劉邦は各地の諸侯と同盟を結び、包囲網を形成していきました。この外交力も、劉邦の勝利を支えた重要な要素でした。
項羽と劉邦のドラマ・漫画作品を紹介
横山光輝「項羽と劉邦」(漫画)
横山光輝は「三国志」で知られる歴史漫画の巨匠ですが、「項羽と劉邦」も傑作として知られています。全12巻という比較的コンパクトな構成で、楚漢戦争の全貌をわかりやすく描いています。
横山版の特徴は、項羽の武勇と劉邦の人望という対比を明確に描いている点です。項羽の圧倒的な強さと悲劇的な没落、劉邦の人間臭い魅力が、横山光輝らしい端正な作画で表現されています。キングダムを読んで中国史に興味を持った方には、次に読むべき作品として強くお勧めできます。
|
|
司馬遼太郎「項羽と劉邦」(小説)
司馬遼太郎の「項羽と劉邦」は、全13巻という大作で、楚漢戦争を詳細に描いた歴史小説の金字塔です。司馬遼太郎は「坂の上の雲」「竜馬がゆく」などで知られる日本を代表する歴史作家ですが、中国史も数多く執筆しています。
司馬版の特徴は、劉邦の人間性を深く掘り下げている点です。劉邦を単なる成功者ではなく、失敗を繰り返しながらも人望で人材を集め、最終的に天下を取った「大器晩成型」の英雄として描いています。
また、韓信や張良といった補佐役たちの活躍も詳細に描かれており、組織のリーダーシップとは何かという普遍的なテーマを考えさせられる作品となっています。ビジネスパーソンからも支持される理由は、この組織論的な視点にあるのです。
|
|
中国ドラマ「項羽と劉邦・KING’S WAR」
中国で制作されたドラマ「項羽と劉邦・KING’S WAR」は、全80話という大河ドラマで、項羽と劉邦の戦いを壮大なスケールで描いています。中国の歴史ドラマは予算規模が大きく、エキストラや戦闘シーンの迫力は圧巻です。
このドラマの特徴は、項羽と劉邦だけでなく、韓信、張良、蕭何、范増といった脇役たちの人間ドラマも丁寧に描いている点です。特に韓信の「背水の陣」や垓下の戦いの映像化は見応えがあり、歴史ファンならぜひ一度は視聴したい作品です。
また、虞美人と項羽の悲恋も美しく描かれており、「四面楚歌」のシーンは多くの視聴者の涙を誘いました。キングダムのドラマや映画が好きな方には、次に見るべき作品として「項羽と劉邦・KING’S WAR」をお勧めします。日本でもドラマ放送されましたが、中国では「楚漢伝奇」というタイトルになっています
|
|
漢王朝から三国志への系譜ー血統の正統性
前漢・後漢の歴史
劉邦が紀元前202年に建国した漢王朝は、約400年という長期にわたって中国を統治しました。この漢王朝は、途中で王莽による「新」の時代(西暦8年〜23年)を挟んで、前漢と後漢に区分されます。
| 王朝 | 期間 | 特徴 |
|---|---|---|
| 前漢 | BC202年〜AD8年 | 劉邦が建国、武帝の時代に最盛期 |
| 新 | AD8年〜23年 | 王莽による簒奪、短命に終わる |
| 後漢 | AD25年〜220年 | 劉秀(光武帝)による再興、三国時代へ |
前漢の最盛期は第7代皇帝・武帝の時代で、匈奴を討伐してシルクロードを開拓し、中国の領土を大きく拡大しました。この時代の名将である李広が、キングダムの主人公・信のモデルである李信の子孫だったことは、歴史の面白い繋がりと言えるでしょう。
しかし、前漢末期には外戚や宦官の専横により政治が乱れ、王莽が帝位を簒奪して「新」を建国します。王莽の改革は理想主義的すぎて民衆の支持を得られず、わずか15年で滅亡しました。その後、劉秀(光武帝)が漢王朝を再興し、後漢が始まります。
後漢も約200年続きましたが、末期には宦官の専横と党錮の禁により政治が混乱し、西暦184年の黄巾の乱をきっかけに各地の群雄が割拠する時代となりました。これが三国志の時代の幕開けです。
劉備の出自と劉邦との血縁関係
三国志の主人公の一人である劉備は、劉邦の血を引く「漢室の末裔」を自称していました。具体的には、前漢の第6代皇帝・景帝の子である中山靖王・劉勝の末裔とされています。
しかし、中山靖王には120人以上の子がいたとされ、劉備の時代(約300年後)には、その子孫は膨大な数に上っていました。そのため、劉備が本当に中山靖王の血を引いているかどうかは、歴史学的には確証がありません。劉備自身も筵(むしろ)を織って生計を立てる貧しい身分であり、皇族としての実質的な地位はありませんでした。
それでも、「劉」姓を持ち、劉邦の血を引くという一点が、劉備を単なる群雄から「皇叔(皇帝の叔父)」へと押し上げ、曹操に対抗する正統性を与えたのです。血統という象徴的な権威が、いかに重要であったかを示しています。
漢室復興という大義名分
三国志の物語の駆動力となったのが、「漢王朝の復興」というイデオロギーです。後漢の献帝は名ばかりの皇帝となり、実権は曹操に握られていました。曹操の子である曹丕が献帝から帝位を譲り受けて魏を建国すると、劉備は「漢の正統な継承者」として蜀漢を建国しました。
劉備が諸葛亮という天才軍師を得て曹操に対抗しようとした構図は、劉邦が韓信を得て項羽に対抗した構図と重なります。しかし、劉邦が成功したのに対し、劉備は志半ばで白帝城に倒れ、その夢は諸葛亮に託されました。
諸葛亮の北伐は、漢王朝の復興という劉備の遺志を継ぐものでしたが、最終的には失敗に終わります。それでも、諸葛亮の忠義と献身は後世の人々に深い感銘を与え、忠臣の模範として語り継がれることとなりました。
このように、劉邦が建てた漢王朝の血統と正統性は、400年後の三国志の時代においても重要な意味を持ち続けていたのです。キングダム、項羽と劉邦、三国志という三つの時代は、単に時系列で繋がっているだけでなく、血統や思想によっても深く繋がっているのです。
まとめーキングダムから項羽と劉邦、三国志へと続く中国史の壮大な流れ
- キングダムの時代(BC260〜BC221)は秦による中華統一の過程を描き、項羽と劉邦の時代(BC209〜BC202)はその統一帝国の崩壊と楚漢戦争を描く
- 秦の統一からわずか15年で帝国が崩壊した原因は、始皇帝の死後の趙高による陰謀と二世皇帝の暴政にある
- キングダムの主人公・信(李信)は楚攻略で項羽の祖父・項燕に大敗を喫したが、その後も秦の将軍として活躍を続けた
- 李信の子孫は飛将軍・李広として前漢で活躍し、さらに唐王朝の李氏にも繋がるとされる
- 項羽は楚の名門出身で圧倒的な武勇を持つ「西楚の覇王」だったが、人材登用と戦略判断に欠けていた
- 劉邦は農民出身の小役人だったが、人望と人材登用の天才で、韓信・張良・蕭何という最強のブレーンを得た
- 鴻門の会で項羽が劉邦を殺さなかった判断ミスが、後の敗北を決定づける最大の失敗となった
- 巨鹿の戦いで項羽は40万の秦軍を破り天下の覇者となったが、垓下の戦いで四面楚歌に陥り烏江で自害した
- 韓信の「背水の陣」や「十面埋伏の計」など兵法学の常識を覆す奇策が劉邦の勝利を支えた
- キングダムと項羽と劉邦の両方に登場する人物として、章邯(秦最後の名将)、蒙恬、李斯などがいる
- 劉邦が建てた漢王朝は約400年続き、前漢と後漢に分かれる(途中に王莽の新が挟まる)
- 三国志の劉備は劉邦の血を引く中山靖王の末裔を自称し、漢室復興を大義名分とした
- 劉備と諸葛亮の関係は、劉邦と韓信の関係と構造的に類似している
- 項羽と劉邦、三国志の時代は約400年離れているが、いずれも中国大陸の覇権を巡る戦いという点で共通している
- 横山光輝の漫画「項羽と劉邦」や司馬遼太郎の小説、中国ドラマ「楚漢伝奇」など多くの作品で楚漢戦争が描かれている
- キングダムの原作では劉邦や項羽本人が登場する可能性は低いが、項燕(項羽の祖父)は楚攻略戦で重要な役割を果たすと予想される
- 項羽の「力は山を抜き、気は世を蓋う」という言葉や四面楚歌の故事は後世に大きな影響を与えた
- 劉邦の「柔軟な戦略と撤退の判断力」は現代のリーダーシップ論にも通じる普遍的な教訓となっている
- 唐代の武廟で韓信と諸葛亮が共に名将として祀られていることは、両者が中国史の頂点に立つ軍師として評価されていることを示す
- キングダム、項羽と劉邦、三国志という三つの時代は、血統、思想、戦略論において深く繋がっており、中国史全体を理解する上で欠かせない時代である
キングダムで描かれる秦の統一から、項羽と劉邦の楚漢戦争、そして三国志へと続く約600年の歴史は、中国史の中でも最もドラマティックな時代です。始皇帝が築いた統一帝国が崩壊し、項羽と劉邦という対照的な二人の英雄が覇権を争い、劉邦が建てた漢王朝が400年続いた後、再び乱世となって三国志の時代へと繋がっていきます。これらの時代を通じて学べるリーダーシップ論、組織論、戦略論は、現代にも通じる普遍的な教訓を含んでいます。キングダムを読んで中国史に興味を持った方は、ぜひ項羽と劉邦の物語も楽しんでみてください。そして、その先に待つ三国志の世界へと旅を続けることで、中国史の壮大な流れを体感することができるでしょう。

コメント
コメント一覧 (1件)
[…] ・王翦は、秦国最期の宿敵「項燕」を打ち破って、秦国の天下統一を決定づけた […]