漫画「キングダム」にも登場する、秦の始皇帝を支えた大臣「昌文君」の「史実での死に方」を、わかりやすく解説いたします。
「生涯をかけて始皇帝を支えた忠臣」それが昌文君
裏切ったのは「昌文君」ではなく「昌平君」。
そして最期は、とても静かに亡くなっています。
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この記事を短く言うと
・昌文君は、紀元前226年に亡くなった。この年は、始皇帝暗殺未遂が起こった直後で、李信が燕国の太子「丹」を討った年。この頃、李牧はすでに亡くなり、趙も滅亡していた。
・昌文君は、秦王「嬴政」に仕えた文官。生涯に渡り、「嬴政」を支え続けた
・昌文君は、秦王を裏切ることはなかった
・最期は、戦死することもなく静かに亡くなった。おそらく病死か老衰
昌文君の最期とは?いつ死亡したのか
【紀元前226年】に、「昌文君」は亡くなります。
戦死ではなく、老衰か又は病死でしょう。
この年は、秦国の「李信」将軍が、始皇帝暗殺を目論んだ燕国の太子「丹」を討ち取った年です。
この頃、趙の名将・李牧は亡くなっており、すでに趙も韓も、秦によって滅亡させられていました。
それまで静かに秦国に仕えた昌文君
おそらく後方支援や内政が主な仕事だったのでしょう。
それほど目立たず、最期は静かに亡くなっています。
昌文君の功績とは?
昌文君・・・・人気漫画「キングダム」にも登場し、序盤の「成蟜の乱」においてただ一人、「秦王・嬴政」に味方した人物。
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史実における「昌文君」の功績物語上で昌文君は、後に「左丞相」という大臣に就任していました。
昌文君の功績を短く解説いたします。
・秦国の相国(最高位の大臣)を務めた
・「嫪毐(ろうあい)の乱」を「昌平君」とともに鎮圧した
秦国の相国を務めた昌文君、かなり地味な人物です。
しかし、実はこの「昌文君」、もともとは「楚」の国の王族。
キングダムにも登場し、のちに「ラスボス」となるであろう「昌平君」の叔父であり、楚の「考烈王」の弟なのです。
「昌平君」は「考烈王」と、秦の「昭王(昭襄王)」の娘の間に生まれた子ですので、昌平君と昌文君は叔父甥の間柄ということですね。
昌平君と昌文君の2人は、考烈王が秦の人質となっていたときに、そばに付き従っていました。
しかし、考烈王が春申君によって秦を脱出して楚王となったとき、昌平君と昌文君は秦に残り、ともに出世を果たして「相国」という最高位の大臣にまで上り詰めたのです。
昌文君が始皇帝を裏切った?
「昌文君」が「秦の始皇帝」を裏切った、なんていう噂がネット上でされているようです。
しかし、それは間違い
「昭王」をご存知でしょうか?
始皇帝の曽祖父であり、人気漫画「キングダム」では「戦神」の異名を持つ人物
その「昭王」の孫「昌平君」は、楚国の王「考烈王」の息子でもありました。
この関係から、昌平君は秦を裏切り、「項燕」とともに秦国に対抗。
おそらく「昌平君が裏切った」という事実を、「昌文君が裏切った」と勘違いしたのでしょう。
『昌文君』について、レビュー(評論)!
「昌文君」
キングダムにおいて、昌文君は歴戦の武将であり、前線から引退した後は、秦王・?政の相談役のような役割をしながら、大臣の最高位「丞相(相国)」を目指す・・・という役になっています。
しかし史実における昌平君は、戦場とは無縁の、いわば「官僚」だったのではないでしょうか。
最終的に「相国」となっていますので、退役軍人ではなく、生粋の役人だった可能性が高いとおもいます。
「嫪毐(ろうあい)の乱」を甥の「昌平君」とともに鎮圧していますが、実際に昌文君・昌平君が前線で戦ったわけではないでしょうし・・・。
あんまり目立っていない人物ですから、「キングダム」の作者も、脚色しやすかったのではないでしょうか。
史実では「考烈王」の弟・・すなわち「楚の王族」なのですが、「キングダム」ではそういう設定にはないようですね
まとめ
本日の記事をまとめますと
・昌文君とは、秦王・嬴政に仕えた「相国(大臣)」
・昌文君は裏切りは犯していない。裏切ったのは「昌平君」
・昌文君は、紀元前226年に亡くなっているが、戦死ではないと考えられる
以上となります。
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