人気漫画「キングダム」に登場する趙国の「旧・三大天」のひとり「趙奢(ちょうしゃ)」をご存知でしょうか?
ご存じなくて当然です。「廉頗(れんぱ)」「藺相如(りんしょうじょ)」の2人は、歴史上においても有名な逸話が数々あります。「刎頸(ふんけい)の交わり」「完璧」などの有名な「ことわざ」を生みだした方々ですから。
それに対して「趙奢」は逸話も少なく、有名な「ことわざ」を生み出してもいません。「廉頗」に比べると、それほど有名ではないのです。
この記事をお読みいただければ、「趙奢がどれほど強い武将か」、そして「どんな功績を残した武将か」が、とても簡単に理解できます。
「龐煖(ほうけん)」「李牧」に先んじて趙国の軍事最高司令官を務めた歴戦の猛者「廉頗」。そして秦国「昭王」ですらも恐れさせた勇気の宰相「藺相如」。
その2人を差し置いて、実は「趙奢」こそが、趙国で最強の名将だったのです。
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この記事を短く言うと
- 人気マンガ「キングダム」で「三大天」と呼ばれた「廉頗」「藺相如」「趙奢」の三人の中で、最強なのは「閼与の戦い」で秦軍の将「胡傷」を撃破した「趙奢」
- 「趙奢」は「廉頗」のような生粋の武人ではなく、元々は「税金の徴収官」だった。王弟「平原君」にその才能を評価され、「恵文王」に将軍として抜擢された
- 「趙奢」の息子「趙括」は、「長平の戦い」で秦軍の名将「白起」に大敗。45万もの趙兵を失った。後世において「趙括」は愚将の代名詞とされた
三大天最強の素人『趙奢』の逸話

《戦国七雄》
「引用元ウィキペディアより」
「廉頗」「藺相如」「趙奢」・・・宰相であり、軍を率いて戦うことの少なかった「藺相如」は除くとしても、歴戦の勇士「廉頗」と「趙奢」、どちらのほうが将軍として強かったかというと、間違いなく「趙奢」です。
その理由は簡単です。
廉頗が「勝てない」と諦めてしまった敵に、趙奢は完勝してみせたのですから。
【紀元前270年】、「昭王(昭襄王)」が君臨する最強国「秦」の軍団が、趙国の重要拠点「閼与(あつよ)」を包囲。
秦軍を率いていたのは猛将「胡傷(こしょう)」。
マンガ「キングダム」では「六大将軍」と呼ばれている名将です。
以下に「趙国」の重要拠点の地図を掲載いたします。若干見えにくいですが、左上のマークが「閼与」、下のマークが「鄴」、中央にあるマークが趙国の王都「邯鄲」です。
この「閼与」を、「胡傷」は大軍団で包囲。趙国の名君「恵文王」は、廉頗や藺相如に対して、この「閼与」を救出する方法を相談。
しかし廉頗も藺相如も、「閼与を救出することは不可能」と断言します。閼与は王都「邯鄲」の最終防衛ラインです。
閼与から邯鄲までの距離は、軍を率いて約10日程度。閼与が陥落し、秦軍がここに軍を駐屯させれば、王都「邯鄲」は秦軍の攻撃をまともに食らうことになります。そうなると「恵文王」も「邯鄲の民衆」も、常に命の危険にさらされることとなるのです。
この時「邯鄲」を救うことが出来ると進み出たのが「趙奢」でした。
「閼与への道はせまくて険しい。
ここで秦軍と趙軍が戦うことはすなわち、せまい穴の中で二匹のネズミが戦うようなもの。
だから、将軍が勇敢な方の軍が勝利するでしょう。」
そう言うと趙奢は「恵文王」から将軍に任命され、閼与へと急行。
この恵文王の判断は、趙の軍団を驚かせました。
実は趙奢・・・廉頗のような生粋の武人ではなく、元々は税金を徴収する役人でした。
そのため、実戦経験はほとんどゼロだったのです。
にもかかわらず、趙奢は圧倒的な「勇気」と優れた「戦術」を駆使して、「胡傷」ひきいる秦軍を圧倒。
廉頗が「不可能」と断言した「閼与救出」を、素人将軍「趙奢」は見事に成し遂げたのでした。
これを喜んだ「恵文王」は、「趙奢」を「廉頗」「藺相如」と同じ位「上卿(じょうけい)」へ任命。
「馬服君(ばふくくん)」という称号を授与します。
名君「恵文王」が、戦国四君(せんごくしくん)と呼ばれた優秀な弟「平原君(へいげんくん)」を補佐とし、「廉頗」「藺相如」「趙奢」の三名を従えている間は、最強国「秦」といえども、趙国を侵略できなかったと言われています。
ところが、趙国の栄華は長く続きません。
この「閼与の戦い」から8年後の【紀元前262年】、趙国は「長平の戦い」で国中の成人男性を、全て失うほどの大敗を喫することとなるのです。
その「長平の悲劇」を引き起こしたのは、名将「趙奢」の天才的な息子「趙括(ちょうかつ)」でした。
趙奢は軍人ではなく税収官だった
趙奢はもともと「税金を徴収する役人」でした。
廉頗のように長年戦場で過ごした生粋の武人でもなく、藺相如のような演説・交渉・外交が得意なわけでもありません。
趙国には「平原君」という優秀な王族がいました。
先代「武霊王」の息子で、「恵文王」の弟にあたる人物。
趙奢はこの「平原君」が治めていた領地で税収官だったのです。
ある日、平原君のもとへ「9人の家臣が処刑された。処刑したのは『趙奢』という税収官だ」という知らせが届きます。
平原君は激怒し、趙奢を捕まえて引きずり出します。
怒りに震える平原君に対して、趙奢はおびえることもなく、こう言いました。
「あなた様は王の弟。
そのあなたが、自らの領地から趙国へ税金を収めなければ、趙の国民は『不公平である』として税金を収めなくなります。
あなた様が率先して税金を納めれば、結果的に趙国は豊かになるのです。」
趙王から平原君が与えられていた領地は、日本で言うところのいわゆる「荘園(しょうえん)」、すなわち独立国も同然の私有地。
すなわち平原君は、自らの領地から趙国へ税金を納める義務が、そもそもないのです。
しかし趙奢は、税金を納める必要のない平原君に対して、「趙国を豊かに強くするために、税金を納めよ」と言ったのでした。
平原君の9人の部下たちは、趙奢からの「税金を納めよ」という命令を拒否。
当然の権利を主張したにもかかわらず趙奢に処刑されてしまったのです。
「平原君」は趙奢の勝手な言い分に激怒・・・・かと思いきや、平原君は趙奢の意見を聞いて、かえって趙奢が「勇敢で優秀である」と評価。
そして「趙奢」を、兄である趙王「恵文王」へ推薦したのです。
「恵文王」もまた、弟「平原君」の意見をしっかりとくみ取ることができる名君でした。
即座に趙奢を採用して、地方の税収官から、中央の国税徴収官へと出世させます。
趙奢の活躍により、趙国の税金は公平となり、趙国の国庫は一気に豊かになったのです。
冷静に相手の意見を聞くことが出来る弟「平原君」と、弟の意見を即座に採用する度量の大きな兄「恵文王」。
もしかすると、趙奢はそこまで計算して「平原君」の家来を処刑するという暴挙に出たのかもしれません。
趙奢の天才的な息子「趙括」の大敗
趙奢には、父をも超えると評判の天才的な息子がいました。「趙括」です。
趙括は父「趙奢」と兵法について議論すると、父を論破するほどの天才的な能力を発揮します。
しかしそんな「趙括」を、父「趙奢」は全く評価しませんでした。
趙奢は妻に対して、その理由を語っています。
「あいつは戦について、とても軽く言う。
実戦は机上の空論では回らない。
趙括が将軍となって趙国の軍をひきいたら、趙軍は壊滅する。
もしも趙括が軍をひきいることとなったら、家族がその罪をかぶらないようにせよ」
趙奢が亡くなったのち、【紀元前262年】、秦国との間で「長平の戦い」が勃発。
趙軍45万を率いたのは名将「廉頗」。
対する秦軍の総大将は「王齕(おうこつ)」。(「王齕」は「王騎(おうき)」という武将と同一人物という説あり)
廉頗は秦軍よりも多い大軍団を率いていながら、砦をつくって守るのみ。
決して外に出て戦おうとはしませんでした。
おそらく廉頗は秦軍を撃破することが難しいと判断し、長期戦に持ち込んで「外交での終戦」を狙ったのでしょう。
これに業を煮やした秦軍は、謀略を仕掛けます。
趙国の首都「邯鄲」に、一つの噂が流れます。
「秦軍は、廉頗をやさしい相手だと考えている。
秦が恐れているのは、閼与で秦軍を撃破した名将『趙奢』の子『趙括』。
『趙奢』は素人武将であったが、秦軍を撃破した。
それ以上の天才と名高い『趙括』を、秦軍は恐れている」
これを耳にした「恵文王」の息子で次の王「孝成王」は、趙括を廉頗と交代させようとします。
その判断に大反対した人間が2人いました。
「趙括の母」と宰相「藺相如」です。
趙括の母は、夫「趙奢」から「趙括を将軍にしてはならない」と言われた事実を孝成王に伝えます。
「藺相如」も、「趙括は父が残した兵法書を丸暗記しているだけなので、使い物にはならない」と主張。
しかし孝成王は聞く耳をもたず、廉頗と趙括を無理やりに交代させました。
おそらく孝成王は、父「趙奢」が実戦経験ゼロであるにもかかわらず秦軍を撃破したことを思い出したのでしょう。
趙奢を超えると評判の「趙括」ならば、さらなる結果を出してくれると考えたのです。
秦は「趙括」が総大将となった事実を知り、軍の総大将を「王齕」から、密かに最強の猛将「白起」へと交代させます。
趙括は守りに徹した廉頗とは異なり、次々と攻撃を仕掛けますが、白起はそのことごとくを完璧に予測し撃破していきました。
なぜなら趙括の攻撃は、その全てが兵法書に書かれている通りだったので、簡単に予測できてしまったのです。
白起は趙軍の補給線を遮断。
45万の趙軍は飢え苦しみ、反撃に出た趙括は、あっけなく戦死。
降伏した趙軍はそのことごとくが生き埋めとされ、趙国から「成人男性」がいなくなったと言われるほどの大損害をこうむるのです。
兵法の天才と呼ばれた愚将「趙括」・・・・・その名は後世において「生兵法は大怪我のもと」という慣用句の代名詞となってしまいました。
趙括の母や家族は、孝成王から「趙括が負けても、家族に罪は及ばない」との約束をとりつけていたので、連座で処刑されることはありませんでした。
愚将「趙括」は、趙国滅亡の原因をつくってしまったのでした。
趙国は「長平の戦い」から34年後の【紀元前228年】、秦国の名将「王翦(おうせん)」によって滅亡させられています。
「長平の戦い」の直後、趙国の東に位置する「燕国」が、趙が弱っているスキをついて攻撃を仕掛けてきました。
これに激怒した廉頗は、軍を率いて燕軍を迎撃。
連勝を重ねて燕国の首都を包囲し、滅亡寸前まで追い込んだと言われています。
これを聞いた諸国は、廉頗をおそれ、趙国への攻撃を中止。
廉頗は趙括がまねいた「趙国の危機」を見事に救ったのでした。
もしも趙奢が長生きしていたら?
もしも趙奢が長生きしていたら、歴史はどのように代わっていたのでしょうか?
趙奢がいつ亡くなったかは、はっきりしていません。
「閼与の戦い」から8年後の「長平の戦い」のときには、すでに亡くなっていたようです。
もしも趙奢が「長平の戦い」まで生きていたら、趙国は「45万」もの軍団を失わずに済んだかもしれません。
「楽毅(がっき・がくき)」・・・・・【紀元前284年】、「長平の戦い」の22年前、秦国と並ぶ最強国「斉国」を滅亡寸前まで追い込んだ、「白起」とならぶ空前絶後の名将です。
この「楽毅」が斉国を一気に衰退させたため、同時の最強国「秦国」に対抗できる国は「趙国」のみとなりました。
ところが「秦国」の侵略をゆいいつ止められる力をもっていた大国「趙」もまた、「趙括」の失敗によって没落。
「斉国」をスパイを駆使して実質的に支配することとなる「秦国」の天下統一を止める方法は、そのときすでに無くなっていました。
つまり「長平の戦い」さえ無かったら、趙国は秦国の天下統一を阻止できていたかもしれないのです。
趙奢が生きていたら、「長平の戦い」で総大将「廉頗」が更迭されることもなかったはず。
なんといっても「趙括」の愚かしさを誰よりもよく知っていたのは「趙奢」ですし、「趙奢」が生きていたのなら「趙奢」が「廉頗」と交代していたはずですから。
そうであれば「長平の戦い」は廉頗の思惑どおり、「藺相如」らの外交で終戦に向かっていたでしょう。
史実では、「廉頗」は【紀元前245年】、「長平の戦い」の17年後に魏国へ亡命しています。
長平の戦いがなかったら、廉頗の亡命もなかった・・・・・そう仮定するなら【紀元前228年】の趙国の滅亡もないはず。
少なくとも、のちの名将「龐煖」「李牧」は50万近い大軍団で、秦国と対峙できていたはずなのです。
となれば、趙国はそう簡単に滅びなかったでしょう。
秦国は【紀元前221年】に全国統一を果たしています。
もしも趙奢が生きていたら、秦国の天下統一を阻止することはできなかったにしても、遅らせることは出来たのではないでしょうか。
「趙奢」について「ひとこと」いいたい
趙奢ともあろうものが、息子「趙括」を名将に育てることに、これほど失敗するとは、なぜなのでしょうか?
「趙括が将軍となったら大敗する」と趙奢は予言したわけですが
「わかっているならしっかりと対策をたてろよ」
と言いたいものです。
三国志の英雄「曹操」は、詩文の才能に恵まれた息子「曹植(そうしょく)」をかわいがっていました。
一時は自分の後継者にしたいと考えた曹操でしたが、国を治める才能が「曹植」にはないと判断。
後継者は長子の「曹丕(そうひ)」としたのでした。(曹丕は詩文の才能に恵まれた弟「曹植」を妬み、左遷した)
趙奢に「趙括」以外の子供がいたかどうかはわかりません。
しかし、もしも他に子がいたのなら「趙括」を廃嫡にして、別の子を後継者として指名すべきだったのではないでしょうか。
それとも、当時すでに「趙括は父をも超える天才」という風評が出回っていたようですので、これを打ち消す噂を広めるとか。
趙奢なら、それくらいの対策を立てるなど、朝飯前だったと思うのですが・・・。
我が子の愚かしさを戒めることも、未然に防ぐこともできなかった趙奢。
素人将軍の限界が、息子の不始末として表面化してしまったのかもしれません。
余談ですが、この「趙奢」の末裔が人気小説「三国志」の英雄「馬超」「馬騰」「馬岱」。
もしかすると末裔たちは、先祖「趙括」の大失敗を恥だと考えたのかもしれません。先祖の「趙」という姓を名乗らず、趙奢が恵文王からもらった称号「馬服君」の「馬」という字を姓としたのでした。
小説「三国志演義」では
「馬騰」は宿敵「曹操」に殺害され、復讐に燃えた息子「馬超」が「曹操」に向けて挙兵する
というお話しになっています。
ところが「正史三国志」では、この順番が逆。
息子「馬超」が「曹操」に対して挙兵したため、「曹操」のもとにいた父「馬騰」は処刑された
となっているのです。
どうやら趙奢の一族は、「息子が父を追い詰める」宿命にあるようです・・・。
趙奢の末裔には、もう一人の有名人がいます。
「馬超」らの先祖で、後漢「光武帝」に仕えた伏波将軍「馬援(ばえん)」。
三国志演義にも、その名前が登場します。
南蛮征伐を行う「諸葛亮孔明」が、その昔ただ一人だけ南蛮の難所「毒の泉」を越えた武将として、「毒の泉」の謎を解くヒントとするのが「馬援」です。
「馬援」は後漢・第二代皇帝の皇后である「馬皇后」の父。
「馬皇后」は、初代「光武帝」の皇后「陰麗華」とともに、賢婦として有名です。
二人が賢婦として有名になった理由は「自分の一族を重職につけることなく、ただただ夫や賢臣に従い、沈黙を守ったから」だとか。
前漢の初代皇帝「劉邦」の妻「呂雉(りょち)」は、これとは逆に、一族の人間を次々と要職にすえて、「呂氏一族」は隆盛を極めたのです。
「呂雉」の死後、呂氏一族は「陳平(ちんぺい)」「周勃(しゅうぼつ)」たち劉邦の忠臣たちに粛清されて、滅亡してしまいます。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- マンガ「キングダム」で「三大天」と称されている「廉頗」「藺相如」「趙奢」。この三人の中で、最強なのは「閼与の戦い」で秦軍を撃破した馬服君「趙奢」。
- 趙奢は「平原君」から税金を無理やりに徴収し、かえってその勇気と才能を評価されました。その結果「恵文王」から将軍に抜擢され、「胡傷」ひきいる秦軍の撃破に成功した。
- 趙奢の息子「趙括」は、秦軍の名将「白起」の罠にひっかかって大敗。45万の大軍団を全て失い、趙国滅亡の原因をつくってしまった。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
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