春秋戦国時代、最強国「秦」に対抗した四人の名将・政治家たち「戦国四君(せんごくしくん)」の一人「孟嘗君(もうしょうくん)」
「呪われた貴公子」・・・「孟嘗君」の生涯と最期が、これを読めば全てわかります!
人気漫画「キングダム」にも、登場するかもしれない?孟嘗君は「秦国の天下統一を50年遅らせた男」だった?
「孟嘗君」について、わかりやすくご紹介、解説いたします。
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この記事を短く言うと
・孟嘗君・・・・「斉」を最強国に押し上げ、もう一つの強国「秦」を打ち破り、数々の実績を上げた名将・大政治家
・産まれてすぐに「親を殺すことになる」と予言された「孟嘗君」・・・「斉」や「魏」の大臣を務め、名将「楽毅(がっき)」に滅ぼされかけた「斉」の国を立て直そうと力をつくした
・ある小説で、「孟嘗君」を秦の宰相に迎え入れようとした「魏ゼン」が、孟嘗君の逃亡をしり「秦の統一は50年遅れる」と嘆いたとあった・・・
呪われた貴公子「孟嘗君」とはどんな人で、いったい何をした人なのか?
「孟嘗君」とは何者なのか?
孟嘗君(もうしょうくん)、本名は「田文(でんぶん)」・・・春秋戦国時代に最強国「秦」を苦しめた四人の名将「戦国四君」の一人。当時、「秦」と並ぶ最強国「斉」の王族として、斉の「威王」の孫として、斉の宣王の弟「田嬰(でんえい)」の息子として誕生します。
「5月5日」に誕生した孟嘗君・・・・この日に生まれた子は「門戸と同じ身長まで成長したところで親を殺害する」という迷信がありました。それを信じた父「田嬰」は、生まれたばかりの息子「田文(孟嘗君)」の殺害を命じますが、母親がかくまって育てます。
波乱に満ち満ちた誕生となった孟嘗君・・・。その孟嘗君とは、いったい何をした人なのか?
孟嘗君の功績
孟嘗君が成し遂げた功績を短く解説いたしますと
・3000人の食客(用心棒)を使いこなし、秦国の「昭襄王(昭王)」による追跡を逃れ、「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」の故事を残した
・斉、魏、韓の合従軍(連合軍)を率いて、最強国「秦」の軍を撃破した
・斉の宰相として、斉を秦と並ぶ最強国に押し上げ、その最盛期を支えた
・魏の宰相を務めた
・燕の名将「楽毅」によって滅亡寸前まで追い込まれた「斉」の宰相として、復興に尽力した
孟嘗君は非常に身長が低い人として有名です。
趙国に立ち寄った孟嘗君は、ある村で低身長であることを馬鹿にされ、その村の人間を皆殺しにした!という逸話がありますが・・・・。孟嘗君がそんなことで村人を殺害したとは思えません。おそらくは後世の創作でしょう
「孟嘗君」の生涯と最期
斉の威王の孫として、宣王の異母弟「田嬰」の子として生まれた田文こと孟嘗君。父に処分されかけたものの、立派に成長し、父「田嬰」と対面。なぜ自分を殺害しようとしたのかを父に尋ね、「門戸」の高さに成長したら・・・という話を聞きます。
「だったら門戸を高くすればいいだけ」・・・と言い返された父・田嬰は、優れた見識を持つ息子「孟嘗君」をそばに置くことにします。食客(用心棒)の世話や、行政改革に見事な手腕を発揮した孟嘗君は、田嬰から正式に後継者として指名されます。
秦の昭襄王(昭王)・・・・・始皇帝の曽祖父にして、50年以上にわたり秦王を務めた人物。昭襄王とその叔父にして宰相だった「魏冄(ぎぜん)」の二人が、名声がなりひびいていた孟嘗君を、魏冄の後任の宰相として迎えようとします。
食客たちと秦国へ来た孟嘗君は、昭襄王に迎えられるものの、側近から讒言を受けた昭襄王は、斉国の王族である孟嘗君を宰相に迎えることを突如、危険視しだします。
昭襄王の暗殺計画を察知した孟嘗君は、昭襄王お気に入りの姫に、「盗み」を得意とする食客に盗ませた昭襄王の宝物「狐白裘(こはくきゅう)」という毛皮を送り、命乞いをさせます。
これにより窮地を脱した孟嘗君は、急いで秦国の国門「函谷関」へ。しかし、かつての秦国の名宰相「商鞅(しょうおう)」による「法治国家」としての改革を成し遂げた秦には「鶏が鳴くまで門は開けない」という法律がありました。そのため函谷関は、孟嘗君たちが到着した夜中に、全く開門せず。
その時、気が変わって孟嘗君を殺害しようとした昭襄王の追手が、すぐ目の前に迫っていました。そのため、「ものまね」が得意な食客に「鶏の鳴き声」を真似させ、開門させて函谷関を突破。
毛皮を盗ませ、鳴き声を真似させた・・・・「つまらない特技も使い方によっては役に立つ」という意味の「鶏鳴狗盗」という言葉が誕生します。
秦国から脱出した孟嘗君は、斉の宰相に就任。魏・韓・斉による合従軍を組織して秦を撃破。
孟嘗君は、従兄弟に当たる斉王「湣王(びんおう)」に仕え、斉を繁栄させます。
しかし、優秀で名声が高い孟嘗君を、暗君である「湣王」は煙たがり、孟嘗君は食客「馮驩(ふうかん)」の工作もあって、魏の宰相として斉から亡命。
この直後、最強国「斉」は、燕国の名将「楽毅」が率いる「燕」「趙」「韓」「魏」「秦」の合従軍により滅亡寸前まで追い込まれ、湣王も殺害されます。
楽毅の猛攻をしのいだ名将「田単」の活躍もあり、斉国は国力を失いながらも滅亡を回避。
再び斉国の宰相に迎えられた孟嘗君でしたが、紀元前279年に死去。その息子たちは跡目争いをして、孟嘗君が治めた「薛」の領地は滅亡。
子孫には、三国時代「呉」に仕えた政治家「薛綜(せっそう)」がいます。
孟嘗君は、「秦国」の天下統一を50年遅らせた?
孟嘗君が秦国の宰相を務めていたら、どうなっていたのでしょうか?
作家「宮城谷昌光」さんの作品「孟嘗君」において、秦国の宰相「魏ゼン」は、自分の留守中に「孟嘗君」を暗殺しようとした昭襄王の行為を知って、なげいています。
「これで秦国の天下は50年遅れる」
この「鶏鳴狗盗」という言葉の元となった騒動が起こったのは「紀元前299年」、始皇帝によって天下統一がなされたのは「紀元前221年」。孟嘗君が秦国から逃げ出してから天下統一まで、実に78年もかかっているのです。
昭襄王は、非常に素直な人物であり、家来たちの意見を素直に聞きすぎるという特徴がありました。
宰相の意見を聞いて宿敵「趙国」を亡ぼすチャンスを捨てたり、空前絶後の名将「白起」を処刑したり、行動力がありすぎて先走ったり、とにかくミスが多いのです。
もしも孟嘗君が秦国の宰相を務めていたら当然、孟嘗君による「合従軍」が秦国を破ることはあり得ません。孟嘗君ならば、名将「白起」の罷免はなかったはずですので、秦は「長平の戦い」の直後、そのままの勢いで「趙国」を滅ぼしていたはず。
その後「韓」「魏」「燕」「楚」「斉」の順番に撃破していくことも難しくないはず。、天下は始皇帝の登場を待たずして、「昭襄王」によって統一されていたかもしれません。
「孟嘗君」について「ひとこと」いいたい
孟嘗君・・・・戦国四君の一人として「趙」の「平原君」、「魏」の「信陵君」、「楚」の「春申君」と並び称えられています。
この中で「孟嘗君」は最も優れていると思います。「平原君」は「長平の戦い」を引き起こして趙国の国力を著しく衰退させ、「信陵君」と「春申君」は死に方が情けない・・・つまりは晩節を汚しています。
「キングダム」・・・・秦の名将「李信」を主人公としている人気漫画ですが、この漫画で描かれている時代、すでに「孟嘗君」は亡くなっています。
しかし、孟嘗君の名声の高さを考えれば、漫画「キングダム」に何かしらの形で登場するのではないでしょうか?
ちなみに、「春申君」はキングダムに登場して暗殺されました。信陵君は、魏火龍七師の一人「呉慶」を保護したとして名前だけ登場しています。
孟嘗君の祖国「斉」を滅亡寸前まで追い込んだ因縁の名将「楽毅」も登場しているのですから、何らかの形で「孟嘗君」にも登場してほしいです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・孟嘗君とは、「春申君」「信陵君」「平原君」と並ぶ「戦国四君」の一人にして、斉の王族
・孟嘗君は秦の昭襄王に殺害されかけ、合従軍を率いて秦国を粉砕。
・斉の宰相として絶頂期をむかえたのち、魏の宰相に就任。その後、楽毅に滅ぼされかけた斉の国再建に尽力した。
以上となります。
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