聖徳太子がしたことを簡単解説!政治改革って何をやったの?

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《聖徳太子》
「引用元ウィキペディアより」

「聖徳太子」というと、「奈良の法隆寺を建てた人」ということは知っていても、どんな政治をしたのかを説明できる人は意外に少ないかもしれませんね。

私も大学に入るまで、聖徳太子の功績については教科書に書いてあることくらいしか知りませんでした。

聖徳太子は「冠位十二階」と「十七条憲法」を制定し、古代日本における近代化を図った人です。

この記事では、政治家としての聖徳太子に詳しくない方のために、わかりやすく解説してきます。

これを読んで「政治家・聖徳太子」について、ぜひスッキリと理解してくださいね。


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この記事を短く言うと

  1. 聖徳太子が残した功績としては「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「遣隋使の派遣」が有名。
  2. 「冠位十二階」とは、日本初の官位・位階制度。つまりは身分制度。「憲法十七条」とは官僚や貴族への法律。「遣隋使の派遣」とは、大国「随」との外交交渉を行う使節団のこと
  3. 聖徳太子が送った「遣隋使」によって、日本は当時世界最強の国家「随」と対等な外交を結ぶことに成功した

聖徳太子の功績とは?太子が行った政治改革を短く解説

聖徳太子が残した功績

「推古天皇」が即位した時に「摂政」となった聖徳太子。その聖徳太子が政治で残した大きな功績は、主に3つあります。

  1. 「冠位十二階」を制定したこと。
  2. 「十七条憲法」を制定したこと。
  3. 「遣隋使の派遣」です。

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「摂政」とは何か?

「摂政(せっしょう)」とは、何か。それは

天皇が女性、病弱、年少などで政治を司るのが難しい場合に、男性の皇族が代わりに政治を司る職務のこと

です。

女帝「推古天皇」の摂政となり、実質的な為政者となった聖徳太子は、【603年】に「冠位十二階」を制定し、出身の氏姓によらず優秀な人材を登用し始めます。

604年】に、官僚と貴族の行動規範として「十七条憲法」を制定しました。

607年】、「遣隋使」として「小野妹子」らを隣の大国「隋」へ派遣し、当時最先端だった「隋」の文化を学ばせたのです。

聖徳太子は、古代日本の近代化を図るため、「冠位十二階」と「十七条憲法」を制定し、「遣隋使」を送って隋の優れた文化を吸収したのです。


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「冠位十二階」と「十七条の憲法」とはなにか、簡単解説

聖徳太子の政治的功績は「冠位十二階」と「十七条憲法」を制定し、「遣隋使」を送り隋の文化を吸収したことです。

まず、「冠位十二階」から見てみましょう。

「冠位十二階」とは何か?わかりやすく解説

「冠位十二階」は、【603年】に制定され、【605年】から「乙巳の変」後の【648年」まで実施された、日本初の冠位・位階制度です。

「冠位」とは、朝廷につとめる官僚を「12」の位に分け、被る冠の色によって「職の等級」を現すものです。冠の色が位を表すので、「冠位」というわけです。

その「冠位(かんい)」にたいして、「位階(いかい)」とは身分を表すものです。

「冠位十二階」が制定される前の日本では、朝廷内の地位は豪族たちによって世襲(せしゅう・父から子へと代々受け継がれること)されていました。

例えば大臣(おおおみ)の位は、「蘇我稲目」からその子「蘇我馬子」に譲られています。

「冠位十二階」の導入で朝廷は、氏姓(生まれながらの身分)に左右されることなく人材を登用できるようになりました。これにより役職を一代限りとすることが可能となり、代々の世襲をしないことになりました。

このことは、生まれた身分は低いけれど優秀な人材が朝廷に登用され、その中で出世することを可能にしました。それと同時に優秀な人材を確保することを可能にします。

優秀な人材を確保できれば、政治改革もはかどりますよね。


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氏姓によらない人材を登用すれば、これまでの「しがらみ」からも解き放たれた、思い切った政策を実行することも可能になるでしょう。

こうしてこれまでの豪族たちの身分や特権を否定することなく、能力によってより高い地位に上がれるという状態が完成したのでした。

このことは朝廷内であまり身分が高くなかった豪族たちに意識改革を起こし、官僚として朝廷に仕える者たちのモチベーションを高めることにつながります。

聖徳太子は朝廷に優秀な人材を確保する目的で「冠位十二階」を制定しました。しかし実は、「冠位十二階」にはもう一つの目的があったのです。

隋の国使が来日した時に、隋のように、職務によって色の異なる冠を被った官僚が並んで迎えれば、日本を未開の国ではなく文明国である、ということを随の国使に印象づけることができますよね。

隋の外交使節団に対して日本をよりよく見せるために「冠位十二階」を制定した・・・という目的もあったのです。


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「十七条の憲法」とは何か?わかりやすく解説

次に【604年】に制定された「十七条憲法」について見てみましょう。

「十七条憲法」は、朝廷で働く官僚や貴族への「道徳的規範」として制定されました。

日本で初めて明文化された法律なのです。そこには豪族たちに「役人として働く心構え」を説くとともに「臣下は天皇を敬い、服従するように」説かれています。

日本を天皇中心の中央集権国家とするために、このように説いたのです。

また「十七条の憲法」には

「篤く三宝を敬へ。三宝とは、仏、法、僧なり」

と書かれおり、聖徳太子が篤く信仰した仏教を、豪族たちにも信仰するようにと説かれています。


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それだけではなく、現代日本でも有名な一説である

「和(わ)をもって貴(とうと)しとなす」

という言葉も「十七条の憲法」には記されています。

聖徳太子は「隋」と対等に渡り合う国家となるため、古代世界において日本を近代国家とするための政策として「冠位十二階」と「十七条憲法」を実施したのです。

その目的は古代の東アジアにおいて、日本を「隋」と渡り合える国とするためでした。

では次に、隋へと送った使節団「遣隋使」について見てみましょう。


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聖徳太子の外交!大国「隋」と渡りあった「遣隋使」の功績

《煬帝》
「引用元ウィキペディアより」

「日出る処の天子、書を、日没す処の天子に致す。恙無きや、云々」

(日が昇る国の天子(倭国の天皇)から、日が沈む国の天子(随の皇帝)へ手紙を送ります。お元気ですか)

遣隋使として隋に渡った「小野妹子」が、聖徳太子からの書状を隋の皇帝「煬帝(ようだい)」へ渡しています。その手紙の書き出しはあまりにも有名ですよね。日本の天皇がこれ以後「日出処の天子」と呼ばれることとなるのは、この手紙が発端なのです。

煬帝はこの文言にある「天子(てんし)」という言葉に激怒しました。

古代中国の考えでは、中国以外の周辺国はあくまでも中国の属国でしかありません。中国に貢物をして、属国の「王」として認めてもらうだけの存在でした。

「邪馬台国」の女王「卑弥呼」も、「三国志」で有名な国「魏(ぎ)」へ貢物をすることで「親魏倭王(しんぎわおう)」という金印をもらっていますね。

この「貢物を貰う代わりに、中国から『王』という位をもらう制度」のことを「冊封体制(さくほうたいせい)」と呼びます。

ちなみに「王」という位は、中国のトップである「皇帝」よりも下の位です。日本でも皇帝を意味する「天皇」に対して、天皇の親族を「親王」や「内親王」「女王」と呼びますが、あくまでも「王」という位は「天皇」や「皇帝」よりも下の身分なのです。


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話を戻しましょう

「冊封体制」では、属国の長が中国の皇帝と同じ「天子」という言葉を使うなど許されないことです。

こんな手紙を渡されたら、隋の「煬帝」は怒りのあまり、「小野妹子」をその場で処刑して、日本との国交を断絶してもおかしくありません。

ところが、そうはなりませんでした。

煬帝は激怒しながらも、「小野妹子」を許し、日本と国交を樹立します。

なぜ煬帝は、手紙の内容に激怒しながらも、小野妹子を許したのでしょうか?

その理由は、当時の「随」の外交的な立場が関係していました。

当時、「隋」は朝鮮半島の北部に位置していた「高句麗」という国と戦争中だったのです。

その戦争の最中に、海を隔てた「日本」と争っては面倒です。日本と戦うよりも手を結び、随の宿敵「高句麗」を挟み込むような関係を構築したほうが、隋にとって利益になる・・・・煬帝の臣下たちがそのように煬帝を諫めたのでしょう。

聖徳太子はおそらく当時の東アジア情勢を読みきっていたのでしょう。隋は日本のこの振舞いを受け入れざるを得ないだろう・・・・と考え「日出る・・・」という煬帝が激怒するような書をわざと送ったのだと思います。

聖徳太子の態度を認めた「隋」からは国使「裴世清(はいせいせい)」が来日しました。

こうして隋と対等の外交関係を結ぶことに成功した聖徳太子は、改めて小野妹子や「高向玄理(たかむこのくろまろ)」「南渕請安(みなみぶちのしょうあん)」などを隋に送ったのです。

「高向玄理(たかむこのくろまろ)」や「南淵請安(みなみぶちのしょうあん)」たち遣隋使は、思う存分に隋で学び、当時最先端の文化や学問を日本にもたらします。

このときの遣隋使「南淵請安」の教え子には「中大兄皇子」と「中臣鎌足」らがいました。彼らはのちに「大化の改新」という一大政治改革を主導しています。

「聖徳太子」の行った政策「遣隋使」は、聖徳太子の死後にも国政改革に大きな影響をもたらしたのです。


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『聖徳太子の功績』について「ひとこと」言いたい!

「聖徳太子の十七条憲法は後世の創作だ」という学者もいます。

なぜそんなことが言われているのでしょうか?

「十七条憲法の中で使われている言葉に、飛鳥時代には使われていなかったものがある」

というのが「後世の創作説」が唱えられる理由です。

「十七条憲法」は原本が残っておらず、『日本書紀』に全文の写しが残っているだけなのも「後世の創作」という説を補強しています。

『日本書紀』が完成したのは【720年】。十七条憲法が制定されたのは【604年】です。

両者の間には100年以上の時間の隔たりがあります。現在残っていない資料や、口伝で伝えられた伝承が『日本書紀』には反映されていたでしょう。

聖徳太子の子「山背大兄皇子」と「蘇我蝦夷」が攻められた時に、その邸宅は焼失しています。

この時、数々の歴史的文書が燃えてしまったわけですが、「十七条憲法」の原本もその時に焼失しているかもしれません。

もしも口伝で伝えられた「十七条憲法」が、百年後につくられた『日本書紀』に記録されたのだとすれば、『日本書紀』の書かれた時代に使われていた言葉が記述に用いられたと考えても、なんらの矛盾はないと私は思います。

『日本書紀』に書かれている文言通りではなかったとしても、「十七条憲法」が、「聖徳太子」により制定され、彼の生きた時代に実在していた「日本初の成文法」だと、筆者は考えています。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 聖徳太子が残した功績は主に3つ。「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「遣隋使の派遣」。
  2. 「冠位十二階」とは、官位・位階制度。つまり身分制度の法律のこと。「憲法十七条」とは官僚や貴族の行動を戒める法律。「遣隋使の派遣」とは、大国「随」との外交を行った使節のこと
  3. 「遣隋使」によって、日本は当時世界最強の国家「随」と対等な外交を結ぶことに成功した。

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この記事を短くまとめると、以下の通り

聖徳太子の行った政治改革は、「冠位十二階」と「十七条憲法」を制定し、隋に「遣隋使」を送ったことです。

「冠位十二階」でそれまでの氏姓による世襲を廃止し、優秀な人材を広く登用しました。

「十七条憲法」を制定し、天皇を中心とした中央集権国家を作り、豪族の意識を官僚のものに変革したのです。

また、「遣隋使」に送った人達がもたらした最先端の文化や学問は、「聖徳太子」の死後に、「大化の改新」をもたらす種となります。

それらは、大きな変化を古代日本にもたらしたことでしょう。

聖徳太子の行った政治改革は、古代世界における日本の近代化だったのです。

 

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「聖徳太子の別名全部紹介!2017最新教科書での名前といなかった説」の記事はコチラ

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