始皇帝の墓には水銀の海が!内部には生き埋めにされた数百のご遺体も

「秦の始皇帝」の「生涯」と「歴史年表」、広大な「墓の秘密」や「水銀と不老不死」について知りたいあなたへ、わかりやすく解説いたします。

人気漫画「キングダム」にも登場する「秦王・政」こと後の「始皇帝」

その生涯は、順風満帆なものではなく、波乱に満ちたものでした。

王に即位すると同時に建設が始まった、広大な墓「始皇帝陵」には、「広大な水銀の海」が!

なぜ始皇帝は「水銀」に執着したのか?

そして、墓の内部には、多数の罠と、始皇帝の後を追わせる様に、数百もの生き埋めにされた人達がいました。


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歴史専門サイト「レキシル」へようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

・始皇帝の墓には、大量の水銀で作られた「海」や「川」があった

 

・始皇帝陵は、楚国の将軍「項燕」の孫である覇王「項羽(こうう)」と、淮南王「英布(えいふ)」によって掘りおこされた

 

・始皇帝の妻が何者なのか、記録が残っていないため、全くわからないが、「正妻」と呼べる人はいたと考えられる

 

・始皇帝の墓には、後宮につかえた女性たちが、数百人も生き埋めにされた

 

・「始皇帝」こと『嬴政(えいせい)』は、趙国の首都「邯鄲(かんたん)」で誕生し、「呂不韋」「李牧」「項燕」など数々の強敵を倒して天下統一を成功させた

 

・「始皇帝」の死後、わずか4年後に「秦」は滅亡する

 

・歴史小説「三国志」は、秦の始皇帝が生きていた時代の、約400年後を描いた物語

 

・始皇帝は、「残虐な暴君」という説もあるが、実際には「名君」だったのではないか


《始皇帝の墓には「水銀の海」と莫大な財宝が!》

始皇帝は、秦王に即位すると同時に、70万人を動員して、自らの墓の建設を始めたと言われています。

≪始皇帝≫
「引用元ウィキペディアより」

 

「始皇帝陵」とは?

史上初めて「天下統一」を果たし、過去最大の領土を手に入れた「秦の始皇帝

その始皇帝の墓には、当然ながら副葬品として、膨大な財宝が埋められたと言われています。

始皇帝陵と呼ばれる「始皇帝のお墓」は、20000平方メートルもの広さ。

中華人民共和国・陝西省西安の北東へ30kmほどの地点・「臨潼区」にあります。

ちなみに西安は、かつての秦の都「咸陽」の近く。

当時の権力者のお墓の中には「死後に生活する世界」が建築されていたのだそうです。

始皇帝も、死後に生活する世界を「始皇帝陵」の内部に作り上げ、更には、死後の始皇帝を守るために、兵士の人形を約8000体も埋めたのです。

この人形軍団が、有名な世界遺産「兵馬俑(へいばよう)」。


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始皇帝と水銀の逸話

大歴史家「司馬遷」が記した歴史書「史記」には

「始皇帝の棺の近くに、水銀を使った海・川が作られた」

と記されています。

現在の始皇帝陵に「水銀の海・川」は存在していませんが、、墓の内部には水銀が蒸発した痕が残っていたことが、確認されています。

始皇帝は、水銀をとても重要な代物だと考えていたようです。

天下統一を成し遂げた始皇帝は「永遠の命」を求めたと言われています。

「徐福」という家来を、日本へ派遣し、永遠の命を捜索させたという逸話は有名。

そんな始皇帝が「永遠の命」を得るために、「薬」と勘違いして「水銀」を飲んでいたのです。水銀は、液体であるものの一定の形を維持しようとする不思議な形状をしていますので、当時の人は水銀に、なにか神秘的なものを感じたのかもしれません。

始皇帝の死因は「水銀中毒」と言われていますので、「始皇帝陵」に「水銀の川・海」が存在していた理由は「始皇帝の永遠の命への執着」だったのでしょう。


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《「二人の王」が始皇帝の墓を破壊!》

財宝が盗掘されていた

始皇帝陵が建築された時、副葬品としてかなりの財宝が埋葬されたはず。

しかし始皇帝陵から財宝が発見されたという話は、聞いたことがありません。

何故かと言うと、実は始皇帝が埋葬された直後に、「二人の王」が始皇帝陵を荒らしていたからです。

「二人の王」とは?

始皇帝の墓を暴いた「二人の王」とは、秦国を滅亡させた「覇王・項羽」と、彼の部下で、後に「淮南王」と名乗る「英布(黥布)」のこと。

項羽は、秦国に滅亡させられた「楚」の出身で、「楚国の名将・項燕」の孫。京劇「覇王別姫」で有名な人物です。

「英布」というのは、罪を犯して「始皇帝陵」の建築作業に駆り出されていた「罪人」

顔に黥(いれずみ)を入れられる刑をくだされたため、「黥布(げいふ)」とあだ名された人物。

始皇帝に恨みを持っていた「項羽」は、始皇帝陵を暴こうとしました。

しかし、墓には多数の罠が張り巡らされていたのです。

そのため項羽は、始皇帝陵の建築に従事していた「英布」に、始皇帝陵の探検を命令。

英布はその任務を達成し、副葬品・財宝は、ことごとく項羽に没収されてしまったのでした。


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《始皇帝の「妻」は誰なのか?「二世皇帝」に処刑された可能性も》

始皇帝の妻は、どこの誰なのでしょうか?

なんという名前なのでしょうか?

結論から言えば、始皇帝の「妻・嫁」が誰なのか、そもそも正妻・正室と呼べる人がいたのかどうかは不明です。

秦の始皇帝には、妻と呼べる人はいたのでしょうか?

人気漫画「キングダム」では「向」と「陽」という仲良し二人組が、秦王「嬴政」の子供を授かっているようですが・・・。

始皇帝の「嫁」については、記録がまったく残っていないので、はっきりしたことはわかりません。

ただ、推測することはできると思いますので、当時の風習や事実から「始皇帝の嫁」がどんな人なのか、そして最期はどうなったのかを、推理してみたいと思います。


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そもそも「正妻」を置く風習が、当時からあったのか?

当時から「正妻」「正室」をおく風習が、当時の「秦国」にもあったと思います。

始皇帝の祖父「孝文王」には「華陽夫人」という王后(正妻)がおり、父「荘襄王」の王后は始皇帝の母「趙姫」でした。

ということは、始皇帝にも「正妻」「正室」と呼べる人はいたはず。

この王后「華陽夫人」と「趙姫」には、一つの共通点があります。

それは「夫の後継者の母親」であるということ。

華陽夫人は「荘襄王」の実母ではありませんが「荘襄王」を夫「孝文王」の次の王にするべく、いわゆる「義母」として協力しています。また「趙姫」は「始皇帝」の実の母親です。

つまり「夫の後継者の母・もしくは義母」が「正妻」であると考えるなら、始皇帝の嫁・正妻は、「二世皇帝の母親」と考えることができるのではないでしょうか。


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長男「扶蘇」と、末っ子「胡亥」

始皇帝の後継者は末っ子の「胡亥(こがい)」。

その母親が誰なのかは不明です。

そして、この「胡亥」という人物は、胡亥の養育係「趙高」と宰相「李斯」の画策により、兄「扶蘇(ふそ)」から、皇位継承権を奪い取ったと言われている人物です。

始皇帝は長男「扶蘇」を後継者にしようとしていたと言われているので、もしかすると「扶蘇の母」こそが「始皇帝の妻・嫁」と言えるかもしれません。

「扶蘇」の母親が誰なのか、これも不明です。「扶蘇」と「胡亥」は、異なる母親から生まれている可能性があり、そうなると「扶蘇の母親」は「胡亥」に殺害されている可能性があるのです。

「胡亥」は「二世皇帝」に即位すると、兄「扶蘇」に偽の命令書を送って、「蒙恬」将軍とともに「自害」させます。

その後、胡亥はみずからのライバルとなりかねない兄弟たちを次々と殺害。「始皇帝の公子(息子)12名、公主(娘)10名が処刑された」と記録が残っています。

詳しくはこの後で解説しますが、胡亥は「後宮の女性数百人を始皇帝の墓へ生き埋めにした」と言われています。

となると、この「後宮の女性」の中に、始皇帝の正妻・嫁がいたかもしれません。

とはいえ、その「正妻」「嫁」が誰なのかは、やはり不明なのです。

当時の記録は、覇王「項羽」によって「秦」が滅ぼされた際に、ほとんど焼失したと考えられます。のちに「漢」という国の名宰相となる「蕭何(しょうか)」が、項羽が火をつける直前に、一部の記録を持ち出したと言われていますが、それでもほとんどの記録は失われたと考えられます。

この失われた記録の中に、「始皇帝の嫁」「妻」の名前や生い立ちが記されていたかもしれないのですが・・・・残念ながら、真相は闇の中となってしまったのです。

 

余談ですが、人気漫画「キングダム」で、秦王「嬴政」は、「向」という女性との間に「麗」という女の子を授かっています。史実では始皇帝に「麗」という名の娘はいませんが、もしかしたらこの子、弟の「胡亥」に処刑される運命にあるのでしょうか?

だとしたら、この「麗」は、【紀元前210年、始皇帝が亡くなった直後に処刑されてしまいますね。


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《墓には、生き埋めにされた人が数百人もいた!》

始皇帝陵へ「生き埋めにされた人間」が数百人もいたと言われています。

歴史書「史記」には、こう書かれています。

「始皇帝が亡くなると同時に、後宮(日本でいう『江戸城・大奥』のようなもの)にいた女性で、子供がいない人は、全て殉死をさせられた。

かなりの人数が亡くなった」

始皇帝のあとを継いだ「胡亥」は、始皇帝に殉死させるため(実際には跡目争いのライバルを始末するため)、「始皇帝の息子12名、娘10名」を殺害したと記されています。

始皇帝の王子・王女だけで「22」名も殉死させられたのです。

おそらく「胡亥」は、「始皇帝の子供を妊娠している可能性がある人物」を恐れたのでしょう。

その為「子供がいない女性」を殉死させたのです。子供がいる女性がどうなったのかは、想像を絶するものがありますが、まず生きてはいないでしょう。

王族から22人殉死したなら、一般人は実に「数百人」規模で殉死したのでは??なんて噂されています。

一説には、始皇帝は「秦国を支える有能な人材」を失うことを恐れ「殉死」を禁じたと言われています。

ただ、二世皇帝「胡亥」は邪魔者を排除するために、「殉死」を名目として次々と政敵を排除していったみたいですね。

始皇帝は、殉死なんてさせるつもりはなかったのかもしれません。


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【秦の始皇帝とは】生涯の物語!『天下統一』と「5人の宿敵」

「嬴政(えいせい)」の誕生

春秋戦国時代

名君「武王」と天才軍師「太公望」によって開かれた「周」王朝は滅亡し、中国大陸は列強諸国が500年以上も天下を争うという、戦乱の時代となっていました。

民衆は、平和をもたらしてくれる強力な統率者の出現を夢見て、戦乱と貧困に苦しんでいたのです。

紀元前259年、趙国の首都「邯鄲」で1人の少年が誕生します。

彼の名は「嬴政」。「秦の始皇帝」となる人物です。「天下統一」という偉業を宿命として背負う少年。彼は生涯に「5人の宿敵」たちを退け、天下統一を成し遂げる宿命を背負った王。

嬴政は、戦国七雄と呼ばれた国々のなかでも、最強の国「秦」の王「昭襄王(昭王)」の「ひ孫」です。

王族である嬴政の父「異人」は、「趙国」への人質として「邯鄲」で生活していました。
人質として「嬴政」が趙国に身をおいていたにもかかわらず、「秦」は「趙」をたびたび攻撃していたため、幼い「嬴政」は、いつ殺害されてもおかしくない生活をおくるハメになります。

趙国の人間すべてから恨まれていた敵国の王子「嬴政」。生き残れたのは奇跡だったかもしれません。

ある日、秦の「昭襄王」が亡くなり、嬴政の祖父「孝文王」が秦王に即位。

それと同時に「嬴政」の父「異人」が、王位継承者に指名されたため、邯鄲から「秦」の首都「邯鄲」へと帰還します。幼い「嬴政」を残して・・・・。

本来なら「王位継承者」になどなれない、庶子であった「異人」・・。大商人「呂不韋」の工作活動により、次期秦王の地位を獲得したのでした。

祖父「孝文王」は、なんと王位についた3日後に死去。そのため嬴政の父が、秦王に即位する事となるのです。

10歳になった嬴政は、趙国から丁重に秦国へと送り届けられ、父「荘襄王」の後継者に指名されます。

こうして嬴政は「いつ死んでもおかしくない人質」から、「王位継承者」に指名されることとなるのでした。


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1人目の宿敵「呂不韋」

紀元前247年、即位からわずか3年、父の「荘襄王」が突然亡くなります。

翌年、じゃっかん13歳の嬴政が秦王に即位。

幼い嬴政に政治などできるはずもなく、父「荘襄王」の即位に貢献した「呂不韋」が、高位の大臣「丞相」として政務を代行することとなります。

しかし、この「呂不韋」こそが、天下統一を目指す嬴政のまえに立ちふさがる「1人目の宿敵」でした。

なぜなら、チカラのない「嬴政」を、「呂不韋」は「あやつり人形」として影で操ろうとたくらんでいたのです。

実は、嬴政の母親「太后」は、もともと呂不韋の愛人でした。

父「荘襄王」は、彼女を気に入り、呂不韋から彼女をゆずりうけていたのです。

そして「荘襄王」と「太后」の間に「嬴政」が誕生。

しかし、淫乱だった「太后」と「呂不韋」の関係は、密かに続いていたのです。

密通が明るみに出ることを恐れた「呂不韋」は、「ろうあい」という男を「太后」にあてがい、彼女との関係を終わらせます。

ところが、「ろうあい」と「太后」の関係が発覚。二人の子供まで誕生していたことで、「呂不韋」との関係も明るみに出てしまいました。

嬴政はこの機会を逃しません。

「ろうあい」を処刑し、「呂不韋」を追放。

これで、嬴政は「呂不韋」を倒し、「あやつり人形」からの脱却に成功したのです。

嬴政・・・地獄のような人質生活と、「あやつり人形」としての存在をのりこえた若き王の胸には、一つの大きな野望がおさめられていました。

「天下統一」

それまでの1000年近い歴史の中で、誰一人として成しとげたことがない偉業。

秦国を取り巻く「韓・趙・魏・楚・燕・斉」の「六国」をすべて滅ぼし、戦乱のない世の中をつくる。

真の王となった嬴政は、大いなる志に向けて動き出すのです。


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2人目の宿敵「李牧」

そんな嬴政の前に立ちふさがったのは、生まれ故郷の国「趙国」。

趙国は秦国の侵略にはげしく抵抗。

その趙国には、秦国を苦しめる天才将軍がいました。

李牧」・・・・嬴政の天下統一をはばむ「2人目の宿敵」。

のちの大歴史家「司馬遷」から「守戦の名将」とあだ名された名将「李牧」。

強力な秦国の軍を相手に、李牧は連戦連勝。

「李牧がいる限り、趙国を滅ぼすことはできない」

そう考えた秦国の名将「王翦」は、工作員を利用して「李牧が趙国を裏切ろうとしている」とニセ情報を広めます。

これに怒った趙王は、驚くことに「趙国最期の希望」であるはずの李牧を処刑。

圧倒的なチカラをもつ「秦国」と戦える人材を失った趙国は、李牧の死後「3ヶ月」で首都「邯鄲」が陥落。滅亡します。

秦国では、李牧が亡くなると、その死を祝したと言われています。


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3人目の宿敵「荊軻」・・・始皇帝暗殺

趙国が滅亡したことで、危機感をつのらせたのが、趙国の隣にあった「燕国」。

この「燕国」には、秦王「嬴政」を追いつめることとなる宿敵が、息をひそめていました。

「荊軻(けいか)」・・・・3人目の宿敵

始皇帝暗殺を画策し、その名を2000年後の現在まで残した凄腕の暗殺者です。

燕国の王子「丹」は、秦王「嬴政」の親友でした。

二人は趙国「邯鄲」で、ともに「人質」として生活し、いつ殺害されてもおかしくない崖っぷちの日々を一緒に乗り越えた関係。

ある日、成長した「丹」は、親友「嬴政」と再会。

しかし、嬴政は丹を冷たくあしらい、丹は衝撃を受けます。

趙国が滅ぼされ、次に狙われるのは「燕」であることは明らかでした。

弱小国「燕」では、強大な秦国に太刀打ちできない。

そう考えた丹は、燕でも一番の剣の達人だった「荊軻」を暗殺者として差し向け、嬴政の暗殺をたくらんだのです。

計画は順調に進み、嬴政と謁見することに成功した荊軻。

隠し持っていた「短刀」で嬴政を刺殺しようとするも、かえって嬴政に斬り殺されてしまいます。

暗殺の黒幕が「丹」であることを知った嬴政は激怒。

大軍団を燕にさしむけ、燕の首都は陥落。

燕の王は逃亡し、王子「丹」は秦将「李信」の追撃により亡くなります。

丞相「呂不韋」、趙将「李牧」に続く3人目の強敵「荊軻」は、こうして滅ぼされたのです。

これにより、燕国は滅亡寸前。秦国はそんな燕を放置して、次に最大のライバル「楚」へ矛先を向けるのでした。


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4人目の宿敵「項燕」

嬴政の天下統一をはばむ最大の難関「楚国」

楚国は「趙」や「燕」に比べても、最大の強国。

このとき、「韓」「趙」「魏」はすでに滅亡。「燕」は滅亡寸前で、「斉」も秦国の属国のような状態でした。

「楚」こそが、嬴政による天下統一を阻む、最大の難関となっていたのです。

嬴政は、将軍たちに対して「楚国」の攻略を指示。

若き将「李信」は、「20万の軍」があれば、楚国を滅ぼせると豪語。

対して、「李牧」をうちやぶった老将「王翦」は、「秦国の全軍60万」が必要だと主張します。

全軍60万を王翦に預けてしまうと、本国は手薄となります。

嬴政は若い「李信」に20万の軍団を預け、楚国攻略を指示します。

項燕」・・・楚国の大将軍。嬴政の天下統一をはばむ「4人目の宿敵」。

項燕は、「李信」「蒙恬」がひきいる20万の秦軍をあっさりと撃破してしまいます。

焦った嬴政は、老将「王翦」に「60万」の大軍団を預けて、楚国の攻撃を指示。

空前絶後の名将「王翦」は、巧みな戦術を駆使して、難敵「項燕」の軍団をことごとく打ち破るのでした。項燕は敗走し、隣国「越」との連合軍を組織して、最期の抵抗を続けます。

最強のライバル「楚国」と、大将軍「項燕」。

これらの難敵を撃破したことで、嬴政の「天下統一」はすでに目前。

しかし、ここで思わぬ強敵が嬴政の前に立ちふさがることとなります。


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5人目・・・最期の宿敵

ある日、秦国につかえていた大臣「昌平君」が、姿を消します。

昌平君・・・・圧倒的な才能で、「相国」という最高位の大臣にまで上りつめた人物。

実はこの「昌平君」、嬴政と同じく秦王「昭襄王」の末裔でした。

昌平君は、「昭襄王」の娘と、楚王「考烈王」の間に生まれた息子。つまり「秦国」の王族であると同時に「楚国」の王族でもあったのです。

そんな昌平君は、いったいどこへ消えたのか・・・。

なんと滅亡寸前の「楚国」の王として、「昌平君」は項燕将軍とともに、秦国へ最期の戦いを挑んできたのでした。

昌平君」・・・・嬴政の天下統一をはばむ「5人目・最期の宿敵」。

「昭襄王」・・・・55年もの長きにわたり秦国の王位についていた人物。

嬴政と同じく、幼い頃は他国で人質として生活し、叔父「魏冄(ぎぜん)」に政治を支配されていた昭襄王を、若き「嬴政」は尊敬し、手本としていた事でしょう。

その「昭襄王」の血を引く二人の末裔が、「天下統一」という「昭襄王」も夢見た偉業をかけてぶつかることとなるのです。

しかし、結果は誰の目から見ても明らかでした。

滅亡寸前の「楚国」が、名将「王翦」がひきいる最強国「秦」の軍団に勝てるはずがないのです。

「昌平君」と、生き残っていた楚の将軍「項燕」は、秦国の猛攻に激しく抵抗するものの、圧倒的な軍団の前に滅び去ります。

「たとえ三戸(少数)のみとなっても、楚国は必ずや秦国を滅ぼしてみせる」

死の間際に、項燕はこのような「呪いの予言」を残したといわれています。

この予言が、わずか17年後に実現することを、このとき嬴政は知る由もありませんでした。


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『始皇帝の最期』・・秦帝国滅亡まで、あと4年

紀元前221年、「楚」「燕」につづき、最期の敵国「斉」を滅ぼした嬴政。

「呂不韋」 「李牧」 「荊軻」 「項燕」 「昌平君」

「5人の宿敵たち」を次々と退け、「殷の湯王」や「周の文王・武王」のような古代の名君たちですらも成し遂げられなかった「天下統一」を、嬴政は見事に成功させたのです。

曽祖父「昭襄王」、祖父「孝文王」、父「荘襄王」、4代続けて夢見た「天下統一」・・・偉業をなしとげた嬴政は、中国史上初めて「王」を超える位「皇帝」を名乗り、「始まりの皇帝」・・・「始皇帝」として天下に君臨。

天下統一後、始皇帝は天下を巡る旅にでかけます。

チカラで屈服させた諸国の状況を、その目で確認し、予想されていた「反乱」を未然に防ごうとしたのです。

壮大な始皇帝の行列へひざまずく1人の男。

「今に見ていろ。

そのうち俺が貴様にとって代わってやる」

その行列に、怨念に満ちた瞳を向ける1人の若武者の姿がありました。楚国の将軍「項燕」がのこした怨念が、始皇帝のまわりでうごめき始めていたのです。


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紀元前210年、四回目の全国巡業が行われた年・・「始皇帝」は命を落とします。不老不死をもとめて、水銀を服用し続けた「水銀中毒」による死でした。

始皇帝は、みずからがつくりあげた巨大な帝国の将来を心配していました。

そのため、自分の死後、秦が滅びることを恐れ、数々の手段を駆使して「不老不死の薬」を求めたと言われています。

しかし、その願いも虚しく、始皇帝は命を落とします。巡業中での突然死は、世の混乱を招がないように隠蔽され続けたと言われています。

史上最大の帝国を作り上げた「始皇帝」の死は、新たなる戦乱を予感させる不吉の前兆でした。

秦国滅亡まで、あと「4年」。

始皇帝が築きあげた史上最大の帝国は、無残にも崩れ去る運命をたどることとなるのです。

 

「秦国の最期」「行列にひざまずく若武者の正体」などなど・・・続きは以下の「昌平君の物語」で語らせていただきます。よろしければ、以下のリンク記事もお役立てくださいませ。

「キングダム・ラスボスはあの男!王翦・李牧をも上回る戦神・昭王の孫」の記事はコチラ

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始皇帝の歴史年表

始皇帝の生涯を、年表にまとめました。

 

紀元前259年2月18日(0歳)

「嬴政(えいせい)」、趙国の首都「邯鄲」で誕生。

 

前251年(8歳)

曽祖父「昭襄王」が死没。

 

前250年(9歳)

祖父「孝文王」が秦王に即位

大商人「呂不韋」の工作により、父「異人」が王位継承者となったため、嬴政は10歳になると同時に、母親とともに秦の首都「咸陽」へとおくり返される。

祖父「孝文王」が、即位3日で亡くなる。

嬴政の父「荘襄王」が、秦王に即位。「呂不韋」が丞相に任命される

 

前247年(12歳)

「荘襄王」が死去。

「始皇帝陵」の建設開始。

 

前246年(13歳)

秦王に即位


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前238年(22歳)

嬴政、22歳になると同時に元服(成人式)。ほぼ同時期に、嬴政の母親である「太后」と、丞相「呂不韋」の密通が発覚。そして「太后」の愛人であった「ろうあい」が、反乱を起こしたが鎮圧される。

 

前235年(25歳)

流刑となっていた「呂不韋」が、服毒自殺。

 

前234年(26歳)

秦将「桓騎」が趙国を攻撃

 

前233年(27歳)

嬴政が「韓非子」と対面する。韓非子は直後に「李斯」の罠にはまり服毒自殺。

 

前230年(30歳)

「韓」滅亡

 

前229年(31歳)

秦将「王翦」と「李斯」の工作により、趙国の名将「李牧」が趙王に処刑される。趙将「司馬尚」は逃亡。

 

前228年(32歳)

秦将「王翦」の攻撃により、趙の首都『邯鄲』が陥落。「趙」滅亡

 

前227年(33歳)

「燕」の太子「丹」が、暗殺者「荊軻」を差し向けた「始皇帝暗殺」計画が失敗に終わる。

 

前226年(34歳)

「燕」の首都「薊(けい)」が陥落。

秦将「李信」の追撃が原因で「燕」の太子「丹」が死亡。

 

前225年(35歳)

「魏」滅亡。

秦将「李信」と「蒙恬」が「楚」を攻撃。しかし「楚」の名将「項燕」に大敗する。


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前223年(37歳)

秦将「王翦」により「楚」滅亡。「項燕」と楚王「昌平君」が戦死。

 

前222年(38歳)

秦将「王賁」の攻撃により「燕」滅亡。

 

前221年(39歳)

「斉国」滅亡。

秦国が「天下統一」を達成。

「嬴政」は、史上初めて「皇帝」を名乗り「始皇帝」となる。

 

前219年(40歳)

第一回「天下巡業」を開始。

「徐福」がひきいる部隊が「不老不死の薬」を求めて「日本」へ上陸。

 

前218年(41歳)

第二回「天下巡業」

 

前215年(44歳)

第三回「天下巡業」

 

前213年(46歳)

「焚書」が行われる

 

前212年(47歳)

「坑儒」が行われる

 

前212年(47歳)

「阿房宮(あぼうきゅう)」の建設を開始。

 

前210年(49歳)

第四回「天下巡業」

 

前210年9月10日

「始皇帝」死没、享年49歳


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前209年

二世皇帝として始皇帝の末息子「胡亥(こがい)」が即位。

「陳勝・呉広の乱」が勃発。

 

前207年

「胡亥」が、宦官「趙高」により暗殺される。

「胡亥」のあとを継いで、始皇帝の孫「子嬰」が秦王に即位。

 

前206年

「楚」の「項羽」と「劉邦」により、「秦」滅亡。

 

前202年

「垓下の戦い」で「項羽」が「劉邦」に敗れて亡くなる。

「劉邦」が「漢(前漢)」の皇帝に即位する


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「始皇帝」と人気歴史小説「三国志」の関係とは?

秦の始皇帝と、人気歴史小説「三国志(演義)」は、どういう関係があるのでしょうか?

始皇帝の物語をみてみると、お城の名前や地名などが、「三国志」でも登場しています。

「始皇帝の物語」も「三国志」も、現在の「中華人民共和国」の「陝西省(咸陽・長安)」や「河南省(洛陽)」を舞台の中心として描かれています。(秦の都「咸陽」と、三国志の古都「長安」は、ほぼ同じ場所)

「始皇帝」と「三国志」のつながりは、おもに2つ。

・「秦の始皇帝」が生きていた時代の、約400年ほど未来の物語が「三国志」。

・始皇帝の「秦」を滅ぼした「漢」という国の皇帝「劉邦」・・・。その「劉邦」とその部下「曹参」や「夏侯嬰」の末裔が、「三国志」の主人公「劉備」や「曹操」。


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「始皇帝」が紀元前210年に亡くなった4年後に、「秦」は「項羽」と「劉邦」というの二人の武将に滅ぼされています。

その直後、「項羽」と「劉邦」の間で「楚漢戦争」が勃発。勝利した「劉邦」が「漢」という国をおこして全国を統一。

その約400年後の「西暦184年」に、三国志の始まり「黄巾の乱」が勃発しているのです。

そのため、「始皇帝」の物語に登場する人物の末裔が、「三国志」に登場するということも、よくあります。

例えば始皇帝の宰相「呂不韋」の末裔「呂凱」が、三国志に登場しています。また、「始皇帝」の曽祖父「昭襄王」を苦しめた趙の名将「趙奢」の末裔「馬超」も、三国志で活躍しています。

また「三国志」の英雄「黄忠」は、始皇帝と戦った趙の名将「廉頗」になぞらえられていますし、「諸葛亮孔明」は名将「楽毅」にあこがれているとされています。

ただ、「秦」を滅ぼした「漢」では、みずからの正当性を主張するためか、「始皇帝」は「暴君」として描かれています。

実際には「始皇帝」は、初めて中国大陸を制圧した名君なのですが、漢と「劉邦」を英雄とするため、「始皇帝」は徹底的に「悪役」とされているのです。

「歴史は勝者によって書かれる」という典型的な一例ですね。


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『始皇帝』について「ひとこと」言いたい!

秦の始皇帝・・・・歴史上では「焚書坑儒」という虐殺をおこなったり、趙国を滅ぼしたときには、多くの人間を生き埋めにしたともいわれ、「暴君」だった・・・という説もあります。

始皇帝は、本当に暴君だったのでしょうか?それとも、名君だったのでしょうか?

結論から言いますが、「名君」であったと思います。理由は簡単で、「名君でなくては天下統一という偉業をなしとげられたとは思えない」から。

始皇帝は、「韓非子」という思想家の書籍を読み、

「韓非子から教えを受けられたら、死んでもいい」

というほど、「韓非子」に心酔したと言われています。

この韓非子は、2200年後の現在でも「マキャベリ」の「君主論」とならんで、『帝王学』のバイブルとされている名著です。

その「韓非子」の凄さを見抜くとは、始皇帝の洞察力がとてもすごかったことを物語っています。

始皇帝の「焚書坑儒」は、言論弾圧ではあるものの、反乱などを未然に防ぐためには、しかたのないことだった・・・とも言われています。

また、趙国での虐殺は、幼い頃に母親と敵対していた者たちに限られていたのだとか。

さらに「始皇帝は暴君だった」という歴史書を書いたのは、「漢」という国の皇帝「劉邦」。

「劉邦」は、楚の覇王「項羽」とともに、「秦」を滅亡させた人物。先程も申しましたが、のちに皇帝となった「劉邦」の正当性」を証明するためには、「始皇帝」は暴君であったほうが都合が良いのです。

始皇帝・・・・「法治国家」を作り上げ、中国大陸全土を統一した「始皇帝」。

始皇帝が使い始めた「皇帝」という称号は、その後の統一者たちに引き継がれ、秦という帝国は模範となっていきました。

秦の始皇帝・・・確かに「不老不死の薬」なんていうものに執着する、ちょっと至らない点はあるとはおもいますが、それでも歴史に名を残すべき「名君」だった気がします。


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《まとめ》

本日の記事をまとめますと

  1. 始皇帝は「不老不死の薬」と勘違いして「水銀」を服用し、水銀中毒で亡くなった
  2. 始皇帝陵には「水銀の川・海」が存在していた
  3. 覇王・項羽と淮南王・英布によって、始皇帝の墓は、暴かれた
  4. 始皇帝の妻が、何者で、どんな人なのかは、記録がないため不明。
  5. 殉死の名目で、二世皇帝「胡亥」は、次々と政敵を始末していった
  6. 「始皇帝」こと『嬴政』は、趙国の首都「邯鄲(かんたん)」で誕生し、数々の強敵を倒して天下統一を成功させた
  7. 「始皇帝」の死後、わずか4年後に「秦」は滅亡する
  8. 「三国志」は、始皇帝が生きた時代の約400年後を描いた物語
  9. 始皇帝は、残虐な暴君という説もあるが、実際には「名君」だった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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