まんが・キングダムに登場する秦国の武将・王賁(おうほん)。
王賁は、秦の天下統一を決定づけた名将・王翦の息子です。
父親・王翦は、春秋戦国時代を代表するほどの名将でしたが、じつは息子の王賁のほうが、すぐれ名将だったのかもしれません。
そんな王賁の最期とは、どんなものだったのでしょうか?
父・王翦の影にかくれたもう一人の名将・王賁について、解説いたします。
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この記事を短く言うと
- 王賁の最期は、おそらく病死。または老衰死。少なくとも戦死ではない。
- 王賁は、父・王翦にも負けなくらいの名将で、魏・燕・代(趙)・斉の4カ国を滅ぼしている。
- 王賁の息子・王離は、「父と祖父のせいで死んでしまった」と、歴史家の司馬遷が言っている
王賁の最期とは?
人気まんが・キングダムに登場する槍の達人・王賁。
その最期は、どんなものだったのでしょうか?
王賁の最期
じつは王賁の最期は、ハッキリとはわかっていません。
資料がまったくないのです。
秦国は、紀元前221年に斉国を滅ぼして、天下統一を成し遂げ、その14年後の紀元前207年に滅亡しています。

《戦国七雄》
「引用元ウィキペディアより」
斉国を滅ぼしたのは
の3人の将軍であり、王賁は紀元前219年に通武侯という称号をもらっているので、その時まで王賁が生きていたことは確かです。
そのあと、紀元前207年に覇王とよばれた項羽がひきいる反乱軍の手で、秦国が滅亡するまで、王賁の名前は歴史資料にまったく登場してきません。
王賁ほどの名将が、秦国が滅亡の危機にひんしているにもかかわらず、反乱軍と戦わないなんて考えにくいです。
おそらくですが、紀元前219~207年までのあいだに、王賁は病死または老衰死していたのでしょう。
王賁は、父・王翦よりも優れた名将だったのか?
まずは王賁の父親・王翦が、どれほど優れた将軍だったのかをご紹介いたします。
秦を脅かした「3人」の宿敵
秦の始皇帝が天下統一をなしとげるまでに、大きな障害となる人物が3人いました。

≪始皇帝≫
「引用元ウィキペディアより」
- 趙国の李牧
- 燕国の太子・丹
- 楚国の項燕
この3人のことです。
まずは趙国の武将・李牧です。
マンガ・キングダムでは、趙・三大天という大将軍の地位にいる名将として、秦国の天下統一をはばむ強敵です。
つぎに燕国の太子・丹(たん)
秦王・贏政(えいせい)の幼い頃からの友達で、有名な暗殺者・荊軻(けいか)をつかって、嬴政を暗殺しようとした人です。
最後に楚国の大将軍・項燕(こうえん)
項燕は李牧とならび、一時的にでも超大国・秦の進軍を撃退した名将です。
王翦が、楚国の名将・項燕を滅ぼす
秦にとって、六国のなかで最強の敵といえば、大国・楚です。
楚国の大将軍・項燕は、李信と蒙恬がひきいた20万の大軍団を撃破した名将です。
そんな強敵・項燕をあっさりと倒してしまったのが、王翦です。

≪王翦≫
『引用元ウィキペディアより』
この王翦の功績により、秦の天下統一が決定的となったといえます。
王賁の功績とは?
王賁の父・王翦は、秦国最大のライバルだった大国・楚を滅ぼした功労者です。
趙国の李牧や、楚国の項燕という、最強のライバルたちを倒した王翦は、間違いなく名将です。
しかし、息子の王賁も負けていません。
王賁はというと
- 魏
- 燕
- 代(趙の滅亡後、趙の太子・嘉が建てた国)
- 斉
と、合計で4カ国を滅ぼしています。
父・王翦の2倍もの数の敵国を滅ぼしているのですから、父にも負けない活躍ぶりといえます。
王賁の子・王離(おうり)は呪い殺された?
王賁には、王離という名前の息子がいました。
王離は紀元前207年に、秦国に対して反乱を起こした項燕の孫・項羽に、鉅鹿(きょろく)の戦いで敗れ、捕虜となっています。
その後の消息は不明です。
しかし、王離が生きているとは思えません。
王離の祖父・王翦は、項羽の祖父・項燕を殺害しているのです。
王離はそのことが原因で、項羽に処刑されたとみて間違いないでしょう。

項羽(項籍)
引用元ウィキペディアより
王離が亡くなった理由について、大歴史家・司馬遷が、こんなことを言っています。
「王賁の父・王翦は、六国を滅ぼした。
始皇帝も、王翦を師匠としてあつかった。
にもかかわらず、王翦は始皇帝を補佐して、秦国を盤石(ばんじゃく)なものとする政治を行わず、ただただ始皇帝のご機嫌をうかがうのみで、ついにそのまま亡くなった。
孫の王離が、項羽の手で殺されたのは、それと無関係ではない。
王翦が秦国の土台をしっかりとつくっていたら、王離は反乱軍によって殺害されずに済んだはずなのだ」
これは暗に
「王翦と王賁は、秦国の土台づくりを怠った(おこたった)」
ということを示していると考えられます。
偉業を成しとげた王離の父・王賁と祖父・王翦。
しかしその二人の怠慢が原因で、王離は亡くなったのだと、司馬遷は考えていたのです。
項羽の祖父・項燕を殺害したのが、王離の祖父・王翦ですから、項燕の孫にあたる項羽からすれば、かたきの孫である王離を許せるはずがありません。
戦った相手が、軍神と呼ばれた最強の武将・項羽であったことなどが、王離にとって最大の不幸でした。
大将軍・項燕は、死の間際に、以下のような予言を残したといわれています。
「たとえ楚の国の民が少数になったとしても、楚は必ず秦を滅ぼしてやる」
まるで呪いのような予言です。
(一説によるとこの予言は、仙人が残したものともいわれている)
その呪われた予言が的中し、項燕の孫・項羽の手で秦国は滅亡し、王賁の息子・王離も亡くなったのです。
まさに、項燕が残した怨念・呪いが、王離の命を奪ったといえるでしょう。
王賁の母親は何者?王賁は王翦の子ではないかもしれない
キングダムでは、王賁が王翦の息子ではない、というストーリー展開がされています。
それによると、王翦の妻は、王翦と結婚した直後に妊娠。
しかしその子は王翦の子ではない可能性があるとのこと。
王賁を出産後、王翦の妻は難産で他界。
王賁が王翦の子ではないとしたら、王賁は王翦の最愛の女性を奪った人物ということになります。
キングダムのストーリー上は、その様になっていますが、当然ですが史実でこういう話はまったく存在しません。キングダム作者の創作です。
以下のリンク記事で、王翦の素顔、についての簡単な考察をいたしましたが、そこで、王翦は秦国王族なのではないか、と予想しました。
もしこの考察が当たっていたら、王翦の子・王賁もまた、秦の王族ということになります。
しかし、王賁が王翦の息子ではないとしたら、どうなるのでしょうか。
王賁は当然ですが、秦王族ではないことになります。王賁の実父が秦の王族だったなら、話は別ですが・・・。
余談かもしれませんが、秦国の総司令官である昌平君は、実は戦神・昭王の孫であり、秦王族と楚王族の血を引く人物です。
そして昌平君は、秦国の名将・王翦に滅ぼされる運命にあるのです。

王翦
『引用元ウィキペディアより』
詳しくは、以下のリンク記事で、解説しております。
昌平君のについては、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
王翦の素顔について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
ふと思ったのですが、もしも王賁の実父が、秦王族だったとしたら、話はどうなるのでしょうか・・・。
王翦の妻が、王賁出産にともなう難産で亡くなったのだとすれば、王翦からすれば、王賁の実父こそ、最愛の妻を奪った人物ということになるのではないでしょうか。
もしも王賁の実父が秦王族だとしたら、王翦が秦王族を憎む一つの原因となりそうなものですが・・・。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 王賁の最期は不明だが、おそらく病死だろう
- 王賁は、父親の王翦にも負けない功績を残した名将
- 王賁の息子・王離は、項羽により殺害されているが、歴史家・司馬遷は「王翦のせいで王離は死んだ」と語っている。
以上となります。
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