MENU

始皇帝とは何か超分かりやすく解説!漫画キングダムのネタバレ注意!

歴史の教科書によく登場する秦の始皇帝とは、いったい何のことなのでしょうか?

人気まんが・キングダムに登場する若き王・嬴政(えいせい)が、天下統一をして秦の始皇帝となるのです。

この記事では、始皇帝の生涯と、なぜ始皇帝と呼ばれているのかを解説いたします。

後世において、世界中で使われることとなる称号・皇帝。

その始まりだから、始皇帝なのです。

まんが・キングダムのネタバレともなる解説ですので、ご注意くださいませ。


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」へようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 始皇帝はもともと、人質の子として生まれ、即位後26年で天下統一を達成した
  2. 世界で史上初めて皇帝を名乗ったため、始皇帝と呼ばれた
  3. 最期は水銀中毒により、50歳で亡くなり、始皇帝陵へ葬られた

始皇帝・嬴政(えいせい)の天下統一までを、かんたんに解説

人気まんが・キングダムに登場する若き秦王・嬴政の生涯について、わかりやすく解説いたします。

春秋戦国時代の中国大陸は

これら戦国七雄(せんごくしちゆう)と呼ばれる七カ国が戦争をくりかえす、戦乱の時代でした。

紀元前259年のお正月、趙国で秦国王(昭襄王・または昭王)のひ孫が誕生しました。

お正月に誕生したので、この子供は政(のちの始皇帝)と名付けられました。

≪始皇帝≫
「引用元ウィキペディアより」

政は、のちの秦国の孝文王(こうぶんおう)の孫にあたる人物であり、異人(いじん)という名前の秦国の王子(のちの荘襄王)の息子として誕生したのです。

趙国の人質として生活していた秦国の王子・異人は、のちに秦国の宰相となる人物・呂不韋(りょふい)の協力を得て、自分の妻や息子の政を趙国に残して、ひとりで秦国へ脱出してしまうのでした。

置き去りにされた息子の政は、母と二人で殺害される危機に瀕しながら、ギリギリの生活を強いられることとなるのです。

紀元前249年、政の父親・異人(子楚と改名)は、秦国の太子(たいし)という地位に即位します。

太子とは、次に王様となる人のことです。

これにより趙国は、当時の国際的な儀礼にしたがって、10歳となっていた政を、秦国の次期国王の嫡子として、母親とともに丁重に秦国へ送り返すことになるのです。

政が秦国へ帰った3年後の紀元前246年、政の父・荘襄王(そうじょうおう)が亡くなります。

そして、13歳だった政が、秦国の王に即位します。

秦王・贏政(えいせい)の誕生です。

紀元前238年、22歳で成人した政は、自分の母と密会を繰り返していた宰相・呂不韋を追放処分とします。

圧倒的な経済力と軍事力を保持していた秦は、

という順番で侵略し、各国を滅亡させていきます。

  1. 守戦の名将・李牧
  2. 暗殺者・荊軻(けいか)
  3. 覇王の祖父・項燕

などなど、秦国の統一事業を邪魔する難敵を倒しながら、秦王・贏政は、成人からわずか17年で、天下統一を達成し、始皇帝という地位へのぼりつめたのでした

 

呂不韋については、よろしければ以下のリンク記事をご利用下さいませ。


スポンサーリンク

なぜ始皇帝と呼ばれているのか?

歴史上、中国はもちろんヨーロッパやロシアにも皇帝と名乗る人物は存在していましたが、実は歴史上最初に皇帝という称号を名乗ったのは、贏政だったのです。(余談ですが皇帝は、ドイツではカイザー、ロシアではツァーと呼ばれます)

秦国以外の六国の6人の王をすべて倒した贏政は、王より偉い称号を名乗ることを考えました。

当時の中国では、三皇五帝(さんこうごてい)と呼ばれる8人の伝説上の君主が、名君として崇拝されていました。
(三皇五帝とは、女媧・伏儀・神農、そして黄帝・顓頊・帝嚳・帝堯・帝舜の8人のこと)

この伝説上の名君たちは、皇(こう)という称号と、帝(てい)という称号を名乗っていたことから、贏政は

「三皇五帝より偉い」

ということをアピールするため、2つの称号をかけ合わた皇帝という称号を自称したのです。

皇よりも帝よりも偉い皇帝、というわけです。

贏政は自らを、始まりの皇帝、と名乗り、その称号を代々子孫に継承させ、二世皇帝・三世皇帝、果ては千万世皇帝まで、中国をおさめるつもりだったのです。

まさか三世皇帝・子嬰(しえい)の代で、秦国が項燕の孫にあたる覇王・項羽に滅ぼされることになるとは、このときの始皇帝は、夢にも思わなかったはずです。

項羽(項籍)
引用元ウィキペディアより


スポンサーリンク

始皇帝の最期とは?

始皇帝の最期は、悲惨なものでした。

紀元前210年、始皇帝は中国全土を巡回する旅の途中、50歳で亡くなります。

その死因は、水銀中毒でした。

永遠の命を追い求めていた始皇帝は、水銀を魔法の薬と勘違いして服用し続け、死亡したのです。

始皇帝が葬られたお墓・始皇帝陵には、人工的につくられた水銀の海があったといわれています。

それほど始皇帝は、水銀に執着していたのです。

おそらく水銀の美しさと、形を持たない水銀の特徴的な様子が、古代の人々には神秘的に見えたのでしょう。

余談ですが、始皇帝は永遠の命をもたらす仙薬を捜索させるため、徐福という人物を東の海へと送り出しています。

この徐福が、日本へたどり着いたという伝説が、現在の三重県熊野や富士山周辺に残されています。

始皇帝亡き後におこった戦乱とは?

始皇帝が死んだ後、秦国では後継者争いが静かに起こっていました。

その後継者あらそいの結果として、始皇帝の長男・扶蘇(ふそ)が、名将・蒙恬とともに、自殺させられるのです。

始皇帝の後継者として指名されていた扶蘇と、数々の功績を残した名将・蒙恬を死なせたのは、趙高という始皇帝お気に入りの宦官(かんがん)でした。

超高の陰謀によって、始皇帝の末息子・胡亥(こがい)が、二世皇帝に即位します。

この胡亥と、悪臣の趙高がやらかした圧政に怒った2人の武将が立ちあがるのです。

  • 楚国の大将軍・項燕の孫・項羽(こうう)
  • のちに前漢という国の初代皇帝となる劉邦(りゅうほう)

この2人が、秦国を倒すために兵を挙げます。

とくに、軍神と呼ばれた戦いの天才・項羽の神がかった戦闘能力により、秦国は一気に滅亡まで追いこまれます。

始皇帝の死後わずか3年後の紀元前207年、三世皇帝・子嬰の代に、秦国は滅亡するのです。

その後、秦国を滅亡させた項羽と劉邦が天下を争い、楚漢戦争と呼ばれる戦いが勃発します。

楚漢戦争に勝利したのは劉邦でした。

秦国が滅亡したあと、劉邦が建国した国・前漢が、天下を統一します

高祖皇帝・劉邦
引用元ウィキペディアより

秦は滅亡しましたが、始皇帝がはじめてつかった皇帝という称号は、その後2000年間、中国の歴代皇帝へと引き継がれるのです。

 

始皇帝について、よろしければ以下の記事も合わせてどうぞ。


スポンサーリンク

まとめ

本日の記事をまとめますと

  • 始皇帝・贏政は、生まれた直後から、人質として死と背中合わせな生活をしていた
  • 贏政は、伝説上の名君・三皇五帝を上回る存在を自称するため初めて、皇帝を名乗ったので、始皇帝と呼ばれた
  • 始皇帝は、水銀中毒で亡くなり、その死後3年で、秦国は滅亡した

以上となります。

本日はレキシルへお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当レキシルへお越しくださいませ。

ありがとうございました


スポンサーリンク

キングダム関連記事

以下のリンク記事でも、キングダムの人物や逸話について簡単に理解できるように、わかりやすく解説させていただいております。

よろしければ、こちらの記事も、ぜひお役立てくださいませ。

リンク記事は別タブで開きます。

「秦の武将・軍師たち」関連記事

 

「王翦・王賁」

 

「昭王・六大将軍」

 

「呂不韋」関連記事

 

「趙・三大天」

 

「戦国四君」

 

「キングダムの脇役・雑学」関連記事


スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次