春秋戦国時代のチャイナ、始皇帝が即位する前の最強国「秦」を苦しめた4人の名将たち「戦国四君」の一人、魏の「信陵君」。
その信陵君について、わかりやすく解説いたします。
人気漫画「キングダム」に登場する魏将「呉慶」を保護したという「信陵君」。
悲しい死に方をしていた。
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この記事を短く言うと
・戦国四君の一人「魏」の「信陵君」は、魏の王様の弟で、秦国を苦しめた名将だった
・「長平の戦い」で大敗北した「趙」を助け、秦国の関所「函谷関」を攻撃し、最期は兄である王に嫌われて、絶望して亡くなった
《「キングダム」の火龍「呉慶」を保護した「信陵君」!史実では、何をした人なの?》
人気漫画「キングダム」に「呉慶」という将軍が登場します。
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「魏」の名将で、「魏火龍七師」という7名の猛将の一人。
元々は小国の王子だったとのことですが、国が滅びて「信陵君」に保護されたのだとか。
「信陵君」・・・「キングダム」にも名前だけ登場します。
信陵君の本名は「魏無忌(ぎむき)」
「魏」の王様の弟にして、天下統一を目指す最強国「秦」の侵略を食い止めた名将・大政治家。
特に「長平の戦い」で「45万」の軍を虐殺された「趙国」を、滅亡の危機から救った功績が大きいです。
「戦国四君」・・・・最強国「秦」を苦しめた4人の「名将」たち。
の4名のことです。
個人的な見解ですが、「斉」の「孟嘗君」を除けば、「信陵君」が最も優れた人物でしょう。
『信陵君』の功績とは?
「信陵君」の功績を短く解説いたします。
・長平の戦いで名将「白起」に大敗した趙国を救援し、滅亡の危機から救った
・秦国の防衛拠点・函谷関で、合従軍(連合軍)を率い、最強・秦の軍を撃破した
信陵君・・・後の前漢皇帝「劉邦」も尊敬した人物。「戦国四君」は、全員「食客(用心棒)」を三千人以上養っていたことで有名です。信陵君の食客の中には後に「趙国」の王となった「張耳」もいました。
《生涯と最期》
春秋戦国時代、魏で「安釐王(あんきおう)」が即位。その弟「魏無忌」も領地を与えられ「信陵君」と名乗ることとなりました。
安釐王は、信陵君と囲碁で勝負している最中、隣国「趙」から軍が接近してきて大慌てになります。しかし泰然自若とした「信陵君」は「趙王が狩りをしているだけ」と、兄を安心させたのでした。優れた情報網を持っていた信陵君は、この時「趙王」が狩りを行う予定であったことを知っていたのです・・・その力と知略に恐れを抱いた「安釐王」は、弟を政治から遠ざけます。
紀元前257年、魏の隣国「趙」が、最強国「秦」に、首都「邯鄲」を包囲されます。この3年前、趙国は秦の名将「白起」に「長平の戦い」で大敗し、「45万」の軍を虐殺されていたため、国力が低下していたのです。
趙王の弟にして「戦国四君」の一人「平原君」は、妻の弟であった「信陵君」に援軍要請。しかし「安釐王」は秦を恐れて援軍を出さず。覚悟を決めた信陵君は、魏の武将を殺害して軍権を奪い、単独で趙へ出撃。楚の「春申君」らの協力もあり、見事に秦軍を撃破。
魏の将軍を殺害したため「安釐王」に憎まれた「信陵君」は「趙」に滞在。ところが秦国の圧迫を受けた「安釐王」に再び呼び戻されることとなります。
秦国の防衛拠点にして堅城「函谷関」・・・秦国に反撃を開始した信陵君は、魏や趙などの5か国連合軍(合従軍)を率いて「函谷関」で、「蒙驁(蒙武の父・蒙恬の祖父)」や「王騎」を撃破。
しかしこの秦国への猛攻が、かえって信陵君の人生を狂わせることとなります。
名将・信陵君を恐れた「秦」は、諜報活動を開始。「信陵君が、兄・安釐王を殺して、王位を奪おうとしている」と噂を広めます。これに恐れをなした「安釐王」は、信陵君を政治の中枢から排除。
これに絶望した「信陵君」は酒におぼれる日々を過ごすこととなるのでした。
紀元前244年「安釐王」が他界。同年「信陵君」も他界。
息子「魏無知」は前漢皇帝「劉邦」に仕え、天才軍師「陳平」を進めるという功績を残しています。
《信陵君・・・名将「李牧」と「白起」の運命を変えた男》
信陵君・・・秦国の名将「白起」と、後の趙国の名将「李牧」の運命を変えた・・・と言っていいかもしれません。
「白起」
紀元前257年の「邯鄲包囲戦」。秦の昭襄王(始皇帝の曾祖父)は、名将「白起」に総大将を命じますが、白起はこれを固辞。なぜなら、この3年前の「長平の戦い」で勝利した白起を、昭襄王は突然「更迭」していたのです。これに怒った白起は、昭襄王の命令をきかなくなった・・・というわけです。
その結果、「信陵君」「平原君」「春申君」を相手にした秦の「邯鄲包囲軍」は壊滅。邯鄲攻略は失敗に終わります。
起こった「昭襄王」は、白起に「自殺」を命令。白起は自決してしまいます。
もしも「信陵君」が、趙への援軍を断っていたら、おそらく「邯鄲」は落城し、趙国は滅びていたでしょう。趙国が滅びていたら「白起」は死なずに済み、さらなる活躍をしていたかもしれません。
そうなったら秦国は、始皇帝の誕生を待たず、「昭襄王」の時代に天下統一を果たしていたかもしれません。「白起」とは、それほどの名将だったのです。
「李牧」
白起が死なずに済んでいたら、後の名将「李牧」の運命も変わっていたでしょう。
元々は「雁門関」という対モンゴル騎馬部族との防衛長官だった「李牧」。秦国の猛攻に苦しんだ「悼襄王」が、大将軍に任命。その息子「幽穆王」からは秦の名将「白起」になぞらえて「我が白起」と呼ばれていたほどの名将でした。
始皇帝率いる「秦軍」の猛攻をなども跳ね返し、楚の「項燕」と並んで秦国を苦しめた名将として、李牧は歴史に名を刻んでいます。
しかし、もしも信陵君が「趙」を助けていなかったら、趙国は滅びて、李牧が世に名を知られることはなかったでしょう。
《『信陵君』について、レビュー(評論)!》
信陵君・・・・個人的には「斉」の「孟嘗君」に次いで、「戦国四君」の中では優れた人物だったと思います。
「趙」の「平原君」は、「長平の戦い」に積極的で、45万の趙軍を失うきっかけをつくったため、汚点を残しました。
「楚」の「春申君」は、自らの子を王にしようと画策し暗殺され、歴史家「司馬遷」から「春申君老いたり」と酷評されています。
最期は酒におぼれて亡くなった「信陵君」も、個人的には「老いたり」と言いたくなる最期です。
祖国「斉」の王様に疎まれたため「魏」へ亡命した「孟嘗君」を見習い、「信陵君」も他国へ亡命すればよかったのです。
亡命先として「趙」ならば、信陵君を快く受け入れたはず。それを「酒」の飲みすぎで亡くなるとは・・・・「晩節を汚す」結果となったことに同情の余地があるとは思えません。
しかし、信陵君の残した功績はさすがです。
信陵君がいなかったら、趙国は滅びて秦国の国力は益々増強。名将「白起」が復帰していたら、その神がかり的な采配で「魏」や「韓」はあっという間に滅亡していたはず。
ところが信陵君が趙を救い、それが原因で「白起」が亡くなったため、秦による天下統一は「始皇帝」の時代「紀元前221年」を待たなくてはなりません。
そのように考えると、信陵君はまさに「秦国の天下統一を数十年遅らせた名将」と言えるのではないでしょうか。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・「信陵君」とは「戦国四君」の一人にして、「秦国」の天下統一を遅らせた名将
・信陵君がいなかったら、「白起」も「李牧」も、その運命は変わっていた
・信陵君・・・最期はあまりにも無残な最期だった・・・。孟嘗君を見習うべきだった
以上となります。
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