漫画「キングダム」に登場する「三人の大将軍」こと「趙・三大天」。
「廉頗・藺相如・趙奢たちの活躍」と、その「子孫」について、わかりやすく解説いたします。
三大天最強の武将「趙奢」の息子は、歴史に名を残す「愚将」だった!
小説「三国志」に「趙奢の子孫」が登場していた
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この記事を短く言うと
・「三大天(さんだいてん)」というのは、漫画「キングダム」に登場する「架空の地位・称号」で、歴史上には存在していない
・藺相如・廉頗・趙奢・・・・当時の最強国「秦」から、「趙」を守り通した名将達
・三大天の名将「趙奢」・・・その息子「趙括」は「長平の戦い」で名将「白起」に惨敗し、後世に汚名を残した
・趙奢・趙括の末裔は、後漢・光武帝に仕えた名将「馬援」。そして三国志で活躍した「馬騰」「馬超」親子とその従兄弟「馬岱」。
「三大天」とは、いったい何なのか?史実では、実在したのかを確認!
人気漫画「キングダム」に登場する、「趙国」三人の名将達。
「藺相如」「廉頗」「趙奢」
この三人が、趙国の大将軍であり「趙・三大天」という地位にいた・・・と、「キングダム」では設定されています。
つまり「三大天」というのは、キングダムに設定されている「秦国・六大将軍」と同じような、「大将軍の称号」。
史実上「六大将軍」も「三大天」も、魏国の「火龍七師」も存在していません。
ただ、趙国「三大天」に位置していた三人「藺相如」「廉頗」「趙奢」は、全員が同じ地位にいたのは事実です。
この三人が健在であった間、趙国の隣国で、当時最強国だった「秦」と、秦の王「昭襄王(昭王)」は、趙国に手出しが出来なかったのです。
「三大天」・・・・そういう称号は存在していませんでしたが、三人が趙国の「最高位」に位置する人物だったことだけは確かです。
『藺相如』の活躍
藺相如(りんしょうじょ)
マンガ「キングダム」では「将軍」といういうことになっていますが、実際には「宰相」。
つまり今で言うところの「内閣総理大臣」であり、「将軍」ではありません。
宰相とはいえ、史実での藺相如は、自ら軍を率いて戦ったこともあります。
藺相如が歴史に名を残した活躍といえば、「完璧」「黽池(べんち)の会」「刎頸(ふんけい)の交わり」の3つ
完璧
藺相如が仕えていた「趙国」には「和氏の璧(かしのへき)」と呼ばれる、高価な宝玉(宝石)がありました。
「和氏の璧」は楚国の「卞和(べんか)」という人物が発見した宝石。「卞和」が楚国の王に献上したものの「ただの石」と誤解されて両足を切られてしまいます。
それでも最終的には高価な宝石と認められ「卞和」の名をとって「和氏の壁」と呼ばれるようになったのです。
秦国の「昭襄王(昭王)」が、この宝石に目をつけ「15個の城と、和氏の璧を交換したい」と言ってきたのです。
しかし、秦が15城を渡す保証はありません。和氏の璧だけを持っていかれる可能性が高かったのです。
かといって、この申し出を断れば、昭襄王は趙国の非礼を口実に「趙国」へ侵攻してきます。
進退窮まった趙国の「恵文王」は、部下の友人である「藺相如」に意見を求めます。
「藺相如」は、自分が「和氏の璧」を持って秦の昭襄王に謁見し、15城を渡さないようなら「和氏の璧」を完全な状態で持ち帰る・・・と約束。秦国へ旅立ちます。
昭襄王に「和氏の璧」を渡すと、王は家来に「和氏の璧」を見せびらかすだけで、一向に「15城」の話をせず・・・。
「昭襄王には、15城を渡すつもりなどない」と判断した藺相如は、「和氏の璧」を奪い取り、「壁を砕いて私も死ぬ」と言い出します。
驚いた昭襄王は、15城を渡す約束をかわすも、藺相如はこれを嘘と見破り、時間をかせぐ為に「5日間考えさせてほしい」と昭襄王に要求。
その間、部下に「和氏の璧」を持たせて密かに帰国させます。秦国へ残った藺相如は、昭襄王に対して先に15城を渡すよう要求しますが、昭襄王はこれを認めません。
そして藺相如は、昭襄王に「和氏の璧」をすでに趙国へ持ち帰らせたと報告。昭襄王は激怒します。
しかし、死を覚悟して「和氏の璧」を趙へ持ち帰らせた藺相如の勇気に、昭襄王は敬服。藺相如を殺さずに帰国させます。
これにより「藺相如」は、「和氏の璧」を完全な状態で持ち帰り、しかも自分も生きて帰国。「完璧」という言葉が、この故事から生まれたのでした。
黽池(べんち)の会
紀元前279年、秦国の昭襄王から、趙国の恵文王を秦国の「黽池(べんち)」で行う宴会に誘う招待状が届きます。
敵地に行くことを恐れた恵文王は、辞退しようとしましたが、名将「廉頗」が、「秦国に侮られる」と出席すべきと主張。
藺相如が同行することを条件に、恵文王は昭襄王の招待を受けます。30日以内に戻らなかったら恵文王の息子を王にして敵討ちをせよ・・・・という遺言を残すほど、決死の覚悟を定めた旅立ちでした。
一行は「黽池」に到着。
昭襄王が恵文王に対して、「友好の証に琴を弾いてほしい」と要求。
恵文王が琴を弾くと、昭襄王の秘書が秦国の歴史記録書に「秦王が趙王に琴を弾かせる」の文字を記載。これは「趙国」の国辱とも呼べる屈辱的な記録でした。
昭襄王の目的は「恵文王に恥をかかせて歴史に残すこと」だったのです。
それを察した藺相如は、昭襄王に近づき
「両国友好の証に、太鼓を叩いていただきたい」
これを非礼として一喝した昭襄王でしたが、藺相如は身じろぎもせず
「私と昭襄王の距離は5歩。
よろしければ私の首を斬って血を注ぎましょうか?」
と一言・・・。
これは暗に
「太鼓を叩くことを断れば、あなたを殺害します。
私の首は即座に落とされるでしょうが、それも覚悟しています」
ということを示唆していました。
恐れた昭襄王は、太鼓を一度叩き、恵文王の秘書は即座にこれを国史に記録・・・「趙王、秦王に太鼓を叩かせる」と・・・。
秦国の武将が
「わが昭襄王の長寿を祝して、趙国の城15城を昭襄王に献上してはいかがですか?」
と挑発的なことを言うと、藺相如は即座に
「わが恵文王の長寿を祝して、秦国の首都『咸陽』を献上してはいかが?」
こんなやり取りを繰り返し、藺相如はついに趙国のメンツを守り通し、無事に恵文王とともに趙国へ帰国。
これらの功績を認められた「藺相如」は、ついに「趙国」の最高位「宰相」にまで登りつめたのでした。
ただ・・・・この異例の出世が、趙国の名将「廉頗」を怒らせ、趙国に暗い影を落とすこととなるのです。
刎頸の交わり
趙国には「廉頗」という名将がいました。
この廉頗は歴戦の名将で、数々の勝利を趙国にもたらした、趙国で最高の地位に位置する人物でした。
しかし、たった一人だけ「廉頗」と同じ地位にいた人物がいました。宰相「藺相如」です。
廉頗は、戦争で勝利を得たこともなく、口先だけでのし上がった「藺相如」を嫌い、所々で藺相如を悪く言い続けました。
これを知った藺相如は、廉頗を避け続けます。
ある日、馬車で出かけた藺相如は、道の先に廉頗を発見。道の影に隠れ、廉頗が通り過ぎるのを待ちます。秦の昭襄王に対して、「血を注ぎましょうか?」とまで言った勇敢な藺相如とは、大変な違いです。
これに怒ったのが藺相如の部下たち。どうしてそれほど廉頗を恐れるのか?と・・・。そんな卑屈な態度を取り続けるなら、我々はあなたの部下を辞めさせていただく・・と藺相如をなじったのです。
「お前たちは、秦の昭襄王と廉頗将軍と、どちらが怖い?」
藺相如の質問に対して、部下たちは「秦の昭襄王のほうが怖い」と応えます。
「私が廉頗将軍を避けるのは秦の昭襄王を恐れているからだ。
今、私と名将・廉頗将軍がいるから、秦の昭襄王は趙を攻められずにいる。
もしも私と廉頗将軍が争えば、昭襄王を喜ばせることになり、趙国は滅亡するだろう。
私が廉頗将軍を避けるのは、ただ趙の国のためなのだ」
これに納得した部下たちは、辞職を思いとどまります。
そしてこの噂は廉頗の耳にも入るのです。
これを知った廉頗は、茨のムチを持って藺相如を尋ねます。
そして上半身裸で、自分のこれまでの非礼を謝罪(上半身裸での謝罪は、日本で言うところの土下座)
「愚かな私は藺相如さまの心を知らず、これまで非礼を働き続けました。
どうかこの茨のムチで、私を打ちつけてください」
これを聞いた藺相如は
「廉頗将軍あっての趙国なのです。」
と廉頗を讃えます。それに対して廉頗は
「あなたのためなら、私はこの頸(けい・首)を刎(は)ねられても悔いはありません。」
藺相如も
「私も廉頗将軍のためなら、喜んでこの頸を捧げましょう」
と応え、両者はその後、共に支え合い、強国「秦」の圧力に立ち向かったのです。
後世二人の関係を「刎頸(ふんけい)の交わり」と呼んだのでした。
古代中国には「〇〇の交わり」という友情を讃える言葉がたくさんあります。
劉備と諸葛亮の「水魚の交わり」や、管仲と鮑叔の「管鮑の交わり」など・・・。
そのうちの一つ「刎頸の交わり」とは、「友のためなら首を刎ねられても悔いはない」というほど親しい関係のことを言うのです。
『廉頗』の活躍
歴史に名を残した名将「廉頗」の活躍をご紹介いたします。
長平の戦い
趙国の名将「廉頗」と「藺相如」が健在である間、最強国「秦」は、趙国を侵略できなかった・・・と歴史には記されています。廉頗はたびたび「秦」と戦い、その領土を奪う活躍を見せています。
しかし、藺相如が病気で伏せるようになると、秦国は将軍「王齕(おうこつ・王騎と同一人物説あり)」に命令して、大軍で趙国の侵略を開始。
廉頗は、45万の大軍団を率いて迎撃。
45万の大軍団を率いているにもかかわらず、安全策をとって出撃せず、要塞を作り上げて、防御に徹します。
2年かかっても廉頗を倒せず、苦しんだ秦国は作戦変更。
王齕から、最強の武将「白起」に交代し、策略を駆使して名将「廉頗」を愚かな武将「趙括」に交代させます。
これにより趙軍は大敗北。45万の趙軍は捕らえられ、少年兵・数百名を除いて全員が生き埋めとなり、強国「趙」は一気に衰退するのでした。
秦国は、廉頗の持久戦に苦しみ、崩壊寸前の状態でした。もしも廉頗が司令官を続けていたら、「長平の虐殺」は起こらなかったかもしれません。
この長平の戦い直後、趙の隣国「燕」が攻め込んできますが、廉頗はこれを撃破してさらに燕の都「薊(けい・現在の北京)」を陥落寸前まで追い詰めて、趙国の危機を救っています。
亡命
紀元前245年、廉頗は魏を攻略しましたが、その時「廉頗」と仲が悪かった「悼襄王(とうじょうおう)」が即位し、廉頗を罷免。
これに廉頗が激怒。廉頗と交代するために前線へきた友軍の将「楽乗」を撃破します。
春秋戦国時代中期ごろ、当時の大陸には代表的な名将が二人いました。
秦の「白起」と、燕の「楽毅」です。
楽乗は、その名将「楽毅」の親戚であり、弟子であったと考えられています。
廉頗はそのまま、敵国であった「魏」へ亡命。敵対関係にあったためか、魏で重く用いられることはなく、その後「楚」へ亡命しています。
ちなみに「悼襄王」は、漫画「キングダム」で、「趙国が滅びようとも知ったことではない」と豪語する暴君。しかし史実では「李牧」「龐煖(ほうけん)」「司馬尚」などを見出した人を見る目のある王です。暗君であることは間違いありませんが、それほどのバカ殿というわけではありません。
最期
趙国は秦国に追い詰められ、亡命していた廉頗を呼び戻そうと画策します。
廉頗は喜び、馬を乗りこなし、2kg以上の肉と10升の米を平らげる姿を、使者に見せました。
趙国には「郭開」という、廉頗と仲が悪かった奸臣がいました。この「郭開」の工作により、使者は趙国の王に対して「廉頗は対話中に3度も失禁した」と報告。
これを聞いた悼襄王は、廉頗が高齢になって使い物にならないと諦めてしまいます。廉頗は「趙軍を指揮したい」と嘆きながら「楚国」の都市「寿春」で亡くなります。
そして紀元前228年、名将「李牧」が「郭開」の讒言に騙された趙王に処刑され、その3か月後、趙国は滅亡するのでした。
『趙奢』の活躍
趙国において、秦軍を打ち破った名将「趙奢」の活躍を紹介いたします。
閼与の戦い
趙奢はもともと軍人ではなく、税金を集める徴税官(ちょうぜいかん)でした。ある時、「恵文王」の弟「平原君」の家の人間を、「脱税」の疑いで処刑。抗議に来た平原君に反論し、かえって見込まれてスカウトされます。
趙奢は将軍としても「斉の国」を撃退するなど、大活躍。
紀元前269年、秦国の将軍「胡昜(こしょう)」が「閼与(あつよ)」へ進軍。名将「廉頗」や「楽乗」ですら、このとき秦軍を撃破することは出来ない・・・と王に進言しています。しかし「趙奢」だけは、勝てると進言し、出撃。
趙奢は砦をつくって守備に徹すると見せかけて、秦軍へ猛攻。秦軍を撃退することに成功。
これに喜んだ趙の「恵文王」は、趙奢を「馬服君」という諸侯に任命します。こうして趙奢は、「藺相如」「廉頗」と並ぶ地位に出世。この三人が健在であった間、秦国も趙国へ攻め込むことが出来ませんでした。
大失敗した趙奢の息子『趙括』
名将「趙奢」には、二人の息子がいました。「趙括」と「趙牧」。趙牧はそれほど有名ではありませんが、趙括はかなり有名です。
この趙括は、「紙上に兵を談ず」という「ことわざ」のもととなった人物です。意味は「丸暗記するだけで、応用が効かない」ということ。
趙括は若い頃、父・趙奢と兵法について議論すると、名将「趙奢」すらも勝てない程の兵法の知識を発揮しました。しかし「趙奢」はこれを評価せず、「藺相如」も「趙括は兵法書を丸暗記しているだけの凡将」と酷評していました。
この「趙括」が、「長平の戦い」で「廉頗」に変わって趙軍45万の総大将となり、名将「白起」に大敗北して戦死。45万の軍団は生き埋めにされて全滅。趙国の国力は一気に減少します。
趙括の母は、夫「趙奢」が「趙括に軍を率いさせてはならない」という遺言に従い、王に「趙括が負けても、家族に対しては罪を問わない」という約束を取り付けていた為、連座の罪を免れました。
三国志で活躍した「趙奢」の子孫たち
人気小説「三国志」。その三国志に「趙奢」の末裔が登場します。西涼の武将「馬騰」とその息子・五虎大将の一人「馬超」。
趙奢は「馬服君」に任命されていたため、「馬」の文字を姓としたのです。
馬超の先祖で、趙奢の子孫に「馬援」という有名人がいます。後漢の初代皇帝「劉秀」に仕え、ベトナム北部の「徴姉妹」による反乱を鎮圧した名将。(徴姉妹は現在のベトナムで英雄として祀られている)
この馬援の娘が、皇帝「劉秀」の息子である二代皇帝「明帝」の「皇后」となっています。「馬皇后」は歴史上屈指の賢人と呼ばれる人物。この「馬皇后」の従姉妹に当たる「賈貴人」が、3代皇帝「章帝」を産んでおり、馬皇后が「章帝」を後見。その後「章帝」は馬皇后を皇太后にしています。
「趙奢」の子孫である「馬皇后」が後見した三代皇帝「章帝」の末裔が、三国志に登場する最期の後漢皇帝「献帝」。
「献帝」は趙奢の血を引いているわけではありません。しかし、趙奢の末裔「馬皇后」が「章帝」を後見していなかったら、もしかしたら「献帝」は産まれていなかったかもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・「三大天」というのは漫画「キングダム」の創作
・しかし「藺相如」「廉頗」「趙奢」が趙国を守っている間、秦国も趙国に手出しできなかった
・趙奢の息子「趙括」は、「長平の戦い」で大敗北し、末裔「馬援」「馬騰」「馬超」は、その後の歴史で活躍している
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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ありがとうございました
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