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【キングダム】趙国三大天の史実と最後!李牧・龐煖・司馬尚は実在?

大人気漫画キングダムに登場する趙国の三大天は、秦の六大将軍と並ぶ最強軍団として描かれています。

李牧や龐煖、そして司馬尚といった武将たちが、主人公・信たちの前に立ちはだかり、幾度となく秦軍を苦しめてきました。

しかし、この趙国三大天は本当に実在したのでしょうか。

また、史実における彼らの活躍や最後はどのようなものだったのでしょうか。

漫画と史実では大きく異なる部分も多く、特に龐煖の人物像や、李牧の悲劇的な最期については、知れば知るほどキングダムの世界観が深まります。

趙国が秦による中華統一をここまで阻めた理由、そして滅亡へと転落した原因も、三大天の存在と密接に関係しているのです。

この記事のポイント
  • 趙国三大天が史実に存在したかどうかの真相
  • 李牧・龐煖・司馬尚の実際の活躍と最期
  • 旧三大天である廉頗・藺相如・趙奢の功績
  • 趙国が滅亡した本当の理由と三大天との関係

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目次

そもそも「趙の三大天」とは何か?キングダムと史実の決定的違い

項目漫画キングダム史実
三大天の制度明確に存在制度としては存在せず
旧三大天廉頗・藺相如・趙奢同時期の名将として活躍
新三大天李牧・龐煖・司馬尚李牧と司馬尚は実在、龐煖は別人格の可能性
趙国の滅亡紀元前228年紀元前228年(一致)

漫画キングダムにおける定義!秦の六大将軍と並ぶ中華の脅威

漫画キングダムにおいて、趙国三大天は秦の六大将軍制度に対抗する最高軍事機関として描かれています。六大将軍が王命なしに自由に戦争を行える権限を持っていたのと同様に、三大天も趙王から絶大な信頼と権限を与えられた存在として設定されているのです。

作中では、かつての六大将軍である王騎が龐煖に討たれるシーンや、李牧が秦軍の進軍を何度も阻むエピソードが描かれ、三大天の恐ろしさが強調されています。秦の将軍たちが三大天の名を口にするだけで緊張感が走るほど、その武名は中華全土に轟いていました。

特に注目すべきは、三大天が単なる武力だけでなく、知略や政治力も兼ね備えた総合的な能力を持つ存在として描かれている点です。李牧は宰相としての顔も持ち、龐煖は武神としての求道者、そして司馬尚は青歌という独自の勢力を保つ地方軍閥的な存在として、それぞれ異なる魅力を放っています。

史実考察:三大天という称号は実在したのか?歴史書『史記』の記述

結論から申し上げますと、三大天という明確な称号や制度は史実には存在しませんでした。これは秦の六大将軍と同様に、原泰久先生による創作要素なのです。

しかし、司馬遷が著した歴史書『史記』の「廉頗藺相如列伝」を見ると、廉頗、藺相如、趙奢の三名が並び立つ英雄として記述されています。この三名は趙の恵文王から孝成王の時代において、それぞれ武勇、外交、軍略の分野で国家を支えた柱であり、後世の人々から趙の黄金期を象徴する存在として語り継がれてきました。

つまり、三大天という呼称こそ創作ですが、そのモデルとなった実在の名将たちが確かに存在し、趙国の命運を握っていたというのが歴史的事実なのです。原先生は史実における趙の名将たちを、秦の六大将軍に対抗する存在として再構成し、物語に深みを与えたわけですね。


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なぜ趙国だけが秦国の侵攻を長期間食い止められたのか?

戦国七雄の中で、趙国は最も長く秦の統一事業に抵抗した国の一つです。その理由は地政学的条件と、優秀な人材の存在にありました。

地政学的優位性

趙国は北に匈奴、西に秦、東に斉、南に魏・韓と接する四戦の地でした。この厳しい環境が、趙に高度な軍事力を育てる結果となったのです。特に北方の匈奴との戦いを通じて、趙軍は優れた騎兵戦術を身につけており、これが秦の重装歩兵に対する有効な対抗手段となりました。

また、趙の都である邯鄲は天然の要害に守られており、秦軍が何度攻めても陥落させることができませんでした。長平の戦いで40万の兵を失った後でさえ、趙は邯鄲を守り抜いたのです。

武霊王の胡服騎射改革

趙の軍事的強さの基盤を作ったのが、武霊王による胡服騎射の改革でした。従来の中華の戦車中心の戦術を捨て、北方遊牧民の機動的な騎兵戦術を取り入れたこの改革により、趙は戦国最強の騎兵部隊を持つようになったのです。

この騎兵戦術の伝統が、後に李牧や司馬尚といった名将によって完成され、秦軍を何度も撃退する原動力となりました。人材と戦術、そして地理的条件が組み合わさった結果、趙は秦に対抗できる唯一の国となったのです。


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旧三大天:伝説の英雄たち!廉頗・藺相如・趙奢の功績と実力

人物名専門分野代表的功績最期
廉頗武勇・野戦指揮秦軍を何度も撃退魏への亡命後、楚で病死
藺相如外交・弁論完璧・澠池の会での活躍病死(詳細不明)
趙奢軍略・法治閼与の戦いで秦軍撃破病死

廉頗:正面から秦の六将と渡り合った歴戦の猛将

廉頗
引用元「Wikipediaコモンズ」より

廉頗は趙の恵文王、孝成王、悼襄王の三代に仕えた名将で、その武勇は秦の白起や王齕と並び称されるほどでした。彼の戦歴を見ると、斉を破り、魏を攻め、燕を撃退するなど、趙の領土拡大に大きく貢献しています。

特に注目すべきは、長平の戦いの初期段階で廉頗が採用した持久戦略です。秦の遠征軍は本国から遠く離れた地で戦っており、補給線が伸びきっていました。廉頗はこれを見抜き、堅固な防御陣地を築いて秦軍の攻勢を凌ぎ続けたのです。

この戦略は確実に機能しており、あと数ヶ月も持ちこたえれば秦軍は自ら撤退せざるを得ない状況でした。しかし、秦の離間の計により、趙王は廉頗を解任し、趙括を総大将に任命してしまいます。この人事が40万人の悲劇を生むことになるのです。

晩年の廉頗は趙王から疎まれ、魏へ、そして楚へと亡命を余儀なくされました。趙が滅亡の危機に瀕したとき、趙王は廉頗を呼び戻そうとしますが、奸臣・郭開の妨害により実現しませんでした。もし廉頗が戻っていれば、趙の運命は変わっていたかもしれません。

廉頗と藺相如の関係性についてさらに詳しく知りたい方は、こちらの記事もご覧ください。

廉頗と藺相如の史実と最後!キングダム三大天と刎頸の交わりを解説


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藺相如:言葉一つで国を守った智謀の巨人

藺相如は趙の外交官として、二つの伝説的なエピソードで知られています。一つは完璧の故事、もう一つは澠池の会での活躍です。

完璧:命がけで和氏の璧を守り抜いた知恵

趙が所有していた名玉・和氏の璧を、秦の昭王が城15座と交換したいと申し出てきました。しかし、これは明らかに罠でした。璧だけを奪い取り、城を渡さないつもりだったのです。

藺相如は璧を持って秦に赴きましたが、昭王に城を渡す意思がないことを見抜きます。そこで藺相如は、璧に傷があると偽り、璧を取り返すと柱に背を向けて立ち、「この璧と共に砕け散ります」と宣言したのです。

昭王は藺相如の気迫に圧倒され、結局、璧を無傷で趙に持ち帰ることを許しました。この故事から、完璧という言葉が生まれ、欠点のない完全な状態を指すようになったのです。

澠池の会:秦王を屈服させた胆力

秦の昭王が趙の恵文王を澠池に招いた際、宴の席で秦王は趙王に琴を弾かせ、屈辱を与えようとしました。藺相如はこれを見て激怒し、甕を秦王の前に置いて「秦王も甕を叩いてください」と迫ったのです。

秦の臣下たちが怒り狂う中、藺相如は「五歩以内で秦王の血を濺がせます」と宣言し、一歩も引きませんでした。結局、秦王は折れて甕を叩かざるを得なくなり、趙の面目は保たれたのです。

廉頗と藺相如の絆:刎頸の交わりのエピソードを解説

武勇に優れた廉頗は、当初、文官出身の藺相如が自分より高い地位に就いたことを快く思っていませんでした。「次に藺相如に会ったら、必ず辱めてやる」と公言するほどだったのです。

これを聞いた藺相如は、廉頗との対面を避けるようになりました。部下たちが「臆病者だ」と非難すると、藺相如は次のように答えました。

私が秦王すら恐れなかったのは、強大な秦を前にして趙を守るためです。今、私と廉頗将軍が対立すれば、趙は滅びてしまいます。国家の利益を優先するからこそ、私は廉頗将軍を避けているのです

この言葉を聞いた廉頗は深く恥じ入り、上半身裸になって荊の枝を背負い、藺相如の屋敷を訪れて謝罪しました。これが刎頸の交わりの始まりです。首を刎ねられても悔いのない友人という意味で、生涯の親友を指す言葉として現代まで語り継がれています


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趙奢:文官出身?狭路の戦いで見せた天才的な軍略

趙奢は、他の二人とは異なる経歴を持つ異色の名将です。元々は徴税官という文官職からキャリアをスタートさせ、その手腕が認められて軍の指揮官に抜擢されたという、極めて珍しいタイプの武将でした。

平原君の家臣9名を処刑した逸話

趙奢が田部の吏として徴税業務を行っていた際、趙王の弟であり、戦国四君のひとりである平原君の家臣たちが納税を拒否する事件が起きました。趙奢は法に従い、家臣9名を処刑しました。

激怒した平原君は趙奢を殺そうとしましたが、趙奢は恐れず次のように説きました。「貴方のような高貴な方が法を守らなければ、法は力を失います。法が弱まれば国は乱れ、秦などの諸侯が侵攻してきます。そうなれば、貴方の富も地位も守れなくなるのです」。

この論理的な説得に平原君は感服し、趙奢を趙王に推挙しました。法治こそが国家安全保障の基盤であるという趙奢の思想は、極めて先進的なものでした。

閼与の戦い:心理戦の極致

紀元前269年、秦軍が韓の閼与を包囲した際、廉頗でさえ「道が険しく救援は不可能」と判断しました。しかし趙奢は、「狭路相逢勇者勝(狭い道で出会ったなら、勇敢な方が勝つ)」と断じて出兵しました。

趙奢の作戦は以下の通りです。

  • 情報の遮断と欺瞞:邯鄲を出てすぐ陣を敷き、28日間動きませんでした。秦の間諜には「趙は救援を諦めた」と思い込ませたのです
  • 電撃戦:秦軍が油断した隙を突き、全軍を急行させ、わずか2日で閼与に到達しました
  • 高地の先取:敵より先に北山という高地を占拠し、後から到着した秦軍を高地から攻撃して大勝しました

この勝利により、趙奢は馬服君の称号を得て、廉頗・藺相如と同等の地位に列せられました。常識を逆手に取り、敵の心理を操作する彼の戦術は、後の李牧の戦術思想にも通じるものがあります。

筆者の意見でしかありませんが、史実上の廉頗や藺相如に比べても、趙奢がもっとも強いと思います。なぜなら、廉頗が不可能だと断言した閼与への救援を実現させたからです。もしも、趙奢が廉頗より長く生きていたならば、李牧と協力して、秦の圧力を跳ね返し、もっと長く趙国を守っていたかもしれません。

余談ですが、趙奢の子孫はこのときにもらった馬服君の称号の頭文字である「馬」の一文字を姓としました。子孫の一人である馬援は、後漢を建国した光武帝に仕え、南蛮征伐を成功させました。その馬援の子孫が、三国志活躍した馬騰・馬超・馬岱なのです。

趙奢の軍事的天才性についてもっと知りたい方は、こちらの記事が参考になります。【キングダム】趙奢こそが三大天最強!愚将「趙括」との逸話がスゴイ


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新三大天・李牧:趙国最後の守護神にして悲劇の宰相

李牧の役職活躍内容時期
雁門太守匈奴10万騎を殲滅紀元前244年頃
対秦将軍肥下の戦いで桓騎を撃破紀元前233年
宰相兼任軍事・政治の両面で趙を統括紀元前232-229年
処刑郭開の讒言により粛清紀元前229年

キングダムのラスボス!秦王・嬴政と信を最も苦しめた男

漫画キングダムにおいて、李牧は事実上のラスボスとして描かれています。冷静沈着な知将でありながら、戦場では的確な判断で秦軍を翻弄し、政と信の前に何度も立ちはだかる存在です。

特に印象的なのは、合従軍編での李牧の活躍です。函谷関の戦いで秦軍を追い詰め、あと一歩のところまで追い込みました。また、趙国内部では宰相として政治的な手腕も発揮し、軍事と政治の両面で趙を支える柱として描かれています。

李牧の戦術の特徴は、圧倒的な情報収集能力と、長期的視野に立った戦略構築にあります。彼は決して無謀な戦いはせず、勝算が立つまで徹底的に準備を重ね、一度戦いを始めたら確実に勝利を掴み取るという、まさに完璧な将軍として描かれているのです。


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史実の李牧:北方の守り「雁門」で匈奴を殲滅した驚愕の戦術

史実における李牧のキャリアの前半は、代・雁門における対匈奴防衛戦に費やされました。漫画では当初から中央の宰相として登場しますが、実際には地方の軍政官としての実績が彼の基盤となっているのです。

焦土戦術と経済基盤の保護

李牧は、匈奴が来襲すると直ちに兵と民を城内に収容し、絶対に戦わないよう厳命しました。これにより、家畜や農作物の略奪を防ぎ、経済力を蓄えたのです。

さらに注目すべきは、関所の収益を全て軍の維持と兵士の待遇改善に充てたことです。史書によれば、李牧は毎日牛を屠って兵士たちに振る舞い、士気を高めていたとされています。この手厚い待遇により、兵士たちは李牧を深く信頼し、命を賭けて戦う覚悟を持つようになりました。

誘引と殲滅:10万騎を葬った完璧な罠

数年間、一度も戦わない李牧に対し、兵士たちは「戦いたい」と懇願し、匈奴は李牧を「臆病者」と侮るようになりました。しかし、これこそが李牧の狙いだったのです。

李牧は敵が完全に油断したタイミングを見計らい、一転して大規模な反撃に出ました。奇策(伏兵と左右の包囲戦術)を用い、匈奴10万騎を殲滅したのです。この勝利により、その後10年以上、匈奴は趙の国境に近づかなくなりました。

この「守りに徹して敵を驕らせ、機を見て一撃で殲滅する」というスタイルは、後の対秦戦でも再現される李牧の必勝パターンとなりました。

桓騎を討ち取った肥下の戦いの真実とは

紀元前233年、李牧と桓騎の決戦は、秦の統一戦争において数少ない秦軍の壊滅的敗北となりました。

背景:平陽の大虐殺

桓騎は平陽の戦いで趙将・扈輒を討ち、首10万を斬るという凄惨な戦果を挙げていました。この残虐行為により、趙は滅亡の危機に瀕し、北辺から李牧を呼び寄せる決断を下したのです。

李牧の戦略:持久戦と逆襲

李牧は肥下に陣を敷き、長距離遠征で疲弊している秦軍に対し、徹底した持久戦(深溝高塁)を行いました。桓騎は李牧を誘い出すために別の拠点を攻撃しましたが、李牧は動きませんでした。

そして李牧は、桓騎軍の主力が手薄になった隙を突き、逆に秦軍の本陣を急襲しました。慌てて戻ってきた桓騎軍を、李牧は野戦で包囲殲滅したのです。

桓騎の最期:戦死か逃亡か

桓騎の最期については、史料によって記述が異なります。『戦国策』では「李牧に討ち取られた」とされ、『史記』では「敗走した」と記されています。

さらに興味深いのは、楊寛という歴史学者による「桓騎=樊於期同一人物説」です。この説によれば、桓騎は敗走後、処罰を恐れて燕へ亡命し、樊於期と名を変えたとされています。樊於期は後に、秦王政暗殺を企てる刺客・荊軻に対し、自らの首を差し出した人物として知られています。

もしこの説が正しければ、桓騎は最後まで秦への復讐を諦めなかったことになり、彼の人生に壮絶なドラマ性が加わることになります。


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処刑の真相:名将を殺したのは敵国ではなく愚王と奸臣だった

李牧の死は、戦場ではなく、味方の裏切りによってもたらされました。紀元前229年、秦の王翦は李牧を正面から破ることは不可能と悟り、趙の奸臣・郭開に巨額の賄賂を贈り、離間の計を用いました。

「李牧と司馬尚が謀反を企てている」という讒言を信じた幽繆王は、李牧の更迭を命じました

李牧は「戦いの中途で将を変えることは国家の破滅だ」として王命を拒否しました。そのため密かに捕らえられ、斬首されたと『史記』には記されています。

しかし、『戦国策』には異なる記述があります。処刑の命を知った李牧は自害を試みましたが、彼は右腕が不自由(曲がって伸びない)であったため剣で首を刎ねることができず、剣を口にくわえて柱に突き刺さるという壮絶な方法で自害したとされているのです。

キングダムでは李牧は五体満足な武人として描かれていますが、史実では身体的不具を抱えながら最強の将軍であった可能性があります。この事実は、彼の精神的な強靭さをより強調する要素と言えるでしょう。

李牧の悲劇的な最期についてより詳しく知りたい方は、こちらの記事をご覧ください。【キングダム】李牧の死因と最後!誰に殺されるのか?

李牧の死後、趙国はどのようにして滅亡へと向かったのか

李牧が処刑されると同時に、司馬尚も罷免されました。この二人の退場により、趙の組織的抵抗は完全に終了したのです。

李牧を失った趙軍は、わずか数ヶ月で秦軍に蹂躙されました。紀元前228年、都・邯鄲は陥落し、幽繆王は捕虜となりました。趙の公子・嘉が代に逃れて抵抗を続けましたが、紀元前222年に完全に滅ぼされ、趙国は歴史から姿を消したのです。

もし李牧が生きていれば、秦による中華統一は少なくとも数年は遅れたと多くの歴史家が指摘しています。それほどまでに、李牧は趙国にとってかけがえのない存在だったのです。

余談ですが、李牧には李左車(りさしゃ)という孫がいました。李左車は、始皇帝死後に復活した趙国の将軍となり、漢の国の王・劉邦の部下だった名将・韓信と戦い敗北。日本でも有名な「敗軍の将は兵を語らず」という名言を残しました。ところが、優秀な李左車に今後の方針をどうすべきか尋ね続けた韓信は、李左車の意見を採用し、勢力拡大に成功。李牧とともに李信を苦しめた楚の国の猛将・項燕大将軍の孫である項羽(本名・項籍)を撃破し、劉邦に天下を取らせることに成功したのです。李牧の孫が、劉邦と韓信に力を貸し、項燕の孫を打ち砕くこととなったのです。


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新三大天・龐煖:自らを「武神」と称する求道者の正体

漫画の龐煖史実の龐煖
言葉少ない武神
個人の武力を極限まで追求
王騎を討ち取る
信との一騎打ちで死亡
道家思想家の可能性
戦わずして勝つを説く
合従軍の総司令官
死亡記録なし

キングダム最強の武力!王騎を討ち、信と死闘を繰り広げた荒ぶる神

漫画キングダムにおける龐煖は、圧倒的な個人武力を誇る武神として描かれています。言葉少なく、ただ強さを求めて戦場を彷徨う求道者というキャラクター設定は、多くの読者に強烈な印象を与えました。

特に衝撃的だったのは、秦の六大将軍筆頭である王騎を討ち取ったシーンです。王騎の最期は、キングダム屈指の名場面として語り継がれており、龐煖の恐ろしさを読者に強く印象づけました。

また、主人公・信との因縁も物語の重要な軸となっています。王騎の仇である龐煖を倒すことが、信の大きな目標の一つとなっており、二人の最終決戦は物語のクライマックスの一つとして描かれました。


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史実の龐煖:武人ではなく哲学者?縦横家としての意外な側面

キングダムの龐煖は言葉少ない武神ですが、史実の龐煖は極めて知的な人物であった可能性が高いのです。

思想家としての龐煖

道家思想の書『鶡冠子』の著者は楚の隠者とされますが、その中に登場する「龐子」は龐煖であると考えられています。彼は趙の悼襄王と政治や軍事について高度な哲学的対話を行っているのです。

最高の医者は病が形になる前に治すが、それ故に名が知られない。戦争も同様に、百戦百勝よりも戦わずして陰謀を未然に防ぐ者が最上である

このように、『鶡冠子』において龐煖は「戦わずして勝つ」という思想を説いています。これはキングダムで描かれる「敵を物理的に粉砕する」キャラクターとは正反対の思想なのです。

また、龐煖は「縦横家」「兵家」「道家」といった複数の分野に精通していたとされ、単なる武人ではなく、高度な教養を持つ知識人であった可能性が指摘されています。

劇辛を討つ!燕国との戦いで見せた将軍としての実力

紀元前242年、燕の名将・劇辛が趙に侵攻してきました。劇辛は若い頃、趙で龐煖と共に学んだ旧友でしたが、趙を去って燕に仕えていたのです。

燕王は劇辛に「龐煖の実力はどの程度か」と尋ねました。劇辛は「龐煖は容易に破れます」と答え、大軍を率いて趙に攻め込みました。

しかし、龐煖は劇辛軍を完全に包囲し、劇辛を討ち取りました。旧友を破ったこの戦いにより、龐煖の名声は一層高まったのです。

合従軍の総大将は史実でも龐煖だった!その勝敗と結末

紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕の五カ国による合従軍が秦を攻めた際、その総司令官を務めたのは龐煖でした。

漫画キングダムでは李牧が主導し、楚の春申君が総司令官となっていますが、史実では龐煖が軍事的な主導権を握っていたとされます。これは、龐煖が単なる個人の武勇だけでなく、多国籍軍を統率する政治力と戦略眼を持っていたことを示しています。

合従軍は函谷関を攻めましたが、秦の堅固な防御を破ることはできませんでした。龐煖は目標を斉の都市・蕞に切り替えて占領しましたが、最終的には合従軍は解散し、秦を倒すという目的は達成できませんでした。

史実における龐煖の最後:死亡記述がないまま歴史から消えた謎

興味深いことに、龐煖の死亡時期や死因について、『史記』や『戦国策』には明確な記述がありません。合従軍の戦いの後、龐煖は歴史の記録から忽然と姿を消してしまうのです。

いくつかの仮説が存在します。

  • 病死説:記録に残らないまま病没した
  • 失脚説:合従軍の失敗により失脚し、隠遁した
  • 粛清説:趙王により密かに粛清された
  • 別人説:将軍の龐煖と思想家の龐煖は実は別人である

漫画では信に討たれるという劇的な最期を迎えますが、史実では謎に包まれたまま歴史から消えた人物なのです。この謎めいた最期も、龐煖という人物の不思議な魅力を際立たせています。

龐煖の実像についてさらに詳しく知りたい方は、こちらの記事をご覧ください。龐煖(ほうけん)の史実とは?将軍としての強さと最期を簡単に解説


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新三大天・司馬尚:青歌に隠れた「謎の虎」の実像

司馬氏の系譜時代功績
司馬尚戦国末期(趙)李牧と共に秦軍と戦う
司馬卬秦末〜漢初殷王に封じられる
司馬懿三国時代(魏)司馬卬の12世の孫、晋の基礎を築く
司馬炎三国末期〜晋晋を建国し中華統一

キングダムでの衝撃的登場!李牧が三大天に推挙した男

漫画キングダムにおいて、司馬尚は青歌という都市の城主として描かれ、中央政府(邯鄲)の腐敗を嫌って独自の勢力を保っている設定となっています。

李牧でさえ制御しきれない強大な武力を持つ存在として描かれており、その登場は読者に大きな衝撃を与えました。趙国最後の切り札として、今後の物語でどのような活躍を見せるのか、多くの読者が注目しています。

この「中央への不信感」と「地方軍閥的な独立性」という設定は、戦国時代末期の趙が抱えていた国内の分裂という史実的背景を巧みに反映したものと言えるでしょう。

史実の司馬尚:李牧の副将として秦軍を何度も撃退した実力者

史実における司馬尚は、李牧と共に趙の最期を支えた将軍として名が残っていますが、その具体的な戦歴に関する記述は極めて少ないのです。

『史記』によれば、紀元前229年、秦の王翦・楊端和らが趙を攻めた際、李牧と共に迎撃に出たのが司馬尚でした。二人は緊密に連携し、秦軍の進軍を阻んでいましたが、郭開の讒言により李牧が処刑された際、司馬尚も同時に罷免されました。

司馬尚の退場と共に、趙の組織的抵抗は終了しました。このことから、司馬尚が李牧に匹敵するか、それに準ずる重要な将軍であったことは間違いありません。


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司馬尚の最後:李牧の処刑に巻き込まれた悲運の将軍

司馬尚の最後については、史料により若干の違いがあります。

『史記』では、李牧が処刑された際に「罷免された」とあり、殺害されたとは明記されていません。一方、他の史料では李牧と共に処刑されたとする記述もあります。

いずれにせよ、司馬尚は李牧の処刑と運命を共にし、趙国滅亡の直前に政治的に抹殺されたことは確実です。もし郭開の讒言がなければ、李牧と司馬尚のコンビは秦の統一事業をさらに遅らせることができたでしょう。

その後の司馬家:司馬尚の血脈は司馬懿仲達へと繋がるのか?

司馬懿仲達
引用元「Wikipediaコモンズ」より

司馬尚と司馬懿の関係については、系譜学的な観点から非常に興味深い事実が浮かび上がります。

『晋書』宣帝紀によれば、三国時代の魏の軍師であり、後の晋王朝の基礎を築いた司馬懿(仲達)は、趙の将軍であった司馬卬(しばこう)の12世の孫にあたるとされています。司馬卬は趙の滅亡後、秦末の動乱期に活躍し、項羽によって殷王に封じられた人物です。

司馬尚と司馬卬の直接的な親子関係を明記した一次史料は少ないですが、同じ時代、同じ趙の領域(河内郡)で活躍した同族の将軍であることはほぼ間違いありません。

歴史の流れとして、「司馬尚(趙の滅亡と共に消える)→ 司馬卬(秦末に再起し王となる)→ 司馬懿(三国時代に覇権を握り、孫が晋を建国して天下統一)」という壮大なリレーが見て取れます。つまり、司馬尚が守り抜こうとした「趙の武」のDNAは、数百年後に司馬懿によって成就され、中華を統一することになるのです。

司馬尚と司馬懿の関係についてさらに詳しく知りたい方は、こちらの記事をご覧ください。キングダム・司馬尚をwiki風解説!三国志の司馬懿・司馬炎の先祖


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議論の的!「三大天」最後の一席は誰の手に?候補者を徹底検証

候補者史実での評価三大天になれなかった理由(考察)
趙括紙上談兵(理論倒れ)実績不足と長平での大敗
楽乗名将だが廉頗に敗れる亡命により趙を去ったため
慶舎李牧の副将クラス三大天に匹敵する単独の実績不足

最有力候補?趙奢の息子・趙括が選ばれなかった理由

趙奢の息子である趙括は、父の兵法書を読み漁り、議論においては父をも打ち負かすほどの理論家でした。しかし、父の趙奢は妻に対して「軍隊の指揮は命がけの仕事だが、括はこれを安易に語る。趙が括を将軍にすれば、必ず軍を破滅させるだろう」と予言していました。

趙括は「紙上談兵(机上の空論)」という言葉の由来となった人物であり、実戦経験の欠如が最大の弱点でした。もし彼が経験を積み、父のような慎重さを持っていれば、三大天の一角を担う存在になれたかもしれません。

長平の戦いの悲劇:40万人を生き埋めにされた敗因は趙括にあるのか

紀元前260年、趙括は長平の戦いで秦の白起に大敗しました。功を焦った趙括は全軍で攻勢に出ましたが、白起の偽装退却に誘い出され、補給路を断たれて包囲されました。46日間の包囲の後、趙括は戦死し、降伏した趙兵40万人は生き埋めにされました。

近年の考古学的調査でも、長平古戦場から大量の人骨が出土しており、大規模な殺戮があったことは史実とされています。

敗因の全てを趙括に押し付けるのは酷かもしれませんが、彼の功名心と経験不足が、趙国の青壮年男子を全滅させ、国力を回復不能なまでに低下させたことは否定できない事実です。


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慶舎や楽乗:史実の名将たちは三大天になり得たか

キングダムに登場する慶舎や、史実に名の残る楽乗なども、趙の名将として知られています。

楽乗は、廉頗が魏に亡命する原因となった戦いで廉頗に敗れ、自身も趙を去りました。このため、三大天として定着することはできませんでした。慶舎については、李牧や龐煖に次ぐ実力者として描かれていますが、単独で戦局を覆すほどの「怪物性」には欠ける印象があります。

キングダム本編での予想:今後「新・新三大天」が誕生する可能性はあるか

現在、キングダムの物語は趙滅亡への最終局面に差し掛かっています。李牧と司馬尚が健在である以上、新たな三大天が任命される可能性は低いでしょう。

しかし、趙の公子・嘉が代に逃れて抵抗を続ける「代」の時代になれば、新たな体制の下で、最後の抵抗を指揮する将軍たちが「最後の三大天」と呼ばれる展開があるかもしれません。

なぜ人材の宝庫「趙」は滅びたのか?秦国との決定的な差

要因秦国趙国
君主嬴政(始皇帝):実力主義で人材登用悼襄王・幽繆王:奸臣を重用し名将を粛清
家臣李斯・王翦など多士済々郭開など腐敗した奸臣が実権を握る
戦略法治国家としてのシステム化個人の才能(李牧ら)への過度な依存

王の器の違い:秦王・嬴政と、趙の悼襄王・幽繆王の暗愚さ

趙が滅びた最大の理由は、王の器の違いにあります。秦王・嬴政は、敵国の出身者であっても有能であれば積極的に登用し、王翦のような危険な将軍も使いこなす度量を持っていました。

一方、趙の悼襄王や幽繆王は、讒言を信じやすく、保身に走る傾向がありました。廉頗を追い出し、李牧を処刑するという自滅的な行動は、まさに王としての資質の欠如を示しています。どれほど優れた現場の指揮官がいても、トップが無能であれば組織は勝てないという歴史の教訓です。


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国を内側から食い破る「邯鄲の虫」!郭開という史上最悪の奸臣

趙の滅亡を決定づけたのは、秦の武力よりもむしろ郭開という一人の奸臣でした。彼は李牧を死に追いやっただけでなく、それ以前には名将・廉頗が趙に復帰する道を閉ざしています。

郭開が秦から賄賂を受け取り、国を売るような行為を繰り返したことは史実です。秦は、軍事費と同等かそれ以上の資金を対外工作(買収・離間)に投じていました。王翦が「李牧がいる限り勝てない」と判断するや否や、即座に郭開への工作に切り替えたリアリズムこそが、秦が勝者となった最大の要因でしょう。

もし李牧と司馬尚が生きていたら、秦による中華統一は失敗していた?

歴史に「もし」は禁物ですが、多くの歴史ファンが想像するテーマです。もし李牧と司馬尚が粛清されず、趙の軍権を握り続けていたら、秦は趙を攻略するのにさらに数年、あるいは十数年を要した可能性があります。

秦の国力も無限ではありません。長引く戦争で国内に不満が溜まり、他国の介入を招けば、中華統一の夢は潰えていたかもしれません。李牧と司馬尚の存在は、それほどまでに歴史の分岐点となる重みを持っていたのです。


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まとめ

趙国三大天は、滅びゆく国の最後の輝きを象徴する存在でした。漫画キングダムと史実を比較することで、彼らの悲劇性と偉大さがより鮮明になります。

  • 三大天という称号はキングダム独自の創作だがモデルとなった名将たちは実在した
  • 旧三大天(廉頗・藺相如・趙奢)はそれぞれ武勇・外交・軍略で趙の全盛期を築いた
  • 李牧は史実でも匈奴を殲滅し桓騎を討ち取った趙国最強の守護神だった
  • 李牧の最期は味方の裏切りによる処刑または壮絶な自害であった
  • 龐煖は史実では武人というより哲学者・縦横家としての側面が強い
  • 龐煖の最期に関する明確な史料はなく歴史から忽然と姿を消した
  • 司馬尚は李牧と共に最後まで戦った実力者であり司馬懿の先祖である
  • 趙奢の息子・趙括は長平の戦いで40万人を失う大敗を喫した
  • 趙国が滅亡した最大の原因は暗愚な王と奸臣・郭開の存在にあった
  • 秦は武力だけでなく離間の計などの諜報戦を駆使して勝利した
  • 李牧と司馬尚の排除がなければ秦の中華統一は大幅に遅れていた可能性がある
  • 趙の武将たちの精神は後の時代にも語り継がれ多くの人々に影響を与えた
  • キングダムの物語は史実を巧みにアレンジしながら歴史のドラマを描き出している
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