漫画『キングダム』において、威厳ある白髭を蓄え、圧倒的なカリスマ性で中華全土を震え上がらせる「戦神」昭襄王(しょうじょうおう)。
作中では、夢で未来を予知し、死の間際まで秦国の行く末を案じる「理想的な覇王」として描かれていますよね。彼が登場するシーンは、読者に「中華統一」という壮大な夢の重さを再認識させる、物語のハイライトの一つと言えるでしょう。
しかし、歴史書『史記』や『戦国策』などの一次史料を丁寧に紐解いていくと、私たちの知るその勇猛なイメージとはかけ離れた、あまりにも人間臭く、そして政治的な怪物としての「別の顔」が浮かび上がってくるのをご存知でしょうか。
実は、史実の昭襄王は、自ら剣を振るって戦場を駆け巡るような武人ではありませんでした。それどころか、人生の大半を強烈な母や叔父の支配下で過ごし、晩年には猜疑心から最強の味方である白起を自らの手で葬り去った、孤独な権力者だったのです。
なぜ彼は「戦神」と呼ばれたのか? 歴史の闇に消えた妻や子供たちはどうなったのか? そして、曾孫である始皇帝に何を残したのか?
今回は、56年という長きにわたり秦の玉座に座り続けた怪物・昭襄王の真実について、詳細な家系図や史実の裏話を交えながら、物語のように深く掘り下げていきます。
- キングダムの「戦神」イメージと史実の「政治家」としての違いがわかる
- 始皇帝へと繋がる家系図と、後継者争いに隠された悲劇を知れる
- 記録がほとんどない「妻」や「子供」の運命と宮廷の闇に迫る
- なぜ最強の将軍・白起を処刑したのか?晩年の真相を深く理解できる
昭襄王(昭王)の正体!キングダム「戦神」は史実だと別人?

引用元「Wikipediaコモンズ」より
『キングダム』読者にとって、昭襄王(昭王)といえば「武の化身」のような存在ですよね。六大将軍を意のままに操り、中華統一の夢を語る姿に胸を熱くした方も多いはずです。しかし、史実というフィルターを通して彼を見ると、そこには意外な「ズレ」が存在します。
【家系図】始皇帝はひ孫!荘襄王へと続く「秦」王家の血脈
まず押さえておきたいのが、昭襄王が秦の歴史においてどのような立ち位置にいるかという点です。彼は第28代君主であり、あの中華統一を成し遂げた始皇帝(政)の曾祖父(ひいおじいちゃん)にあたります。
昭襄王の在位期間はなんと56年。紀元前306年から紀元前251年までの半世紀以上です。これは日本の昭和時代(64年)に匹敵するほどの長さであり、戦国時代の君主としては異例中の異例と言えます。
この半世紀以上の間に、彼は秦を「西の田舎国家」から「中華最強の超大国」へと変貌させました。彼の血脈がどのように受け継がれたのか、詳細な家系図で見てみましょう。
| 人物名 | 続柄 | 在位期間 | 事績・備考 |
|---|---|---|---|
| 昭襄王(昭王) | 本人 | 56年 | 秦の領土を飛躍的に拡大させた「戦神」。白起らを登用し、敵国の戦力を徹底的に削いだ。 |
| 孝文王(安国君) | 息子(次男) | 3日 | 昭襄王の死後に即位するも、わずか3日で急死。歴史上稀に見る短命政権。 |
| 荘襄王(子楚) | 孫 | 3年 | 商人・呂不韋の支援で王となる。東郡を設置し、統一への布石を打つが早世。 |
| 始皇帝(政) | 曾孫 | 37年 | 六国を滅ぼし、史上初の中華統一皇帝となる。 |

引用元「Wikipediaコモンズ」より
こうして見ると、昭襄王が築き上げた強大な軍事力と広大な領土という「遺産」があったからこそ、曾孫である始皇帝が統一事業を完遂できたことがよくわかります。まさに、昭襄王こそが、中華統一の事実上の「設計者」であり、土台を作った人物と言えるでしょう。
また、彼の時代には、秦の領域は現在の四川省(巴・蜀)や湖北省(楚の旧都・郢)まで大きく広がり、経済的にも圧倒的な優位性を確立していました。
実は戦場に行かない?ドラマや漫画と違う「戦神」のリアル
さて、ここからが本題です。「戦神」という勇ましい呼び名から、さぞかし昭襄王自身も武勇に優れ、先陣を切って敵をなぎ倒していたのだろう……と想像してしまいがちですが、史実は少々異なります。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
歴史書『史記』「秦本紀」などを詳しく調べても、昭襄王が自ら軍を率いて親征(しんせい)を行ったという明確な記録は、実はほとんど見当たらないのです。彼が王都・咸陽を離れた記録はあるものの、それは他国の王との「会盟(外交会談)」や、占領地への視察に限られています。
では、なぜ彼は「戦神」として恐れられたのでしょうか?
その理由は、彼の類まれなる「人事管理能力」と「システム構築力」にありました。彼は自ら剣を振るう代わりに、白起(はくき)や司馬錯(しばさく)、王齕(おうこつ)といった天才的な将軍を見出し、彼らに全権を与えて戦わせました。
信長さん戦場には出ないけれど、「誰をどこに送り込めば勝てるか」を見抜く目は神がかり的だったんだね。日本の歴史で例えるなら、本拠地から動かずに秀吉や勝家などの軍団長を派遣して天下布武を進めた私、織田信長の経営スタイルに近いかもしれません。
また、彼の時代に秦の戦争スタイルは大きく変化しました。それまでの春秋時代の儀礼的な「土地を奪う戦争」から、敵兵の首を斬って再起不能にする「殲滅戦(せんめつせん)」へとシフトしたのです。以下のグラフをご覧ください。これは昭襄王の治世における実権掌握度と、領土拡大の推移をイメージ化したものです。


グラフの中期にあたる「白起活躍期」に、領土と国力が爆発的に伸びているのがわかります。この時期、白起は韓・魏・趙・楚といった強国の兵士計100万人近くを斬首したと記録されています。
昭襄王は、咸陽(かんよう)の王宮にいながらにして、将軍たちを手足のように動かし、敵国を物理的に破壊し尽くすシステムを作り上げました。つまり、史実の昭襄王は「前線の戦士」ではなく、冷徹な「戦争遂行マシーンの管理者」だったのです。
昭襄王の「妻」と「子供」は誰?歴史の闇に消えた家族たち


引用元「Wikipediaコモンズ」より
輝かしい覇業の裏側で、昭襄王の家庭環境は複雑怪奇な「闇」に包まれていました。王としての権力を手にするまで、彼は長い間、ある人物の影に怯えながら暮らしていたのです。
母・宣太后の傀儡だった?記録が少ない妻たちのミステリー
昭襄王の人生を語る上で避けて通れないのが、実の母である宣太后(せんたいこう)の存在です。中国ドラマ『ミーユエ』のモデルにもなった彼女は、中国史上初の「太后(王の母)」として絶大な権力を振るいました。
昭襄王はもともと恵文王の庶子(側室の子)であり、王位継承の可能性は低い立場でした。幼少期は人質として燕(えん)国に送られており、苦難の日々を過ごしています。しかし、異母兄である武王が力比べで鼎(かなえ)を持ち上げようとして事故死するというハプニングが起き、母と叔父の魏冄(ぎぜん)の画策によって、急遽王位につくことになりました。
即位当時の彼はまだ19歳前後。そこから40歳を過ぎるまでの約20年間、彼は母・宣太后と叔父・魏冄の傀儡(あやつり人形)に過ぎませんでした。政治の実権はすべて母方の親族である「楚」の派閥、いわゆる「四貴(しき)」に握られていたのです。
そのためか、昭襄王自身の正室(妻)に関する記録は歴史書から不自然なほど消え失せています。わずかに「葉陽后(ようようこう)」という名前が『漢書』や近年の研究で見られますが、彼女もまた楚の王族出身だった可能性が高いとされています。
強烈すぎる姑・宣太后の威光の前では、妻の存在感など無いに等しかったのかもしれません。「葉陽后」が楚の音楽を好まなかったという逸話も残されていますが、これは姑である宣太后への密かな抵抗だったのか、あるいは彼女自身が厳格な性格だったのか、想像は尽きません。昭襄王の妻は、夫と姑のいびつな権力関係の狭間で、息を潜めるように生きた「沈黙の王妃」だったと推測されます。
息子が次々と急死…昭襄王を悩ませた「後継者問題」の悲劇
長すぎる治世は、皮肉にも彼の子どもたちに過酷な運命を強いることになりました。王がいつまでも死なないということは、跡継ぎである王子たちがいつまでも王になれないことを意味するからです。
- 長男(悼太子):魏の国へ人質として送られ、帰国することなくその地で死去。父の外交カードとして利用された悲運の太子です。秦と魏の関係が悪化した際、殺害された可能性も否定できません。
- 次男(安国君):兄の死後に太子となるが、父が75歳まで生きたため、立太子期間が異常に長くなりました。即位したときには既に彼自身も老人でした。
特に次男の安国君(後の孝文王)の悲劇は有名です。長年の待機期間を経てようやく王位についたものの、即位からわずか3日後に急死してしまいます。
公式には喪中の疲れによる病死とされていますが、あまりのタイミングの良さに、「長年のストレスによる衰弱死」説や、当時勢力を伸ばしていた「呂不韋による暗殺」説など、歴史ミステリー好きの間では様々な憶測が飛び交っています。偉大すぎる父を持つことは、息子たちにとって必ずしも幸福ではなかったのかもしれません。
昭襄王の「死去」と晩年…名将・白起を殺して狂った歯車
治世の後半、異国から来た弁論家・范雎(はんしょ)の進言を受け入れた昭襄王は、クーデターを決行します。母・宣太后から政治的権限を剥奪し、叔父・魏冄ら「四貴」を国外追放にして、ついに名実ともに秦の支配者となりました。
しかし、その晩年は決して穏やかなものではありませんでした。彼が犯した最大の過ちとされるのが、長年連れ添った最強の将軍・白起(はくき)の処刑です。
なぜ白起を殺した?「長平の戦い」後に起きた王と将の亀裂
白起といえば、「長平の戦い」で趙軍40万人を生き埋めにした伝説の将軍です。昭襄王の手足となって戦い続けた彼が、なぜ主君から自害を命じられることになったのでしょうか。その背景には、王権と軍権の危ういバランスがありました。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
決定的な亀裂は「長平の戦い」直後に生じました。「今すぐ趙の首都・邯鄲(かんたん)を攻めれば滅ぼせる」と主張する白起に対し、昭襄王は宰相・范雎の「兵を休ませるべき」という言葉を採用し、撤退を命じます。范雎は、白起がこれ以上功績を挙げて自分の地位を脅かすことを恐れ、王に讒言(ざんげん)したのです。
その後、好機を逃して趙の攻略に苦戦する秦軍を見て、白起は「それ見たことか」と病気を理由に出撃を拒否し続けます。王が何度命令しても動こうとしない白起に対し、昭襄王の怒りは頂点に達しました。彼は白起の態度を、単なる意見の相違ではなく「王命への反逆」とみなしたのです。



「たとえ最強の将軍であっても、王に逆らう者は許さない」。晩年の昭襄王は、合理性よりも絶対的な服従を求めたんだ。これが独裁者の孤独というやつかもしれないね・・・。私にはよくわかるよ。私だって、絶対的服従を部下に求めたもの・・・。そのおかげで、一番信頼していた明智光秀に、本能寺で襲われちゃったんだけどね・・。
紀元前257年、昭襄王は白起から官位を剥奪し、さらに剣を送って自害を命じました。白起は死の間際、「私は天に罪を犯したのか…そうか、長平で降伏した40万人を騙して生き埋めにした報いか」と嘆いて果てたと伝えられています。
昭襄王は、自らの権威を守るために、国一番の守護神を殺すというパラノイア(偏執的)な行動に出たのです。この事件は、秦軍に大きな動揺を与えましたが、同時に「王の命令は絶対である」という恐怖支配を完成させることにもなりました。
56年の治世に幕!「戦神」の死が中華に与えた衝撃と遺言
紀元前251年、昭襄王は75歳前後でその生涯を閉じました。平均寿命が30〜40歳と言われるこの時代において、彼の長寿は異例中の異例です。その死が伝わると、秦に怯え続けてきた周辺諸国は安堵し、酒を酌み交わして喜んだと言われています。
しかし、彼が残した「遺産」は決して消えることはありませんでした。
彼は晩年、最後の仕上げとして周王朝を攻撃し、王権の象徴である「九鼎(きゅうてい)」を強奪して、周を完全に滅亡させました(紀元前256年)。これは、「秦こそが次の天子(天下の支配者)である」と世界に宣言する行為でした。
『キングダム』では、死の床につく昭襄王が未来を予知するような描写がありますが、あれはあながち完全な創作とは言えません。彼は確信していたはずです。「俺が敷いたレールの上を歩めば、誰でも天下を統一できる」と。
そのレールを爆走し、わずか30年後に中華統一を成し遂げたのが、曾孫である始皇帝でした。昭襄王は「戦神」というよりも、秦という国そのものを最強の兵器へと改造した、冷徹で偉大なエンジニアだったのかもしれません。
歴史の教科書では数行で語られる昭襄王ですが、その人生を知れば知るほど、キングダムの物語もより深く楽しめるようになります。次に漫画を読み返すときは、ぜひこの「人間臭い老王」の姿を思い浮かべてみてくださいね。
歴史ファンが気になる「昭襄王」の謎をQ&Aで徹底解明
昭襄王の生涯について解説してきましたが、ここからは、ドラマや漫画のファンが特に気になる「素朴な疑問」や「歴史のミステリー」について、Q&A形式でズバリお答えします。
Q1. 曾孫の始皇帝(政)と会ったことはあるの?
A. 可能性は限りなく低いですが、ゼロではありません。
これは歴史ファンの間でもよく議論されるテーマです。時系列を整理してみましょう。
| 年号 | 昭襄王の動向 | 始皇帝(政)の動向 |
|---|---|---|
| 前259年 | 70歳頃(在位48年) | 趙の邯鄲にて誕生(0歳) |
| 前251年 | 崩御(75歳前後) | 秦へ帰国(9歳) |
始皇帝(政)が人質生活を送っていた趙から秦へ帰国したのは、紀元前251年。これはちょうど昭襄王が亡くなった年です。
史料によっては「昭襄王が亡くなった喪中に帰国した」とも読めるため、入れ違いになった可能性が高いとされています。
しかし、もし昭襄王が死の直前まで意識があり、政の帰国がわずかでも早まっていれば、死の床にある老王と、未来の皇帝となる少年が対面したというドラマチックな展開も、歴史の隙間にはあり得たかもしれません。
Q2. 当時の平均寿命が短いのに、なぜ75歳まで生きられた?
A. 「ストレスの分散」と「最高級の医療」が要因と考えられます。
戦国時代の王は、常に暗殺の危険や過度なプレッシャーにさらされ、早死にするケースが少なくありませんでした。しかし昭襄王には、長生きできる「皮肉な理由」がありました。
それは、「前半生に実権がなかったこと」です。
40代まで母・宣太后が政治を取り仕切っていたため、彼は過度な政務のストレスから守られていました。また、秦は当時から医学先進国であり、王の食事は毒味はもちろん、栄養バランスも管理された最高級の薬膳が出されていたはずです。実権を握るまでの「長い待機時間」が、結果として彼の寿命を延ばしたと言えるでしょう。
Q3. 結局、彼は「名君」なの?それとも「暴君」なの?
A. 秦にとっては「最高の名君」、他国にとっては「最悪の暴君」です。
「名君」の定義にもよりますが、「国を富ませ、領土を広げた」という点において、昭襄王以上の王はいません。彼は法治国家としてのシステムを完成させ、個人の感情よりも国家の利益を最優先しました。
一方で、白起に命じて数十万人を虐殺したり、周王朝を滅ぼして伝統を破壊したりした行為は、当時の倫理観から見ても「虎狼(虎や狼のように残忍)」と非難されました。
しかし、乱世を終わらせるためには、優しさよりも「圧倒的な暴力と秩序」が必要であることを、彼は誰よりも理解していたのです。
【保存版】昭襄王56年の激動年表
最後に、昭襄王の56年に及ぶ治世を、主要な出来事とともに振り返ってみましょう。これを見れば、彼がいかにして「戦神」と呼ばれるに至ったのか、その足跡が一目瞭然です。
| 年代(紀元前) | 年齢 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 306年 | 19歳 | 兄・武王の事故死に伴い、即位。母・宣太后が摂政となる。 |
| 293年 | 32歳 | 伊闕(いけつ)の戦い。 白起を登用し、韓・魏の連合軍24万人を斬首。 |
| 288年 | 37歳 | 斉の湣王(びんおう)と共に「西帝・東帝」を称する(すぐに撤回)。 |
| 279年 | 46歳 | 鄢・郢(えん・えい)の戦い。 白起が楚の首都を攻略。楚王は逃亡し、秦の領土が拡大。 |
| 266年 | 59歳 | 范雎(はんしょ)を宰相に登用。 「遠交近攻」策を採用し、宣太后や魏冄(ぎぜん)ら「四貴」を追放。親政を開始。 |
| 265年 | 60歳 | 母・宣太后が死去。完全な独裁体制へ。 |
| 260年 | 65歳 | 長平の戦い。 白起が趙軍40万人を生き埋めにする。 |
| 257年 | 68歳 | 白起に自害を命じる。長年の功臣を粛清。 |
| 256年 | 69歳 | 周王朝(西周君)を滅ぼす。 九鼎を秦へ持ち帰らせる。 |
| 251年 | 74歳 | 崩御。 56年の治世に幕を下ろす。 |
まとめ:昭襄王こそが「中華統一」の真の生みの親である
昭襄王という人物を掘り下げていくと、彼が決して「完全無欠のヒーロー」ではなかったことがわかります。母に頭が上がらなかったり、息子を政治の道具にしたり、晩年には疑心暗鬼で部下を殺したりと、その人間性はむしろ欠陥だらけだったかもしれません。
しかし、彼が56年かけて作り上げた「勝つためのシステム」と「広大な領土」があったからこそ、後の始皇帝は天下を統一することができました。歴史の表舞台で脚光を浴びるのは常に始皇帝ですが、その偉業の9割は、この執念深い曾祖父によって準備されていたと言っても過言ではありません。(もっといえば、秦という新興国の制度を強国の制度へ大改革した名宰相・商鞅(しょうおう)と、商鞅を登用した名君・孝公(こうこう)が、秦国による天下統一の基礎をつくったといえます)
『キングダム』で描かれる彼の威厳ある姿。それは、数々の汚名や血塗られた過去を背負いながらも、国の未来だけを見据え続けた「覚悟」が具現化したものなのかもしれません。
史実を知った上で、もう一度あの漫画を読み返してみてください。昭襄王の言葉一つひとつが、これまでとは違った重みを持って、あなたの心に響くはずです。









コメント
コメント一覧 (3件)
冒頭から違ってました。
昭王は始皇帝のひぃひぃおじいさんです。
ひぃおじいさんは孝文王です。
この度は当サイトへお越しくださいましてありがとうございます。
また、貴重なコメントを頂きましたことも感謝申し上げます。
もしよろしければ、また当サイトへお越しくださいましたら嬉しく存じます。
ありがとうございました。
失礼致します。
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