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昭襄王(昭王)とは?漫画「キングダム」に登場する『戦神』の生涯

漫画「キングダム」にも登場する秦の「昭王(昭襄王)」について、カンタンに解説いたします。

戦神「昭王(昭襄王)」

その生涯は、決して順風満帆ではなく、波乱に満ちたものでした。

なぜ昭襄王は天下統一を成しとげられなかったのか?

昭襄王には致命的な「弱点」があったのです。それがなかったら、天下統一できていたはず


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

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この記事を短く言うと

  1. 「昭襄王(昭王)」とは、「秦の始皇帝」の「ひいおじいさん」。秦国を強大化させ、天下統一の土台をつくりあげた人物。
  2. 漫画「キングダム」で、「昭王」は「戦神」とあだ名されているが、史実では戦争が上手だったわけでも、個人的に強かったわけでもない
  3. 昭襄王には、「他人の意見をききすぎる」という弱点があり、そのため「白起」「孟嘗君」のような有能な人材を失ってしまった

昭襄王(昭王)は本当に強かったの?漫画「キングダム」に登場する「戦神」の真実

昭襄王(しょうじょうおう)・・・始皇帝の曽祖父であり、大国「秦」の王であった人物。「昭王(しょうおう)」とも呼ばれています。(ここでは「昭王」ではなく「昭襄王」で統一させていただきます)

漫画「キングダム」では、「戦神(いくさがみ)」とよばれ、とてつもなく強かった王・・・・と描かれているのが「昭襄王」。

しかし、史実ではそんな記録はありません。あくまでも「昭襄王」は「国王」なのです。みずから軍を率いてたたかうことなどなく、また個人的な武力など全く不明です。

それどころか、王に即位したばかりの昭襄王は、若すぎて、叔父「魏冄(ぎぜん)」が宰相となって変わりに政治をおこなっていた有様です。とても強い王であったとは思えません。(ひ孫の始皇帝も、即位直後は宰相「呂不韋」が代わりに政治を行ったので、昭襄王と似ている)

とはいえ、昭襄王が秦国の領土をいっきに拡大させ、始皇帝の時代に「全国統一」をさせる土台を作り上げたのも事実です。

「領土拡大」を可能とした理由は、昭襄王の「ある特徴」が原因であると思います。



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昭襄王という人物には、一つの特徴があります。

それは「人の意見を簡単に採用しすぎる・聞きすぎる」ということです。素直すぎると言っても良いかもしれません。

昭襄王は、「良い」と思った意見は即座に採用します。それが他国の人間であろうとなんだろうと、とにかく即座に採用しています。

例えば「范雎(はんしょ)」という人物が、宰相であった叔父の「魏冄」を追い出したほうが良い・・・・とすすめると、昭襄王は叔父「魏冄」を自分の母親と一緒にあっさりと追い出しています。

また、名将「白起」を簡単に殺してしまったり、名宰相「孟嘗君」をあっさりと殺そうとしたり・・・・決断がとにかく早すぎるのです。それが正しい判断なのかどうか、少しは考えたほうがいいのではないか?と思うようなことでも、即断即決してしまう・・・・。

即断即決は、長所と言っても良いかもしれませんが、かえって短所となることもあります。この「長所」があったおかげで、昭襄王は「秦」を一気に拡大させましたが、逆にそれが「短所」となって、「天下統一」ができなかったとも言えるのではないかと思います。

昭襄王は、名将「白起」をみずから死なせたにもかかわらず

「白起が死んでしまい、国に良い将軍がいない。私はそれを心配している」

なんて言っている始末です。あまりにも悲しい弱点であると言わざるをえません。

昭襄王の時代、秦国の最大のライバルは東の最強国「斉」でした。

「斉」は「管仲」「晏嬰」「孟嘗君」たち歴史に名を残す名宰相らによって、秦国を超える最強国であったのです。

ところが「斉」は、名将「楽毅」に滅亡寸前まで追いつめられて没落。

「斉」に次ぐ隣の強国「趙」も、「長平の戦い」で45万もの大軍団を失い、趙国には成人男性がいなくなった・・・と言われるほど衰退してしまいます。

ライバルだった「斉」「趙」が、これほど没落していたのです。

もしもこの「人の意見を聞きすぎる」という弱点がなかったら、昭襄王は始皇帝の誕生をまたずに、天下統一を成しとげられたのではないかと思います。



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『昭襄王(昭王)とは』・・波乱に満ちた生涯の物語

春秋戦国時代の中国大陸。

秦・趙・魏・韓・燕・楚・斉・宋・中山、などの国々が激しく争っていました。

中でも「斉」とならぶ最強国として、周辺諸国を脅かしていたのが「秦国」。

紀元前306年、秦国に一人の若き王が即位しました。

その名は「嬴稷(えいしょく)」・・・・死後「昭襄王(しょうじょうおう)」または「昭王(しょうおう)」と呼ばれる人物です。

わずか19歳で、大国「秦」の王となった昭襄王。

若く、野心的な王の胸には、壮大な野望が秘められていました。

「天下統一」・・・・伝説の名君たち「三皇五帝 三王五覇」その誰もがかなえられなかった夢。その「天下統一」を、若き昭襄王は夢見ていたのです。



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しかし、その壮大な夢とは裏腹に、昭襄王の即位は、決して順風満帆なものではありませんでした。

若く、なにも知らぬ王を補佐したのが、母「宣太后」とその弟「魏冉(ぎぜん)」。

王とはいえ、権力は周囲の家臣たちがにぎっており、昭襄王は「お飾り」または「あやつり人形」のような王だったのです。

なんとか「魏冉」たち有力家臣のチカラをそぎ落とし、「あやつり人形」から脱却しようとする昭襄王。

「魏冉」は名将「白起」を採用し、秦国の軍団をあずけます。白起は魏冉の期待にこたえ、周辺諸国を次々と圧倒。魏冉のチカラはますます強まるばかりでした。



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そんな昭襄王の前に、一人の賢人があらわれます。

その名は「范雎(はんしょ)」。

范雎は昭襄王に、語ります。

「この国では、家臣がチカラをもち、王が一人で孤立しておられる。

私は昭襄王のため、ただそれを恐れます。」

范雎にほれこんだ昭襄王は、その協力もあって実の母「宣太后」と叔父「魏冉」を国外へ追放することに成功。

王に即位してから40年あまり。昭襄王は、ついにみずからのチカラで政治を行えるようになったのです。



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その後、昭襄王は「范雎」を魏冉の後任者として、最高位の大臣「宰相」に任命。

范雎がすすめた「遠交近攻(遠くの国と同盟し、近くの国を攻撃する)」という戦略を採用し、名将「白起」の活躍もあり、秦国は強大化。

天下統一へむけて、周辺諸国を次々と侵略していくのです。

 

絶頂の昭襄王に、ある事件が起こります。

名将「白起」の死・・・。なんと昭襄王は、みずから白起を死なせてしまったのです。

「長平の戦い」・・・・・秦国の北に位置する強国「趙」・・・・その趙の名将「廉頗」が、45万という大軍団をひきいて、秦国と激突したのです。

名将「白起」は、巧みな情報操作と戦術で、趙軍45万人をことごとく撃破。

その勢いのまま、趙国の首都「邯鄲(かんたん)」を包囲。趙国を滅亡寸前までおいつめます。

ところが・・・白起の活躍を、暗い目で見つめる一人の男がいました。

宰相の「范雎」です。



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「范雎」は白起の活躍を喜べませんでした。このまま白起の功績が大きくなれば、自分の地位が危うくなると考えたのです。

范雎は白起を撤退させるように画策。趙国をあと一歩まで追い込んでいた白起は、無理やり撤退させられたことに激怒していました。

結局「邯鄲」の攻略に失敗した昭襄王は、数年後に再び「白起」へ出撃を命令。しかし白起は「趙国からの撤退」をうらみ、仮病で出撃を拒否。

これに怒った昭襄王は、白起に自殺を命令。歴史上でもトップクラスの名将「白起」は、「長平の戦い」で虐殺した45万人の趙軍への罪の意識を口にしながら、自ら命を断ったのでした。

その後も秦国は、圧倒的な国力によって、周辺の国々をつぎつぎと侵略。しかし、名将「白起」を失ったため、そのチカラはあきらかに半減していました。

「いま、白起は死んでしまい、国に良い将軍がいない。私はそれを心配している」

白起が死んだあと、引退したいと願い出た宰相「范雎」に対して、昭襄王はこのように語ったとされています。

白起・・・・空前絶後の名将を失ったことで、秦国の天下統一は数十年も遅れることとなったのです。

紀元前251年、昭襄王は亡くなります。即位の年から「55年」もの時が流れ、秦国はさらなる強国となっていました。



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昭襄王の死後、天下は意外な方向へとむかっていきます。

昭襄王の末裔である楚王「昌平君」と、同じく昭襄王の末裔である秦王「嬴政(えいせい)」と、天下統一をかけて激突したのです。

 

・「昌平君」・・・・昭襄王の娘と、楚王「考烈王」の子。その軍事的才能を発揮して、人質生活をおくっていた「秦国」で「宰相」まで出世するが、祖国である「楚」の王として帰還。名将「項燕」大将軍とともに秦国に抵抗。

・「嬴政(えいせい)」・・・昭襄王の「ひ孫」。名将「王翦」を使って、最大のライバル「楚」を侵略。

 

「昌平君」と「嬴政」の戦いは、嬴政の勝利に終わり、昌平君は楚とともに滅びていきます。

昭襄王の死から30年後の紀元前221年、昭襄王のひ孫「嬴政(えいせい)」が、名将「王翦」をつかって天下統一に成功。「始皇帝」と名乗り、天下に君臨するのです。

昭襄王が望んだ天下統一は、こうして始皇帝により成し遂げられました。



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しかし・・・・始皇帝の天下は、わずか15年で終わります。

紀元前206年、「秦国」滅亡。

秦国を滅亡させたのは、昭襄王の孫「昌平君」と「項燕」将軍が、死の間際に残した「怨念」でした。

「たとえ残りわずかな人数となっても、秦はかならず楚が滅ぼしてみせる」

「項燕」将軍が最期に残したこの予言は、一人の若き「軍神」によって実現してしまいます。

その軍神の名は「項羽(こうう)」・・・・。昭襄王の野望は、「項羽」という軍神によって、粉々に打ち砕かれるという、悲しき運命をたどることになるのです。

 

「昭襄王の物語」・・・「続き」は主人公を「昭襄王の孫・昌平君」に変えて、以下のリンク記事で解説させていただきます



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昭襄王(昭王)の功績!天下統一の土台をつくった?

人気漫画「キングダム」に登場する名君「昭王(昭襄王)」。始皇帝の「ひいおじいさん」。

漫画「キングダム」で、昭王は名君としてえがかれています。

「50年以上も王の座についていた名君」

「戦神(いくさがみ)」

「白起たち六大将軍と、かたい主従関係にあり、中華全土を震えあがらせた」

しかし史実における昭襄王は、漫画「キングダム」に登場する昭王とは、若干異なっています。ここでは、史実における「秦の昭襄王」について、わかりやすく解説いたします。

まず、昭襄王とは、いったい何をした人なのか?その功績をカンタンに解説いたしますと、以下の通りになります。

 

・名将「白起」や宰相「范雎(はんしょ)」のような有能な人材を活用し、「秦」の領土を拡大させ、ひ孫である「始皇帝」による「全国統一」の土台を作り上げた

 

先程も解説しましたが、昭襄王には「人の意見をききすぎる」という致命的な弱点があります。その弱点さえなかったら、「始皇帝」の登場をまたずに、「昭襄王」の時代に「全国統一」がなされていたかもしれません。



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昭襄王が失った二人の天才!「孟嘗君」と「白起」

昭襄王には「人の意見を聞きすぎる」「決断がはやすぎる」という弱点があると申しました。

その「決断がはやすぎた」ために、おしくも失ってしまった「逸材」が二人います。

名宰相「孟嘗君」と、名将「白起」です。



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名宰相「孟嘗君」

昭襄王と同じ時代、「秦」と互角の国力を有する大国がありました。「斉」です。

「斉」は、天才軍師「太公望」がつくった国。名宰相「管仲」「晏嬰」などの活躍により、その国力は「秦」に並ぶ「最強国」でした。

その「斉」を支えていたのが、「戦国四君」の1人である名宰相「孟嘗君(もうしょうくん)」でした。

孟嘗君は、魏の「信陵君」、楚の「春申君」、趙の「平原君」と並ぶ名将「戦国四君」の1人です。おそらく戦国四君の中でもっと優秀な人物だったと思います。

そんな有能な孟嘗君のうわさを耳にした昭襄王は、孟嘗君を「宰相」にむかえようとします。

孟嘗君と面会した昭襄王は、その有能さに感動。さっそく「宰相」に任命。

しかし、ここで昭襄王は、また悪い癖をだしてしまいます。人の意見にながされてしまうのです。

ある部下の1人が、昭襄王にこのように言いました。

「孟嘗君は斉国の王族であり、秦国の宰相にしても、斉の利益を最優先にするでしょう。かといって、このまま生きたまま斉に帰したら、きっと秦国を苦しめるはず。今のうちに殺したほうが良いでしょう」

確かに、孟嘗君は斉国の王族。しかし、魏国の宰相もつとめた孟嘗君は、外交力を駆使して衰えていた魏を立ち直らせた人物です。それにもかかわらず、この言葉を真に受けた昭襄王は、孟嘗君を殺そうとします。しかし、一足先に孟嘗君は逃亡。

その後、連合軍を率いた孟嘗君は、函谷関で秦軍を撃破。昭襄王は「孟嘗君」という名宰相を失い、それだけではなく、領土をも孟嘗君に奪われる事となったのです。

もしも「孟嘗君」が宰相であったら、名将「白起」を使いこなして、秦国による天下統一に成功していたかもしれません。

まぁ・・・他国を助けることばかりしていた「孟嘗君」の性格を考えると、秦国の領土は拡張しなかったかもしれませんが・・・。

ちなみに、その孟嘗君は「斉国」から去って「魏国」へ亡命しているのですが、孟嘗君がいなくなった「斉」は、名将「楽毅」により滅亡寸前まで追いつめられています。そのため、斉という最大のライバルを失った秦は、一気に天下統一へと踏み出すことができたのです。



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最強の武将「白起」

漫画「キングダム」には、昭襄王の部下として「六大将軍」という名将達が登場します。

その筆頭が「白起」です。

六大将軍は架空の位ですが、「白起」は史実においても史上最高レベルの「名将」であると思います。その生涯において「100万人」以上の敵兵を葬っています。

特に「趙国」の大軍団を倒した「長平の戦い」はかなり有名です。45万人の大軍団を倒した手腕は、名将と呼ぶにふさわしいでしょう。

そんな白起という人材を見出したのは、昭襄王の叔父「魏冄」でした。しかし、魏冄が追放された後、白起は宰相「范雎」から危険視されます。

白起は優秀すぎました。趙国を滅亡寸前まで追い込むほどの活躍を、范雎は妬んだのです。そして、白起をこれ以上活躍させないように軍の撤退を昭襄王にすすめます。趙国の首都「邯鄲(かんたん)」が陥落寸前であるにもかかわらずです。

例の通り、人の意見を聞きすぎる昭襄王は、白起に撤退を命令。

これに怒ったのが白起。絶対に勝てる戦いをすてるハメになり、手柄をたてられず、激怒。

そのため、白起は昭襄王からの出撃命令を、「仮病」で断り続けます。

これに怒った昭襄王は白起に自殺を命令。もともと魏冄がみつけてきた人材である「白起」にたいして、昭襄王は思い入れがなかったのかもしれません。

ここに、空前絶後の名将「白起」は亡くなってしまうのです。

もしも白起が生きていたら、昭襄王の代で天下統一が実現していたかもしれません。



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『昭(襄)王』について「ひとこと」言いたい!

50年以上も王位にいた昭襄王・・・。その理由は、別に名君だったからというわけではないと思います。「若くしてで王位についた」ということと、「長生きした」から在位期間が長かったのではないでしょうか。

確かに昭襄王のおかげで、秦国は拡大しました。しかし、その事績を見てみると、あまりにも不用意な行動が多すぎます。「思いつき」で行動しているかのようで、失敗が多すぎるのです。

特に「白起」を死なせたことと、「孟嘗君」を失ったことは大きいです。

・生涯に100万人以上の敵兵を倒し、「趙」「魏」「韓」「楚」を震え上がらせた名将「白起」。

・「戦国四君」の中でも、最も功績の大きい「孟嘗君」。

せめてこの二人のうち、どちらかだけでも秦国に留めることができていたら・・・。

「白起」「孟嘗君」・・・・名宰相「范雎」をもちいて「遠交近攻」という戦略を採用したとはいえ、昭襄王の失敗は、おぎないきれないものがあると思います。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 昭襄王とは、始皇帝の「ひいおじいさん」で、秦国を強大化させ、天下統一の土台を作り上げた人物
  2. 漫画「キングダム」では「戦神」と呼ばれているが、実際には「戦争」が強かったわけでも、豪傑だったわけでもない
  3. 昭襄王の決断の早さは、長所でもあるが、あまりにも他人の意見を採用しすぎたため、「白起」や「孟嘗君」のような、有能な人材を失ってしまい、彼の代で天下統一は成し遂げられなかった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 冒頭から違ってました。
    昭王は始皇帝のひぃひぃおじいさんです。
    ひぃおじいさんは孝文王です。

    • この度は当サイトへお越しくださいましてありがとうございます。
      また、貴重なコメントを頂きましたことも感謝申し上げます。
      もしよろしければ、また当サイトへお越しくださいましたら嬉しく存じます。
      ありがとうございました。
      失礼致します。

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