秦の始皇帝につかえて、最高位の大臣(宰相)にまでなった天才法律家「李斯」の「悲惨な最期」を、わかりやすく解説いたします。
「始皇帝を宰相として支えたが、最期は詐欺師『趙高(ちょうこう)』にだまされて処刑された」
天才的法律家で政治家だった「李斯」は「秦」滅亡のきっかけを作ってしまうのです
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李斯の悲惨な最期!奸臣「趙高」に処刑される
李斯は、始皇帝の死後、始皇帝につかえた宦官・趙高に騙されて、腰を斬られるという方法で、息子と共に処刑され亡くなります。
紀元前210年、巡幸先で始皇帝が突然「病死」します。
このとき始皇帝は、後継者を長男「扶蘇(ふそ)」に指名。
しかし、始皇帝の秘書を務めていた宦官「趙高」は、自らが権力を握るために、能力が低かった始皇帝の末っ子「胡亥」を後継者にしようと画策。
「馬鹿」という言葉の語源をご存知でしょうか?
2024年の大河ドラマ「光る君へ」の第一話でも話題になった逸話です。
悪心「趙高」が、鹿を指して「これは馬だ」と言うと、秦国の群臣は「いや、馬だ」と応えるものと「そのとおり、鹿だ」と応えるものに別れたのだとか。
趙高は圧倒的な権力をもって、自らの意思に逆らい「馬」と応えたものを誅殺しました。
これが「馬鹿」という言葉の語源と言われています。
李斯は「末っ子・胡亥を二代皇帝にする」という、この趙高の画策にのり、「胡亥」を支援。
長男「扶蘇」と、その側近であった「蒙武」の息子「蒙恬」と、その弟で執政官だった「蒙毅」を殺します。
趙高はその後、二代皇帝「胡亥」の取次役として絶大な権力を保持。
人前に出てこない皇帝「胡亥」に対して、「趙高」を通さないと進言も面会もできないという、古典的な方法で権力をほしいままとしたのです。
胡亥や趙高の悪政に対して李斯は諌めたものの、諌めたことが原因で趙高に睨まれ、最期は胴体を切られる刑に処されます。
李斯は息子とともに刑場へ引かれる際に、息子に対して
「もう二度と、お前とともに狩りが出来ないな」
と言って悲しんだそうです。
優れた頭脳をもっていたにもかかわらず、趙高という詐欺師にだまされて死んだ李斯。
「晩節を汚す」とは、まさにこのことなのでしょうね。
その後、秦は趙高の狂った政治によって徐々におかしくなっていき、最期は楚の「項燕」大将軍の孫である覇王「項羽」に滅ぼされます。
もしも「李斯」が、趙高の詐欺にだまされず、「扶蘇」を皇帝にしていたら、秦はこれほど早く滅びることもなかったはずです。
李斯とは、いったい何をした人なのか?
人気漫画「キングダム」に登場する法律家「李斯」
その功績と、悲惨な最後を解説したいと思います
『李斯』の功績
李斯の功績を短く解説いたしますと
・秦国の宰相として政治経済の改革に務め、始皇帝の天下統一・中央集権化を助けた
・秦国が長年守り続けてきた「外国人の積極採用路線」に賛成し、能力主義採用を続け、秦国の天下統一を助けた
・秦国の中央集権化に尽力し、郡県制を推し進めた
・天下統一への最大の障害だった趙将「李牧」を謀殺した
その他にも、「焚書」という、政権に批判的な学者の著書を燃やした・・・ということも、李斯の発案によるものだったと言われています。
李斯・・・法律家として「韓非子」と並ぶ有名な人物ですが、始皇帝の死を隠蔽したり、その後の宦官「趙高」による専横を許すなど、晩節を大いに汚した人物です。
「荀子」の弟子・・・「韓非子」暗殺
李斯は、「人の性は悪なり」という「性悪説」を説いた思想家「荀子」の弟子。
同門には「韓」の国の王族「韓非子」がいました。
韓非子はご存知の通り、マキャベリの「君主論」と並ぶ帝王学『韓非子』の著者。
後の天才宰相「諸葛亮孔明」が、まだ幼かった君主「劉禅」に読むようにとすすめたのが、この「韓非子」でした。
始皇帝はこの「韓非子」を熟読し、「親しく出来たら死んでもいい」というほどに韓非子を崇拝するようになります。
韓非子が出世すると、自分の出世が危うくなると考えた李斯は、始皇帝に有る事無い事を告げ口し、韓非子を投獄。
その後、李斯は韓非子に毒を送り、韓非子はあっけなく服毒自殺してしまうのです。
李斯・・・・・・・・2200年後の現代においても人気の「韓非子」を殺害するとは・・・・功績は多いかもしれませんが、失策も目立つ人物です。
名将「李牧」を倒したのは、「李斯」
キングダムに登場する難敵「李牧」
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史実においても、秦国の天下統一を阻む難敵として、暗殺者「荊軻(けいか)」、楚の大将軍「項燕」と並んで、李牧は秦国を大いに悩ませるのです。
実はその李牧を倒したのが「李斯」であるという説があります。(王翦という説もある)
「守戦の名将」・・・・大歴史家「司馬遷」が、李牧につけたあだ名です。
李牧は常に「絶対に負けない守備」を整えて、相手の隙を伺い、一瞬の隙をついて勝利をおさめるという戦い方を得意としていました。
この手で、李牧は秦将「桓騎」をも葬っているのです。
そんな「絶対不敗」の名将「李牧」を葬ったのが「李斯」でした。
李斯は、趙国の王「幽繆王(ゆうぼくおう)」の奸臣「郭開(かくかい)」に賄賂を渡し、「幽繆王」に噂を吹き込みます。
「李牧とその副将である司馬尚が、裏切りを計画している」と・・・。
これを憂慮した「幽繆王」は、李牧を解任。
しかし解任命令に従わない李牧を、幽繆王は処刑。司馬尚は逃亡。
李牧が亡くなったことを、秦国は大いに祝ったと言われています。最大の難敵を滅ぼした秦国は、李牧の死後わずか3ヶ月で「趙国」を滅亡させます。
始皇帝の天下統一には3名の難敵がいました。「李牧」「荊軻(太子丹)」「項燕」・・・その一人「李牧」は「李斯」に謀殺されたのです。
『李斯』について「ひとこと」いいたい
李斯はなぜ、趙高などという奸臣の言いなりになって、扶蘇を廃して末子「胡亥」を皇帝にしたのか・・。
一説には、扶蘇が皇帝になると、扶蘇の側近であった名将「蒙恬」が出世し、李斯自らの出世が危うくなると考えたから・・・と言われています。
友人であった「韓非子」を出世争いで死なせた李斯らしい考え方です。
趙高に弱みを握られて仕方なく加担したという説もありますが・・・韓非子暗殺を元に考えてみると、やはり「出世争い」が原因だったのではないでしょうか。
立身出世・・・・・・・当時の官僚・軍人たちは、常にこの「立身出世」を夢見ていたのでしょう。
しかし自らが属する母体「秦」を滅ぼしてしまっては、どれほど優秀な功績を残した人物でも、その名声は元も子もなくなります。
秦国の宰相として、あらゆる改革を施した李斯でしたが、趙高に騙されて「扶蘇・蒙恬」を殺害し、最期は処刑され、晩節を汚す愚行を犯すこととなりました。
いくら優秀でも、道理を正す道徳心を持たないと、破滅を招く・・という良い例なのかもしれません。
実は、李斯の能力の限界を見抜いていた人物が1人いました。
李斯の師である「荀子」です。
荀子には不思議なエピソードが残っています。
【紀元前213年】、李斯が秦国の丞相となったとき、それを知った師「荀子」は、それ以降一切の食事を断ったというのです。
絶食・・・。
いったい何が荀子をそうさせたのでしょうか?
実は、李斯が丞相となったこの「紀元前213年」、李斯は始皇帝に「焚書」、つまり「儒教の書を有害であるとして全て燃やすように」と進言して実行に移しているのです。
おそらく「李斯」のこの行いに絶望した師「荀子」は、李斯という弟子を育ててしまった罪を贖うために、絶食したのでしょう。
それとも、「李斯」が荀子の弟子「韓非子」を死なせた事実を知り、絶望したのか。
または李斯が丞相となっては、秦国の未来がないことを確信して絶望したのか。
真相は定かではありませんが、荀子が「李斯」をそれほど高く評価していなかったことは、確かなようです。
荀子の心配は的中します。
李斯の画策により、始皇帝のあとを継いだ二世皇帝「胡亥(こがい)」と宦官「超高」は、秦国をめちゃくちゃに破壊。
李斯もまた、無残な最期をとげることとなるのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・李斯とは、秦国の宰相で、始皇帝を支えて天下統一を助けた人物
・名将「李牧」は、李斯の策略で謀殺された
・最期は、宦官「趙高」により処刑された
以上となります。
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