当時「秦」と並ぶ最強国だった「斉」を、弱小国「燕」を率いて撃破した名将「楽毅(がっき)」。
その「生涯と最期」をわかりやすく解説いたします。
「圧倒的な強さと忠誠心」
諸葛亮孔明も憧れ、2千年後の今も残る「名文」を残した、「義侠の名将」の物語。
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この記事を短く言うと
・楽毅とは、「中山国」出身の軍人。「秦」とならぶ当時の最強国「斉」を滅亡寸前まで追い込んだ
・楽毅は「燕」の「昭王」に仕えて「斉」を滅亡寸前まで追いつめたが、趙国へと亡命した
・楽毅は秦国の「白起」と異なり、処刑されるようなことはなかったため、後世に尊敬を集めた
楽毅とは一体何者なの?とてつもない功績を残した最強の英雄だった
義侠の名将「楽毅」。
春秋戦国時代・・・・現在の中国「河北省」北部を支配していた国「燕」に仕えた将軍です。
「楽毅」はどんな功績を残したのでしょうか?
『楽毅』の功績
楽毅の功績を短く解説いたします。
・当時、「秦国」と並んで、最強国だった「斉国」を、5カ国連合軍(合従軍)を率いて討ち果たした
・合従軍による戦いの後、弱小国「燕国」の軍を率いて「斉国」を滅亡寸前まで追い込んだ
・名君であった燕の昭王が亡くなり、その息子「恵王」に処刑されそうになった時、鮮やかに亡命して、昭王の名声を守った
楽毅は、当時の最弱国・燕国の将軍でした。
そんな燕国をひきいていた楽毅は、秦・趙・魏・韓の4カ国を味方にして、5ヶ国の連合軍(合従軍)を結成し、最強国・斉を滅亡寸前までおいこんだのです。
人気マンガ「キングダム」で、春申君と李牧が、5ヶ国の合従軍をひきいて、秦に敗北するシーンが描かれていました。
楽毅は、いってみれば、春申君や李牧すらも失敗した偉業を達成した最強の名将というわけです。
楽毅は後世において「義侠の名将」と呼ばれ、その優れた道徳心は大変な尊敬を集めました。
前漢の初代皇帝「劉邦」や、蜀漢の宰相「諸葛亮孔明」は、楽毅を崇拝していたのです。
ちなみに、楽毅は唐の時代に、それまでの中国史における名将十人を選び抜いた武廟十哲の一人に数えられています。
武廟十哲は、他の九人は以下の通りです
- 司馬穰苴
- 孫武(孫子)
- 呉起(呉子)
- 白起
- 韓信
- 張良
- 諸葛亮
- 李靖
- 李勣
生涯と最期
名将・楽毅の生涯と最期を解説いたします
「燕」に仕えるまで
楽毅は「燕国」に仕えるまで、どこで何をしていたのかが全く不明な人物です。先祖が「魏国」の名君「文侯」に仕えた「楽羊」という人物である・・・ということがわかっているだけです。
作家「宮城谷昌光」のフィクション小説「楽毅」によれば、楽毅は「中山国」に仕えた武将で、「趙国」の武霊王による「中山国侵略」に徹底抗戦した・・・という設定になっています。「武霊王」は「楽毅」の宿敵だったのかもしれません。史実によると紀元前296年、「武霊王」は、中山国を滅ぼしています。
「胡服騎射」・・・・当時、モンゴルの騎馬民族に苦しんだ趙国の武霊王は、戦国七雄で主流だった「馬車」に乗って戦う戦法を一新。それまで「スカート」のようは服を着ていた趙軍兵士に「胡服」と呼ばれて蔑まれていたモンゴル民族の「ズボン」を履かせ、直接馬にまたがり弓を使う「胡服騎射」部隊を結成。武霊王による軍制改革に成功した『趙軍』は、強力な軍へと変貌を遂げます。
そんな武霊王ですが、後継者をはっきりと定めなかったため、息子たちの後継者争いに巻き込まれ、最期は息子「恵文王」の軍に屋敷を包囲され、木に登って「雀の卵」を探すほど追い詰められて餓死しています。
楽毅は中山国滅亡後、趙国に滞在していました。しかし、武霊王が亡くなると、趙国から「魏国」へと移動しています。
「燕」の「昭王」に仕える
楽毅は「魏国」の昭王にしばらく仕えていました。
しかしその後、「燕国」の昭王が人材を求めていることを知って、燕国へ移動。
「まず隗(かい)より始めよ」
人材を求めるなら、まずは目の前に人間を厚遇し大切にせよ。という意味の有名な言葉ですが、燕の昭王はこの「隗」という人物を師匠として厚遇し、人材を求めた人物です。
昭王は、かつて燕国を滅亡寸前まで追い込んだ隣の最強国「斉国」を憎み、復讐を果たすために優秀な人材を欲していたのです。
「劇辛」や「蘇秦(又は蘇代)」、そして運命の名将「楽毅」が、「燕」の「昭王」のもとを訪れたのでした。
「合従軍」で「斉」を討伐
当時、「斉国」は名宰相「孟嘗君」の力によって、秦国と並び最強国の地位をほしいままにしていました。さらにはかつての名宰相「管仲」「晏嬰」、名参謀「孫臏(そんぴん)」などの威光も未だに残り、その国力は際立っていたのです。
しかし、その圧倒的な力を背景に、斉国の王「湣王(びんおう)」は、周辺諸国を力で脅したり侵略したりしていたため、かなり嫌われていました。なんとか湣王を支えていた戦国四君の一人「孟嘗君」もまた、湣王を見限って亡命しています。
「合従(がっしょう)」・・・・有名な策略家「蘇秦(そしん)」が主張した「戦国七雄の時代において、最強国に対しては、残り六カ国が連合してあたるべし」という策略のこと。
最も厄介な名将「孟嘗君」がいなくなったことを見逃さなかった楽毅は、斉国に恨みをもつ「趙」「秦」「韓」「魏」を味方に引き入れ、「燕」を中心に50万の合従軍を結成。自らが総大将となって斉軍20万を撃破。
ちなみにこの「合従軍」の「趙国」の軍の中に、名将『廉頗』がいた可能性があります。
燕の軍を率いた楽毅により大国「斉」は、名将「田単」が守る城「即墨(そくぼく)」と、王が逃げ込んだ「莒(きょ)」という2つの城を残して70以上の城が陥落。
最強国「斉」は楽毅により、一気に滅亡寸前まで追い込まれたのです。
作家「宮城谷昌光」の小説「楽毅」において、楽毅はこの時、神業のような策略を使って連合軍を指揮し、斉軍を破り、斉国の首都「臨淄(りんし)」を陥落させています。
フィクションなので、史実ではありませんが・・・名将「楽毅」の恐ろしいまでの強さに、弟子の「楽乗」が驚愕していたシーンが印象的でした。
趙国へ亡命
斉を滅亡寸前まで追い詰めた楽毅。しかしそんな時、楽毅に絶大な信頼を起き、常に楽毅をかばい続けた名君「燕の昭王」が急死。
後継者となったのが、暗君「惠王」。惠王は楽毅を嫌っており、とても深い恨みを抱いていたため、斉攻略の総大将から「楽毅」を解任。帰国を命じます。
もし楽毅が帰国したら、間違いなく「死」が待っていました。
秦国の名将にして、100万以上の敵を滅ぼしてきた名将「白起」は、主君「昭襄王(昭王)」の命令に従い、自決。
しかし楽毅は違いました。聡明だったのです。惠王の帰国命令を無視し、燕国に息子「楽間」を残して「趙国」へと亡命したのです。
惠王は亡命した楽毅に対して手紙を送ります。
「父・昭王から受けた恩に対して、あなたはどのように報いるつもりか?
亡命などしては、亡き父に恩をかえせないのではないか?」
となじったのです。
これに対して楽毅は、後世に「読んで泣かぬ者は忠臣にあらず」とまで言われた名文「燕の惠王に報ずるの書」で返答しています。
「昭王様は名君で、私などを重用してくださった。
今、私が惠王様のもとへ行き、処刑されれば、昭王様は『愚かな息子(惠王)を持った君主』と呼ばれて、笑いものになるでしょう。
私が帰国しないのは、昭王様の名誉を守るためなのです。」
この名文により、楽毅を処刑する名目を失った惠王は、燕国に残されていた楽毅の息子「楽間」を寵愛するようになります。
滅亡寸前まで追い込まれていた斉国は、楽毅のいなくなった燕軍を撃破。
名将「田単」の力により、奪われていた70以上の城を全て奪還することに成功しています。
しかし、以前のような国力を回復するには至らず、斉国は最強国「秦国」に対抗することができなくなってしまうのです。つまり、楽毅の「斉」攻撃は、その後に起こる「秦国の天下統一」を助長する結果を招いたのです。
最期
楽毅が亡命した「趙国」は、名将の亡命を大歓迎。
燕国と斉国の国境近くにある土地を楽毅に与えて、「望諸君」の称号を与えます。
「義侠の名将」・・・・後世において楽毅は、そう呼ばれています。趙国の「恵文王(武霊王の子)」は、楽毅が燕国を恨んでいるだろうと考え、燕国攻略を楽毅に相談します。しかし楽毅は燕の昭王に引き立てられた恩を忘れず、これに反対。
息子「楽間」が重用されるようになった「燕国」でも、楽毅は重用されるようになり、燕・趙を行き来しながら、最期は「趙国」で亡くなったと言われています。
末裔
楽毅の孫「楽叔」は、楽毅を崇拝していた前漢の皇帝「劉邦」により貴族に取り立てられています。
また、楽毅の同族「楽乗」は、趙国の将軍として仕えたものの、名将「廉頗」に大敗して他国へ亡命。
楽毅の子孫「楽瑕公」と「楽臣公」は、学者としてその名を轟かせています。
「義侠の名将・楽毅」と、秦の名将「白起」を比較
楽毅はよく、ほぼ同時代を生きた秦国の名将「白起」と比較されます。
2人はともに唐の時代に、それまでの中国の歴史において最強の武将十名を選び抜いた武廟十哲に選ばれています。
白起は、数々の戦いで勝利をおさめてきた名将中の名将。しかし、趙国攻略を命令された際に主君「昭襄王(昭王)」の命令に逆らい、自刃を命じられます。
主君から「死」を命じられた・・・楽毅も、惠王からの「帰国命令」という、事実上の「処刑命令」を受けたという点では「白起」と似ています。
ここで命令に従った「白起」と、命令に背いて亡命し、生き残った「楽毅」
後世の評価は、圧倒的に「楽毅」のほうが上です。
最強国「秦」の軍団を率いて連戦連勝だった「白起」と、弱小国「燕」の軍を率い、秦と並ぶ大国「斉」を滅亡寸前まで追い込んだ「楽毅」。
こう考えると、将軍としての腕前も、白起より楽毅のほうが上だったのではないでしょうか。
この圧倒的な強さに、後の名宰相「諸葛亮孔明」も、「楽毅」に憧れを抱いています。
諸葛亮孔明は、「楽毅」や名宰相「管仲」のようになりたいと、常に夢見ていたと言われています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・楽毅は、合従軍(五カ国連合軍)を率いて、最強国「斉」を滅亡寸前まで追い込んだ名将
・主君である「燕の昭王」が亡くなったため、楽毅は「燕の惠王に報ずるの書」を残して亡命した
・秦の名将「白起」と比べても、楽毅は優れていたのではないか
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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ありがとうございました
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