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大政奉還はなぜ二条城という場所で行ったの?行われた部屋の秘密とは

260年続いた「徳川幕府」が「政権」を「朝廷」に返した大事件「大政奉還(たいせいほうかん)」について、「なぜ江戸城ではなく、京都二条城」で行われたのかを、わかりやすく解説いたします。

「大政奉還図」と「二条城の部屋」の真実とは?実はそんなに人が集まらなかった!


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この記事を短く言うと

・大政奉還のとき、征夷大将軍徳川慶喜」は江戸城ではなく京都にいた。だから、京都の「二条城」で大政奉還された

・大政奉還の図は、真実に程遠い。あれほどの人数が集まったとは思えない

・大政奉還は、慶喜のギブアップどころか、西郷隆盛大久保利通たちをハメるための「罠」だった


なぜ江戸城ではなく二条城で行われた?

大政奉還

260年に渡り、日本の政権を運営していた「徳川幕府」が、その政権を「朝廷・天皇」へ返上したこと・・・それが大政奉還。

しかしその大政奉還・・・江戸幕府の本拠地「江戸城」ではなく、朝廷・天皇のお膝元である京都の「二条城」で行われています。

どうして二条城で行われたのでしょうか?

当時、薩摩藩は「朝廷」に対して「討幕の密勅」・・・つまり「幕府を倒せ」という「天皇の秘密命令」を引き出そうと、京都で様々な工作を行っていました。

もしも「討幕の密勅」が出されてしまったら、幕府と薩長軍の戦争になりかねません。

その上、「討幕の密勅」が出されて、天皇が「薩長軍」についてしまったら、幕府軍は賊軍になってしまいます。

「賊軍」とされて、天皇と戦い勝利した者は、日本史上「足利尊氏」を除けば一人もいません。

幕府からすれば、天皇を薩長軍にかつがれないようにするためには、慶喜が京都にいて、睨みをきかせるしかなかったのです。そのため、慶喜は京都を離れるわけにはいかない状況だったわけです。

そして、慶応3年10月13日(1867年11月9日)・・・慶喜が睨みをきかせた甲斐もなく、ついに「討幕の密勅」が出てしまいます。

しかし、その翌日「慶応3年10月14日」に、慶喜は「大政奉還」。つまり「幕府」の政権を朝廷に返上。「幕府」という組織そのものを消滅させてしまいました。

これで「討幕の密勅」は意味を失いました。なぜなら「討幕」と言っても、「幕府」が無くなったのですから、倒幕できるわけがないのです。

討幕の密勅が出た、わずか1日後に大政奉還。相当にギリギリでした。もしもう少し遅かったら、幕府と薩長軍で、戦争が起こっていたはず。

それだけ切羽詰まった状況だったのです。

なぜ二条城で大政奉還が行われたのか?一言で言えば、「江戸城で行う余裕がなかったため」ということですね。



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大政奉還が行われた二条城の部屋

大政奉還といえば、教科書によく「大政奉還の図」という絵が掲載されていますよね。

実はこれ、「大政奉還」をしているわけではないのです。

大政奉還図
『引用元ウィキペディアより』

上記の説明と矛盾してしまいますが、実は「二条城」で行われたのは「大政奉還」ではなく、「大政奉還の諮問」

つまり、この図も「大政奉還」をしているのではなく、「大政奉還をしようと思う」と、重臣に述べている図。

実際に「孝明天皇」に対して「大政奉還」されたのが「慶応3年10月14日」

対して上の図で描かれている「大政奉還の諮問」が行われたのが、その前日「10月13日」

つまり上の図は、「大政奉還図」ではなく、正確には「大政奉還諮問の図」というわけです。



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ところで、この「大政奉還諮問」が行われた広間・・・京都「二条城」に実在しています。

京都・二条城・二の丸御殿・大広間・一の間と二の間

一の間が、慶喜が座っている一段高い上座

二の間が、家来達がひれ伏している一段低い下座

図を見てみると数十人の家来たちがひれ伏しています。

一の間と二の間をあわせて、この大広間の広さは「92畳」。かなりの広さです。

とはいえ、「諮問」に上の図で描かれているほどの人数が集まったとは思えません。

「大政奉還の図」で描かれているのは「大政奉還」ではなく「諮問」

「諮問」にあれ程の人数が集まっていない。つまり「大政奉還の図」は、後世の創作なのでしょう。



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大政奉還は、降伏宣言ではなく、反撃のカウンターだった

大政奉還

慶喜が260年持ち続けた「政権」を、朝廷に返上すること。

これは「徳川慶喜」の「ギブアップ宣言」と解釈する人もいるようですが、実際には違います。

大政奉還は実は、慶喜のカウンターアタック。

慶喜は「政権」を朝廷に返上したが、260年もの間、行政・立法・司法を担当してきた「徳川幕府」の力なしに、当然日本は立ち行きません。

大政奉還を今の日本で例えるならば

明治維新以降150年もの間「行政・立法・司法」を担当してきた「内閣・国会・最高裁判所」の3つが、突然「天皇陛下」とその周辺に対して

「行政・立法・司法の権利をお返しします」

と宣言して、仕事を辞めてしまうようなもの

行政や外交など、経験を持たない人間や組織に、到底できるわけがありません。

もしも現代日本で「大政奉還」なんてことが起こったら、日本の政治はいきなりストップし、「市役所」や「県庁」は業務をやらずに人もいなくなり、「年金」や「健康保険」などの行政サービスも機能停止。何より「警察」「消防」などの公務員がいなくなって、日本は大混乱になるでしょう。現在の内閣総理大臣が「天皇陛下に政治を行う権利を返します」と言っても、陛下は困ってしまい「ダメです。あなたが続けて政治を行ってください」とおおせられるはずです。

慶喜やそのことをよくわかっていたのです。

実際、朝廷は大政奉還の後も、実務と実権の全てを「慶喜」と旧幕臣に与え続けています。

「返されても困ります。だからあなたが続けて政治をやってください」と言ったということです。

徳川慶喜
『引用元ウィキペディアより』

しかしなんとしても「倒幕」を実現しようとしていた「西郷隆盛」と「大久保利通」は、「王政復古の大号令」を起こします。

「王政復古の大号令」は「幕府」など、それまでの朝廷の仕組みを全てリセットした「新政府樹立宣言」のこと。

更に慶喜に対しては「辞官納地」と言って、幕府が持つ領地の全てを返上するように迫ります。これは、一種の挑発行為。

これに旧幕臣が怒り、薩長へ戦争を仕掛けてきたら、それを口実に「倒幕」をやってしまおう・・・というのが「西郷」と「大久保」の作戦。

作戦は成功。挑発にのった旧幕臣により、「鳥羽伏見の戦い」、そして「戊辰戦争」が始まります。そして旧幕府軍は敗北。

徳川慶喜は、江戸へ逃亡し謹慎。

後に「江戸城無血開城」が実現して「徳川幕府」は完全に崩壊。

慶喜の「大政奉還」というカウンターは、西郷・大久保により、封じられてしまったのでした。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・大政奉還が二条城で行われたのは、江戸で行う余裕がなかったため

・二条城大広間で行われたのは「大政奉還」ではなく「大政奉還諮問」

・大政奉還は、ギブアップ宣言どころか、反撃の一手だった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


大政奉還」「徳川慶喜」「坂本龍馬」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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