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禁中並公家諸法度を簡単にわかりやすく解説!武家諸法度との関係とは?

皆さんは禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっとを、ご存知でしょうか?

この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

  1. 禁中並公家諸法度とは、天皇とお公家さんを取り締まるために、徳川家康と徳川秀忠が定めた法律のことです。
  2. 禁中並公家諸法度の目的は、幕府は、天皇やお公家さんの行動を制限して、風紀を取り締まるためです。
  3. 猪熊事件という、美男子・猪熊をはじめ多くのお公家さんが、天皇の寵愛する女性と関係を持ってしまった事件をきっかけに、朝廷は取り締まりを幕府に求めた

天下統一を成し遂げた徳川家康は、大坂の陣で豊臣家を滅亡させ、名実ともに天下を手中に収めました。

家康は、武家の行動を制限する武家諸法度ぶけしょはっととともに、朝廷ちょうてい公家くげの行動を制限する禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっとを制定しました。

禁中きんちゅうとは朝廷を指し、表向きには、家康が完全な支配者となった証として、朝廷や公家の行動を統制する法律と解釈されています。

しかし、その真意は単純な権力掌握だけではないと考えられます。

そこで今回は、武家諸法度や、僧侶を統制する諸宗寺院法度しょしゅうじいんはっとと比較しながら、禁中並公家諸法度の制定背景と真の目的を探っていきます。


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目次

禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっととは何かを簡単にわかりやすく解説

禁中並公家諸法度とは、天皇と公家くげを取り締まる法律

禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっととは、天皇とお公家さんを取り締まるために、徳川家康と徳川秀忠が定めた法律のことです。

天下統一を成し遂げた徳川家康は、政治基盤を確立するため、様々な政策を実行しました。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

その中でも、朝廷や公家の行動を制限し、幕府の権威を確立する上で重要な役割を果たしたのが、禁中並公家諸法度です。

この法度は、家康の宗教顧問または政治顧問であった金地院崇伝こんちいんすうでんを中心に策定され、1615年に

  • 二条昭実
  • 徳川家康
  • 徳川秀忠

の連名で発布されました。

正式名称は、禁中方条項目といい、1613年に制定された「公家衆法度」を基礎にして作成されています。


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禁中並公家諸法度によって

  1. 天皇は政治に関与することなく学問に専念すること
  2. お公家さんの養子縁組や性関係

などが規制されました。

これにより、天皇や公家は政治から切り離され、江戸幕府の長期政権の基礎が築かれました。

この法度制定の背景には、興味深い事件が関係しています。

それが猪熊事件いのくまじけんです。

この事件は、お公家さんの女性が、複数の男性と関係を持ったことが発覚して、朝廷が大騒動となった事件です。

この事件をきっかけに、幕府は朝廷や公家の風紀の乱れを認識し、法度制定に手をつけたのです。


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当時、朝廷の取り締まりを、幕府が行うことは前代未聞でした。

朝廷は幕府の介入かいにゅう・口出しをとても嫌っていたのです。

しかしこの時ばかりは例外でした。

朝廷側も、自分たちの風紀の乱れを憂慮しており、幕府による規制を望んでいたという側面もあります。

余談ですが、朝廷とは、「あさにわ」という意味があります。

当時は照明器具が未発達であったため、夜は暗く、昼でも室内は暗かったため、早朝に明るい庭で、政治が行われたためだと考えられます。

→→→→→【朝廷とは何かをわかりやすく簡単に解説】についてくわしくはこちら


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原文は全部で何カ条あるのか?

禁中並公家諸法度は、17条あります。

原本は1661年の京都御所の火災で焼失してしまいましたが、副本をもとに復元されています。

京都御所

以下、その内容について詳しく見ていきましょう。

内容(現代語訳)

朝廷と公家が守るべき規定が1から12まであり、それ以降は、僧侶の官位に関する規定となります。

要約すると、

  1. 天皇は学問に専念し、政治に口を出さない。
  2. 上級の三職である太政大臣、左大臣、右大臣は、親王より上である。
  3. 三職を辞任した公家は、親王より下となる。
  4. 藤原道長の一族でも、無能な者は三職に就いてはならない。
  5. 高齢であっても有能なら摂政・関白を続けても良い。
  6. 公家同士や武家から養子をとることができるが、女性は家督を相続できない。
  7. 武家向けの官位は、公家とは別とする。
  8. 元号の変更に際しては、適切な元号を、中国の元号から選ぶ。
  9. 天皇の礼服は『御紋十二章』である。
  10. 公家の昇進は、その家の規定に従う。
  11. 公家が幕府の命令に従わない場合は、流罪にする。
  12. 罪の重さや軽さの判断は、先例に従う。
  13. 過去の関白が出家して僧となった場合、元親王が出家して僧となった者より下とされる。
  14. 寺の住職に選ばれる人物は、過去の慣例に従うこと。(農・工・商の出身者でも、実力があれば住職となってもよいが、この場合、天皇から任命された住職とは別個にすること)
  15. 住職の補佐として僧都を選ぶ際も、過去の慣例に従うこと。(以前農・工・商の出身者を僧都にする場合は、必ず寺の名前で申請すること)
  16. 紫衣しえ(僧侶の中で特に優れた者に与えられる紫の衣装)が最近過剰に与えられており、倫理の欠如が起きている。(今後紫衣を授与する場合は、その人物が適切な知性と人望を持っているかをよく考慮し、慎重に授与すること)
  17. 優れた僧侶の称号である『上人しょうにん』を選ぶ際も、天皇から授与すること(未成年でも授与は可能だが、その人物が性的に不適切な行為をした場合は、流罪とする)

特に僧侶の称号の授与に関しては、『僧侶は結婚できない』という従来の掟もあってか、かなり厳格に配慮されています。


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    目的は?

    禁中並公家諸法度の目的は、幕府は、天皇やお公家さんの行動を制限して、風紀を取り締まり、幕府の力と法律で、朝廷を完全に支配することでした。

    幕府は、天皇やお公家さんを支配し、その権威を利用して、幕府の権威を保とうとしたのです。

    江戸幕府は、朝廷に対して表向きは「尊敬の念」を示しながら、実質的に様々な「圧力と法規制」によって行動を制限する「陽尊陰圧」という策略を用いました。

    これは、家康が目指した太平の世を実現するため、政治権力の掌握を確実にする必要があったからです。

    天皇という「正義の象徴」

    当時の天皇は、表向きは絶対的な権威を持つ「正義の象徴」であり、その許可を得て政治を行うことや、天皇の名のもとに戦を行うことが、官軍として正当化される重要な要素でした。

    逆に、天皇の許可を得られない場合は賊軍ぞくぐんとみなされ、悪者扱いを受けることになります。

    名目上の律令制と幕府の権威

    奈良時代に制定された律令制りつりょうせいは、天皇を中心とした国家統治システムですが、江戸時代には実質的に機能していませんでした。

    しかし、表向きは律令制が存続しているという建前を維持することで、鎌倉幕府、室町幕府、そして江戸幕府は正当性を獲得していました。

    さらに、武家政権の頂点である征夷大将軍の地位も、天皇の命令によって与えられるという形式をとることで、幕府は自らの権威を高めようとしていました。


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    徳川将軍家と朝廷の相互利用関係

    3代将軍・徳川家光は、自身の妹・和子を後水尾天皇の妃とすることで、天皇家との姻戚関係を築き、権威を高めようとしました。

    徳川家光
    引用元ウィキペディアより

    一方、天皇自身は名目上の権威を持つものの、実力や財力を持たなかったため、武力を持つ徳川家と協力関係を築くことで、自らの命や生活を守ろうとしていました。

    具体的には、徳川家によって制定された禁中並公家諸法度を承認することで、朝廷は徳川家の保護を受けるという、相互利用の関係が成立していました。

    その後、1868年の明治維新において、薩摩藩と長州藩は、天皇を権威の象徴として担ぎ上げ、江戸幕府を倒しました。

    このことから、明治維新をクーデターととらえる人も現代には存在します。

    →→→→→【明治維新とは何かをわかりやすく解説】についてくわしくはこちら

    「陽尊陰圧」は、表面的な友好関係と裏側での権力闘争という、複雑な人間関係を象徴する言葉として、現代社会においても様々な場面で活用されています。


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    誰が発布したのか?

    禁中並公家諸法度発布時の署名は、以下の3名です。

    • 徳川家康(大御所)
    • 徳川秀忠(二代将軍)
    • 二条昭実(前関白)

    一般的には、この3人の責任で発布されたと考えられています。

    しかし、注目すべき点は、署名の順番です。

    二条昭実が先頭に署名

    実は、昭実が最初に署名し、次に秀忠、最後に家康という順番になっています。

    関白は、藤原氏が独占していた平安時代の役職であり、成人した天皇を補佐して政治を行う事実上のナンバー2です。

    現代で例えると、天皇の次に位置する役職つまり内閣総理大臣にあたります。

    表向きとして、現在の内閣総理大臣と同様の権限を持つ関白が先に署名したことで、この法度は朝廷側が真っ先に賛成したものという印象を与え、公家は自ら進んで法を守ろうとするようになりました。

    なぜ公家側が率先して署名したのか、あるいは署名せざるを得なかったのか、その理由は、これから説明する朝廷の性的スキャンダル・猪熊事件いのくまじけんに関係しています。

    →→→→→【関白とは何かを征夷大将軍と比較してわかりやすく解説】についてくわしくはこちら


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    幕府が禁中並公家諸法度を発布した真の理由

    公家のスキャンダル「猪熊事件いのくまじけん」とは?

    猪熊事件とは、美男子・猪熊いのくまをはじめ多くのお公家さんが、天皇の寵愛する女性と関係を持ってしまった事件です。

    実際には、朝廷とお公家さんを統制しようとする幕府の動機の背景には、朝廷内で起きたスキャンダルがありました。

    これは公家の男性が女性関係において問題を引き起こしたことが原因でした。

    そのスキャンダルの一つが、1609年に起きた「猪熊事件」です。


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    お公家さんの猪熊教利は美男子として知られ、紫式部が描いた「源氏物語」の主人公「光源氏ひかるげんじ」にも例えられていました。

    紫式部
    引用元Wikipediaより

    しかし猪熊の女性関係はこの以上ないほど乱れており、「公家衆乱行随一」とまで言われていました。

    1607年、後陽成天皇は、女官と関係をもった猪熊を、京都から追放しましたが、再び京都に戻ってきたのです。

    その後、別の公家である花山院忠長かざんのいんただながが、後陽成天皇の寵愛を受けた広橋局ひろはしのつぼねに恋をし、2人は天皇に隠れて関係を持ちました。(広橋局は、幕府とのパイプ役だった武家伝奏・広橋兼勝の娘)

    猪熊はこの情報を知り、花山院忠長や広橋局を誘って酒宴を開催して、数多くの女性男性が羽目を外し、酒と肉に溺れたといいます。

    この事件が明るみに出たため、後陽成天皇ごようぜいてんのうは猪熊らを捕らえました。

    後陽成天皇は全員極刑とすることを望んだものの、当時の公家には死刑というものが存在しなかったため、死刑にすることができず、結果として猪熊ら2人が、徳川家康の裁定によって処刑。

    他の関係者は、ほとんどが島流しの刑となりました。

    このスキャンダルにより、幕府は朝廷を正す必要性を感じ、禁中並公家諸法度を制定することになりました。

    一説には、朝廷からの依頼で、幕府は法整備に動いたともいわれていますが、おそらく天皇自身が公家たちを統制できなかったため、武力を持つ幕府にその役割を委ねたと考えられます。

    余談ですが、猪熊と同様に、平清盛の孫であり紫式部の子孫でもある平維盛たいらのこれもりも、「光源氏の再来」と呼ばれるほどの美男子だったといいます。

    →→→→→【紫式部の子孫一覧】についてくわしくはこちら


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    猪熊事件がきっかけで、朝廷が幕府に発布するよう命じたの?

    朝廷には、事件の再発を防止する力がなかったため、幕府の介入を望んではいなかったものの、やむを得ず幕府に再発防止を依頼したというのが、真相ではないでしょうか。

    朝廷とその周囲の公家は、かつては正義の象徴であると言われていました。

    ところが実際には、1221年の承久の乱じょうきゅうのらん以降、天皇やお公家さんは力や荘園などの経済基盤を失い、自らを守る武力も財力もありませんでした。

    特に1467年の「応仁の乱」以降、天皇の財力が失われ、天皇の一族が困窮していたことは、就任式が20年遅れた逸話からも明らかです。(就任式を行うお金がなかった)


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    この時期以降、多くの公家が持ち物を売って生活費にあて、中には物乞いにまで落ちぶれた者もいました。

    そこで、公家たちは幕府や武家との連携を深め、親戚関係を結ぶことで援助を得て、飢えや寒さに苦しむことなく生活できるようにしました。(たとえば三条家の左大臣・三条公頼は、武田信玄や本願寺に娘を嫁がせている)

    これにより、飾り物の正義だけでなく、親戚である武家からの援助も期待できるようになりました。

    猪熊事件の再発を避けることなど、そんな非力なお公家さんにはとても不可能でした。

    そのため、徳川家の力を借りることが現実的な対策だったのです。

    承久の乱と応仁の乱によって、朝廷の力は、おどろくほど失われていたのです。

    →→→→→【承久の乱をわかりやすく解説】についてくわしくはこちら

    →→→→→【応仁の乱をわかりやすく解説】についてくわしくはこちら

    話は飛びますが、この武家と公家とのつながりが、のちに「公武合体」政策と呼ばれ、のちに江戸幕府を滅亡に追いやることになります。

    →→→→→【公武合体をわかりやすく解説】についてくわしくはこちら


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    家康ではなく、黒衣こくい宰相さいしょう金地院崇伝こんちいんすうでん」がつくった?

    禁中並公家諸法度は、徳川家康ではなく、黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝がつくったとされています。

    金地院崇伝とは、徳川家康の政治・宗教顧問であり、京都の南禅寺の僧であった人物のことです。

    金地院崇伝
    引用元Wikipediaより

    1608年、江戸幕府が設立されてから6年後に家康に召し抱えられ、外交交渉に関わっていました。

    1614年、豊臣家滅亡のきっかけとなった、方広寺鍾名事件ほうこうじしょうめいじけんで、金地院崇伝は豊臣家の責任を厳しく追求したといいます。

    →→→→→【方広寺鐘銘事件】についてくわしくはこちら

    南禅寺は当時もっとも格式の高い寺院であり、天皇や公家たちも大切に思っていました。

    そのため、金地院崇伝は天皇や公家の事情にくわしく、また彼らも僧侶の意見に耳を傾けざるを得ませんでした。

    ただし、豊臣家への非難や、家康に媚びを売っているという印象から、彼はしばしば”黒衣の宰相”や”悪国師”と揶揄されました。

    “国師”は天皇から与えられる称号で、高位の僧侶を指し、”悪”は悪人ではなく、強いまたは猛々しいという意味です。


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    法度はっとに違反したらどうなるの?

    禁中並公家諸法度に違反したものは、流罪にされたという例があります。

    しかし実は、禁中並公家諸法度には、『朝廷と公家の在り方』に関する内容が詳細に記されていますが、『違反した場合の罰則』についてはあまり具体的には述べられていません。

    例えば、11条では『関白や奉行の命令に従わない公家は流罪に処せられるべきである』とされていますし、12条では『罪の範囲は先例に従うべき』と記されていますが、それほど具体的ではありません。

    では、禁中並公家諸法度に違反した人たちが、どのような刑になったのかを見てみましょう。

    最初の法度違反の事件として、1627年に発生した『紫衣事件しえじけん』が挙げられます。


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    紫衣事件とは、朝廷・天皇が幕府と相談することなく勝手に僧侶に授けた紫衣という僧侶の最高位を意味する衣装を、幕府が全て無効にした事件です。

    禁中並公家諸法度の16条には

    「紫衣を与える際には相手の僧侶が相応の知恵と人望を持っているかどうかをよく考慮すること」

    とあるように、この事件は重要なポイントです。

    当時の後水尾天皇は、幕府にまったく相談せず、独断で、京都・大徳寺の住職である沢庵たくあんらに紫衣を授けました。

    これに激怒した当時の三代将軍・徳川家光は、彼らの紫衣を取り上げ、反発した沢庵たちを流罪にしたのです。

    この事件により

    「幕府の命令は、天皇の命令に優先する」

    というイメージが広まり、幕府の実権が強調されました。

    ただし、この事件以降、禁中並公家諸法度に違反した場合の罰則については、あまり広まりませんでした。

    朝廷や公家は、力を持たないことを痛感し、法度を破ることに二の足を踏むようになった可能性があります。


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    この後、後水尾天皇はやる気をなくし、徳川家光の妹である徳川和子との間に生まれた興子おきこ内親王に皇位を譲ります。

    明正天皇めいしょうてんのうの誕生です。

    この紫衣事件を契機に、禁中並公家諸法度に違反すれば厳しい処罰が下されるというイメージが広まり、公家たちは徳川家に従うようになりました。

    また、幕府がまだ新しい存在であったため、厳罰をくだすことによって、幕府は絶対的存在であるという権威を示す必要があったというのも事実です。

    さらに、将軍・徳川家光の妹の娘が天皇になったことで、家光自身も天皇の親族としての地位が向上しました。

    この後、1632年に大御所・徳川秀忠が亡くなり、恩赦が発せられ、紫衣事件の関係者は赦免されました。

    特に、沢庵はその後、家光の側近としてその知恵を活かすことになります。


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    武家諸法度ぶけしょはっととの関係とは?

    武家諸法度は、武士・武家を取り締まるための法律です。

    対して禁中並公家諸法度は、禁中とお公家さん、つまり朝廷とお公家さんを取り締まるための法律です。

    一般的には、武家諸法度が武家に対して、禁中並公家諸法度が公家に対して適用されているとされています。

    しかし、時代が進むにつれて、朝廷や公家と武家の間での結婚が増え、区別が難しくなってきました(たとえば、家光の妹である和子が天皇と結婚しています)。

    武家諸法度が幕府の消滅まで何度も改正されたのに対し、禁中並公家諸法度は一度も改正されなかったといいます。

    次に、僧侶を管理するための法律である諸宗寺院法度(1665年に発布)との違いを見ていきます。


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    諸宗寺院法度しょしゅうじいんはっととの関係とは?

    禁中並公家諸法度は、公家を対象とした法令です。

    一方、諸宗寺院法度は、寺社つまりお寺や神社そして僧侶を取り締まる法令です。

    お公家さんに対しては、次のような規定があります

    1. – 俗人の時は、禁中並公家諸法度が適用される
    2. – お公家さんが出家して僧侶になった場合は、諸宗寺院法度が適用される

    それ以外にも、監視する役職も異なります。

    禁中並公家諸法度を、お公家さんがしっかりと守っているかどうか、それ監視する役職は、初めは京都所司代きょうとしょしだいの下にある京都郡代でした。

    後には京都代官が担当しました。

    諸宗寺院法度が公式に発布されたのは、1665年の4代将軍・徳川家綱の時代です。

    それ以前は、金地院崇伝が直接寺院の僧侶を管理し、彼の死後、1635年に幕府の寺社奉行じしゃぶぎょうが設置され、暗黙の了解のもとで僧侶が管理されていました。

    その後、諸宗寺院法度の発布とともに、寺社奉行が正式に僧侶の管理を行うこととなりました。


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    なぜ、お公家さんに比べて、僧侶を管理する法律が発布されるまでに時間がかかったのでしょうか。

    これは、宗教が人々の心の支えであり、コミュニケーションの要であるため、僧侶や信者からの反発を恐れていたためです。

    そのため、最初は偉い僧侶であった金地院崇伝が、法律を発布。

    次に幕府の寺社奉行が、時間をかけてじっくりと僧侶たちと信頼関係を築いてから、法律を発布することとなったのです。

    日本の歴史では、平安時代の有名な寺院は、その富と武力を利用して朝廷に影響を与えました。

    たとえば比叡山延暦寺は、神輿みこしをかついで朝廷・天皇に嫌がらせをする強訴ごうそとよばれる方法で、自らの要求を飲ませていました。

    「サイコロ・鴨川・山法師やまほうし

    この世は私の思いのままだが、この三つだけはどうにもならない」

    と、院政で絶対権力を手に入れた白河法皇も、山法師つまり寺社には手を焼いていました。

    延暦寺の強訴に激怒した平清盛が、神輿に矢を射かけた話は有名です。

    さらに織田信長は、そんな比叡山延暦寺に激怒し、焼き討ちにしています。

    織田信長
    引用元ウィキペディアより

    そして、戦国時代には、特に本願寺や一向宗が農民を結集し、周囲の大名に圧力をかけました。

    これらの事例から、寺院が宗教を担う一方で、朝廷や公家が実質的な存在でなかったことがわかります。

    →→→→→【比叡山焼き討ち】についてくわしくはこちら


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    まとめ

    本日の記事をまとめますと

    1. 禁中並公家諸法度とは、天皇とお公家さんを取り締まるために、徳川家康と徳川秀忠が定めた法律のことです。
    2. 禁中並公家諸法度の目的は、幕府は、天皇やお公家さんの行動を制限して、風紀を取り締まるためです。
    3. 猪熊事件という、美男子・猪熊をはじめ多くのお公家さんが、天皇の寵愛する女性と関係を持ってしまった事件をきっかけに、朝廷は取り締まりを幕府に求めた

    以上となります。

    本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

    よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

    ありがとうございました。


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