皆さんは「改易」という言葉を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 改易とは、大名が支配していた全ての領地を没収されること。領地召し上げ。
- 減封とは、支配する領地の一部を没収されること。つ領地削減。
- 改易された人物で有名な人といえば、石田三成や福島正則。また浅野内匠頭など
この記事では「改易とは何か」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は「改易」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「改易」に詳しくなれます。
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改易とは何か?わかりやすく簡単に小学生向けに解説
改易とは、領主は城主が、もっていた領地や城を没収されることです。
現代風にいえば改易は、会社の倒産またはクビと言いかえることができるかも知れませんが、当時はそれ以上に残酷なものでした。
「改易」と聞けば、多くの人が思い浮かべるのは、江戸時代の武家社会における厳しい処分のことでしょう。
しかし、その起源は遥か昔、律令制度が施行されていた時代、つまり飛鳥時代(7世紀後半の頃)にまでさかのぼります。
当時の「改易」は、官職の解任と新任者の任命を意味していました。
時代が移り、鎌倉・室町時代(12〜16世紀)になると、守護や地頭の職務変更を表す言葉として使われるようになりました。
しかし、今回焦点を当てるのは、江戸時代(17〜19世紀)の改易です。
江戸時代における改易とは、大名や旗本と呼ばれる比較的高い身分の武士が、その身分を剥奪され、領地や城を没収されることです。
大名のお家断絶、お取り潰しなどという言い方もするようです。
それは、前時代の改易と比べても、非常に厳しい処分といえるでしょう。
次の章では、改易が実際に実施されていた時代背景を探っていきましょう。
改易が行われていたのは、いつの時代のことなの?
改易が積極的に行われていたのは、江戸時代、またはその直前の安土桃山時代(16〜17世紀)の頃です。
前章で触れたように、「改易」という言葉自体は、かなり古くから存在していました。
しかし、「大名のお取り潰し」という意味合いを持つ改易が盛んに行われたのは、江戸時代における武家社会においてでした。
その中でも、改易が特に頻繁に行われた時期と、そうでない時期がありました。
1600年、関ヶ原の戦い
天下分け目の関ヶ原の戦後、徳川家康率いる東軍に敗れた西軍の大名たちは、多くが改易という厳しい処分を受けました。
石田三成、小西行長、長宗我部盛親、真田昌幸・信繁親子などです。
戦後処理の一環として、多くの家々がその領地と家名を失ったのです。
1615年、大坂夏の陣
豊臣家復活をかけた大坂夏の陣以降、戦乱が終焉をむかえると、改易の理由として世継ぎの不在や幕府法度の違反が挙げられるようになりました。
江戸時代初期はこの傾向が顕著でした。
二代将軍・徳川秀忠と、三代将軍・徳川家光によって、多くの家々が改易処分を受けました。
福島正則や本多正純などの改易が、その例です。
これにより、幕府権力は絶対的なものとなっていきました。
五代将軍・徳川綱吉の時代(江戸時代中期以降)
改易によって職を失った浪人が増加すると、政情不安が懸念されるようになりました。
そのため江戸時代中期以降、特に五代将軍・徳川綱吉の頃には、改易の件数は減少傾向にありました。
歴史家・磯田道史先生がいうには、ささいなことで改易をしすぎると、大名たちに間違ったメッセージを与えることになるからだそうです。
つまり改易をしすぎると、それはつまり大名を全部滅ぼして、徳川家のみの独裁国家をつくろうとしていると思われてしまうのだとか。
そんな勘違いをされると、大名はやぶれかぶれになって徳川家に反乱を起こすでしょう。
江戸幕府は、そうならないために、改易を減らして規制を緩和して、平和を維持しようとしたのです。
1868年、明治維新における改易
江戸時代終焉後にも、改易が行われた例がありました。
たとえば請西藩の林家は、明治新政府への反逆を理由として、1868年(明治元年)に改易処分を受けています。
戊辰戦争によって改易された唯一の藩といわれています。
次の章では、どのような大名が改易されたのか、その具体的な事例を見ていきます。
ちょっとしたことがきっかけで改易されてしまった大名もおり、その運命は同情を誘います。
改易された有名な人物一覧
改易された有名人といえば以下の人々が有名です。
- 高山右近
- 石田三成
- 小西行長
- 宇喜多秀家
- 長曾我部盛親
- 立花宗茂
- 真田昌幸・真田信繁
- 松平忠輝
- 福島正則
- 本多正純
- 浅野内匠頭
前章では、江戸時代における改易について概略を説明しました。
ここでは、実際にどのような大名が改易されたのか、その具体的な事例をいくつか紹介していきます。
西軍大名たちの改易:関ヶ原の戦い
天下分け目の関ヶ原の戦後、徳川家康率いる東軍に敗れた西軍の大名たちは、多くが改易という厳しい処分を受けました。
石田三成、小西行長、宇喜多秀家、長宗我部盛親といった武将たちは、その代表的な例と言えるでしょう。
長宗我部盛親は蟄居、宇喜多秀家は島流し。
石田三成・小西行長・安国寺恵瓊は、斬首という悲劇的な結末を迎えています。
福島正則の改易:武家諸法度違反
前章で触れたように、幕府法度の違反も改易の理由となりました。
その典型的な例が、賤ヶ岳七本槍と呼ばれた猛将7人の筆頭・福島正則の改易です。
彼は、台風によって破壊された広島城の石垣等を、幕府からの正式な許可を得ずに修繕したことが武家諸法度違反とみなされ、改易処分を受けてしまいます。
雨漏りを防ぐための修繕ということもあり、少々厳しすぎる処分と言えるかもしれません。
次の章では、改易された大名たちのその後について見ていきます。中には、改易後の人生で特異な道を歩んだ人物も存在します。彼らの波乱万丈な人生は、歴史の奥深さを教えてくれるでしょう。
改易された大名や武将は、その後どうなったの?
改易された武将たちは路頭に迷い、他の家に預けられるのが常でした。
しかし逆に、人生を楽しんだ者もいたようです。
改易処分を受けた大名たちの運命は、多く場合、悲劇的なものでした。
命を絶たされる者も多く、生き延びたとしても、監視下に置かれ、自由を奪われるのが常でした。
家臣たちも職を失い、浪人となるしかありませんでした。
しかし、例外も存在しました。
前述の宇喜多秀家は八丈島に流されましたが、加賀前田氏や旧臣からの援助を受け、50年間もの間、島で生活を続けました。
隔年で70俵の援助を受け、比較的厚遇されていたともいわれています。
1616年に刑が解かれた後、妻・豪姫の実家である加賀百万石の前田家から、大名復帰の提案されたものの、それを断ったという説もあります。
不自由な生活を送っていたにもかかわらず、権力への執着を捨て去った彼の心境は複雑であったでしょう。
関ヶ原の戦いで改易された猛将・立花宗茂は、その戦闘能力の高さを徳川家康に見込まれ、のちに大名として復帰しています。
また、有馬晴信という大名も例外的な存在です。
切腹したとも、家臣に首を切らせたともいわれていますが、彼の家系は存続しました。
これは、彼の息子である直純が徳川家康の側近であったことが理由です。
また、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭は、吉良上野介に斬りかかったことで、切腹・改易となっています。
しかしその後、浅野内匠頭の弟が、大名ではなく旗本として、浅野の家を再興しています。(大名とは1万石以上。旗本とはそれ以下で将軍に会うことができる身分のこと)
次の章では、改易と混同されやすい減封や転封について解説していきます。
それぞれの違いを理解することで、江戸時代の武家社会における厳しい身分制度をより深く理解することができます。
改易と減封・転封は、何が違うの?
改易とは領地没収。減封とは領地削減。転封とは領地のお引越しです。
江戸時代における武家社会は、厳格な身分制度によって支えられていました。
その中で、幕府は諸大名に対して、彼らの所領や地位に関わる様々な処置を講じていました。
改易
改易とは、大名家を取り潰し、領地と家名を没収する最も厳しい処罰です。
謀反や重大な罪状が問われた場合に適用され、家名断絶つまりはお家断絶という悲劇的な結末を招きました。
減封
減封は、所領の一部を削減する処罰です。
改易よりは軽い処分ですが、経済的な基盤を弱体化させ、大名の影響力を低下させる効果がありました。
たとえば、上杉謙信の子孫が代々藩主をつとめた米沢藩は、もともと120万石ありました。
しかし関ヶ原の戦いで30万石に減封されています。
その後さらに15万石に減封。
これで藩の財政は圧迫されましたが、先ほどご紹介した忠臣蔵の悪役・吉良上野介の子孫である上杉鷹山が、見事に藩政改革に成功して、藩の財政を再建しているのです。
余談ですが、吉良上野介も上杉鷹山も、今川義元・氏真親子の子孫にあたります。
転封
転封は、大名の所領を別の場所に移すことを指します。
改易や減封とは異なり、必ずしも刑罰的な意味合いを持つわけではありません。
江戸時代には、外様大名を江戸から遠ざける、親藩・譜代大名を江戸近辺に配置するといった目的で転封が行われました。
映画「引越し大名」では、徳川家康の次男・結城秀康の子孫たちが支配する松平家が、転封する際の苦労を面白おかしく描いていました。
加増
転封には、所領の削減を伴わないケースも存在しました。
特に、関ヶ原の戦いにおいて徳川家康に味方した有力外様大名は、加増された上で転封されています。
加増とは、禄高や領地を増やすことです。
関ヶ原の戦いで、活躍した武将は、特に莫大な加増を受けています。
たとえば徳川家康の娘婿だった蒲生秀行は18万石から60万石へ加増。
同じく家康の娘婿だった池田輝政は37万石から52万石へ加増。
これらの加増は、大名たちの反抗心を抑え、徳川家への忠誠を強固なものにする効果がありました。
ところで、加増された領地は、いったいどこから持ってきたのでしょうか?
加増のための領地は、改易や減封によって没収された領地です。
例えば、関ヶ原の戦いで勝利した東軍の武将たちに与えられた大量の領地は、敗北した西軍の武将たちの領地を改易して手に入れたものなのです。
毛利輝元も、上杉景勝も、120万石もあった領地が30万石まで減封されています。
毛利輝元から没収された領地は、福島正則に与えられました。
上杉景勝から没収された領地は、蒲生秀行に与えられました。
徳川幕府は、領地の取り上げと分け与えを巧妙に行うことで、大名間の勢力バランスを調整し、自らの支配基盤を固めていったのです。
次の章では、改易と、明治政府がおこなった廃藩置県の違いを解説いたします。
改易と廃藩置県の違いとは?
改易とは、法律に反することをした場合に罰として領地を没収されることです。
廃藩置県とは、罰としての意味ではなく、藩というものを県に置きかえるために、全ての藩主の領地を没収した歴史的改革・近代化のことです。
1871年、明治政府は全国に300も存在していた藩という、いわば独立国を廃止して、県を置きました。
これを廃藩置県といいます。
改易とは、江戸時代の当時に存在していた法律・武家諸法度などに違反した場合に、罰としておこなわれることです。
それに対して廃藩置県とは、罰としての意味はなく、あくまでも日本を近代的な統一国家にするために行なわれた改革です。
改易も廃藩置県も、どちらも結果は同じで、大名たちは領地を失いました。
しかし、改易は懲罰としてのもの、廃藩置県は改革、言いかえれば既得権益の破壊だったのです。
結果は同じでも、目指した意味合いは、全く違うのです。
→→→→→【廃藩置県をわかりやすく簡単に解説】についてくわしくはこちら
四字熟語「改易蟄居」の使い方と意味
「改易蟄居」という四字熟語は、改易は領地没収、蟄居は謹慎処分を意味し、現代では懲戒免職(クビ)または自宅謹慎の意味でつかわれるようです。
改易と蟄居は、江戸時代の武家社会における刑罰です。
改易は、大名家を取り潰し、領地と家名を没収する厳しい処罰でした。
一方、蟄居は、自宅の一室に謹慎させ、外出を禁じる比較的軽い処罰でした。
現代では、「改易蟄居」という言葉は、元々の意味合いとは少し異なり、「その人の持ち場の第一線から退かせる」という意味で使われることがあります。
例えば、「会社から改易蟄居を命じられて、自宅謹慎の身となった」と言えば、その人は会社に出勤できなくなり、自宅で謹慎していることを意味します。
例文を一つ作成してみると
「改易蟄居をちらつかせて、私の言論を封じようとしても、そうはいかない」
というように、組織における懲罰としての意味につかわれています。
次の章では、江戸時代の武家社会における改易と、現代の職業との意外な関係について見ていきます。
改易された大名たちが就いた職業とは?
改易された大名たちは、職について身をたてることが多かったのです。
例えば寺子屋の先生、または参謀・軍師つまりコンサルタントやアドバイザーなどで身をたてた人がいたようです。
前章では、江戸時代の武家社会における厳しい処罰である改易について、その意味や歴史的な背景を詳しく説明しました。
改易は、大名家にとって家名断絶という悲劇的な結末を招くものであり、まさに人生を左右する重大な出来事でした。
しかし、驚くべきことに、改易された大名と現代の職業の間には、密接な関係が存在しているのです。
教師と寺子屋
現代社会における教師という職業は、江戸時代の寺子屋にその起源をさかのぼることができます。
当時は、教員免許のような制度が存在しなかったため、読み書きさえできれば誰でも寺子屋の先生になることができました。
そのため、改易によって職を失った浪人たちは、寺子屋の先生として新たな人生を歩み始めることが多かったのです。
たとえば、関ヶ原の戦いで改易された武将・長宗我部盛親は、寺子屋の先生をしていたといいます。
武将は文字の読み書きを幼い頃から学んでいますので、人に教える教養が豊かだったのです。
たとえば、明治維新で武士たちは特権を失い路頭に迷ったといわれていますが、それは少し違います。
ほとんどの武士は、教師や警察または役人や政治家など、教養と戦闘能力を必要とする社会的身分の高い職業に就いたのです。
たとえば新選組三番組長・斎藤一は、明治維新後は警察官をしていました。
幕臣だった渋沢栄一は明治政府の役人となり、大蔵省の官僚として務めています。
同じく幕臣だった榎本武揚は政治家になり、明治新政府の外務大臣を務めています。
コンサルタント
さらに興味深いのは、改易された武将たちは、現代の経営コンサルタントのように、他の国の経営や軍事のアドバイザー業務を担当することもしばしばあったのです。
たとえば高山右近は、豊臣秀吉に改易されたあと、前田利家の参謀・軍師として加賀藩でつかえています。
さらに真田信繁(幸村)は、領地を没収されて九度山に幽閉されたあと、参謀・軍師として豊臣秀頼にまねかれています。
現代のコンサルタントと同様に、特定の場所に留まることなく、様々な場所で仕事を行うプロフェッショナル集団であったと言えるでしょう。
このように、改易によって職を失った大名や家臣たちは、現代社会にも繋がる様々な職業に就いていました。
彼らは、苦難を乗り越えて新たな道を切り開いていったのです。
例外として、改易されたあと出家する者もいたようです。
例えば徳川家康の六男・松平忠輝は、改易されたあと、出家して僧侶となっています。
豊臣秀吉によって滅ぼされて改易となった北条氏直も、出家しています。
江戸時代の改易は、現代社会における様々な問題を考える上で、重要なヒントを与えてくれます。
厳しい状況下でも、希望を捨てずに努力を続けること。
そして、変化を恐れずに新たな道に挑戦すること。
これらの歴史的な教訓は、現代を生きる私たちにとっても、大きな意味を持つと言えるでしょう。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 改易とは、大名が支配していた全ての領地を没収されること。領地召し上げ。
- 減封とは、支配する領地の一部を没収されること。つ領地削減。
- 改易された人物で有名な人といえば、石田三成や福島正則。また浅野内匠頭など
以上となります。
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