幕末の京都を恐怖におとしいれた「人斬り以蔵」こと「岡田以蔵(おかだいぞう)」について、その「生涯」と「最期」、そして「辞世の句に込められた意味」を、わかりやすく解説いたします。
「武市半平太のために、人斬りを繰り返した剣豪・岡田以蔵」
実はとっても「いいヤツ」だった
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
・岡田以蔵とは「幕末四大人斬り」の一人、通称「人斬り以蔵」
・岡田以蔵は、八月十八日の政変で長州藩が京都を追い出され、「攘夷運動」が勢いを失ったと同時に、土佐藩の役人に捕まった
・以蔵の辞世の歌・・・そこには「武市半平太」への失望が記されている
岡田以蔵とは何をした人なのか?その功績を解説
幕末の剣客「岡田以蔵」
岡田以蔵はどのような功績を残して、歴史にその名前を刻んだのでしょうか?
岡田以蔵の功績
岡田以蔵の功績を解説いたします。
・土佐勤王党に協力して「尊皇攘夷」に尽力した
歴史に名を残す程の偉業を成し遂げたわけではありません。ただ、坂本龍馬の友人であり、勝海舟とも接点がある岡田以蔵の名前は、歴史にはっきりと残っています。
「人斬り以蔵」と呼ばれるほど、暗殺を得意としていた岡田以蔵・・。
当時から岡田以蔵は「天誅(暗殺)の名人」と呼ばれていたみたいですね。「人斬り半次郎」と呼ばれた薩摩藩士「中村半次郎(桐野利秋)」は、人を斬ったという記録は「赤松小三郎」斬殺の、わずか1件のみで、「人斬り」と呼ばれたのは、後世の創作と言われています。
しかし、「岡田以蔵」は紛れもなく「人斬り」だったのです。とはいえ、「人斬り以蔵」というあだ名は「司馬遼太郎」の小説でつけられたものだと言われています。
簡単年表
1838年2月14日
岡田以蔵・・・土佐藩郷士「岡田義平」の長男として誕生
1848年
父が足軽に徴募されたため、長男・以蔵も「足軽」身分を継承(しかし、岡田家は郷士、つまり土佐藩の下級武士であるものの、その最上位に位置していたため、それほど貧しかったわけではないという説もある。)
1856年
武市半平太に従って江戸へ留学
1857年
土佐藩へ帰国
1860年
武市半平太に従い、中国地方・九州を旅する
1861年
江戸へ・・・・この頃、武市半平太が結成した「土佐勤王党」に参加
1862年
土佐へ帰国・・・・同年6月、参勤交代・衛士に任命され「京都」へ
これ以降、京都で幕府側の人間を標的にして、暗殺を繰り返す
1863年
土佐藩を脱藩
同年、「八月十八日の政変」が勃発し、尊皇攘夷派の急先鋒だった「長州藩」が京都から追放。これにより「公武合体派」が台頭し、土佐勤王党は衰退していく
この頃、旧友・坂本龍馬の依頼で「勝海舟」の護衛を務める
1864年
商家へ強盗に押し入り、逮捕。土佐藩へ強制送還
土佐藩における「吉田東洋」暗殺事件の拷問を受けて自白。土佐勤王党員が次々粛清
1865年
打首・・・・・・享年28歳
子孫
岡田以蔵には子供がいません。
そのため、岡田家の家督は、以蔵の弟「岡田啓吉」が相続しています。
啓吉は明治維新を生き残り、後に「佐賀の乱」を起こした「江藤新平」が土佐に逃げてきた際、土佐勤王党の仲間とともに「江藤新平」を船に乗せて逃したと言われています。
「啓吉」の息子「岡田虎輔」は、明治新政府の大蔵省へ入って「たばこ専売制」の制度完成に尽力
もともと「岡田虎輔」は、「朝鮮総督府専売局技師」として活動していたのですが、その後「鈴木商店」へと入社。役員として活動した後、「米星煙草」の社長を務めています。
弟「啓吉」の末裔が現在も続いており、以蔵が「勝海舟」から受け取ったという「リボルバー」拳銃を現在も大切に継承しています。
岡田以蔵の愛刀
以蔵が使っていた「刀」は、今どこにあるのでしょうか?
以蔵の愛刀、その名前は「備前忠弘」。かなりの名刀で、友人だった「坂本龍馬」からもらったものと言われています。
実はこの刀、もともとは坂本龍馬の姉「坂本乙女」から、龍馬の兄「権平」へとプレゼントされたもの・・・。その刀が、龍馬が土佐藩を脱藩する際に、姉「栄」から弟「龍馬」へと送られたのです。
それが、龍馬の手から「岡田以蔵」へと贈られたのでした。
以蔵はこの「備前忠弘」を使って、「本間精一郎」を暗殺。その際に刀の切っ先を破損。
「備前忠弘」は、一時期、東京の「靖国神社」境内に併設された宝物館「遊就館」で展示されていましたが、その後行方知れずとなり、現在に至っています。
岡田以蔵の生涯年表と最後
岡田以蔵の生涯と最期を解説いたします。
生い立ち
1838年2月14日
土佐郡江ノ口村、土佐藩郷士「岡田義平」の長男として誕生。
父・岡田義平は土佐藩の下級武士「郷士」。
しかし、郷士は土佐下級武士の中でも最上位だったため、「貧しかったわけではない」という説もあります。
1853年
徳弘塾に入門して「西洋砲術」を学ぶ。
1855年
土佐藩士「武市半平太(瑞山)」が道場を開いたため、以蔵も弟子入り。同門には「坂本龍馬」と一緒に暗殺された「中岡慎太郎」も。
「武市半平太」との長く深い付き合いが始まります。
武市半平太と共に江戸・諸国を旅する
1856年
以蔵は武市半平太に従って、剣術修行のために江戸へ留学。「士学館」で剣術を学ぶ。岡田以蔵はこの頃、同時期に江戸「千葉道場」へ留学していた「坂本龍馬」と出会った、という説があります。
1857年
土佐藩へ帰国
1860年
武市半平太が諸国を歩いて武者修行をする・・・ということで以蔵も同行。
半平太の目的は「修行」ではなく、あくまでも西国にある諸藩の動向を調査することにありました。ちなみにこの時の武者修行を、武市半平太の遠縁で親友「坂本龍馬」は
「今どき武者修行かよ」
とバカにして笑っていたと伝えられています。
途中で以蔵は、豊後国岡藩で半平太たちと別れ、堀道場というところに残って修行しています。残ったわけは、貧しい以蔵がここで土佐に戻ってしまったら、二度と土佐から外へ出られないだろうから・・・という武市半平太なりの配慮だったと言われていますが・・・。貧しかったわけではないとも言われているようなので、詳細は不明。
1861年
以蔵はその後、江戸へ出た後、土佐へ帰国しています。
土佐勤王党に参加・・・「人斬り以蔵」
1861年4月
武市半平太が剣術修行のために江戸へ出発。
武市は江戸で「土佐勤王党」を結成。「土佐勤王党」とは、「尊皇攘夷(天皇を守り、外国勢力を武力で打ち払う)」という思想を掲げた土佐藩の下級武士集団。
この「土佐勤王党」に「坂本龍馬」が筆頭として参加。岡田以蔵もまた、土佐勤王党として参加しています。
1862年6月
岡田以蔵は土佐藩の「参勤交代・衛士」に任命され、武市とともに京都へ。
以蔵はこの時から「京都」で暗殺を行うようになります。
薩長などの「攘夷派」の人間と協力して、大老「井伊直弼」による「安政の大獄」に参加した人間を中心に「天誅」と称して暗殺を繰り返しているのです。
岡田以蔵は持ち前の剣の腕で、後世「人斬り以蔵」と呼ばれ、薩摩藩「田中新兵衛」「中村半次郎(桐野利秋)」、熊本藩士「河上彦斎」とともに「幕末四大人斬り」と呼ばれることとなります。
勝海舟の護衛
1863年1月
以蔵は土佐藩を脱藩。
この頃、以蔵は自らが所属する「土佐勤王党」と同じ「尊皇攘夷派」の「長州藩」の藩邸に寄宿していました。
その後、友人「坂本龍馬」の依頼で「勝海舟」の護衛をしていたとも言われています。
勝海舟が3人の刺客に襲われた際、以蔵は一瞬で1人を惨殺。残り2人は逃亡。勝海舟は以蔵に対して
「君は人斬りをたしなむべきではない」
と、その殺気をたしなめるようなことを言っています。
これに対して以蔵は
「俺がいなかったら先生は死んでいましたよ」
と返答。
この御礼に、勝海舟は以蔵にフランスの「ルフォシュー」製の「リボルバー拳銃」をプレゼントしたと言われています。
一説によると、以蔵はこの後、勝海舟の依頼で「ジョン万次郎」の護衛もしていたと言われていますが、定かでありません。
捕まって土佐藩へ強制送還!最期
1863年8月
京都で「八月十八日の政変」が勃発。
この「八月十八日の政変」で、「尊皇攘夷」の急先鋒であった「長州藩」が京都から追放されます。
これにより、それまで盛り上がっていた「尊皇攘夷」運動が衰退。変わって「佐幕派(幕府を助ける一派)」の「公武合体論」が盛りあがり、「公武合体派」の「薩摩藩」と「会津藩」が実権を握るようになります。
この「尊皇攘夷」の衰退を敏感に感じ取ったのが土佐藩の前藩主「山内容堂」・・・。山内容堂は「尊皇攘夷」が衰退し、「公武合体」が盛り上がった世の流れの乗ろうと、「尊皇攘夷派」の処分に乗り出します。武市半平太を始めとする「土佐勤王党」は次々と捕まってしまいます。
1864年
京都で食うに困った岡田以蔵は、商家へ盗みに入り捕縛されます。
そして土佐藩へ強制送還・・その時土佐藩では、「土佐藩・参政」を務めていた「吉田東洋」の暗殺について、土佐勤王党の関与が疑われ、党員は次々と捕縛されていました。
この時、武市半平太は、「岡田以蔵」が「八月十八日の政変」で京都を追放された「長州藩」の面々とともに、長州・萩へ逃げていたと思っていたようです。以蔵が送還されてきて驚いた武市半平太・・・。
女性でも耐えたと言われた拷問に、以蔵は次々と自白を繰り返します。
これにより、それまで捕らえられていなかった土佐勤王党のメンバーが次々と捕縛。
焦った土佐勤王党員は、以蔵を毒殺しようと画策。以蔵の家族に「毒殺」の了承を得ようと試みます。
しかし武市半平太が無理な毒殺に反対。以蔵の父「義平」が「毒殺」に同意しなかったとも言われています。とにかく以蔵が毒殺されることはなかったのでした。
結果、土佐勤王党は崩壊。
1865年7月3日
岡田以蔵・・・打首獄門・・・享年28歳。
以蔵が亡くなった1ヶ月後、父「義平」もまた亡くなっています。死因は不明。病死だったのか、それとも追腹を斬ったのか。くわしくは不明です。
後継者だった「以蔵」が処断されたにもかかわらず、「岡田家」は、お取り潰しなどの罰を受けた形跡はありません。それだけ力のある家柄だったのかもしれない、という説もあります。
同日20時頃、「武市半平太」も切腹して亡くなっています。
武市はこの時、誰も成し遂げたことのない「三文字割腹の法」を用いて亡くなりました。
以蔵のお墓は、高知県高知市の「薊野駅」近くにある「真宗寺山」の岡田家類題の墓地。
岡田以蔵の諱「宜振(よしふる)」の名前で埋葬されています。
辞世の句と、その意味
岡田以蔵は、辞世の歌を残しています。
「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空」
君とは、間違いなく「武市半平太」のことでしょう。
武市半平太のために尽くしたこの心は、全てが水の泡となった。消えてしまった後は、すっきりと澄み渡る空が残っている
これは武市半平太に対する恨みというか、失望が表現されているような気がします。
武市のために数々の人斬りをやった以蔵・・・。しかしそれもこれも、全てが水の泡となってしまった・・・という無念の気持ちが歌われているのでしょう。
以蔵は死刑を言い渡された際に、牢屋の番人に対して「武市によろしく伝えてくれ」と伝言を頼んでいます。
この伝言を伝えられた武市は、数々の自白をして仲間を次々死に追いやっておきながら、「よろしく」などという言葉を口にする以蔵の恥知らずっぷりに、呆れ返っていました。なんといっても、以蔵の自白で真っ先に武市の身内が亡くなっているのですから。
とはいえ以蔵には、悪気などなかったのかもしれません。女子が耐えた拷問・・・といっても、現代人である我々からすると、その凄まじさは想像を絶します。拷問されたら、関係ない人の名前でもしゃべっちゃいそうです。
ただただ、師匠「武市半平太」についていき、武市のために人斬り・・・今でいう「テロ」までやっていた以蔵・・・武市半平太に見捨てられ、絶望していたのか・・・・それともそこには「澄み渡る空」が広がっていたのか・・・今となっては誰にもわかりません。
武市半平太から剣の腕を買われて暗殺を依頼され、龍馬からもその腕前を買われて勝海舟の護衛を依頼され、両方をこころよく受けて成功させている岡田以蔵・・・。もしかしたら、友達思いのとてもいいヤツだったのもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・岡田以蔵・・・武市半平太の門下生にして、土佐勤王党のメンバー。人斬り以蔵と呼ばれるほど暗殺をし、尊皇攘夷に尽力した
・八月十八日の政変で、「尊皇攘夷」思想が衰退すると、山内容堂に捕縛され、岡田以蔵は処刑された
・拷問に耐えかねて次々と土佐勤王党員の名前を暴露。最期は武市半平太に呆れられ、処刑された
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
「坂本龍馬」「武市半平太」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
↓↓↓↓↓↓
コメント
コメント一覧 (2件)
読みやすく詳しく書いてありとても良かったです!
是非とも田中新兵衛や川上彦斎も書いてほしいと思います
いつもお世話になっております。
貴重なコメントを頂きまして、ありがとうございます。
なにとぞこれからも、当サイトをよろしくお願いいたします!
「田中新兵衛」と「川上彦斎」については、書きたいと思っておりました。
まだ先になるかもしれませんが、検討させていただきます。
ご希望をお送りいただきまして、誠にありがとうございます!