篤姫さんは薩摩のお姫様。
NHK大河ドラマの主人公にもなったお方。(主演・宮﨑あおい)
篤姫が嫁いだのが、徳川将軍家。
夫の「徳川家定」は、バカ殿だったって本当でしょうか?
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この記事を短く言うと
・「天璋院篤姫」と「徳川家定」の夫婦仲は、それほど良くなかった
・徳川家定の趣味は「お菓子作り」で、松平春嶽からは「イモ公方」とあだ名された
・篤姫輿入れ(嫁入り)の目的は「一橋慶喜」擁立のためではなく、「後継ぎ誕生」を期待してのこと
篤姫と徳川家定の夫婦仲は?
篤姫は、薩摩島津家の一門に生まれました。
徳川家から13代将軍・徳川家定の結婚相手を求められていた島津家が、一門の女子をよりふさわしい格式ある女子に・・という理由で、島津本家当主「島津斉彬」の養女として、篤姫を迎えたのです。
次いで、将軍の嫁は公家から迎えるという慣例に倣い、右大臣・近衛忠煕の養女となります。
その後、篤姫は徳川家定と結婚します。
後述するように、家定は病弱であったためか、二人の間には子供はできませんでした。
残念ながら夫婦仲はよくなかったようです。
そして、結婚してわずか2年、家定は35歳の若さで亡くなります。
未亡人となった篤姫は天璋院と名乗ります。
徳川家定は『イモ公方』と呼ばれた暗君だった
徳川家定は第12代将軍徳川家慶の四男として生まれます。
家慶は14男13女を儲けましたが、成人まで生き残ったのは、なんと家定だけ。
その家定も幼少の頃から病弱でした。
一説には脳性麻痺だったといわれています。
病弱のために、父・徳川家慶は、「後継ぎにしていいものかどうか」最後の最後まで悩み、正室の甥である「徳川慶喜(後の15代将軍)」を世継ぎにしようとしたほどでした。
知的障害があったともされる家定は、あらゆる伝記や小説で「暗愚」として描かれてきました。
アヒルを追いかけまわして遊んでいたというエピソードは、明治期の朝野新聞の記事から派生して作られたものであるようですが、こうした話が早い段階で語られてきたのです。
また、カステラを作ったりするなど、菓子作りが趣味だったとされています。
煮豆やふかし芋などを作り、自分だけで食べずに、時には家臣たちに振る舞っており、越前福井藩主「松平春嶽」からは「イモ公方」などと呼ばれたそうです。
しかし最近の研究で、家定はそれほどの「暗愚」ではなかったという意見もあります。
公使ハリスとの引見の際には、あらかじめ用意されていた
「遙か遠き国から使節を託して寄せられた書簡に接して、欣快である。
同時に使節の口上にも、満足を覚ゆる。
永遠の交誼を望む。」
という言葉を間違えることなく述べています。
水戸「徳川斉昭」は、家定が政治について何も分かっていない、という趣旨の記述をしていますが、気の知れた家定の近くの人とは議論することもあり、将軍として自らの意見を持ち、内憂外患の当時の政治状況に心を砕いていたとされています。
運動障害や軽度の知的障害、さらに幼少期の疱瘡により顔にあざがあったことも重なり、家定が周囲の目を気にしていたことは想像に難くないですが、決して「暗愚」と呼ばれるほど将軍職に無関心ではなかったのです。
篤姫が嫁いだ理由は『一橋慶喜』を将軍にするため?
家定が病弱であり、将軍継嗣問題が急浮上していました。
次期将軍の座をめぐって、紀州藩の「徳川慶福(後の14代将軍・徳川家茂)」を推す派と、水戸斉昭の実子で一橋家養子の「一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)」を推す派が対立していたのです。
篤姫の養父・島津斉彬は一橋派で、篤姫を徳川家へ輿入れさせることにより、水戸嫌いの大奥の意向を「慶喜支持」に変えることを篤姫に期待していたと言われています。
ただ、篤姫は自ら擁立する予定だったにもかかわらず、当の慶喜とは仲が悪かったそうです。
なかなか思う通りにはいかないものですね。
一方、大奥が島津家に縁組みを持ちかけた理由として、島津家出身の御台所(広大院)を迎えた先々代将軍「徳川家斉」が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたものと言われています。
また、島津家側の理由としては、広大院没後の家格の低下や、琉球との密貿易問題などを、将軍家との姻戚関係を復活させることで解消しようとした、とも考えられます。
病弱な家定に対し、健康そのものだった篤姫を嫁がせて、後継者誕生を願ったのかもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・家定が病弱であったせいか、篤姫との夫婦仲はよくなく、子供もできませんでした。
・家定は知的障害があったと言われています。菓子作りが趣味で、「イモ公方」と呼ばれたそうです。一方で、それほどの暗愚ではないという意見もあります。
・島津斉彬は家定の後継者問題を自分に有利に進めるため、篤姫を徳川家へ輿入れさせたと言われています。一方徳川家と島津家の関係改善のためとも。
幕末の激動の時代を生きた篤姫。
徳川家定死後も薩摩に帰ることなく、徳川家の人間として生きました。
討幕軍が江戸に迫った時には実家の薩摩軍に使者を送り、徳川家の存続を求めています。
特に、江戸城無血開城には篤姫が西郷隆盛に送った手紙の功が大きかったと言われています。
逃げ出す幕臣がいる中で、篤姫は大奥の責任者として最後まで留まり、質素な生活を続けながら徳川宗家16代家達(いえさと)を養育しました。
篤姫の毅然とした、立派な性格がうかがえます。
以上です。
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