NHK大河ドラマ『篤姫』などで感動的に描かれ、今なお多くの歴史ファンの心を掴んで離さない徳川家定と篤姫の物語。
幕末という激動の時代に結ばれた二人の関係性については、これまで数多くの議論が交わされてきました。
「相思相愛の仲睦まじい夫婦だった」というロマンチックな説がある一方で
「政略結婚ゆえに心は通い合っていなかった」
「家定の病状により夫婦生活自体が成立していなかった」
というシビアな見方も根強く存在します。
実際のところ、第13代将軍・徳川家定と、薩摩から嫁いだ篤姫の仲はどうだったのでしょうか。
この記事では、徳川記念財団や歴史博物館などに残された史料、当時の側近たちが書き残した日記などの一次資料をもとに、二人の夫婦生活の真実、子供がいなかった医学的・状況的な理由、そして幕末の動乱を「徳川の妻」として生き抜いた篤姫の想いに深く迫ります。
歴史の教科書には載っていない、二人の人間ドラマを紐解いていきましょう。
- 徳川家定と篤姫の実際の夫婦仲に関する歴史的背景と真実
- 二人の間に子供がいなかった具体的な理由と医学的見地
- 「イモ公方」と呼ばれた家定の意外な素顔と篤姫との絆
- 幕末の動乱期における篤姫の役割と徳川家への多大な貢献
徳川家定と篤姫の仲は良好だった?結婚生活の真実

第13代将軍・徳川家定と、薩摩藩主・島津斉彬の養女である篤姫の結婚は、幕末の歴史における大きな転換点の一つでした。しかし、その内実は多くの謎に包まれています。まずは、二人の基本的な情報を整理してみましょう。
| 項目 | 内容 | 備考 |
|---|---|---|
| 結婚期間 | 安政3年(1856年)~安政5年(1858年) | 実質約1年9ヶ月という短期間 |
| 子供 | なし | 家定の健康問題が主因とされる |
| 家定の性格 | 病弱で内向的だが聡明な一面も | 人前を嫌い「イモ公方」と揶揄された |
| 夫婦仲 | 短期間ながら精神的な絆は深かった | 墓所が隣同士であることが最大の証左 |
夫婦仲は良かった説と悪かった説の真相
徳川家定と篤姫の夫婦仲については、当時の大奥関係者の証言や史料が限られているため、歴史家の間でも意見が分かれています。「不仲説」の根拠としては、結婚生活がわずか1年9ヶ月と非常に短かったことや、篤姫が「次期将軍を一橋慶喜にする」という島津斉彬からの政治的密命を帯びて嫁いできた背景が挙げられます。このため、「あくまで政略結婚であり、心を通わせるような情緒的な関係を築く余裕はなかった」と分析する研究者もいます。
一方で、家定が篤姫にだけは心を開いていたという記録も確かに残されています。極度の人嫌いであった家定ですが、篤姫とは頻繁に顔を合わせ、言葉を交わしていたと言われています。特に有名なエピソードとして、家定が趣味で作ったお菓子(カステラやふかし芋など)を、篤姫に振る舞っていたという話があります。大奥という閉鎖的で緊張感のある空間において、二人で菓子を分け合う時間は、他者には計り知れない穏やかな安らぎのひとときだったのかもしれません。
詳しくは、以下の記事でも解説しています。
篤姫と徳川家定の夫婦仲は最悪?夫はイモ公方と呼ばれたバカ殿だった
2人の間に子供がいなかった理由

篤姫が将軍正室(御台所)として大奥に入った最大の公的な目的は、将軍家の世継ぎを産み、徳川の血筋を絶やさないことでした。周囲の期待は非常に大きかったものの、結果として二人の間に子供は生まれませんでした。これには、単なる運やタイミングではない、いくつかの明確な理由が存在します。
子供がいなかった主な要因
- 家定の深刻な健康状態: 家定は幼少期から非常に病弱で、現代でいう脳性麻痺の症状があったとも推測されています。体力は乏しく、日常の歩行さえ困難な時期があったと言われており、子作り自体が物理的に困難だった可能性が高いです。
- 結婚期間の短さと年齢: 篤姫が輿入れした時、家定はすでに30代前半でした。当時の平均寿命を考慮すると決して若くはなく、さらに結婚生活が2年弱で終わってしまったため、懐妊の機会そのものが限られていました。
- ストレスフルな環境: ペリー来航以来の国難、将軍継嗣問題を巡る幕閣の対立など、家定を取り巻く環境は極めてストレスフルであり、これも体調悪化に拍車をかけたと考えられます。
徳川家の歴史を保存・研究する徳川記念財団の資料などでも、歴代将軍の健康状態については言及されており、家定が特に虚弱体質であったことは歴史的事実として認識されています。(参照:徳川記念財団公式サイト)
「イモ公方」と呼ばれた家定の素顔と篤姫への想い

徳川家定は、歴史小説やドラマなどでしばしば「イモ公方」や「暗愚な将軍」として描かれることがあります。これは、彼が公務よりもサツマイモを蒸かしたり、カステラを焼いたりする料理に熱中していたこと、そして人前に出ると奇妙な動きをしたり、まともに会話ができなかったりしたという記録に由来します。
しかし、近年の歴史研究では、この評価が見直されつつあります。「家定は実は聡明な人物であり、暗愚を装っていただけではないか」という説です。当時、将軍の地位を巡る毒殺や陰謀が渦巻く中、自らの命を守るためにあえて「能なし」を演じ、敵対勢力の警戒を解いていた可能性があります。
信長さんもし家定が本当に演技をしていたとしたら、その仮面を脱いで素顔を見せていたのは、心を許した篤姫だけだったのかもしれません。二人きりの時には、日本の将来や政治の話もしていたという逸話も残っているんですよ。
家定には側室がおらず正室は篤姫だけだった?


江戸時代の将軍といえば、多くの子孫を残すために多数の側室を抱え、大奥には数千人の女性がいたというイメージが一般的です。例えば、11代将軍・家斉などは数多くの側室と子供を持っていました。しかし、家定の生涯において、側室の存在感は驚くほど希薄です。
家定は生涯で3人の正室を迎えました。最初の正室・鷹司任子(あつこ)、二番目の正室・一条秀子とは死別し、三番目の正室として篤姫を迎えました。その間、公式に「側室」として寵愛を受けた女性の記録はほとんど残っていません。お志賀の方という側室がいたことは知られていますが、家定との関係は形式的なものであったとも言われています。
これは、家定の病弱さもさることながら、彼自身が特定の女性(正室)を大切にする、誠実で一途な性格だった可能性を示唆しています。篤姫が大奥に入ってからは、家定にとって彼女は単なる「世継ぎを産むための道具」ではなく、唯一の理解者であり、精神的なパートナーとして尊重されていたと考えられます。
夫婦が隣同士で眠るお墓が示すもの
家定と篤姫の仲を証明する、最も静かで、かつ最も雄弁な証拠がお墓です。徳川家の菩提寺である東京・上野の寛永寺には、家定と篤姫(天璋院)の墓塔が仲良く寄り添うように並んで建てられています。
通常、将軍の墓所は威厳を示すために独立して作られるのが慣例です。しかし、篤姫は生前、「家定公のそばで眠りたい」と強く望んだと伝えられています。あるいは、周囲の人々が二人の絆の深さを理解し、死後も離れ離れにならないように計らったのかもしれません。いずれにせよ、この並んだ墓石は、政略結婚という枠を超え、二人の間に確かな愛情と信頼関係があったことを、150年以上の時を超えて私たちに伝えています。
徳川家定と篤姫の仲が幕末に与えた影響


二人の関係は、単なる夫婦の物語にとどまらず、その後の日本の歴史を左右する大きな要因となりました。篤姫が家定との生活を通じて得た「徳川家の人間」としての自覚は、後の江戸無血開城へと繋がっていくのです。
| 人物 | 関係性 | 歴史への具体的な影響 |
|---|---|---|
| 徳川家定 | 第13代将軍 | 将軍継嗣問題の中心人物として、死後に政局を大きく動かす |
| 篤姫 | 御台所(正室) | 江戸城無血開城に尽力し、徳川家の存続を決定づける |
| 和宮 | 14代家茂正室 | 公武合体の象徴として降嫁し、後に篤姫と協力して徳川家を守る |
篤姫の嫁入りは政略結婚だったのか
歴史的な事実として見れば、篤姫の嫁入りは間違いなく高度な政治的判断に基づいた「政略結婚」でした。当時の薩摩藩主・島津斉彬は、幕政改革を主導するために、自分の養女である篤姫を将軍家に送り込み、大奥から幕府への影響力を高めようと画策しました。
篤姫に課せられた特に重要な使命は、病弱な家定の次期将軍(14代)として、水戸藩出身で英明の誉れ高い「一橋慶喜(後の徳川慶喜)」を推挙することでした。しかし、篤姫は家定との生活を通じて、単なるスパイや工作員ではなく、「徳川家の妻」としての自覚を深めていきます。彼女は次第に、実父・斉彬の指令よりも、夫である家定の意思と徳川家の存続を最優先に考えるようになり、最終的には家定が望んだ紀州慶福(徳川家茂)を支持する立場へと変化していきました。
家定の死因と暗殺説の真相
安政5年(1858年)、徳川家定は35歳の若さで急死しました。公式な記録では、長年の持病であった脚気(かっけ)が悪化したことが直接の原因とされています。当時、脚気は「江戸患い」とも呼ばれ、ビタミンB1不足によって心不全を引き起こす死に至る病でした。
しかし、その死のタイミングがあまりにも将軍継嗣問題の決着(南紀派の勝利)と重なっていたため、当時から「毒殺されたのではないか」という噂が絶えませんでした。特に対立していた大老・井伊直弼による毒殺説は、講談や小説などで繰り返し語られてきました。しかし、現代の医学的見地や史料の分析からは、やはり慢性的な病状の悪化による病死である可能性が高いとされています。詳細な死因や当時の状況については、以下の記事で詳しく解説しています。
徳川家定の死因とは?うつけのふりをしてた説や暗殺説と篤姫との関係
篤姫は家定の死後、徳川家のために生きる


家定の死後、篤姫は髪を下ろして仏門に入り、「天璋院」と名乗りました。通常であれば、若くして未亡人となった彼女には実家の薩摩へ戻るという選択肢もありました。しかし、彼女は「自分は徳川の人間である」という強い意志を持ち、「徳川の土になる」と宣言して江戸城に留まることを選びました。
その後、戊辰戦争が勃発し、新政府軍(官軍)が江戸へ迫ると、天璋院篤姫の存在は極めて重要な意味を持ちます。彼女は、官軍の参謀となっていた実家・薩摩藩の西郷隆盛に向けて必死の嘆願書を書き、徳川家の存続と江戸の平和的解決を訴えました。彼女のこの決死の行動がなければ、江戸は火の海になり、多くの市民が犠牲になっていたかもしれません。
江戸城無血開城とは何がすごいの?篤姫や西郷隆盛が何をしたのか解説
嫁姑問題?篤姫と和宮の関係
篤姫の人生におけるもう一つの大きなドラマは、14代将軍・徳川家茂の正室として皇室から降嫁した和宮(かずのみや)との関係です。家茂の養母である天璋院篤姫と、天皇の妹である和宮。当初、この二人の間には激しい対立がありました。
- 生活習慣の違い: 御所風(公家風)の生活様式を頑なに貫こうとする和宮と、武家の棟梁としての規律と質実剛健さを重んじる篤姫との文化的な衝突。
- 呼び名と席次問題: お互いの呼び方や座る位置、贈答品の扱いなどを巡る、女性としてのプライドのぶつかり合い。
周囲の大奥女中たちも巻き込んだ「嫁姑戦争」は深刻なものでしたが、やがて二人は「徳川家を守る」という共通の目的のために歩み寄ります。夫である家茂が亡くなった後、二人は手を取り合い、幕末の危機において徳川家の名誉を守るために奔走しました。かつての敵対関係を超えて築かれた二人の連帯は、徳川家の安泰に不可欠なものでした。
当時の女性たちの社会的役割や生活については、国立歴史民俗博物館の研究資料などでも詳しく紹介されており、大奥という特殊な空間での人間関係を知る上で貴重な情報源となっています。(参照:国立歴史民俗博物館公式サイト)
よくある質問
- 篤姫は将軍継嗣問題で誰を推したのですか?
-
当初は養父・島津斉彬の強い意向を受けて一橋慶喜を推す動きを見せました。しかし、家定との生活を通じて彼の意思を知り、最終的には家定の遺志を尊重して、紀州藩の徳川慶福(後の家茂)を14代将軍として受け入れ、その養母として彼を支える立場を選びました。
- 篤姫は江戸城無血開城にどう貢献しましたか?
-
徳川家存続のため、実家である薩摩藩、特に西郷隆盛に対して自筆の手紙を送るなど、新政府軍との和平交渉に尽力しました。篤姫の必死の働きかけが、勝海舟と西郷隆盛の会談の下地を作り、江戸城の無血開城と徳川家の安泰に大きく貢献したと言われています。
- 篤姫の晩年と最期はどうでしたか?
-
明治維新後は、徳川宗家を継いだ徳川家達(いえさと)の養育に専念し、生活費を切り詰めて彼を海外留学させるなど、質素な生活を送りました。晩年は多くの旧幕臣やその家族に慕われ、穏やかに過ごしたと伝えられています。その生涯は、最期まで徳川家への愛と忠誠を貫いたものでした。
まとめ:徳川家定と篤姫の仲と真実
- 徳川家定と篤姫の結婚生活は約1年9ヶ月と非常に短かった
- 夫婦仲については不仲説と親密説があるが晩年は心を通わせていた可能性が高い
- 二人の間に子供がいなかった主な理由は家定の病弱さと結婚期間の短さにある
- 家定は「イモ公方」と呼ばれたが実は聡明で篤姫には素顔を見せていたという説がある
- 家定には側室がおらず篤姫を唯一の正室として大切にしていた
- 寛永寺にある二人の墓が隣同士に並んでいることは夫婦の絆の深さを象徴している
- 篤姫の輿入れは当初は薩摩藩の政治的な思惑による政略結婚だった
- 家定の死因は脚気や病弱さによるものとする説が有力だが毒殺説も根強い
- 篤姫は家定の死後「天璋院」となり徳川家を守るために人生を捧げた
- 14代将軍家茂の正室である和宮とは当初対立したが後に協力関係を築いた
- 篤姫の尽力は江戸城無血開城や徳川家の存続に決定的な役割を果たした
- 篤姫は実家の薩摩藩よりも嫁ぎ先の徳川家への忠誠を貫いた稀有な女性だった
- 二人の物語は単なる歴史の一コマを超えて夫婦の愛の形を今に伝えている
- 現代でも篤姫と家定の関係性は多くのドラマや小説の題材として愛され続けている
- 史実を知ることで幕末という激動の時代を生きた二人の想いをより深く理解できる









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