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レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析
歴史学者ではないが、一次史料・学術書を徹底調査し歴史をわかりやすく整理。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに史実と演出の違いを分析。経営経験から歴史上の決断を現代ビジネスに接続する解説が得意。大阪城・名古屋城・岐阜城・犬山城・関ヶ原・比叡山延暦寺等に複数回訪問、京都市各所にも何度も訪問。
徳川家定と篤姫の仲については諸説あり、断定はできません。結婚期間は約1年半(約1年7ヶ月)と短く、子供も生まれなかったため「不仲だった」とする見方がある一方、寛永寺で墓が隣同士に並んでいることから「心は通い合っていた」とする説もあります。本記事では、複数の史料と大河ドラマの演出を比較しながら、二人の夫婦仲の実像を検証します。
NHK大河ドラマ『篤姫』(2008年)や『西郷どん』(2018年)で感動的に描かれ、今なお多くの歴史ファンの心を掴んで離さない徳川家定と篤姫の物語。幕末という激動の時代に結ばれた二人の関係性については、これまで数多くの議論が交わされてきました。
「相思相愛の仲睦まじい夫婦だった」というロマンチックな説がある一方で、「政略結婚ゆえに心は通い合っていなかった」「家定の病状により夫婦生活自体が成立していなかった」というシビアな見方も根強く存在します。
実際のところ、第13代将軍・徳川家定と、薩摩から嫁いだ篤姫の仲はどうだったのでしょうか。この記事では、徳川記念財団の資料や当時の側近たちの記録などをもとに、歴史編集者の視点で二人の夫婦生活の真実、子供がいなかった理由、そして幕末の動乱を「徳川の妻」として生き抜いた篤姫の想いを整理していきます。
- 徳川家定と篤姫の実際の夫婦仲に関する複数の説と歴史的背景
- 二人の間に子供がいなかった具体的な理由と医学的見地
- 「イモ公方」と呼ばれた家定の素顔──大河ドラマの演出と史実の違い
- 幕末の動乱期における篤姫の役割と徳川家への貢献
徳川家定と篤姫の仲は良好だった?結婚生活の真実

第13代将軍・徳川家定と、薩摩藩主・島津斉彬の養女である篤姫の結婚は、幕末の歴史における大きな転換点の一つでした。しかし、その内実は多くの謎に包まれています。まずは、二人の基本的な情報を整理してみましょう。
| 項目 | 内容 | 備考 |
|---|---|---|
| 結婚年 | 安政3年(1856年)12月 | 篤姫は数え22歳(※)、家定は数え33歳 |
| 結婚期間 | 約1年半(約1年7ヶ月)(家定死去の安政5年まで) | 歴代将軍の中でも極めて短い |
| 子供 | なし | 家定の健康問題が主因とする説が有力 |
| 家定の性格 | 病弱で内向的だが、聡明だったとする説もあり | 人前を嫌い「イモ公方」と揶揄された |
| 夫婦仲 | 諸説あり(良好説・不仲説の双方が存在) | 墓所が隣同士である点が注目される |
| 家定の父 | 12代将軍・徳川家慶 | 家慶は家定の器量を心配し慶喜を後継に考えた |
※篤姫は天保6年12月19日生まれのため、安政3年12月18日の婚姻時点では誕生日前であり数え21歳とする資料もありますが、ここでは数え22歳としています。
夫婦仲は良かった説と悪かった説の真相
徳川家定と篤姫の夫婦仲については、当時の大奥関係者の証言や史料が限られているため、歴史家の間でも意見が分かれています。現時点では「仲が良かった」とも「悪かった」とも断定できず、複数の説を比較して検討する姿勢が重要です。
「不仲説」の根拠としては、結婚生活が約1年半(約1年7ヶ月)と非常に短かったことや、篤姫が「次期将軍を一橋慶喜にする」という島津斉彬からの政治的密命を帯びて嫁いできた背景が挙げられます。このため、「あくまで政略結婚であり、心を通わせるような情緒的な関係を築く余裕はなかった」と分析する研究者もいます。
そもそも篤姫が家定に嫁いだ背景には、11代将軍・徳川家斉の正室が薩摩出身の近衛寔子(茂姫)であったという先例がありました。家斉は子沢山の将軍として知られ、正室の薩摩出身という「縁起の良さ」が、篤姫の輿入れを後押しした要因の一つとされています(出典:Wikipedia「広大院」)。
一方で、家定が篤姫にだけは心を開いていたという記録も確かに残されています。極度の人嫌いであった家定ですが、篤姫とは頻繁に顔を合わせ、言葉を交わしていたと言われています。特に有名なエピソードとして、家定が趣味で作ったお菓子(カステラやふかし芋など)を、篤姫に振る舞っていたという話があります。大奥という閉鎖的で緊張感のある空間において、二人で菓子を分け合う時間は、他者には計り知れない穏やかな安らぎのひとときだったのかもしれません。
筆者は、現実的に考えて、徳川家定と篤姫の関係が良かったとは考えにくいと思います。なぜなら、二人の結婚生活の期間が短すぎたからです。二人は結婚してから、まともなコミュニケーションすら十分に取ることができないまま、家定が亡くなったのではないでしょうか。もし篤姫が家斉正室の薩摩縁起にあやかって輿入れしたのだとすれば、世継ぎを産むことにはかなり積極的だったと推察されます。次の征夷大将軍を自分で産めれば、篤姫からすれば圧倒的な権力を握ることもできたでしょう。ところが望んでも子供はできなかったわけです。家定にその意思がなかったか、そもそも篤姫という人について理解する余裕がなかったのではないか──筆者の個人的な想像でしかありませんが、二人の仲が良好だったとは思えないのです。
ただし、これはあくまで一つの見方にすぎません。二人の関係を「良好だった」とする根拠も存在するため、断定は避けるべきでしょう。次のセクションでは、子供がいなかった具体的な理由をさらに詳しく検証していきます。
2人の間に子供がいなかった理由

篤姫が将軍正室(御台所)として大奥に入った最大の公的な目的は、将軍家の世継ぎを産み、徳川の血筋を絶やさないことでした。周囲の期待は非常に大きかったものの、結果として二人の間に子供は生まれませんでした。これには、単なる運やタイミングではない、いくつかの要因が複合的に関わっていたと考えられます。
子供がいなかった主な要因
- 家定の深刻な健康状態: 家定は幼少期から非常に病弱で、現代でいう脳性麻痺の症状があったとも推測されています。体力は乏しく、日常の歩行さえ困難な時期があったとされ、子作り自体が物理的に困難だった可能性が指摘されています。
- 結婚期間の短さと年齢: 篤姫が輿入れした安政3年(1856年)、家定はすでに数え33歳でした。当時の平均寿命を考慮すると決して若くはなく、さらに結婚生活が約1年半(約1年7ヶ月)で終わってしまったため、懐妊の機会そのものが限られていました。
- ストレスフルな環境: ペリー来航(嘉永6年・1853年)以来の国難、将軍継嗣問題を巡る南紀派と一橋派の対立など、家定を取り巻く環境は極めてストレスフルであり、これも体調悪化に拍車をかけたと考えられます。
徳川家の歴史を保存・研究する徳川記念財団の資料でも、歴代将軍の健康状態に言及されており、家定が特に虚弱体質であったことは広く認められています(出典:徳川記念財団公式サイト)。
経営者の視点で見ると、篤姫は「組織の存続」という使命を背負って徳川家に入った、いわば外部から招聘された経営幹部のような存在です。しかし、組織のトップである家定とのコミュニケーション期間がわずか約1年半(約1年7ヶ月)では、信頼関係の構築も、成果(世継ぎ)の達成も極めて困難だったでしょう。現代のビジネスでも、社長交代直後の1〜2年は成果を出しにくいもの。篤姫が置かれた状況は、それ以上に厳しかったと筆者は考えます。
「イモ公方」と呼ばれた家定の素顔と篤姫への想

徳川家定は、歴史小説やドラマなどでしばしば「イモ公方」や「暗愚な将軍」として描かれることがあります。これは、彼が公務よりもサツマイモを蒸かしたり、カステラを焼いたりする料理に熱中していたこと、そして人前に出ると奇妙な動きをしたり、まともに会話ができなかったりしたという同時代人の記録に由来します。
福井藩主・松平春嶽は家定を「凡庸の中でも最も下等」と酷評し、春嶽の家臣で西郷隆盛が尊敬した橋本左内も「落ち着きがなく、言語不明瞭で、わからないことがあるとすぐ泣き始める」と書き残しています。こうした評価はかなり厳しいものですが、当時は脳性麻痺に対する理解が乏しかったことを考慮する必要があるでしょう。
近年の歴史研究では、この評価が見直されつつあります。「家定は実は聡明な人物であり、暗愚を装っていただけではないか」という説です。当時、将軍の地位を巡る毒殺や陰謀が渦巻く中、自らの命を守るためにあえて「能なし」を演じ、敵対勢力の警戒を解いていた可能性があるとされています。一方で、大老・井伊直弼が「世間で言われるほどうつけではない」と証言しているものの、家定を支える立場としてのフォローである可能性も否定できません。
大河ドラマ『篤姫』(2008年)で堺雅人さんが演じた家定は、「暗愚を装いながらも篤姫にだけは素顔を見せる聡明な人物」として描かれ、多くの視聴者を魅了しました。一方、『西郷どん』(2018年)で又吉直樹さんが演じた家定は、病弱で奇矯な振る舞いが目立つものの根底に優しさがある人物像でした。どちらも魅力的な演出ですが、松平春嶽や橋本左内の酷評を踏まえると、史実の家定は両作品のいずれとも異なる可能性があります。筆者は大河ドラマ『篤姫』での堺雅人さんの演技に心を動かされた一人ですが、史実と演出は冷静に分けて考える必要があると感じています。
家定には側室がおらず正室は篤姫だけだった?

江戸時代の将軍といえば、多くの子孫を残すために多数の側室を抱え、大奥には数千人の女性がいたというイメージが一般的です。例えば、11代将軍・徳川家斉は、記録上確認できる側室は16人で、お手付きを含めると40人以上とも言われています。子供は53人とする説が一般的です。しかし、家定の生涯において、側室の存在感は驚くほど希薄です。
家定は生涯で3人の正室を迎えました。最初の正室は関白・鷹司政煕の娘である鷹司任子(あつこ)で、天保13年(1842年)に婚姻し、嘉永元年(1848年)に疱瘡(天然痘)により26歳で死去しています。二番目の正室は左大臣・一条忠良の娘である一条秀子で、嘉永2年(1849年)に輿入れしましたが、嘉永3年(1850年)に病死しました。そして三番目の正室として安政3年(1856年)に篤姫を迎えたのです。
側室としてはお志賀の方(豊倹院)の存在が知られていますが、家定との関係は形式的なものであったとも言われています。これは、家定の病弱さもさることながら、彼自身が特定の女性(正室)を大切にする性格だった可能性も指摘されています。ただし、単に体力的に側室を迎える余裕がなかっただけという見方もあり、ここでも断定は避けるべきでしょう。
| 正室・側室 | 出自 | 婚姻年 | 結末 |
|---|---|---|---|
| 鷹司任子(初婚) | 関白・鷹司政煕の娘 | 天保13年(1842年) | 嘉永元年(1848年)疱瘡で死去 |
| 一条秀子(再婚) | 左大臣・一条忠良の娘 | 嘉永2年(1849年) | 嘉永3年(1850年)病死。享年26 |
| 篤姫(三度目) | 島津斉彬養女(近衛家経由) | 安政3年(1856年) | 家定死後、天璋院として存命 |
| お志賀の方(側室) | 堀利邦の娘 | 不明 | 形式的な関係とされる |
この表を見ると、家定が2人の正室を相次いで亡くしている事実が分かります。「将軍の正室は短命」という評判が広まる中で篤姫が嫁いできたわけですから、篤姫の覚悟も相当なものだったと考えられます。次のセクションでは、二人の絆を象徴するとも言われるお墓の話題を取り上げます。
夫婦が隣同士で眠るお墓が示すもの
家定と篤姫の仲を象徴する証拠として、しばしば取り上げられるのがお墓です。徳川家の菩提寺である東京・上野の寛永寺には、家定と篤姫(天璋院)の墓塔が隣り合うように並んで建てられています。
通常、将軍の墓所は威厳を示すために独立して作られるのが慣例です。しかし、篤姫は生前、「家定公のそばで眠りたい」と強く望んだと伝えられています。あるいは、周囲の人々が二人の絆の深さを理解し、死後も離れ離れにならないように計らったのかもしれません。
この「墓が隣同士」という事実を、二人の仲が良かった決定的な証拠とする見方は根強いものがあります。しかし、篤姫が天璋院として晩年まで徳川家のために尽くしたことへの敬意として、墓所の配慮が行われた可能性も否定できません。「仲が良かったから隣に葬られた」のか、「徳川家への貢献が認められたから隣に葬られた」のかは、史料だけでは判断が難しいところです。筆者は後者の可能性も十分にあると考えますが、いずれにせよ篤姫が徳川家にとって特別な存在であったことは間違いないでしょう。
この並んだ墓石は、政略結婚という枠を超えた二人の関係性を、150年以上の時を超えて私たちに問いかけています。続いて、家定と篤姫の関係が幕末の政治にどのような影響を与えたのかを見ていきましょう。
徳川家定と篤姫の仲が幕末に与えた影響

二人の関係は、単なる夫婦の物語にとどまらず、その後の日本の歴史を左右する大きな要因となりました。篤姫が家定との生活を通じて得た「徳川家の人間」としての自覚は、後の江戸無血開城へと繋がっていくのです。
| 人物 | 関係性 | 歴史への具体的な影響 |
|---|---|---|
| 徳川家定 | 第13代将軍(在職:1853〜1858年) | 将軍継嗣問題の中心人物として、死後に政局を大きく動かす |
| 篤姫(天璋院) | 御台所(正室) | 江戸城無血開城に尽力し、徳川家の存続を決定づける |
| 島津斉彬 | 篤姫の養父・薩摩藩主 | 篤姫の輿入れを画策し、幕政改革を主導 |
| 和宮(静寛院) | 14代家茂の正室 | 公武合体の象徴として降嫁し、後に篤姫と協力して徳川家を守る |
| 徳川家茂 | 第14代将軍(家定の養子) | 南紀派に推されて将軍に就任、21歳で急死 |
篤姫の嫁入りは政略結婚だったのか
歴史的な事実として見れば、篤姫の嫁入りは間違いなく高度な政治的判断に基づいた「政略結婚」でした。当時の薩摩藩主・島津斉彬は、幕政改革を主導するために、自分の養女である篤姫を将軍家に送り込み、大奥から幕府への影響力を高めようと画策しました。
篤姫に課せられた特に重要な使命は、病弱な家定の次期将軍(14代)として、水戸藩出身で英明の誉れ高い「一橋慶喜(後の徳川慶喜)」を推挙することでした。しかし、篤姫は家定との生活を通じて、単なる工作員ではなく、「徳川家の妻」としての自覚を深めていきます。篤姫は斉彬の密命で慶喜擁立を託されましたが果たせず、井伊直弼・家定の決定により慶福(家茂)が継嗣となりました。
経営者の視点で見ると、篤姫の「実家の指令から嫁ぎ先への忠誠へ」という変化は、現代のM&A(企業買収)後に起こる現象と似ていると筆者は考えます。買収先から送り込まれた経営者が、現場の文化や人間関係に触れるうちに、本社の意向よりも現場の最善を優先するようになるケースは珍しくありません。篤姫がこの決断に至った背景に、家定との関係がどれほど影響していたのかは分かりませんが、少なくとも「徳川家の内側」を知ったことで判断基準が変わったのは確かでしょう。
家定の死因と暗殺説の真相
安政5年(1858年)7月6日、徳川家定は35歳の若さで急死しました(享年35(満34歳没))。公式な記録では、長年の持病であった脚気(かっけ)が悪化したことが直接の原因とされています。当時、脚気は「江戸患い」とも呼ばれ、ビタミンB1不足によって心不全を引き起こす死に至る病でした。コレラ説もあり、死因は確定していません。
しかし、その死のタイミングがあまりにも将軍継嗣問題の決着(南紀派の勝利)と重なっていたため、当時から「毒殺されたのではないか」という噂が絶えませんでした。特に対立していた大老・井伊直弼による毒殺説は、講談や小説などで繰り返し語られてきました。しかし、現代の医学的見地や史料の分析からは、慢性的な病状の悪化による病死である可能性が高いとされています。詳細な死因や当時の状況については、以下の記事で詳しく解説しています。
徳川家定の死因とは?うつけのふりをしてた説や暗殺説と篤姫との関係
篤姫は家定の死後、徳川家のために生きる

家定の死後、篤姫は髪を下ろして仏門に入り、「天璋院」と名乗りました。通常であれば、若くして未亡人となった彼女には実家の薩摩へ戻るという選択肢もありました。しかし、彼女は「自分は徳川の人間である」という強い意志を持ち、「徳川の土になる」と宣言して江戸城に留まることを選びました。
その後、戊辰戦争が勃発し、新政府軍(官軍)が江戸へ迫ると、天璋院篤姫の存在は極めて重要な意味を持ちます。彼女は、官軍の参謀となっていた実家・薩摩藩の西郷隆盛に向けて必死の嘆願書を書き、徳川家の存続と江戸の平和的解決を訴えました。彼女のこの決死の行動がなければ、江戸は火の海になり、多くの市民が犠牲になっていたかもしれません。
江戸城無血開城とは何がすごいの?篤姫や西郷隆盛が何をしたのか解説
篤姫の「嫁ぎ先を守り抜く覚悟」は、家定との結婚生活がどのようなものであったとしても、彼女の人生を決定づけた信念でした。この覚悟がどのように和宮との関係に影響を与えたのか、次のセクションで見ていきましょう。
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嫁姑問題?篤姫と和宮の関係
篤姫の人生におけるもう一つの大きなドラマは、14代将軍・徳川家茂の正室として皇室から降嫁した和宮(かずのみや)との関係です。家茂の養母である天璋院篤姫と、孝明天皇の異母妹である和宮。当初、この二人の間には激しい対立がありました。
- 生活習慣の違い: 御所風(公家風)の生活様式を頑なに貫こうとする和宮と、武家の棟梁としての規律と質実剛健さを重んじる篤姫との文化的な衝突。
- 呼び名と席次問題: 和宮からの贈り物に「天璋院」と敬称なしで書かれていたことが対立の発端の一つとされています。公家の世界では皇族が臣下に敬称をつける習慣がなかったためですが、武家の大奥では非礼と受け取られました。
周囲の大奥女中たちも巻き込んだ「嫁姑戦争」は深刻なものでしたが、やがて二人は「徳川家を守る」という共通の目的のために歩み寄ります。夫である家茂が慶応2年(1866年)に21歳で亡くなった後、二人は手を取り合い、幕末の危機において徳川家の名誉を守るために奔走しました。かつての敵対関係を超えて築かれた二人の連帯は、徳川家の安泰に不可欠なものでした。
徳川家定の家系図と将軍家の系譜
徳川家定の位置づけを正しく理解するには、将軍家の家系図を把握しておくことが重要です。家定は12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城内で生まれました。家慶には14男13女がいたとされていますが、成人できたのは家定ただ一人でした。
| 将軍 | 代 | 在職期間 | 家定との関係 |
|---|---|---|---|
| 徳川家斉 | 11代 | 1787〜1837年 | 家定の祖父。正室は薩摩出身の近衛寔子(茂姫) |
| 徳川家慶 | 12代 | 1837〜1853年 | 家定の父。家定の器量を心配し慶喜を後継に考えた |
| 徳川家定 | 13代 | 1853〜1858年 | 本人。正室は篤姫 |
| 徳川家茂 | 14代 | 1858〜1866年 | 家定の養子(紀州藩出身)。正室は和宮 |
| 徳川慶喜 | 15代 | 1866〜1867年 | 一橋家出身。水戸藩・徳川斉昭の七男 |
この家系図から分かるように、家定の祖父・家斉の正室が薩摩出身であったことが、篤姫の輿入れの伏線となっていました。また、家定が後継者を残せなかったことが、14代将軍の座を巡る南紀派と一橋派の熾烈な争い──そして安政の大獄──に直結していったのです。
よくある質問
8代将軍・徳川吉宗の正室は、伏見宮貞致親王の娘である真宮理子(さなのみやまさこ)です。吉宗が紀州藩主時代に迎えた正室であり、吉宗が将軍になる前に亡くなっています。その後、吉宗は新たな正室を迎えず、側室との間に子供をもうけました。家定と篤姫の結婚は約120年後のことですが、将軍家の正室選びには常に政治的な計算が働いていた点は共通しています。
篤姫が嫁いだのは、江戸幕府第13代将軍・徳川家定です。安政3年(1856年)12月に輿入れし、家定の3人目の正室(御台所)となりました。篤姫は薩摩藩主・島津斉彬の養女として、近衛家を経由して徳川家に嫁いでいます。家定の死後は「天璋院」と名乗り、大奥で徳川家のために尽くしました。
大奥最後の御台所は篤姫と和宮。将軍家最後の正室は15代慶喜の一条美賀子です。篤姫は13代家定の正室として、和宮は14代家茂の正室として、江戸城無血開城に尽力しました。
篤姫と和宮は義理の嫁姑の関係でした。13代家定の正室・篤姫が14代家茂の養母という立場にあり、家茂に嫁いだ和宮は篤姫にとって義理の嫁にあたります。当初は公家と武家の文化の違いから激しく対立しましたが、家茂の死後、「徳川家を守る」という共通目的のもとに和解し、江戸城無血開城では共闘して徳川家の存続に貢献しました。
篤姫は斉彬の密命で慶喜擁立を託されましたが果たせず、井伊直弼・家定の決定により慶福(家茂)が継嗣となりました。
明治維新後は、徳川宗家を継いだ徳川家達(いえさと)の養育に専念し、生活費を切り詰めて彼を海外留学させるなど、質素な生活を送りました。明治16年(1883年)11月20日、数え年49歳(満47歳)で亡くなっています。生涯を通じて薩摩に戻ることなく、徳川家の人間として最期を迎えました。
まとめ:徳川家定と篤姫の仲と真実
- 徳川家定と篤姫の結婚生活は約1年半(約1年7ヶ月)と非常に短かった
- 夫婦仲については不仲説と親密説があり断定は難しい
- 二人の間に子供がいなかった主な要因は家定の病弱さと結婚期間の短さにある
- 家定は「イモ公方」と呼ばれたが、うつけのふり説と本当に暗愚だった説の双方がある
- 大河ドラマ『篤姫』の堺雅人と『西郷どん』の又吉直樹で家定像は大きく異なる
- 家定には側室のお志賀の方がいたが関係は形式的だったとされる
- 寛永寺で二人の墓が隣同士に並んでいるのは異例の措置である
- 篤姫の輿入れは11代家斉正室の薩摩縁起にあやかった政略結婚だった
- 家定の死因は脚気またはコレラによる病死が有力だが毒殺説も根強い
- 篤姫は家定の死後「天璋院」となり徳川家を守るために人生を捧げた
- 14代将軍家茂の正室・和宮とは当初対立したが後に協力関係を築いた
- 篤姫の尽力は江戸城無血開城や徳川家の存続に大きな役割を果たした
- 家定の父・家慶は家定の器量を心配し慶喜を後継に考えていた
参考資料
- 徳川記念財団公式サイト(https://www.tokugawa.ne.jp/)
- NHK大河ドラマ『篤姫』公式(2008年放送)
- NHK大河ドラマ『西郷どん』公式(2018年放送)
- Wikipedia「徳川家定」「天璋院」「広大院」(補助資料として参照)
レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析
歴史学者ではないが、一次史料・学術書を徹底調査し歴史をわかりやすく整理。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに史実と演出の違いを分析。経営経験から歴史上の決断を現代ビジネスに接続する解説が得意。
最終更新日:2026年4月13日

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