皆さんは清少納言の性格を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 清少納言は、明るくサバサバとした性格で、男まさりなユーモアあふれる人だった
- 彼女は、陽気で知的で、それでいて自分の「くせっ毛」を気にする人だった
- 紫式部と清少納言は、それぞれの主君同士の権力闘争の関係で、ライバル同士といわれている
清少納言。
その名は、誰もが知る平安時代を代表する歌人であり女流作家です。
学校の国語や日本史の授業でも必ず目にする名前ですが、その人物像は謎に包まれたまま。
一体、清少納言はどのような人物だったのでしょうか?
作品や文献、そして紫式部や中宮定子との関係など、様々なエピソードから紐解く、清少納言の知られざる素顔。
千年の時を超えて、今なお人々を魅了する才女の真実に迫ります。
清少納言の性格とは?
清少納言といえば、平安時代を代表する才女として名高い人物です
その性格は、作品や文献から様々な考察がなされていますが、多くの専門家によって以下のような特徴が定説となっています。
- 明るく朗らか
- サバサバと気取らない
- 機転が利き、ユーモアに溢れる
- 男勝りで気が強い
作品からも、幅広い知識と知性、そして明るくさっぱりとした性格がうかがえます。
学校の授業でも、代表作である「枕草子」と共に、清少納言のサバサバとした性格が紹介されることが多いです。
しかし、清少納言はそれだけ単純な人物ではありません。
繊細な感受性と鋭い観察眼を持ち、周囲の人々を魅了する魅力的な女性でもありました。
清少納言のプロフィール
通称: 清少納言
時代: 平安時代中期
職業: 一条天皇の中宮・藤原定子の女房、歌人、随筆家
代表作: 枕草子
父:清原元輔
夫:橘則光・藤原棟世
子:橘則長、小馬命婦
生没年: 966年頃~1025年頃
彼女の本名は謎に包まれており、今日知られている「清少納言」は宮中での女房名です。
女房とは、貴族の子女などにつかえる、いわば家庭教師のようなものです。
たとえば紫式部も、藤原道長の娘であり、一条天皇の中宮であった藤原彰子の女房でした。
話を戻しましょう。
清少納言の「清」は苗字の清原からとったものです。
「少納言」は、当時の官職名ですが、彼女自身ではなく、近しい親族がついていた官職が「少納言」だったため、そこから用いられたと考えられます。
江戸時代のある国学者が、清少納言の本名について【清原諾子】としていますが、真相は不明です。
関白・藤原道隆の娘・藤原定子に仕えた女房として活躍し、その経験を活かした随筆「枕草子」は、日本文学史に燦然と輝く名作として評価されています。
清少納言の性格を作品「枕草子」から読み解く
陽気で知的な才女
清少納言は、明朗快活な性格で知られています。
代表作「枕草子」には、一条天皇妃・藤原定子に仕えた華やかな宮廷生活が生き生きと描写されています。
リズム感あふれる文章は論理的で、好き嫌いもはっきり。
知性と明るさが光る作品世界が魅力です。
繊細な感性
「枕草子」の冒頭、「春はあけぼの」で始まる有名な一節は、1000年以上前の作品とは思えないほど瑞々しい感性にあふれています。
四季折々の美しい情景を、色彩豊かに表現した文章は、時を超えて多くの人の心をとらえ続けています。
「枕草子」は、平安時代の美的概念に基づいて書かれていますが、清少納言独自の洞察力と豊かな表現力が随所に光っています。
和歌にも優れた才能を発揮し、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人として数えられています。
自立心・自尊心が強い
平安時代において、漢文の知識は男性の教養であったが、清少納言はそれを秘密にすることなく、男性とのやり取りで機知を発揮していました。
彼女が藤原行成に宛てた歌はその一例であり、彼女の自立心が窺えます。
藤原行成はプレイボーイとして知られており、ある夜、彼女を訪れたのですが、少し話しただけで、すぐに帰ってしまいました。
その後、彼は夜明けを告げる鳥が鳴いたとして、夜明け前に帰ったことを弁解する歌を送ったのです。
しかし、彼女はこんな歌を返しています。
夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ
鳥の鳴く声をマネして朝が来たと言って私をあざむこうとしても、私は決して騙されません。
私は騙されない、と返答し、有名な孟嘗君の鶏鳴狗盗の故事を引用して自らの立場を示したといいます。
(人気漫画「キングダム」にも登場する秦の始皇帝の曽祖父・昭王が、名宰相・孟嘗君を討とうとした際に、ものまねの達人に鳥の鳴きマネをさせて函谷関の番兵に朝だと勘違いさせた。門は開き、孟嘗君は逃げ延びたという。その後、連合軍を組織して昭王の軍を撃破した)
清少納言のこの行動は、彼女の自立心と、孟嘗君についてくわしい機知に富んだ性格を示しているのです。
内面に抱えた複雑なコンプレックス・葛藤
清少納言は知的でユーモアのセンスがあり、自信に満ちた性格とされることがあるが、実際には「くせっ毛」に対するコンプレックスを持っていたといいます。
平安時代において、真っ直ぐな黒髪は女性の美の象徴でした。
しかし彼女のくせ毛については『枕草子』の中でも触れられているのです。
彼女は宮中に出仕したばかりの頃、自分のくせ毛が、主である藤原定子に明るい部屋で見えてしまうことを恥じていたといいます。
彼女は容姿に自信がないとされるのですが、内面での葛藤を感じさせます。
精神的なタフさ・強さ
清少納言は『枕草子』の中で宮中の華やかなエピソードを記しているが、その一方で、彼女が作品を書き始めたのは、主である定子が逆境に立たされていた時期でした。
定子の父である藤原道隆の死により、彼女の一族は没落の一途をたどっていたのです。
定子自身も若い年齢でこの世を去る運命にありました。
しかし、清少納言はこのような逆境に触れることなく、楽しい思い出を書き綴ったのでした。
彼女の作品は定子亡き後に書かれており、その中で最も輝いていた時代を回顧しています。
このことから、清少納言の精神の強さとプライドが窺えます。
のちの世で、高杉晋作という人物が
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
と歌ったといいますが、清少納言もそんな気持ちの人だったのかもしれません。
ちなみに、枕草子とはいったいどんなものなのかを一言でいえば、現代でいうところのX(旧・ツイッター)のつぶやきのようなものです。
「あれが嫌い」とか「これが好き」とか、その時々に思ったものを、なんとなくつぶやいて、それを一冊に集めたものが枕草子です。
たとえば、吉田兼好が記したという「徒然草」も、似たようなものです。
清少納言と紫式部の関係!紫式部に嫌われた性格とは?
紫式部は、清少納言の自慢げな性格を嫌っていたといいます。
紫式部と清少納言。
共に女流作家として名高い彼女たちは、まるで光と影のように対照的な存在として語り継がれてきました。
- 陽気で華やかな才女、清少納言。
- 繊細で内省的な才女、紫式部。
彼女たちの関係は、多くの謎に包まれています。
直接的なライバル関係であったという説もあれば、実際は交流がほとんどなかったという説もあります。
紫式部の残した「紫式部日記」には、清少納言への批判的な記述も存在します。
「清少納言という人は、いつも自分の知識を自慢げにしている人です。
賢いふりをして漢文を書いているのだけども、あらっぽいところがたくさんあります。
こんな人も、こういう人を好む方々も、必ず失敗してしまうので、危なっかしいです」
どうやら紫式部は、自信満々に自分の知恵をひけらかす清少納言のことが嫌いだったようです。
しかし、これだけではその真意は計り知れません。
もしかすると、二人は互いを認め合いながらも、どこかで競い合っていたのかもしれません。
時代を超えて人々を魅了する作品を生み出した二人の才能は、まさに光と影のように輝き続けています。
ただし、彼女たちの雇い主同士が争っていたのは事実です。
- 清少納言の主人・定子の兄・藤原伊周
- 紫式部の主人・彰子の父・藤原道長
この二人は甥と叔父の関係ではありましたが、激しい権力闘争を繰り返しています。
結果として、花山天皇に矢を射かけて袖を貫くという暴挙に出た藤原伊周が、没落することになるのです。
現代風に解釈すると
- 清少納言は社交的な「陽キャ」
- 紫式部は内向的な「陰キャ」
と捉えることもできるかもしれません。
性格的に対照的な二人が、同じ宮廷で女房として活躍していたことは、興味深い事実です。
直接的なライバル関係であったかどうかは定かではありません。
しかし、想像でしかありませんが、互いに意識し、影響を与えていたことは、ありえるでしょう。
紫式部の日記に残された批判的な記述は、清少納言への複雑な感情の表れといえるでしょう。
光と影のように対照的な二人の関係は、現代でも多くの人の興味を惹きつけています。
清少納言と藤原定子との関係
清少納言と藤原定子は、女房と主人、言いかえれば家庭教師と教え子、という関係です。
清少納言という人は、一条天皇の中宮つまり妻であった藤原定子につかえていた知識人・女流作家なのです。
藤原定子とは、あの有名な藤原道長の兄・道隆の娘です。
つまり定子は、道長の姪というわけです。
道長は、権力を手に入れるために、一条天皇に自分の娘である藤原彰子を中宮として入内させていました。
道隆の娘・定子と、道長の娘・彰子は、一条天皇の寵愛を競っていた関係なのです。
男児を産んだ方が、その男児を天皇として即位させ、権力を独占できるのです。
結果は、彰子の勝利でした。
彰子は、一条天皇の子である後一条天皇と後朱雀天皇を産んでいます。
紫式部が記した源氏物語という作品に一条天皇が魅了され、それを読みに彰子のもとへ通ったことが、勝因となったのです。
定子も男児を産んだものの、天皇に即位することはありませんでした。
その後、定子は没落して亡くなります。
清少納言もまた、落ちぶれたといわれています。
清少納言の性格を表す最後とは?
清少納言の晩年とは?
『無名草子』には、身寄りのない清少納言が田舎に移り住み、みすぼらしい姿で過去を懐かしんでいたという逸話が記されています。
『古事談』という書には、清少納言の家がすっかり壊れた状態であるのを通りかかったお公家さんたちが
「清少納言も落ちぶれたものだ」
と漏らすと、清少納言が鬼のような尼の姿で
「駿馬の骨を買う者はいないか?」
と、「戦国策」という古代中国の歴史書の逸話を引用して切り返したというお話しが記されています。
(駿馬を欲しがった王が、部下に千金を与えて買いに行かせたら、駿馬の骨を買って帰ってきた。すると「王は馬の骨すら高値で買う」と噂が広がり、馬商人が大挙して集まり、駿馬が三頭も手に入った。つまり清少納言は、「自分を買えば美女が集まってくるぞ」と、自分を売り込んだと思われる)
清少納言の墓所
清少納言には、各地に、墓所といわれているものが残っています。
「徳島県鳴門市里浦町」に、天塚という清少納言の墓とされるものがあります。
彼女はここで、男性から乱暴されそうになったとき、自分の身体の一部をえぐり投げつけて姿を消したという言い伝えがあるのだとか。
「香川県琴平金刀比羅神社大門」には、清少納言が夢に死亡地を示した「清少納言夢告げの碑」があります。
「京都市中京区新京極桜ノ町」にある誓願寺では、彼女が出家し、往生を遂げたと伝えられています。
おそらくですが、清少納言は誓願寺で出家し、静かに生涯を終えたのではないでしょうか。
徳島県の天塚と、香川県の夢告げの碑は、それぞれに伝わる逸話が、すこし現実味に乏しい気がします。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 清少納言は、明るくサバサバとした性格で、男まさりなユーモアあふれる人だった
- 彼女は、陽気で知的で、それでいて自分の「くせっ毛」を気にする人だった
- 紫式部と清少納言は、それぞれの主君同士の権力闘争の関係で、ライバル同士といわれている
以上となります。
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ありがとうございました。
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