皆さんは徒然草を、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 徒然草とは、吉田兼好が記した随筆つまりエッセイ集で、清少納言の枕草子、鴨長明の方丈記と並ぶ、日本三代随筆のひとつ
- 243段から成る徒然草だが、137段「花は盛りに」は有名で、「花も月も祭りも恋も、盛りだけではなく、終わりもまた良いものだ」と記されている
- 吉田兼好は、後二条天皇につかえた官僚だったが、30歳で出家して徒然草を記したという
- 徒然草の徒然とは、「やることもなく退屈な様子」を意味する
- 吉田兼好の墓は、岐阜県中津川市にあるとされている
この記事では徒然草を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は徒然草について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、徒然草に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
徒然草の特に有名な段7つ!内容を現代語訳でわかりやすく簡単に解説
徒然草は、全部で243段あります。
ここでは序段と、特に有名な段7つを現代語訳付きで解説いたします。
中でも137段「花は盛りに」は、もっとも長いうえに、おそらくもっとも有名な段ですので、一番最初に解説させていただきます。
137段「花は盛りに」
桜の花は、満開に咲き誇っている時だけが美しいわけではありません。
蕾がほころび始めた頃や、散り始めの花びらが風に舞う姿もまた、風情を感じさせてくれます。
月も同じように、雲一つない晴天よりも、少し霞がかかったような夜の方が、趣深いものです。
雨に濡れた月を愛おしく思う心や、家の中で春の訪れを知らぬ間に過ごしてしまうことも、味わい深いと言えるでしょう。
桜の花見は、満開の時期に行くのが理想とされていますが、散り際の桜もまた、儚く美しいものです。
花見に行ってみたらすでに散ってしまっていたという和歌や、都合が悪くて花見に行けなかったという和歌も、満開の花を詠んだ歌に劣るものではありません。
無風流な人は、花が散ってしまうと見る価値がなくなると考えてしまうようですが、花や月は、始まりと終わりが特に趣深いものです。
恋愛も同じように、一途に会うことだけが恋なのではありません。
会えずに終わった辛さを感じたり、昔の恋人との思い出を懐かしんだりすることも、恋愛の真髄と言えるでしょう。
満月が千里の果てまで光を照らしているのを見ているよりも、明け方近くに出てきた青みを帯びた月が、木々の間ごしに見える様子や雲に隠れている様子の方が、趣深いものです。
葉っぱの上に月の光がきらめくのを見ていると、心が洗われるような気持ちになります。
こんな気持ちを分かってくれる友達と一緒に見られたらなぁと思い、都が恋しくなります。
月や花は、目だけで見るものではありません。
満月なら布団にいながらでも想像できるものです。
風情を感じとる人は、ひたすらに面白がる様子を見せません。
田舎者は、すべてを面白がろうとするもので、すべてのものをそっと見守るということができないのです。
祭りの見物をする田舎者の様子は、とても珍しいものです。
祭りの行列がなかなか来ないと、奥の部屋で酒を飲むなどして遊びます。
桟敷には人を残しておいて、行列が来た際にはものすごい勢いで桟敷に走っていきます。
互いに押し合いつつ、一つも祭りを見逃すまいと見守り、行列が過ぎると、また桟敷を下りていきます。
一方、都の人は、眠っているかのようで、祭りを見ていないかのようであり、行儀の悪い態度をとって無理に祭りを見ようとはしません。
賀茂祭りは夜も明けきらないうちから車が忍んで寄せてきます。
祭りはとても面白く、さまざまな人が行き交っていますが、日が暮れる頃には人も車もどこかへ去っていき、まもなく人も車もまばらになってきます。
そんな寂しげな様子を見て感慨にふけるものです。
祭りは最後まで見てこそ「祭りを見た」ということができるのでしょう。
祭りを行き交う人たちの中には見知った顔ぶれがおり、無常を感じることになります。
都に人は多いですが、人が死なない日はないのです。
死は思いがけないときに訪れるものであり、今日まで死を免れてきたことは不思議なことです。
出陣した兵士は、死というものがとても近くにあることを知って、家も我が身のことも忘れるものです。
出家した人の草庵では、水石をもてあそんで、死を忘れようとしますが、それはとても儚いものです。
どこにいても死は現れるものであり、どこにいようと死に臨むことは、戦場にいることと変わることなどないのです。
序段
何事もやることなく退屈にしていて(つれづれなるままに)、ただ机に向かい(硯に向かい)、心に浮かぶ些細な思いを書き連ねていると、ふっと奇妙な感覚に襲われます。
まるで、狂気に取り憑かれたかのような、得体の知れない高揚感と虚無感の入り混じった感情です。
10段「家居のつきづきしく」
住まいがそこに住む人に似つかわしく、好ましいものであることは素晴らしいことです。
身分の高い人がゆったりとくつろぐ家は、月の光がより一層美しく感じられ、木立が古風な趣を醸し出し、簀の子や隙間のある垣根の配置も風情を感じさせます。
古風で落ち着いた住まいは良いのですが、職人の手による中国や日本の珍しい道具が並べられ、草木にまで人の手が入っているのは、興ざめします。
このような住まいに住む人は、長生きできないように思えます。
住まいを見ることによって、そこに住む人の人柄を推察できます。
後徳大寺大臣が寝殿に鳶がとまらないように縄を張ったという話があります。
西行法師はこの話を聞き、鳶がとまっても何の問題もないはずなのに、縄を張るという行為は心が狭いと感じました。
しかし後日、烏が群がって池にいる蛙を捕食し、悲しんでいた大臣が、烏除けのために縄を張ったという話を聞き、西行は考えを改めました。
後徳大寺大臣には、深い思慮があったのです。
このように、住まいは人の心を映す鏡といえるのでしょう。
11段「神無月のころ」
10月頃(神無月の頃)、私は栗栖野という場所を通って、ある人を訪ねて山奥へと分け入ったことがありました。
すると、ひっそりと佇む草庵が目に入りました。
周囲には、水が滴る音以外、何の音も聞こえません。
閼伽棚には菊の花や紅葉が散乱しており、誰かが住んでいることがうかがえます。(閼伽棚とは、仏にそなえる水や花または仏具をのせるための棚)
しみじみと眺めていると、大きなみかんの木が目に入りました。
木にはたくさんの実がなっていますが、頑丈な囲いで囲まれています。
その光景を見て、少し興ざめしてしまいました。
この木がなければ、もっと趣があっただろうに、とさえ思いました。
51段「亀山殿の殿池に」
後嵯峨天皇は、亀山殿の池に大井川の水を引き込むため、住民たちに命令して水車をつくらせました。
莫大な費用をかけ、数日かけて完成した水車でしたが、いざ水を流してみると、まったく回りません。
あれこれ修理を試みましたが、結局最後まで回ることはありませんでした。
そこで天皇は、水車作りで有名な宇治の里の人を呼び寄せ、水車を造らせました。
宇治の人たちは難なく水車を組み立て、見事に水が回り始めました。
何事も、その道を理解し極めた人というのは、素晴らしいものです。
92段「ある人、弓射ることを習ふに」
ある人が弓道を習い始めた頃、矢を2本携えて射場に向かいました。
師匠はそれを咎め、初心者は2本の矢を持ってはならないと教えました。
なぜなら、2本目を当てにする気持ちが生まれ、最初の矢を雑に射ってしまう可能性があるからです。
毎回、この1本で射抜くという強い意志を持つことが重要なのです。
師匠の前では、怠ける気は起こらないでしょう。
しかし、自分では気づいていない怠惰な心も、師匠には見透かされているものです。
仏道修行者も、明日の朝や夕方に改めて修行すれば良いと、先延ばしにすることがあります。
まして一瞬の怠惰な心の芽生えには、気づかないことでしょう。
しかし、この一瞬の怠惰を克服することこそ、真の修行と言えるのです。
109段「高名の木登り」
木登りの名人が、弟子を高い木に登らせて梢を切らせていました。
弟子が危なっかしい場所にいる間は何も言いませんでしたが、軒の高さまで降りてきたところで
「怪我をしないように気をつけて降りろ」
と声をかけました。
私は名人に尋ねました。
「こんな高さなら飛び降りても大丈夫だろう。なぜ降りるときに注意するのか」
名人は答えました。
「危ない場所は自分が恐れているから注意する必要はない。
怪我をするのは安心できるような場所だ」
名人は身分の低い者でしたが、その言葉は聖人の教えに通じるものがあります。
たとえば蹴鞠でも、難しい技を成功させた後に安心してしまうと、必ず失敗するものです。
150段「能をつかんとする人」
芸能を習得しようとする人は、下手なうちは人に見られないように練習し、上達してから人前に出れば奥ゆかしいだろうと考えます。
しかし、このような考えの人は何一つ習得できません。
全く何もできない段階から上手な人達に混じり、批判や嘲笑を恐れずに稽古する人こそ、天性の才能がなくても年を重ねて、いい加減にせずに努力すれば、最終的には名人の域に達することができます。
天下の達人といえども、最初は大きな欠点がありました。
しかし、その道の規律を守り、怠けなかったからこそ、いつしか世間に認められ、万人の師となるのです。
これはどの道においても同じことです。
徒然草とは何か?わかりやすく簡単に解説
徒然草は、清少納言の「枕草子」や、鴨長明の「方丈記」とともに、日本三代随筆の一つに数えられている随筆つまりエッセイです。
たとえば清少納言の「枕草子」は、今に例えていうならX(旧・ツイッター)のつぶやき集のようなもので面白いものですが、徒然草も、作者の思いを思ったままに記した作品です。
→→→→→【枕草子の内容をわかりやすく解説】についてくわしくはこちら
『徒然草』の成立には様々な説があり、吉田兼好が全て編纂したという確証はありません。
室町時代に九州探題の今川貞世(別名・今川了俊)が、兼好の没後に原稿を編纂したという説もありましたが、その確証もありません。(今川貞世は、吉田兼好の弟子である命松丸と親しかった)
序段をふくめて243段からなる『徒然草』は、随筆として高い評価を受けているだけでなく、同時代の事件や人物を知る歴史資料としても価値がある作品です。
余談ですが、今川貞世の兄・範氏の子孫は、織田信長に討たれた今川義元とその息子・氏真です。
今川氏真の子孫はつまり今川貞世の兄の子孫なわけですが、、忠臣蔵の悪役や、ケネディ大統領が尊敬した名君などを輩出し、現在も宇宙探査機「はやぶさ」に携わる活躍をしておられます。
→→→→→【今川氏真の子孫と家系図】についてくわしくはこちら
作者
徒然草の作者は、吉田兼好という僧侶です。(本名・卜部兼好)
吉田兼好は、出家後に兼好法師と呼ばれるようになった人物で、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍しました。
官人として宮中に仕える一方で、歌人・二条為世から和歌を学び、「和歌四天王」と呼ばれるほどの実力を持つ歌人でもありました。
当時の著名人である九州探題・今川貞世や、足利尊氏の執事・高師直と交流があったことも分かっています。
神職の家系出身であることは明らかですが、生年や没年については確かな情報が残っていません。
余談ですが、高師直といえば、かなり無惨な最期を遂げた人物です。子孫は織田信長の主君として歴史に名を刻んでいます。
→→→→→【高師直の死因や最期と子孫のゆくえ】についてくわしくはこちら
時代背景
兼好法師が活躍した時代は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてです。
鎌倉時代末期は、北条氏嫡流である得宗の権力が強くなり、専制政治が行われていました。(得宗とは、北条氏初代・北条義時の法名。つまり義時の直系子孫で、北条家の当主を意味する)
一方、地方武士の間では鎌倉幕府に対する不満が高まっていました。
そんなとき、後醍醐天皇が、鎌倉幕府に対して挙兵します。
- 足利尊氏
- 新田義貞
- 楠木正成
これらの武将が後醍醐天皇の呼びかけに応じて、1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡しました。
その後、後醍醐天皇による新しい政治「建武の新政」が始まりました。
しかし建武の新政は、武士たちにとって、とても都合の悪い悪政でした。
そのため後醍醐天皇から離反した尊氏は、後醍醐天皇を倒し、室町幕府を開いて光明天皇を即位させます
ところが後醍醐天皇は、京都の南にある奈良・吉野へ脱出して、そこで天皇を名乗ります。
こうして、2人の天皇が同時に存在する異常な状態となりました。
南の吉野と北の京都に、二つの朝廷が存在する異常な時代、それが南北朝時代です。
兼好法師と関わりのあった今川貞世は、この時代に九州を平定した人物であり、尊氏に仕えた高師直と同じく北朝の武将でした。
南北朝時代は、1392年、室町幕府の三代将軍・足利義満による南北朝の合一まで続きました。
→→→→→【朝廷とは何かわかりやすく解説】についてくわしくはこちら
→→→→→【タブーとされた南北朝時代をわかりやすく解説】についてくわしくはこちら
徒然草という題名の意味
作品名の「徒然草」の「徒然」という言葉は、序文の冒頭
「つれづれなるまゝに」
で使用されています。
この言葉は、やるべきことがなく、退屈で物思いにふけるような状態を表しています。
兼好法師はこの言葉を、自身の作品と自身を謙遜して表現するために用いたと考えられます。
吉田兼好とは、どんな人?
元官僚の僧侶!後二条天皇の部下だった
吉田兼好は、1283年頃に生まれ、1352年に亡くなったと考えられています。
出家したため、兼好法師と呼ばれることもあります。(本名・卜部兼好)
若いうちは官人として後二条天皇に仕え、30歳前後に出家しました。
現在の神奈川県横浜市にある上行寺の境内に庵を構えていたと伝えられています。
南北朝時代には、現在の大阪市阿倍野区にある正圓寺付近に移り住みました。
二条為世から和歌を学び、今川貞世や高師直とも交流がありました。
名言
一時の懈怠、即ち一生の懈怠となる
「懈怠」とは怠けること、おこたることです。
この名言は、一瞬の怠けが習慣となり、一生涯怠惰な人間になってしまうという戒めです。
どんな小さな怠けも見逃さず、真剣に取り組むことが大切だと教えてくれます。
勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり
これは、双六の上手な人に尋ねた際の返答です。
「勝とう」と焦るとミスが出やすくなりますが、「負けまい」と守備的に打つと、結果的に勝てるという教えです。
物事に対して執着せず、冷静な判断を下すことが重要だと示唆しています。
大欲は無欲に似たり
大きな欲を持つ人は、目先の小さな利益にはこだわりません。
そのような人は、一見無欲に見えますが、実は大きな目標に向かって邁進しているのです。
真の強さとは、欲望に振り回されることなく、自分の目標を追求できることにあると言えるでしょう。
一日の命、万金よりも重し
これは、命の重さを説いた名言です。
どんなお金よりも、一日でも長く生きることが大切だという教えです。
健康に気を配り、日々の生活を大切に過ごすことが重要だと気づかせてくれます。
お墓の場所
吉田兼好の墓は、岐阜県中津川市神坂にあるとされています。
兼好は、この場所に庵を結びましたが、この国の主が大勢の家臣を連れて狩りを行う様子に失望し、この地を去ったという伝承が残っています。
ちなみに、吉田兼好の墓から、3キロほど行ったところに、文豪・島崎藤村の生家がある木曽の宿場町・馬籠宿があります。
なお、京都市の長泉寺や、三重県伊賀市にも、吉田兼好の墓とされる場所があります。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 徒然草とは、吉田兼好が記した随筆つまりエッセイ集で、清少納言の枕草子、鴨長明の方丈記と並ぶ、日本三代随筆のひとつ
- 243段から成る徒然草だが、137段「花は盛りに」は有名で、「花も月も祭りも恋も、盛りだけではなく、終わりもまた良いものだ」と記されている
- 吉田兼好は、後二条天皇につかえた官僚だったが、30歳で出家して徒然草を記したという
- 徒然草の徒然とは、「やることもなく退屈な様子」を意味する
- 吉田兼好の墓は、岐阜県中津川市にあるとされている
以上となります。
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ありがとうございました。
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