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戦国武将「直江兼続(なおえ かねつぐ)」。兜の前立ての「愛」の一文字はとてもインパクトがありますよね。
何故「愛」という文字にしたのか。
この「愛」の字の由来は諸説あるのですが、「愛宕神社」や「愛染明王」から一字をとった・・・と言われているようです。
そして、若くして上杉家を切り盛りした直江兼続は「実は上杉謙信の子供ではないか」との噂もあるようです。
本当にそんなことがあり得るのでしょうか?
「直江兼続は上杉謙信の子供説」についても、くわしく調べてみました。
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この記事を短く言うと
- 武将「直江兼続」愛用の兜に付けられた「愛」という前立は、「愛染明王」「愛宕権現」の信仰から、または「仁愛」から付けられたという説がある
- 兼続は「上杉謙信の後継者争いを勝利に導いた」「関ヶ原の戦い後、藩士をリストラしなかった」「上杉家を江戸時代通じて存続させた」などの功績がある。
- 兼続は上杉謙信の子ではないか?という噂があるが、それは「義風堂々」というマンガで採用された説。信ぴょう性に乏しい説だろう。
直江兼続の兜「愛」の意味とは?
直江兼続といえば、「愛」と記された兜をつかっていた武将として有名です。
この愛という文字、一体何を表しているのでしょうか?
現代の意味として使われる「LOVE」といった感情を表す文字ではないようです。
では、どういった意味なのか。
有力説が3つあります。
- 軍神として信仰した神『愛染明王(あいぜんみょうおう)』から一文字掲げた。
- 愛宕(あたご)信仰から一文字掲げた。
- 仁愛(愛民)の愛
信仰心の高い上杉家は、有名な旗印の『毘』という一文字も『毘沙門天』信仰からきていますし、謙信公にならって上杉軍の勝利と神仏の加護があるように、直江兼続も信仰していたのでしょう。
「愛染明王」は仏様ですが、弓矢を持つことから「戦勝の仏」として信仰されていました。
また、神社の「愛宕権現(あたごごんげん)には、勝軍(将軍)地蔵(しょうぐんじぞう)がご本尊であり、(勝軍)つまり「軍が勝利する」という言葉に験(げん)を担いでいたのです。
「仁愛」は直江兼続の「越後の民を想う気持ちから一文字取ったのでは?」という説です。
ただ、兼続のもう一つの兜には「普賢菩薩」の梵字が使われている事、「普賢菩薩」は愛宕権現で祀られている事、上杉家領地内で愛宕信仰はあるが愛染明王のみの信仰がない事などから、「愛宕信仰説」が最も有力です。
直江兼続の功績は?何をした人なのか
20歳ごろから上杉景勝の側近として仕え、支え、国の発展の為に尽力した武将です。
直江兼続の功績を大きく3つにまとめてみました。
①後継者争い「御館の乱」に勝利
上杉謙信急死後、その家督を巡って「後継者争い」が勃発します。
謙信には実子がいなかった為、養子同士の争いとなりましたが、上杉景勝の義弟「景虎」は、上杉家の宿敵「北条家」からの養子でした。
上杉家を乗っ取られる事を恐れた兼続は景勝に味方し勝利をおさめます。
②リストラしなかった
1600年「関ヶ原の戦い」で敗れた上杉軍は「徳川家康」に領地を没収され、「会津120万石」から「出羽米沢30万石」まで石高を減らされました。
たった1/4の収入で、今まで通り家臣達をリストラせずに養い続けるには、何かしら工夫が必要ですよね。
その工夫というのが、「他国から戦を仕掛けられないよう城下町を建設し守りを堅め」、「食力確保の為に新田開発」し、「下級家臣団には自給自足の生活をさせていた」ということだそうです。
彼らのお陰で食料不足・農民不足が解消し、財政も逼迫されなくなりました。
(とはいえ、このときにリストラしなかったために、後世において上杉家の財政は瀕死の状態にまで追い詰められ、「上杉鷹山」の改革でなんとか「上杉家」の家名を守り、生き残った)
③上杉家を存続させた
江戸時代に入り、平穏な時代がやってきました。会津から米沢へ移った上杉家は、戦で荒れ果てた土地の整備を行い治水事業に力を入れ、川の氾濫を治める為に堤防を作り、町を整備していました。
また、殖産興業にも力を入れ復興のために尽力したのでした。
直江兼続は、上杉謙信の息子?
「直江兼続は上杉謙信の実子説」・・・・どうやらこの噂の発端は「義風堂々」という「漫画」のようです。
このマンガのなかで、「直江兼続」は「上杉謙信」の実子として登場し、活躍しています。
実際の上杉謙信は、生涯独身だったことで有名な戦国武将ですから、血の繋がった子供というのはあり得ないですが、直江兼続の有能さに想いを汲んで「ご落胤説」を漫画に盛り込んだのかもしれませんね。
その「ご落胤説」の発端というのは、『家臣の一人に過ぎない直江家が上杉家の内政を掌握するようになったのか』という疑問から出てきたのではないか・・・とも言われています。
現段階で明確な資料が出てない以上、はっきりとした事はわかりませんが、歴史というのは多面的に考えることができるので楽しいですね。
『直江兼続』について「ひとこと」言いたい!
直江兼続・・・・主君「上杉景勝」があまり目立たないせいなのか、近年、直江兼続はとても注目を集める存在になっています。
確かに、直江兼続のおかげで上杉家は何度も危機を乗り越えていますね。
兼続は頭脳派の名将で、「御館の乱」では「上杉景虎」「北条氏政」「武田勝頼」らの結束を、巧みな外交交渉で離間させることに成功。
「武田勝頼」と「上杉景勝」で甲越同盟を締結させて、圧倒的に不利だった形勢を逆転。「上杉景虎」を打ち破ることに成功しています。
さらには「織田信長」の侵攻を食い止めて、「本能寺の変」で信長が亡くなったあとは「豊臣秀吉」に接近。滅亡した武田家とは異なり、上杉家を存続。
そのうえ「徳川家康」に対して「直江状」と呼ばれる挑戦的な手紙を送りつけ、「いつでもかかってこい」と挑発。
盟友「石田三成」が大坂城で挙兵できるように、徳川家康を領国「会津」へおびき出す役割を果たしています。
その「関ヶ原の戦い」で敗北したにも関わらず、またしても巧みな外交手腕で徳川家康と渡り合い、「120万石」から「30万石」への減封でとどめて、上杉家を窮地から救っています。
「御館の乱」「織田軍の侵攻」「関ヶ原の戦い」と、幾度もの危機から上杉家を守り、明治維新まで「上杉家」を存続させる礎をつくりました。
直江兼続・・・・ここまではほとんど完璧な結果を残しているように見えますが、関ヶ原の戦いにおいて、最大のミスを犯しています。
せっかく「会津」へおびき出した徳川家康でしたが、石田三成挙兵を知ると、家康は迅速に大坂方面へ帰還。三成を1日で撃破してしまいます。
このとき直江兼続は、会津から江戸・関ヶ原へと撤退する家康の背後を攻撃すべきでした。
情報が足りなかったため、まずは後方の「伊達・最上」の驚異を取り除いておこうと考えたのでしょうけれど、孫子の兵法にある「兵は拙速を尊ぶ」の通り、多少まずくても迅速に家康の背後を突くことで、三成の多数派工作をさらに援助することができたはずなのです。
もっと緊密に情報網を張り巡らせて、三成とも連絡を頻繁に取っていれば、家康の背後を突くことができたと思います。
このサイトの他の記事で「上杉謙信は世界史上最強の武将」と紹介しましたが、もしかすると先代「上杉謙信」と「越後軍」があまりにも強すぎたため、「情報を重んじる」という基本が上杉家には欠けていたのかもしれません。
直江兼続・・・・関ヶ原の戦いで勝利を得ていたら、さらにその名を挙げていたはず。残念でなりません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 『愛』の文字は神仏信仰心からつけられた
- 窮地に陥った上杉家の為に知恵を尽くした
- 若い頃からの有能ぶりに上杉謙信の隠し子説が浮上(真偽不明)
以上となります。
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