毛利元就の生涯年表と最期!戦国一の智将はどのように勢力拡大したの?

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戦国武将「毛利元就」について、ご存知の人も多いのではないでしょうか。

「矢は一本では簡単に折れるが、三本たばねると折れない」

という教えを知っている人が多いと思います。

実はこの教えを息子たちに話した・・・とされるのが「毛利元就」なのです。

そんな毛利元就とは何をした人なのか、その生涯はどんなものであったのか、どうやって勢力を広げたのか。

これらの疑問について、わかりやすく簡単にまとめましたので、よろしければこの記事をお役立てくださいませ。


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拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 毛利元就とは、16世紀・戦国時代に活躍した安芸国(広島県)の名将。安芸国の一部を領する小領主から、「中国地方8カ国」を支配する大勢力へ躍進した。
  2. 毛利元就は【1497年】に誕生。「吉田郡山城の戦い」「厳島の戦い」「第二次月山富田城の戦い」を制して「中国地方の覇者」となり、【1571年】に亡くなった
  3. 元就は「謀神(はかりがみ)」と異名をとるほどの「謀略」の達人だった。敵を罠にひっかけてその力を削ぎ落とすことで、勢力を拡大していった。

毛利元就とは何をした人なのか?その功績を解説

毛利元就の功績をひとことで言ってしまうと

「毛利家を安芸国の弱小領主から、中国地方を制覇するほどの大領主へと急成長させた」

ということになります。

元就はわずか一代で、「大内家」「尼子家」という巨大な2つの勢力を飲み込み、中国地方を制覇してしまったのです。

《毛利元就》
「引用元ウィキペディアより」

毛利元就・・・16世紀の戦国時代に活躍した戦国武将。

その知略を駆使して勢力を拡大した名将です


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毛利家はもともと、安芸国(広島県)のごくごく一部を支配するにすぎない小領主でした。

毛利元就はそんな毛利家の次男として誕生。しかし当主であった兄「興元」が亡くなったことで家督を継承。

西に「大内家」、東に「尼子家」という巨大な勢力に挟まれた毛利家は、常に崖っぷちに追い込まれていたのです。

元就は「戦国一」とも評価された頭脳を駆使して、勢力拡大に着手。

息子たちを他家へ養子に出すことで勢力基盤をかため、「大内家」の内紛に介入して、その領地であった「周防・長門(山口県)」を奪取。

さらに「尼子家」へ侵攻し、その本拠地であった難攻不落の要塞「月山富田城」を陥落させます。

「大内家」「尼子家」を滅ぼした毛利元就は、「中国地方」の覇者となり、孫の「毛利輝元」に家督を継承。

その「毛利輝元」は叔父「吉川元春」「小早川隆景」らの支援を受けて、「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」たちと渡り合うこととなるのです。


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毛利元就の生涯年表と最期

『毛利元就』の「生涯年表」を、わかりやすく解説いたします。

 

1497年】(毛利元就の年齢・・・1歳)

「毛利元就」、安芸国の小領主「毛利家」の次男として誕生。幼名は「松寿丸」。

 

1500年】(4歳)

父「毛利弘元」が隠居。兄「毛利興元」が家督を継承。

 

1506年】(10歳)

父「毛利弘元」が病死。死因は「酒の飲みすぎ」。

 

1511年】(15歳)

元服(成人)し、「毛利元就」と名乗る。

 

1516年】(20歳)

兄「毛利興元」が病死。死因は「酒の飲みすぎ」。

 

1517年】(21歳)

「有田中井手の戦い(ありたなかいでのたたかい)」で初陣を飾る。

「西の桶狭間」と呼ばれたこの戦いで、元就は1千足らず兵で「武田元繁」を討ち取り、武田軍5千を撃破。

 

1523年】(27歳)

「鏡山城の戦い」で智将「尼子経久」に協力し、謀略をもちいて鏡山城を陥落させる。

長男「隆元」が誕生。

毛利家当主である甥「幸松丸」が病死。

「毛利元就」が毛利家の家督を継承。

 

1525年】(29歳)

出雲国「尼子家」から、周防国「大内家」の傘下へ入る。

 

1529年】(33歳)

敵将「高橋興光」を討伐し、兄「毛利興元」の妻の実家「高橋家」の領地を奪取。(このとき元就は、高橋家へ人質に出していた幼い長女を処刑されている)

 

1535年】(39歳)

備後国の武将「多賀山通続」を降伏させる。


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1537年】(41歳)

長男「隆元」を大内家へ人質として差し出す。

 

1540年】(44歳)

「吉田郡山城の戦い」・・・尼子詮久(のちの尼子晴久)に「3万」の大軍団で本拠地「吉田郡山城」を攻撃されるが、「3千」の兵で迎撃し撃退に成功。

 

1542年】(46歳)

「第一次月山富田城の戦い」・・・元就、「大内義隆」「陶晴賢」とともに、尼子家討伐を開始。

 

1543年】(47歳)

「第一次月山富田城の戦い」で、大内軍と毛利軍が大敗。命からがら本拠地の「吉田郡山城」へ帰還。

 

1544年】 (48歳)

三男「隆景」を竹原小早川家へ養子に出す。

 

1545年】(49歳)

妻「妙玖(みょうきゅう)」と養母「杉(父・弘元の側室)」が他界。

 

1546年】(50歳)

「毛利元就」が引退。嫡子「毛利隆元」が家督を継承。実質的な毛利家の実権は依然として「元就」が握ったままの引退だった。

 

1547年】(51歳)

次男「元春」を、元春の母「妙玖」の実家である「吉川家」へ養子に出す。

 

1550年】(54歳)

毛利家家臣「井上元兼」とその一族を粛清。

 

1551年】(55歳)

大内家家臣「陶晴賢」が、主君の「大内義隆」に対して謀反を起こして殺害。(大寧寺の変)


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1554年】(58歳)

出雲・尼子家で最強部隊「新宮党」の当主「尼子国久」とその子「誠久」が、当主「尼子晴久」に粛清される。

この尼子家の内紛は、毛利元就による「罠」によるものだという可能性がある。

これにより毛利家は東の驚異を取り除くことに成功。「陶晴賢」が率いる西の「大内家」と対立を深めることとなる。

 

1555年】(59歳)

元就の「謀略」にひっかかった「陶晴賢」は、猛将「江良房栄」を粛清。

「厳島の戦い」・・・毛利元就の奇襲によって、厳島に陣取っていた「陶晴賢」の軍団は壊滅。「陶晴賢」は自刃。

諸説あるが、この戦いで毛利軍「5千」が陶晴賢の軍「3万」を撃破。

 

1556年】(60歳)

尼子晴久の軍団2万5千が石見国「山吹城」を攻撃。毛利軍は大敗。宝の山と称された「石見銀山」を尼子家に奪われる。(忍原崩れ)

 

1557年】(61歳)

毛利家が「大内家」を滅亡させ、「長門・周防国(山口県)」の二カ国を支配。

 

1559年】(63歳)

「石見銀山」を奪還するため出陣するが失敗。

 

1560年】(64歳)

「尼子晴久」病死。

 

1562年】(66歳)

「第二次月山富田城の戦い」を開始。

 

1563年】(67歳)

毛利家当主「毛利隆元」急死。暗殺ともいわれている。

 

1566年】(70歳)

「尼子義久」が降伏。月山富田城陥落。これで毛利家は「中国地方8カ国」を支配する大大名となる。

 

1567年】(71歳)

9男「小早川秀包」が誕生。

 

1569年】(73歳)

元就が大友家が支配する「筑前・立花山城」へ出陣。(立花山城の戦い)

 

1570年】(74歳)

孫「毛利輝元」が、尼子家残党「尼子勝久」を討伐するために出陣。元就は吉田郡山城で待機。

 

1571年】(75歳)

「毛利元就」死去。死因は「食道がん」または「老衰」。

その死を知った「織田信長」から弔問の使僧がおくられる。


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元就が躍進を始めたのは、「外交」を駆使することで、毛利家の土台をしっかりと堅めた後からです。

娘を宍戸家へ嫁に出して婚姻関係を結び、次男「元春」と三男「隆景」を他家へ養子に出すなど、外交を駆使して地盤をしっかりと固めた後に、「大内家」「尼子家」との決戦に繰り出しています。

戦いを行う際もとても慎重です。

じっくりと時間をかけて敵から「裏切り者」が出るように仕向け、内部分裂を待ってから攻撃を開始。

  • いかに裏切り者を出させるか。
  • いかにして内部分裂をおこさせるか。

それを先にして、勝利の可能性を極限まで高めた後に開戦する。

「謀神」とよばれた「毛利元就」の真骨頂といえるでしょう。

名将「朝倉宗滴(あさくら そうてき)」も認めた毛利元就の生涯は、「人間(じんかん)五十年」と歌った「織田信長」をも唸らせたわけですが、実際に元就が躍進を始めたのは「50歳」を過ぎてから。

息子たちに徹底的な人材育成をほどこし、その子たちが優秀な人材に育ったあとでのことでした。


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小領主だった元就が、中国地方を制圧した方法とは?

元就はなぜ小さな領主から、中国地方を制圧するほどに急激な勢力拡大ができたのでしょうか。

その手段は、ひとことで言えば「謀略」。

すなわち「相手をだまして罠にひっかけること」で、敵勢力の力を削ぎ落とし勝利を重ねていったのです。

元就はまず、毛利家の土台をかためることに力を尽くします。

娘をライバル「宍戸家」へ嫁に出して姻戚関係を結び、次男「元春」を妻の実家「吉川家」へ、三男「隆景」を水軍をもつ「小早川家」へ養子に出しています。

さらに元就は、瀬戸内海を支配していた海賊衆「村上水軍」との関係を強化。

元就はまず、「外交」で勢力を拡大していったのです。


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次に元就は、毛利家がそれまで付き従っていた主家「大内家」の内紛に介入して、勢力拡大を図ります。

このとき「大内家」では、当主「大内義隆」が家来「陶晴賢」に打ち倒されて家を乗っ取られていました。

毛利元就はこの「陶晴賢」と「大内家」に戦いを挑み、「謀略」を用いて数々の罠を張り巡らせ、陶晴賢の家来たちを次々と始末していきました。

ついに元就は、「厳島の戦い」で陶晴賢を撃破に成功。わずか「5千」の毛利が、「2万」の陶晴賢に勝利したのです。

少数の軍勢で陶晴賢の大軍団を撃破することに成功した毛利家は、「周防国」「長門国」の二カ国を制圧。一気に中国地方最大の勢力にのし上がるのでした。


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大内家を支配した毛利元就は、次に「出雲国」を支配する「尼子家」を攻撃します。

元就はまず、「宝の山」とも呼ばれた尼子家の資金源「石見銀山」を奪取。

そして尼子家の本拠地「月山富田城」へと侵攻を開始。

元就は名城「月山富田城」を力づくで攻め落とすような真似はせず、「兵糧攻め」にします。

ここでも元就の謀略は冴えわたります。元就の罠にはまった尼子家は、重臣「宇山久兼」が裏切ったと勘違いし、粛清してしまうのでした。

長期間の兵糧攻めにより、「尼子家」の当主「尼子義久」は降伏。

元就はわずか一代で、小領主だった「毛利家」を「中国地方8カ国の覇者」へと押し上げたのでした。


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『毛利元就』について「ひとこと」言いたい!

「毛利元就はくどい男だった・・・」

元就の手紙をみてみると、

「何度も言うようですが」

とか

「くどいようですが」

という言葉が頻繁に出てきています。

かなり「くどい人」だったようですが、それは言い換えると「指示が細かくて的確」だとも言えるのでしょう。

くどい・・・ということは、かなり「慎重な性格」であったということです。


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元就はおそらく、当初「中国地方の覇者になりたい」などとは思っていなかったとおもいます。

「天下を制することを目標にして、初めて中国地方を制することができるのだ」

若い頃、元就は厳島神社で家来にそのように語ったという逸話が残されていますが、これはおそらく後世の創作でしょう。

元就が「中国地方の覇者になる」ことを夢にも思っていなかった根拠は、当時の中国地方が「大内家」と「尼子家」という絶対的な力を持つ「2大勢力」に支配されていたことです。

こんな状態で「中国地方の覇者」など、小領主の元就からすれば、まさに夢のまた夢。

ところが元就は、じっくりと待ち続けます。いつか機会が巡ってきた時のために・・・。

「最悪の事態を想定して準備せよ」

これは、よく耳にする言葉です。

元就のすごいところは「最悪の事態」を想定して準備しつつも、同時に「最善の事態」も想定し準備していたことです。


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元就は50歳を過ぎた頃から、外交を駆使して勢力を拡大。

いつかチャンスが訪れた時のために、出来ることからゆっくりとやっています。

「大内家」や「尼子家」が内紛を起こして分裂するチャンスを、じっくりと待ち続けたのです。

そしてついに「大内家」で「陶晴賢」が主君を殺害するという内紛が勃発。

このチャンスを利用して元就は「大内家」が支配する「防長二カ国」を奪取。

そして「尼子家」で当主「尼子晴久」が死に、若い当主「尼子義久」が家督を継承すると、そのチャンスを利用して尼子家も討伐してしまいます。

元就は「決してあきらめなかった」からこそ、中国地方の覇者となれたのです。

チャンスが訪れた際には、決してそのチャンスを逃すこと無く飛びつき、勢力を拡大しています。

とはいえ、元就は慎重でした。

「陶晴賢」が大内家を乗っ取ってから、元就が「厳島の戦い」で勝利するまで、実に「4年」。「尼子晴久」が亡くなって、元就が「第二次月山富田城の戦い」を開始するまで「2年」もかかっています。

チャンスは大切にするが、焦って飛び乗るようなことはしない。

スピードを命とする「織田信長」からすると「じれったい」かもしれませんが、弱小領主だった元就からすれば、これはこれで正解だったのでしょうね。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 毛利元就は中国地方の小さな領土の家で生まれ。小領主であった「毛利家」を、中国地方を制覇するまでに急拡大させました。
  2. 元就が生まれた時代は、戦国時代の初め。「大内家」や「尼子家」など、周りには有力なライバルが多数いました。元就はそれらライバルを次々と破り、毛利家を中国地方の覇者としたのです。
  3. 元就がこのように勢力を伸ばした理由は、息子を養子に出すなどして「外交」により土台をかため、次に敵を欺く「策略」を駆使することにより、敵勢力を倒していったのです。

以上となります。

なお、有名な3本の矢の伝説は、後世の創作であるという説が有力。

実際は「3人の息子を集めて元就が教え諭した」というような事は無かったみたいですです。

ただし、実際に息子達が力をあわせて毛利家を守っていった・・・ということだけは、紛れもない事実です。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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