皆さんは「桜田門外の変」を、ご存知でしょうか?
実は桜田門外の変について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。
この記事では桜田門外の変を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
今は桜田門外の変について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、桜田門外の変に詳しくなれます。
この記事を読んで、桜田門外の変の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,桜田門外の変とは何か?
桜田門外の変とは、【安政7年(1860年)3月3日】に起こった襲撃・暗殺事件。江戸幕府の大老・井伊直弼が、水戸藩浪士たちに襲撃され暗殺された事件のこと
2,桜田門外の変が起こった理由とは?
井伊直弼が、日米修好通商条約という不平等な条約を勝手に結んで、日本に利益を失わせてしまった。それに怒った徳川斉昭らを、井伊直弼は安政の大獄という弾圧事件で処罰してしまった。日米修好通商条約と安政の大獄、この2つの井伊直弼のやり方に怒った水戸藩の浪士たちが、桜田門外の変を起こした。
3,実は井伊直弼は、悪くはなかった?
日米修好通商条約を締結しなかったら、日本は強国・アメリカに戦争を仕掛けられて滅びていただろう。
また徳川斉昭を処罰したことは、当時としては当然の合法的な行為であり、安政の大獄は正当な処罰だったといえる。
こうして考えると、井伊直弼に落ち度があったとは思えない。
目次
【桜田門外の変】とは何か?
『桜田門外の変』とは、江戸幕府の最高職に大老だった井伊直弼が暗殺された事件のことです。

『引用元ウィキペディアより』
【1860年3月24日(安政7年3月3日)】、江戸城の門の一つである桜田門で、大老・井伊直弼は暗殺されました。
暗殺犯は、水戸藩の元藩士17名と、薩摩藩士1名の、合計18名。
この事件により、大老・井伊直弼は首を取られて亡くなりました。
井伊直弼の首を斬った薩摩藩士・有村次郎右衛門は、襲撃のあと、深手を負って自害。
18名のうち、1名が戦いの中で戦死。4名が自害。8名が自首したあとで斬首刑。
残る3名は、その後も生き延びました。
3名のうちの1名は、襲撃からちょうど3年後の【文久2年(1862年)3月3日】に自害。
残る2名は明治時代まで生き延び、1名は【1881年】に病死。もう1名は【1903年】に亡くなっています。
井伊直弼が亡くなったことにより、井伊がおこなった弾圧事件・安政の大獄で謹慎処分とされていた一橋慶喜の謹慎が解除されます。

「引用元いらすとやより」
その後、一橋慶喜はまだ若かった将軍・徳川家茂にかわり、将軍後見職として政治を行うこととなります。
さらに慶喜は、徳川家茂が病死すると、そのあとを継いで征夷大将軍に就任。
最後の将軍として、大政奉還や江戸城無血開城をおこない、江戸幕府を消滅させることとなります。
「大政奉還」や「江戸城無血開城」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております
【桜田門外の変】が起こった理由とは?井伊直弼の独裁が原因だった
【桜田門外の変】が起こった理由は、井伊直弼が【安政の大獄】と呼ばれる弾圧事件を起こしたためです
安政の大獄とは、【1859~60年】に起こった弾圧事件。
井伊直弼のやり方反対する者たちが、井伊直弼に次々と失脚させられたり、処刑させられたりした事件です。
直弼は【日米修好通商条約】という、日本にとって不平等な条約をアメリカと締結してしまった張本人でした。
この不平等な条約を結ばされたことに、日本中の侍たちが激怒していたのです。
その怒りは、不平等な条約を締結した井伊直弼に向けられたのです。
さらに井伊は、日米修好通商条約を締結したあと、自分のやり方に反対する者たちを、次々と処罰します。
井伊直弼が不平等な条約を結んだことを、とくに怒っていた水戸藩前藩主・徳川斉昭は、直弼によって永蟄居つまり永遠の謹慎処分を下されてしまうのでした。

『引用元ウィキペディアより』
徳川斉昭が処罰されたことに、水戸藩の侍たちは激怒。
激怒した水戸藩の侍たち17名は、同じく井伊直弼のやり方に激怒していた薩摩藩士・有村次郎右衛門を仲間に加えて、井伊直弼暗殺を計画。
ついに【1860年3月24日(安政7年3月3日)】に、江戸城・桜田門外で襲撃計画を実行してしまうのです。
井伊直弼は、46歳で亡くなります。
その襲撃現場は、早朝から降り積もっていた純白の雪を鮮血で染めあげる、とてつもなく酷いものだったといわれています。
井伊直弼のお墓は、東京・豪徳寺にあります。
余談ですが、豪徳寺のすぐ近くには、「松陰神社」があります。松陰神社は、井伊直弼が安政の大獄で処刑した「吉田松陰」をまつった神社です。
松陰神社と井伊直弼の墓所が目の前とは、皮肉なものを感じますね。
「日米修好通商条約」についてくわしくは、以下のリンク記事で解説しております。
桜田門外の変の【真相】!実は井伊直弼は悪くなかった
実は井伊直弼は、日本を救うために力を尽くした偉人でした。
当時から、【桜田門外の変】で暗殺された井伊直弼は、悪の親玉だと言われてきました。
しかし実際のところ、井伊直弼は日本を守るために力を尽くしただけであり、特に悪い人物ではありません。
なぜ井伊直弼がそれほどまでに恨まれたのかというと、理由は2つあります。
- 日本にとって不平等な条約である日米修好通商条約をアメリカと勝手に締結したこと
- 不平等条約を締結したことに文句を言った徳川斉昭や松平春嶽たちを、安政の大獄という弾圧事件で処罰したこと
ところが、井伊直弼にはそれなりに筋の通った言い分があったのです。
当時の日本人は壮大な勘違いをしていた!日本は最弱国だった?
これから井伊直弼について解説をいたします前に、一つだけ皆様にご理解いただきたいことがあります。
それは、「幕末の日本人は、そのほとんどが、一つの大きな勘違いをしていた」という件についてです。
「大きな勘違い」とは何かというと
「日本こそが世界最強の国である」
という勘違いです。
当時の人々は、井伊直弼などの幕府首脳陣を覗いて、武士も百姓もだれもが「日本が外国と戦争したら、負けるはずがない」と思っていたのです。
ところが、当時の日本は西欧列強と呼ばれる国々から置いてけぼりにされた、いわゆる弱小国に過ぎませんでした。
最強の覇権国イギリス、それに次ぐフランスとロシア、長年日本と貿易をしていたオランダ、新興国のアメリカ。
日本はこれらの国のどれを相手にしても勝てません。
それほど西欧列強の兵器の力と技術の進歩は、目覚ましいものがあったのです。
実際、日本は当時の世界ではそれほど強くない新興国アメリカの開国圧力に屈してしまったほどです。
攘夷つまり「外国人など力づくで追い出せ」と主張していた武士たちは、「日本は強い」と思い込んでいたからこそ、こんな過激なことを主張していたのです。
ところが実際のところ日本は当時「最弱の国」といっても過言ではない状態だったのです。
不平等な条約【日米修好通商条約】を締結した理由
井伊直弼が日米修好通商条約という不平等条約を結んだ理由は、そうしなければ日本が滅亡してしまうからです。
まずは日米修好通商条約という不平等な条約を、井伊直弼が締結した理由を解説します。
当時の最強国・イギリスと仲が悪かったアメリカは、日本と貿易して利益をあげ、国の力をさらに強めたいと考えていました。
ところが日本は、三代将軍・徳川家光以来、鎖国をして外国との貿易を禁止していたため、このアメリカの貿易要求を拒絶します。
すると怒ったアメリカは、こんなことを言い出しました。
「貿易をしないのならば、日本を相手に戦争してやる!」
これに日本は焦りました。
200年以上も鎖国して平和ボケしていた日本では、軍事国家アメリカを相手に戦っても、負けることがわかりきっていたからです。
- もしも条約を締結すれば、戦争は避けられるが、自分たちにとって不平等な条約を押し付けられる
- もしも条約を拒否したら、不平等な条約は避けられるが、戦争をしかけられて日本は滅亡する
この究極の選択を迫られた井伊直弼は、日本を救うため、不平等な条約を受け入れたのでした。
井伊直弼は、日本中から恨まれることを覚悟していました。
その上で、責任を取る覚悟で、条約締結に踏み切ったのです。
徳川斉昭を処罰した理由とは?
井伊直弼が徳川斉昭たちを安政の大獄で処罰した理由は、徳川斉昭らが違法行為を犯したからです。
井伊直弼が日本中から恨まれたもう一つの理由は、徳川斉昭らを処罰したためです。
ところが、井伊直弼が徳川斉昭を処罰したことは、直弼からすれば当然のことでした。
実は徳川斉昭、このとき重大な犯罪行為を犯していたのです。
その犯罪行為とは、【不時登城】というものです。
徳川斉昭は、不平等な条約を勝手に締結した井伊直弼に抗議するため、急いで江戸城へと向かいました。
ところが同時の法律では、【定められた時間にしか江戸城に来てはならない】とされていたのです。
徳川斉昭にも、江戸城に来て良い時間と、来てはいけない時間が、しっかりと定められていたのです。
それにも関わらず、不平等な条約を結んだ井伊直弼に激怒していた徳川斉昭は、松平春嶽らとともに無断で江戸城へお仕掛けたのです。
これにより、徳川斉昭は永遠に謹慎処分とされてしまったわけです。
つまり、徳川斉昭や松平春嶽を処罰した行為は、合法であり、決して間違ってはいなかったのです。
むしろ井伊直弼の行動は正しかったと言って良いでしょう。
確かに「永遠に謹慎処分」という処罰は厳しすぎるかもしれません。
しかし徳川斉昭が法律違反を犯したことは間違いなく、井伊はそれを法律にしたがって処罰しただけなのです。
ところが、徳川斉昭を処罰したタイミングが、井伊直弼が斉昭から抗議を受けた直後であったため、日本国民のほとんどが、井伊直弼が徳川斉昭を一方的な独裁で弾圧した、と勘違いしてしまったのです。
安政の大獄がおこなわれた理由は、他にもあるのですが、吉田松陰や橋本左内が処刑された理由について、くわしくは以下のリンク記事で解説いたします。
『暗殺事件』のその後!日露戦争まで続いた井伊直弼の負の遺産【不平等条約】
桜田門外の変から8年後の【1867年】、徳川慶喜が大政奉還をしたため、江戸幕府は消滅。
その翌年の【1868年】に江戸城無血開城が実現して、明治維新が成し遂げられました。
これにより、【1185年】から続いた武士たちの時代は終わります。
ところが、井伊直弼が締結した不平等条約は、その後も日本の国益を圧迫し続ける事となるのです。
不平等条約の撤廃を目指して日本を旅立った「岩倉具視使節団」も、条約改正に失敗しています。

「引用元ウィキペディアより」
日本はその後も、富国強兵をすすめて、西欧列強にも負けない国造りに力を尽くし続けました。
「資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一などの活躍もあり、日本は急激な成長をとげていきます。
【1904~05年】、日本は超大国・ロシアとの日露戦争に勝利し、西欧列強から認められることとなります。
そして日米修好通商条約の締結から53年後の【1911年】、小村寿太郎による「日米通商航海条約」の締結によって、日本は不平等条約を完全に撤廃することに成功したのです。
徳川慶喜については、以下のリンク記事でくわしく解説しております
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,桜田門外の変とは何か?
桜田門外の変とは、【安政7年(1860年)3月3日】に起こった襲撃・暗殺事件。江戸幕府の大老・井伊直弼が、水戸藩浪士たちに襲撃され暗殺された事件のこと
2,桜田門外の変が起こった理由とは?
井伊直弼が、日米修好通商条約という不平等な条約を勝手に結んで、日本に利益を失わせてしまった。それに怒った徳川斉昭らを、井伊直弼は安政の大獄という弾圧事件で処罰してしまった。日米修好通商条約と安政の大獄、この2つの井伊直弼のやり方に怒った水戸藩の浪士たちが、桜田門外の変を起こした。
3,実は井伊直弼は、悪くはなかった?
日米修好通商条約を締結しなかったら、日本は強国・アメリカに戦争を仕掛けられて滅びていただろう。
また徳川斉昭を処罰したことは、当時としては当然の合法的な行為であり、安政の大獄は正当な処罰だったといえる。
こうして考えると、井伊直弼に落ち度があったとは思えない。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
『井伊直弼』関連記事
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