「徳川家康の死因」が何なのか、ご存じない方も多いのではないでしょうか。
実は筆者も、今回くわしく調査してみるまで、家康の死因は「老衰」だと思いこんでいました。
実は「徳川家康」の最期については、「天ぷらを食べて亡くなった」という説があるのです。
また、「真田幸村に暗殺されていた」という説まであります。
この記事では「徳川家康の死因」について、わかりやすく、くわしく解説しております。
この記事を読めば「徳川家康」の死因について、他人に解説できるほど詳しくなることができます。
よろしければ、ぜひご一読くださいませ。
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この記事を短く言うと
・徳川家康の死因は「胃がん」と考えられている。
・「天ぷらを食べて食中毒で亡くなった」という説は、きわめて可能性が低い
・家康は真田幸村に暗殺されたという説があるが、これは後世の創作であり、あり得ない
徳川家康の死因は「胃がん」だった!
徳川家康は【元和2年(1616年)4月17日・午前10時頃】に亡くなりました。享年【75歳】。
最新の研究によると、家康の死因は「胃がん」だったと考えられています。
家康の症状は、「血を吐く」・「お腹のしこり」・「黒い便」などです。
どれもこれも「胃がん」の患者にみられる症状です。
家康は老後、かなりの肥満体型になったことで有名です。
肥満であるにも関わらず、死の直前にかなりの速度でやせ細っていったという記録が残っています。
この「やせ細る」という症状も「胃がん」の症状の一つと考えられています。
「天ぷらを食べて亡くなった説」を考察
一説によると、家康は「鯛の天ぷら」を食べて亡くなったとされています。
ニラをかけた「鯛の天ぷら」を食べ、食中毒で亡くなったとのこと。
実際に家康は、【元和2年(1616年)1月21日夕方】、鯛の天ぷらを食べて倒れています。
しかし、家康が亡くなったのはその約3ヶ月後の【4月17日】です。
「鯛の天ぷらによる食中毒」が死因ならば、発症から死去まで3ヶ月もかかりません。
徳川家康が「天ぷらを食べて亡くなった」可能性は、極めて低いです。
「天ぷら死因説」は、「後世の創作」または「勘違い」であると考えられます。
ちなみに、家康が「天ぷら」を食べて体調を崩したため、のちに江戸城では「天ぷら禁止」になったと噂されています。
しかしこれは間違いです。
実際には、江戸城の侍女が天ぷら調理中に「火災」となりかけたため、「天ぷら禁止」になったのです。
つまり、江戸城で天ぷらが禁止となった原因は、「火災」ということです。
「家康の食中毒」が原因で、「天ぷら禁止」となったわけではありません。
「真田幸村に暗殺されたという説」は本当なのか?
「幸村による暗殺説」
一説によると「徳川家康の死因」には、「真田幸村に暗殺された」というものがあるようです。
「真田幸村」といえば【慶長20年(1615年)5月7日】の「大坂・夏の陣」で、家康を追いつめた名将です。
人々は名将「真田幸村」の死を惜しみました。
そのためなのか、「真田幸村・生存説」が各地で噂されています。
「花のようなる秀頼を、鬼のようなる真田が連れて、退きものいたよ鹿児島へ」
という歌が流行したほどです。
「真田幸村に暗殺されたという説」によれば、家康は「大坂・夏の陣」で「真田幸村」に追いつめられ、駕籠(かご)にのって逃亡している途中、「後藤又兵衛」の槍で刺されて重傷を負ったとのことです。
負傷した家康は、堺の寺へ運ばれたものの、傷が原因で死んでしまいます。
堺市の「南宗寺」というお寺には、「家康公の墓」なるものが存在しています。
のちに2代将軍「徳川秀忠」と、3代将軍「徳川家光」も、この南宗寺を訪れています。
この「真田幸村暗殺説」によると、「小笠原秀政」という武将が家康の「影武者」となり、1年ものあいだ、その死を隠したとのことです。
又は、徳川四天王の一人「榊原康政」に見出された「矢惣次(やそうじ)」という農民が、家康の影武者を務めたともいわれています。
この「矢惣次」という影武者は、用済みとなった際に「毒入りの天ぷら」で殺害されたのだとか。
おそらくですが「矢惣次・毒入り天ぷら説」は、家康が「天ぷらを食べて亡くなった」という説に掛け合わせているのでしょう。
しかし実際のところ家康は「胃がん」で亡くなっているので、「矢惣次」などの影武者説は考えられません。
現実的に考えて、家康が真田幸村に殺害された可能性は、ありえません。
なぜなら家康に致命傷を与えたとされる武将「後藤又兵衛」は、家康が幸村に追いつめられた【慶長20年(1615年)5月7日】の前日、すでに戦死しているのですから。
「真田幸村による暗殺説」は後世の創作です。
家康は「病死」で間違いありません。
真田幸村も「大坂・夏の陣」で間違いなく戦死していますので、生存説は後世の創作と考えて間違いないと思われます。
家康の「辞世の句」と、その「意味」を解説
「徳川家康」の【辞世の歌】は2つあります
「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
【嬉しいな!もう目覚めることはないと思って目を閉じたのに、また目が覚めてしまった!
この世でみる夢は、まるで暁の空のようだなぁ。
さぁ、もう一眠りするとしよう】
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 連れて行ぬを 何とぞ思う」
【先立つ私も、残される者たちも、いずれは亡くなるので、同じことよ。
他の者たちを連れて行くことは、断じてしないぞ。(「殉死(後追い自殺)」は絶対にしてはいけないぞ!)
さぁ、これで別れだ!皆の者!】
当時、主君がなくなると、家来たちはそのあとを追うようにして、自ら命を絶つ風習がありました。
これを「殉死(じゅんし)」といいます。
「殉死」したものは「忠臣」として評価され、その子供や孫たちはご褒美を与えられたといわれています。
しかし、そのご褒美目当てに殉死する者が次々と出てきてしまうと、優秀な人材が無駄死にすることとなります。
そのため家康は、「殉死」を禁止する目的で、あえてこのような「辞世の句」を残したのです。
もう一つの「嬉しやと・・・」という辞世からは、家康の「生き抜いた」「やり切った」という思いが滲み出ていますね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・家康の死因は「胃がん」
・家康の死因は「天ぷらを食べたため」ではない
・徳川家康が「真田幸村に暗殺されていた」という逸話は、後世の創作
以上となります。
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