西郷隆盛の「死因や最後の様子」について、誰かに尋ねられても、ハッキリと答えられる方は、少ないかもしれません
実は筆者自身も、西郷隆盛については知っていたものの、自分の手で調査してみるまで、西郷隆盛の死因・最後については答えられませんでした
この記事では「西郷隆盛の死因や最後の様子」について、ひと目で分かるようにまとめました
「西郷隆盛の最後」について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです
これを読んで、西郷さんについての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,西郷隆盛の『死因』は?
別府晋介の介錯(かいしゃく・とどめの一撃)による自害。
2,西郷隆盛の『没年月日』は?
1877年(明治11年)9月24日
享年51歳(満年齢49歳)
3,西郷隆盛の『最後の様子』は?
【1877年9月24日午前4時】、政府軍が城山を総攻撃したとき
- 「西郷隆盛」
- 「桐野利秋」
- 「桂久武」
- 「村田新八」
- 「池上四郎」
- 「別府晋介」
- 「辺見十郎太」
ら40余名は、隠れていた洞窟の前に整列し、そのあと出撃。
二発被弾した西郷は別府晋介の手で介錯され、自害をした。
4,西郷隆盛の『辞世の句』は?
「ふたつなき 道にこの身を 捨て小舟 波立たばとて 風吹かばとて」
- 「肥水豊山路已窮」
- 「墓田帰去覇図空」
- 「半生功罪両般跡」
- 「地底何顔対照公」
西郷隆盛の『死因』は何?
西郷隆盛の死因は、自害
別府晋介による介錯(かいしゃく)で死去。
異説だが、逃げ回る西郷隆盛を、村田新八と桐野利秋が一発ずつ撃ち、死なせたという説もある。
西郷隆盛の『没年月日』と『最後の様子』
「没年月日」と「享年」
1877年9月24日
享年51歳(満年齢49歳)
「最後の様子」
【1877年9月24日午前4時】、「西南戦争」最後の戦いである「城山決戦」開戦。
- 「西郷隆盛」
- 「桐野利秋」
- 「桂久武」
- 「村田新八」
- 「池上四郎」
- 「別府晋介」
- 「辺見十郎太」
ら40余名は、隠れていた洞窟の前に整列し、そのあと出撃。
仲間たちが次々と弾丸にたおれ、「桂久武」も被弾してたおれると、西郷も2ヶ所を被弾して負傷。
負傷した西郷は「別府晋介」をみて
「晋どん、晋どん、もう、ここいらでよか」
と言い、将士がひざまづいて見守るなか、襟を正し、はるか東に向かって(明治天皇のおられる方向へ)拝礼しながら、別府に首を打たせる形で自害した。
(他の資料では「切腹した」との説があるが、検死の結果、西郷は切腹はしておらず、実質斬首の形の介錯となった)
介錯を命じられた「別府晋介」は、
「ごめんなったもんし(お許しください)」
と叫んで、西郷の首をはねた。
別府晋介も、直後に自害。
西郷隆盛の『辞世の句』と意味
西郷隆盛には、「西南戦争」で亡くなるに当たり、用意した「辞世の句」はありません。
ただ、「月照上人」とともに入水して自決しようとしたときに、一つの歌を残しています。
これが「辞世の句」として今に伝わっているのです。
「ふたつなき 道にこの身を 捨て小舟 波立たばとて 風吹かばとて」
【親からもらった二つとない命なのだが、その身を捨てて小舟に乗るとしよう。
荒波がたとうとも、風が吹こうとも、私はもう行かねばならないのだ】
「肥水豊山路已窮」
「墓田帰去覇図空」
「半生功罪両般跡」
「地底何顔対照公」
【肥後(熊本県)や豊後(大分県)への道は、すでに敵によってふさがれた。
もう故郷へと帰って、骨を埋めることにしよう。
維新のために覇を唱えたが、今となっては、もはや虚しいものよ。
自分の一生を振り返ってみると、罪が残ってしまった。
黄泉の国で、どんな顔で、照国公(元薩摩藩主・島津斉彬)にお目にかかれるというのか。】
西郷隆盛・終焉の地
鹿児島県鹿児島市19−37−2
「城山公園」から少し離れた場所。
周辺は住宅地となっており、目の前には、福岡北九州市「小倉駅」と「鹿児島駅」をむすぶ「日豊本線」が通っている。
まとめ
この記事をまとめると、以下の通りです。
1,西郷隆盛の『死因』は?
「別府晋介」から介錯されて「自害」。
異説では、「村田新八」「桐野利秋」による「銃撃」
2,西郷隆盛の『没年月日』は?
1877年9月24日
享年51歳(満年齢49歳)
3,西郷隆盛の『最後の様子』は?
【1877年9月24日午前4時】、政府軍が城山を総攻撃したとき
- 「西郷隆盛」
- 「桐野利秋」
- 「桂久武」
- 「村田新八」
- 「池上四郎」
- 「別府晋介」
- 「辺見十郎太」
ら40余名は、隠れていた洞窟の前に整列し、そのあと出撃。
二発も被弾した西郷は、別府晋介の手で介錯され、自害をした。
4,西郷隆盛の『辞世の句』は?
「ふたつなき 道にこの身を 捨て小舟 波立たばとて 風吹かばとて」
- 「肥水豊山路已窮」
- 「墓田帰去覇図空」
- 「半生功罪両般跡」
- 「地底何顔対照公」
以上となります。
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コメント
コメント一覧 (3件)
初めて投稿します
①表題は西郷隆盛の死因と最後となっていたり、最期となっていたりしますが、理由がありますか。他の記事も最後の様子になっていたり、最期のとなっています。個人的には、最期だと思うのですが。
②最後?の様子で別府晋介の言葉に臨場感が感じられるのですが、誰が書き残したのか不思議です。本人は亡くなっているのにと思います。寺田屋事件の有馬新七の場合は「オイゴト刺せ」・「オイゴト突け」などいろいろありますよね。
こんにちは
この度は当サイトをご利用いただき、貴重なコメントを頂きまして誠にありがとうございます。
最後という字についてですが、ご指摘ごもっともです
正確には「最期」なのですが、タイトルはあえて「最後」としております
実は、西郷隆盛の最期について検索する方々が、最期ではなく最後という文字でより多く検索しているようなのです。そのため、よりたくさんの方々の目に留まりやすいように、間違いではありますが「最後」という文字でタイトルや見出しを作成いたしました。
ただ、漢字としては間違いなので、文章中では可能な限り正確な漢字である「最期」を使っているつもりです。
もう一つの質問、最期の言葉についてですが、実は西郷隆盛の最期の言葉を耳にした人の中でも、生き残った人がいるのです。
西郷の最期の言葉は、その生き残りが残した証言がもとになっております。
余談かもしれませんが、本能寺で亡くなった織田信長の最期の言葉も、本能寺を脱出した女房たち生き残りによって今に伝えられています。
それだけではなく、本能寺から脱出した黒人武将・弥助が、キリスト教宣教師に対して、信長が残した最期の言葉を伝えています。
「死んだ人間の最期の言葉が今も伝わっているのはなぜだろう?
誰が聞いていたのだろう」
という疑問を抱かれる方はたくさんおられますし、ごもっともな疑問であると思います。
戦場で散った人間の最期の言葉は、その場にいた生き残りによって、意外に伝わるもののようです。
遺族からすると、その人が最期にどのような言葉を残したのか、気になりますから、おそらく最期を見届けた人間が、遺族に最期の様子や言葉を伝えたのでしょう。
以上となりますが、お役にたてましたでしょうか?
この度は当サイトをご利用いただきありがとうございます
大変貴重なコメントを頂きましたことにも御礼を申し上げます
もしよろしければ、またぜひ当サイトをお役立てくださいませ
ありがとうございました
丁寧な回答を頂いて有難うございました。ご迷惑だと思いますが、宜しくお願いします。今まで外のサイトでは相手にしてもらえなかった質問をぶっつけたいと思います。