太宰治の「死因や最後の様子」について、誰かに尋ねられても、ハッキリと答えられる方は、少ないかもしれません
実は筆者自身も、太宰治については知っていたものの、自分の手で調査してみるまで、「太宰治の死因・最後」については、くわしく知りませんでした。
この記事では、太宰治の死因や最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました
太宰治の最後について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです
これを読んで、太宰についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,太宰治の『死因』は?
太宰治の死因は、入水自殺。
愛人・山崎富栄との心中。
2,太宰治の『没年月日』は?
1948年6月13日
享年38歳
3,太宰治の『最後の様子』は?
【1948年(昭和23年)6月13日】、太宰治(だざい おさむ)こと本名・津島修治(つしま しゅうじ)は、東京・玉川上水で、愛人の山崎富栄と入水。
【6月19日】、2人の遺体は、太宰の誕生日であるこの日に発見された。
4,太宰治の『最後の作品』と『終焉の地』は?
最後の作品は、未完の遺作「グッド・バイ」。
終焉の地(身を投げた場所)は、東京都三鷹市下連雀3丁目6−52。
東京・三鷹駅から「風の散歩道」と呼ばれる玉川上水の右側の道を、井の頭公園のほうへ歩くと、太宰治の碑「太宰碑」が置かれている。
太宰治の『死因』は何?
太宰治の死因は、入水自殺です。
東京都の「玉川上水」へ、愛人の山崎富栄とともに身を投げ、入水し、亡くなりました。
太宰治の『没年月日』と『最後の様子』
「没年月日」と「享年」
1948年6月13日
享年38歳
「最後の様子」
【1948年(昭和23年)6月13日】、太宰治(だざい おさむ)こと本名・津島修治(つしま しゅうじ)は、東京・玉川上水で、愛人の山崎富栄と入水。
【6月19日】、2人の遺体は太宰の誕生日であるこの日に発見されました。
「自殺の原因」
この事件は、当時から様々な憶測を生み、愛人・山崎富栄による
- 『無理心中説』
- 『狂言心中失敗説』
などが唱えられていました。
未完の遺作となった小説「グッド・バイ」に、亡くなった原因が隠されている、と言われているのです。
この作品の「13話」が絶筆になったのは
『キリスト教のジンクスである「13」を暗示した、太宰の最後のシャレだった、とする説』
または
- 『自身の体調不良』
- 『一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが、自殺の一つの理由だったとする説』
という説もあるようです。
しかし、太宰治の50回忌を目前にひかえた【1998年(平成10年)5月23日】に、遺族らが公開した太宰の「9枚からなる遺書」では、妻・津島美知子宛てに
「誰よりも愛してゐました」
「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」
と自殺の動機を説明しています。
太宰治の『最後の作品』と『終焉の地』
最後の作品「人間失格」と「グッド・バイ」
小説「人間失格」の連載最終回が掲載される直前の【6月13日深夜】、この日に太宰治が自殺したことから、「人間失格」こそが、まるで「遺書」のような小説と考えられてきました。
実はこの「人間失格」のあとに『グッド・バイ』を書いているのですが、未完成であり、完結作としてはこの「人間失格」が最後の作品となるわけです。
「人間失格」は、体裁上は私小説形式のフィクションでありつつも、主人公の語る過去には太宰自身の人生を色濃く反映したと思われる部分があり、自伝的な小説とも考えられています。
しかしながら、太宰の死により、その真偽については不明な部分が多いのです。
このように「遺書」と受け止められていた本作「人間失格」は、「勢いにまかせて書かれたもの」と長く信じられてきました。
この定説を覆す転機となったのは、【1998年5月23日】に遺族が発見した157枚におよぶ草稿を公開したことです。
これら草稿では、言葉一つひとつが何度も推敲されており、内容を練りに練りフィクションとして創造した苦労のあとがうかがえるのです。
ユーモア小説「グッド・バイ」は、未完の遺作となっています。いわゆる「絶筆」というやつです。
無理心中だった?終焉の地に残された「ためらい」
三鷹駅から「風の散歩道」と呼ばれる玉川上水の右側の道を、井の頭公園のほうへ歩くと、太宰治の碑「太宰碑」が置かれています。
太宰治が入水した地点は、正確には不明です。
しかし、このあたりが、太宰が身を投げた場所と考えられているのです。
呉服商・中畑慶吉は、三鷹警察署の刑事に入水の現場を案内されて、こんな証言を残しています。
「下駄を思いきり突っ張ったあとがあった」
「手をついて、滑り落ちるのを止めようとしたあとも、歴然と残っていた」
呉服商・中畑慶吉は続けて、こんな推測も残しています。
「一週間もたち、雨も降っているというのに、歴然とした痕跡が残っているのですから、よほど強く”イヤイヤ”をしたのではないでしょうか」
「太宰は彼女(山崎富栄)から『死にましょう』といわれて、最初は簡単に『よかろう』と承諾したけれども、死の直前になって突然、生への執着が胸を横ぎったのではないでしょうか」
この推測は、かなり的を射ているのではないでしょうか。
その呉服商・中畑慶吉は、三鷹警察署の署長から意見を求められ
「私には、純然たる自殺とは思えぬ」
と確信をもって応えたといわれています。
すると署長も
「自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、今更とやかく言っても仕方がないが、実は警察としても(自殺とするには)腑に落ちぬ点もあるのです」
と応えたのでした。
つまり、太宰治が本当に死ぬつもりだったのか、それとも山崎富栄による無理心中だったのかが、明らかになっていないのです。
この「太宰が進んで身を投げたのか」、それとも「山崎富栄の無理心中なのか」は、今もって、どちらなのか不明のままなのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
1,太宰治の『死因』は?
太宰治の死因は、入水自殺。
愛人・山崎富栄との心中。
2,太宰治の『没年月日』は?
1948年6月13日
享年38歳
3,太宰治の『最後の様子』は?
【1948年(昭和23年)6月13日】、太宰治(だざい おさむ)こと本名・津島修治(つしま しゅうじ)は、東京・玉川上水で、愛人の山崎富栄と入水。
【6月19日】、2人の遺体は、太宰の誕生日であるこの日に発見された。
4,太宰治の『最後の作品』と『終焉の地』は?
最後の作品は、未完の遺作「グッド・バイ」。
終焉の地(身を投げた場所)は、東京都三鷹市下連雀3丁目6−52。
東京・三鷹駅から「風の散歩道」と呼ばれる玉川上水の右側の道を、井の頭公園のほうへ歩くと、太宰治の碑「太宰碑」が置かれている。
以上となります。
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