徳川幕府14代将軍「徳川家茂(とくがわいえもち)」。
妻「和宮」が「元婚約者の写真を抱いて葬られた説」と、「暗殺された説」について、わかりやすく解説いたします。
「和宮の墓から見つかった写真は夫・家茂ではなく、元婚約者の写真?」
「家茂は徳川慶喜に暗殺された?」
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この記事を短く言うと
・和宮の棺から、男性の写真(徳川家茂の写真と思われる)が見つかった
・写真・・・写っていたのは元婚約者「有栖川宮熾仁親王」という噂もある
・徳川家茂の死因は「暗殺」という説もある。天璋院こと「篤姫」は犯人を知っていたという説もある
徳川家茂の写真!妻「和宮」の墓の中から発見?
徳川家茂
徳川幕府14代将軍。
13代将軍「徳川家定」の後、後継者争いを「一橋慶喜」と繰り広げ、幕末・大老「井伊直弼」によって擁立された将軍
そんな家茂には、皇室から迎えた妻がいました。
公武合体・・・つまり、「朝廷と幕府が力を合わせ、挙国一致で西洋列強に対抗する」という方針のこと
その「公武合体」という方針のために、孝明天皇の妹にして、後の明治天皇の叔母「和宮」が、徳川家茂に嫁ぎました。
和宮は、「絶世の美女」だったと言われています。
和宮は、元々「有栖川宮熾仁親王」という男性と婚約していました。
しかし、公武合体を実現するため、兄「孝明天皇」から説得されて、政略結婚として無理やり「徳川家茂」と結婚。
輿入れ当初、頑なだった「和宮」でしたが、心優しい「徳川家茂」によってその心は解きほぐされ、2人は仲の良い夫婦になっていきます。
和宮の墓から写真が出土
和宮は、亡くなった後、徳川家の菩提寺「増上寺」に埋葬されました。
後年、お墓の調査が行われたわけですが、その時、和宮の棺から、「副葬品」として「烏帽子(えぼし)と直垂(ひたたれ)」の若い男性を撮影した写真が出土しました。
この男性が誰なのかを検証するはずでしたが、保存処理失敗によって、写真は判別不能になりました。
どうやら最愛の夫「徳川家茂」の写真という説が有力だそうです。
墓に隠された写真・・・家茂ではなく、元カレの写真?
和宮の棺から見つけられた写真・・・・実は「徳川家茂」ではなく、元婚約者「有栖川宮熾仁親王」ではないか?という説があります。
有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)
有栖川宮熾仁親王は、17歳で和宮と婚約しましたが、孝明天皇や幕府からの強い要望により、婚約を破棄されたのです。
その後、有栖川宮熾仁親王は、戊辰戦争で総大将を務めています。西郷隆盛を参謀に、軍を率いて江戸へ進軍。
江戸城無血開城を実現して、婚約者を奪った「徳川幕府」は滅亡。
この「有栖川宮熾仁親王」と「和宮」のお話は、明治期に庶民向けに「悲しい恋の物語」として人気に・・・。
そのため、数々の逸話が語られる様になったのですが・・・・これが原因で和宮の棺からでてきた写真が「家茂」ではなく「有栖川宮熾仁親王」なのでは???と噂されることとなったのです。
現実的に考えて、この写真は「家茂」である可能性が高いでしょう。
和宮と家茂は、とても関係が良かったと言われていますし、家茂が亡くなると和宮は、かなり悲しんでいます
家茂は、亡くなる直前に「長州征伐」のために大坂城へ入城。江戸城を出る直前に、家茂は「和宮」に対して、「お土産は何が良いか」を尋ねました。
「西陣織」を頼んだ和宮でしたが、家茂は大坂城で病没。
家茂が和宮のために用意していた「西陣織」は、和宮に届けられたものの、形見となってしまったのです。
和宮は家茂の死を悲しみ、歌を詠んでいます
「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」
西陣織も、家茂様がいてこそ意味がある。たとえ美しい錦であっても、家茂様がいないなら意味がない。
この西陣織は、増上寺に奉納されて袈裟に仕立て直され、「空蝉の袈裟」として現存しています。
おそらくですが、和宮の棺におさめられた写真・・・・家茂なのではないでしょうか。
実際、写真を見た人の話だと「童顔で幼さを残した顔立ちだった」とのこと・・・多分ですが、まだ若かった「家茂」ではないでしょうか。
和宮は、亡くなる前に「家茂の側に葬ってほしい」と言っていました。そんなこと言っといて、「有栖川宮熾仁親王」の写真抱えていくとは思えません。
家茂の死因は暗殺?犯人は篤姫が知っていた
実は「徳川家茂」には、暗殺説が存在するのです。
大坂城へ入城した家茂は、急死しています。
その死因は「脚気」
甘い物好きで虫歯だらけだった家茂は、ビタミン不足で「脚気」により亡くなったというのです。
しかし当時、家茂暗殺の噂があったみたいですね。
犯人は、「一橋慶喜」を将軍にしようとする一派「一橋派」との噂でした。
家茂の義母にして、13代将軍「家定」の妻「篤姫」は、家茂を大切にしていたため、この「暗殺説」を信じたみたいです。
篤姫は以前から「一橋慶喜」を嫌っていたようですしね。
実は篤姫の夫「家定」にも「一橋派による暗殺」という噂があったのです。
一橋慶喜を憎んだ篤姫でしたが、江戸城無血開城の直前には、西郷隆盛に「慶喜助命」の嘆願書を送っています。
しかし、それはあくまでも「徳川家の女」として・・・。
彼女が養育した徳川宗家16代「徳川家達」は、篤姫から
「家茂は暗殺されたと、子孫に伝えよ」
と言われていたといいます。
本当に一橋派に暗殺されたかどうかは不明ですが・・・・家定暗殺で一橋派は得をしていないし、家茂が亡くなることがなくても「将軍後見職」として「一橋慶喜」が実権を握っていましたから、「家茂暗殺」の必要性があるとは思えないのですがね・・・。
真相は、闇の中ですが、篤姫が一橋慶喜(徳川慶喜)を嫌っていたのだけは確かです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・和宮の墓から、烏帽子と直垂の男性を写した写真が見つかった
・写真の男性は「徳川家茂」だろうが、「有栖川宮熾仁親王」という説もある
・徳川家茂が一橋派に暗殺されたという噂があり、篤姫はそれを信じていたらしい
以上となります。
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「13代将軍・徳川家定」「15代将軍・徳川慶喜」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
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