【足利義昭の最期】室町幕府・最後の将軍の「死因と葬式」が悲しい

皆さんは「足利義昭が、一体どのような最期を遂げたのか」を、ご存知でしょうか?

実は「足利義昭が、いつ、どのように亡くなったのか」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

この記事では「義昭の最期」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は「足利義昭の最期」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、「義昭の最期」に詳しくなれます。

この記事を読んで、「室町幕府最後の将軍・足利義昭」についての疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

1,「足利義昭」は、いつ、どこで、何が原因で亡くなったのか?

「足利義昭」は、【1597年】に、「大坂」または「備後国・鞆の浦」という場所で、「腫物」と「過労」が原因で亡くなった。

 

2,「義昭」の死後、何が起こったのか?

「足利義昭」が亡くなった翌年の【1598年】、「豊臣秀吉」が亡くなり、【1603年】に「徳川家康」が「征夷大将軍」に就任した。

 

3,「義昭」の子供や子孫は、どうなったのか?

「義昭」には「義尋(ぎじん)」という子供がいたが、その「義尋」の子供たちの代で、直系子孫は断絶。その他の子孫が「会津藩」に仕えたという説があるが、真相は不明。



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足利義昭の「最期の様子」とは?

室町幕府」最後の征夷大将軍「足利義昭」の「最期」について、わかりやすく解説いたします。

《足利義昭》
「引用元ウィキペディアより」

 

足利義昭は「いつ」亡くなったのか?

1597年10月9日(慶長2年8月28日)】、「足利義昭」はこの世を去っています。

享年61歳。(満年齢【59歳】)

「足利義昭」が亡くなった【1597年】とは、「豊臣秀吉」が亡くなる前年のことです。(秀吉は【1598年】に亡くなった)

このとき、日本は「秀吉」の命令によって、「朝鮮出兵(慶長の役)」を戦っていた真っ最中でした。

「義昭」は、【1582年】に「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれた宿敵「織田信長」の死から、【15年後】に亡くなったのです。


『本能寺の変』については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

『【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅』の記事はコチラ


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「死因」は何だったのか?

「足利義昭」の死因は「腫物(はれもの)」、つまり「腫瘍(しゅよう)」のようなものであるといわれています。

しかし実は「足利義昭」は、死の直前に「豊臣秀吉」からの要請をうけて「朝鮮出兵」に出陣したことで、無理がたたって亡くなったという説があります。

さきほども解説いたしましたが、「義昭」が亡くなった【1597年】には、「秀吉」が「朝鮮出兵」を行っていました。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」

「秀吉」は、当時すでに「征夷大将軍」の職を辞めていた「足利義昭」に、無理やり出陣させたのでした。

このとき「義昭」は、すでに【60歳】を過ぎた高齢者。

現代では【60歳】といえば、まだそれほど高齢者というほどの年齢ではありません。

しかし、戦国時代の当時【60歳】といえば、いつ亡くなってもおかしくないほどの「おじいさん」だったのです。

しかも、このとき「義昭」は「腫物」をわずらって、苦しんでいました。

それにも関わらず、「義昭」は200人の兵をつれて、自分の領地である山城国(京都府)の槇島(まきしま)から、九州・肥前国(佐賀県)の名護屋城へと出陣したのです。

高齢」であるうえに、「腫物」をわずらい、さらに京都から九州への長旅による「過労」。

これらが重なって、「足利義昭」は亡くなったと考えられるわけです。


『朝鮮出兵』については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

『豊臣秀吉が朝鮮出兵した理由を考察!結果は大失敗だったのか?』の記事はコチラ


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「亡くなった場所」はどこ?

「足利義昭」は「大坂」で亡くなったといわれています。

しかし、「亡くなった場所」については、諸説あるようです。

「大坂で亡くなった」という説もあれば、「朝鮮出兵」のために「肥前・名護屋城」から帰ってくる途中で、「備後国・鞆の浦で亡くなった」という説もあるのです

「備後・鞆の浦(とものうら)」といえば、「足利義昭」が本拠地をおいていた場所です。

1573年】、「織田信長」に敗北した「足利義昭」は、京都から追放されて、「室町幕府」は滅亡します。

《織田信長》
クリックすると拡大できます
「引用元ウィキペディアより」

その後「足利義昭」は、中国地方の武将「毛利輝元」に保護され、「備後国・鞆の浦」に拠点をおいたのです。

一説によると、足利義昭はこの「鞆の浦」に「幕府(臨時政府)」をおいたため、「鞆幕府(ともばくふ)」とも呼ばれていたのだとか。

「義昭」が、縁の深い「鞆の浦」で亡くなるなんて、なんだか出来すぎた感じがします。

おそらくですが「足利義昭」が亡くなった場所は「鞆の浦」ではなく、「大坂」なのでしょう。



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寂しく粗末だった「葬式」の様子とは?

「足利義昭の葬式」は、とても質素でみすぼらしいものだったといいます。

武士のトップである「征夷大将軍」の地位にいた者の葬式とは思えないほど、粗末な葬儀だったようです。

葬儀に必要な資金が用意できず、「義昭」につかえていた名門「細川家」からの資金援助を得ても、最低限の必要経費を用意するだけで精一杯でした。

天下人「豊臣秀吉」も、「足利義昭」の葬儀には、これっぽっちも協力しなかったといいます。

「秀吉」は、病気の「義昭」を無理やり「朝鮮出兵」に出陣させておきながら、亡くなると冷たくあしらった、ということです。

秀吉が「足利義昭」に、「朝鮮出兵」への出陣を強く求めた理由は、「征夷大将軍」という地位にあった「足利義昭」に命令することで、「自分はもっと偉いのだぞ」と、自らの権力の強さを世間にアピールすることが目的だったのでしょう。

つまり、「朝鮮出兵」への出陣をさせることに成功した時点で、「秀吉」からすれば、「義昭」はすでに用済みだったのです。



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義昭の「お墓」は、どこにあるのか?

「足利義昭」のお墓は、京都府京都市北区にある「等持院」というお寺にあるとされています。

世界遺産「仁和寺」や「龍安寺」のすぐ近くにある「等持院」は、足利一族の菩提寺です。

室町幕府の初代将軍「足利尊氏」のお墓も、この「等持院」にあります。

「等持院」には、室町幕府歴代将軍の木像がおかれており、「足利義昭」の木像も置かれています。

余談ですが、この「等持院」には、なぜか「徳川家康」の木像も置かれているのです。

「家康」の像は、もともと「石清水八幡宮」にあったのですが、明治時代にこの「等持院」へ移されたようです。



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義昭の「死後」に、何が起こったのか?

1588年】、「足利義昭」は「征夷大将軍」の職を朝廷に返上。

1597年】、「義昭」死去。享年61歳

1598年】、「豊臣秀吉」が京都「伏見桃山城」で死去。

1599年】、「前田利家」が死去。

1600年】、「関ヶ原の戦い」が勃発し、「徳川家康」が勝利。「石田三成」は処刑。

1603年】、「徳川家康」が「征夷大将軍」に任命され、「江戸幕府」をひらく

1605年】、「家康」が三男「徳川秀忠」に「征夷大将軍」の職をゆずり、「秀忠」が二代将軍に就任。

1611年】、「豊臣秀頼」が二条城で「徳川家康」に面会。このときから、「豊臣秀頼」は「徳川家康」の部下になった、という説がある。

1614年】、「方広寺鐘銘事件」をきっかけに「徳川家康」と「豊臣秀頼」の間で、「大坂冬の陣」が勃発。

1615年】、「大坂夏の陣」が勃発。「豊臣秀頼」とその母「淀殿(茶々)」が自害。「豊臣家」滅亡。

1616年】、「徳川家康」死去。

1867年】、江戸幕府・最後の征夷大将軍「徳川慶喜」によって「大政奉還」がなされ、江戸幕府が事実上の消滅。「徳川慶喜」は「征夷大将軍」を辞職。

1868年】、「明治維新」が起こり、武士の時代が終わる。



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義昭の「子供」や「子孫」のゆくえ

「足利義昭」には「義尋(ぎじん)」という名前の息子がいました

「義尋」は出家して僧侶であったが、子供をもうけたことが原因で僧籍から追放されたといいます。

その「義尋」にも2人の子供がいたようですが、2人とも出家して子供をつくらなかったため、足利義昭の直系子孫は断絶。

足利義昭の子孫を自称する人物が、「会津藩・松平家」につかえていたという説があります。

その末裔が、今も続いているという説があるが、真実なのかどうかは不明です。


『足利義昭の子孫』については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

『【足利義昭の子孫】を家系図で解説!義昭の末裔は今現在どこにいる?』の記事はコチラ


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義昭の「生涯」を「年表」でカンタンに解説

ここでは「足利義昭の生涯」を、簡単に解説いたします。

誕生から「明智光秀」との出会い

1537年】、室町幕府12代将軍「足利義晴」の息子として、「足利義昭」誕生。

兄は13代将軍「足利義輝」。

義昭の幼名は「千歳丸」。

1542年】、足利家の慣習として、「義昭」は兄「義輝」との後継者争いを避けるために興福寺へ出家。

出家したあとは「覚慶(かくけい)」と名乗っています。


『足利義輝』については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

『足利義輝のすべてを徹底解説!剣豪将軍の最期や愛刀・名刀を完全網羅』の記事はコチラ


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1565年】、「義昭」の兄である13代将軍「足利義輝」は、「永禄の変」と呼ばれる政変で「三好三人衆」や「三好義継」「松永久通」に暗殺されます。

松永久秀」に保護された「覚慶」こと「足利義昭」は、その後「細川藤孝」らの協力によって逃亡に成功。

1566年】、兄「義輝」が「永禄の変」という政変で死去してしまったため、その後継者を目指して還俗(げんぞく・僧侶をやめること)。

還俗した「覚慶」は、「足利義秋」と名乗ります。

その後、「義秋」は戦国大名「朝倉義景」を頼って、越前国(福井県)へ逃亡。


『足利義輝の愛刀』については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

『足利義輝の愛刀を一覧でご紹介!義輝が使った刀剣は今どこにあるのか』の記事はコチラ


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「越前国」には、当時「明智光秀」が住んでいました。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

兄「義輝」のかたき討ちを望んでいた「足利義秋」は、「朝倉義景」に対して京都へ進軍(上洛)して、「三好三人衆」たち兄の仇敵を倒してほしいと希望します。

しかし「朝倉義景」は、越前国内の反乱で苦しめられていたため、上洛する余裕などありませんでした。

そこで「足利義秋」は「明智光秀」に対して、どのようにすれば兄「義輝」のかたきを討つことができるのかを相談します。

すると「明智光秀」は、こう言いました。

「尾張国の織田信長を頼りなさい」

この言葉に従った「足利義秋」は、「明智光秀」に仲介を頼み、「織田信長」に上洛を要請するのです。



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「織田信長」との上洛と「室町幕府」の滅亡

1567年】、「織田信長」は宿敵「斎藤龍興」を追い落とし、美濃国と岐阜城を支配するまでに勢力を拡大していました。

「足利義秋」は、「織田信長」に「京都へ進軍して、兄・義輝のカタキである三好三人衆と三好義継を倒してほしい」と要請します。

1568年】、「秋」という文字が不吉なものであるといって、「足利義秋」は「義昭」と改名。(おそらく「秋」は、「冬」の直前、つまり衰退を示しているため、不吉と考えたのでしょう)

同年、「足利義昭」は「織田信長」に連れられて、京都へ進軍。「三好三人衆」や「三好義継」を京都から追い出し、上洛に成功。

同年、義昭は朝廷から「室町幕府・15代征夷大将軍」に任命され、室町幕府の再興に成功。



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ところがこの頃から、義昭と信長の関係が悪化していきます。

  • 「室町幕府のよって世の中を治めよう」とする「足利義昭」。
  • 「力づくで天下を支配しよう」とする「織田信長」。

その方向性の違いが浮き彫りになったのです。

1571年】、義昭と信長の関係は悪化の一途をたどり、ついに義昭は「武田信玄」に対して、「信長打倒」の協力要請をするのです。

1572年】、「武田信玄」は「朝倉義景」や「浅井長政」、そして「石山本願寺・一向一揆」とも連携し、「第一次信長包囲網」を形成。

しかし、この「信長包囲網」は【1573年】に、事実上の盟主だった「武田信玄」が病死したことで崩壊。

その直後に「朝倉義景」も「浅井長政」も、「信長」に討たれてしまいます。

「槇島城の戦い」で信長に敗北した「足利義昭」は、【1573年】に京都から追放。

1336年】から続いた「室町幕府」は、ついに滅亡したのです。



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「本能寺の変」と「義昭の最期」

京都から追放された「足利義昭」は、【1576年】に中国地方の大大名だった「毛利輝元」に保護され、備後国の「鞆の浦(とものうら)」に拠点をおきます。

ここに「鞆幕府(ともばくふ)」と呼ばれる幕府(臨時政府)を設置した「義昭」は、全国の戦国大名に「織田信長を倒せ」と要請を発し続けるのです。

この要請に応えた「上杉謙信」や「武田勝頼」「石山本願寺」、「松永久秀」であったが、この「第二次信長包囲網」も、【1578年】「上杉謙信」が亡くなったことで、事実上崩壊してしまいます。

1582年】、「織田信長」の「甲州征伐」が行われ、「武田勝頼」が「天目山の戦い」で自害。「源義家」の弟「新羅三郎義光」から続く名門「武田家」は、ついに滅亡します。

「武田家」が滅亡した3ヶ月後、京都「本能寺」に宿泊していた「織田信長」は、もっとも信頼していた部下「明智光秀」に襲撃された亡くなってしまうのです。(本能寺の変)



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1582年】、「本能寺の変」で「織田信長」が亡くなった11日後、「明智光秀」は「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に敗北して戦死。

1583年】、「賤ヶ岳の戦い」で「柴田勝家」とその妻「お市の方」を滅ぼした「羽柴秀吉」は、織田家を完全の乗っ取って、「織田信長」の後継者となることに成功。

1585年】、「豊臣秀吉」が「関白・太政大臣」という最高の位に就任。

1587年】、「足利義昭」は九州征伐に向かう途中の「豊臣秀吉」と面会し、そのあと14年ぶりに京都への帰還を果たします。

1588年】、「足利義昭」は朝廷へ参内し、「征夷大将軍」を辞職して、将軍の位を返上。出家して「昌山道休」という名前を名乗り、「皇后」に次ぐ「准三后(じゅんさんごう)」という位をもらい、皇族としてあつかわれることとなります。

この後、「義昭」は秀吉から、京都の近くにあった「槇島」という地に1万石の領地を与えられています。



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1590年】、「豊臣秀吉」が「小田原征伐」を開始。「北条氏政」が切腹し、「小田原北条氏」が滅亡。

1591年】、「伊達政宗」らが「秀吉」に屈服。「奥州仕置」が終わり、秀吉の全国統一が完了。

1592年】、「朝鮮出兵」開始。「文禄の役」開始。

この「朝鮮出兵」に、「足利義昭」は秀吉からの要請により、200名の軍団を率いて「肥前・名護屋城」へ参陣。

その後「足利義昭」は、秀吉の「御伽衆(おとぎしゅう・いわゆる相談相手や話し相手)」に任命されて、秀吉の良き話し相手になったといいます。

1597年】、「足利義昭」死去。享年は数え歳【61歳】、満年齢で【59歳】。


『足利義昭』については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

『足利義昭の全てを徹底解説!織田信長・明智光秀との関係や子孫も網羅』の記事はコチラ


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『足利義昭』について「ひとこと」いいたい

「足利義昭は、本能寺の変の黒幕だった」という説があります

「明智光秀に織田信長を討たせたのは、実は足利義昭だった」

ということです。

しかし、この説は近年の研究では否定されています

「明智光秀」が「織田信長」を討ち果たした後、「足利義昭」に対して「信長討伐に成功した」という知らせが届けられた形跡が、まるでないのです。

もし万が一、「明智光秀」の裏に「足利義昭」がいたのなら、「光秀」は「義昭」に対して、「信長を討ち果たした」という知らせを、真っ先に送っていたはずです。

ところが、そんな形跡がないどころか、このとき「足利義昭」は、まったく蚊帳の外に置かれた状態だったとのこと。

「明智光秀」は、「織田信長」を倒したあと、京都に「足利義昭」を招き、「室町幕府」を再興するつもりだったという説があります。

しかし、その他の状況をみると、「足利義昭が本能寺の変の黒幕」という説には、無理があるようです。


『本能寺の変』については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

『【本能寺の変】の謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅』の記事はコチラ


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「足利義昭」は、いつ、どこで、何が原因で亡くなったのか?

「足利義昭」は、【1597年】に、「大坂」または「備後国・鞆の浦」という場所で、「腫物」と「過労」が原因で亡くなった。

 

2,「義昭」の死後、何が起こったのか?

「足利義昭」が亡くなった翌年の【1598年】、「豊臣秀吉」が亡くなり、【1603年】に「徳川家康」が「征夷大将軍」に就任した。

 

3,「義昭」の子供や子孫は、どうなったのか?

「義昭」には「義尋(ぎじん)」という子供がいたが、その「義尋」の子供たちの代で、直系子孫は断絶。その他の子孫が「会津藩」に仕えたという説があるが、真相は不明。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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『足利義昭』関連記事

以下のリンク記事で、「足利義昭」に関係する情報を、さらに詳しく解説しております。

よろしければ、お役立てくださいませ。

足利義昭の全てを徹底解説!織田信長・明智光秀との関係や子孫も網羅』の記事はコチラ
『足利義昭の生涯【家紋】を画像付きで解説!織田信長との死闘と最期』の記事はコチラ
『【足利義昭の子孫】を家系図で解説!義昭の末裔は今現在どこにいる?』の記事はコチラ
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