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【足利義昭の死因】室町幕府最後の将軍はどこで死んだ?享年61の最期

「足利義昭の死因は何だったのか」「室町幕府最後の将軍はどこで死んだのか」と気になって検索された方も多いのではないでしょうか。織田信長と対立して京都を追われた将軍として知られますが、その最期について詳しく知る方は意外と少ないものです。

結論からお伝えすると、足利義昭の死因は明確には分かっていませんが、晩年に腫物を患っていた記録が残り、1597年に享年61で亡くなりました。この記事では、足利義昭の死因と最後の様子を中心に、いつ・どこで死んだのか、死後に起きたこと、子孫のゆくえ、そして本能寺の変の黒幕説の真相まで、初めての方にもわかりやすく解説します。読み終えるころには、室町幕府最後の将軍の生涯がスッキリ理解できるはずです。

この記事のポイント
  • 足利義昭の死因には腫物や過労など諸説あることがわかる
  • 義昭がいつ・どこで死んだのか、最期の様子が理解できる
  • 室町幕府最後の将軍としての生涯を整理できる
  • 関連記事で子孫や本能寺の変の真相もさらに深掘りできる
目次

足利義昭とは?室町幕府最後の将軍の生涯

まずは足利義昭がどんな人物だったのか、その生涯の流れを押さえておきましょう。ここを理解しておくと、後半の死因や最期の話がぐっと分かりやすくなります。

僧侶から将軍候補へ転身した足利義昭

足利義昭は1537年、室町幕府12代将軍・足利義晴の子として生まれました。兄は13代将軍となる足利義輝です。当時の足利家の慣習として、義昭は将軍位をめぐる兄弟争いを避けるため、幼くして奈良の興福寺に出家させられ、覚慶と名乗る僧侶となっていました。

運命が大きく動いたのは1565年です。兄・義輝が永禄の変と呼ばれる政変で三好三人衆らに暗殺されてしまいます。これにより足利将軍家は当主を失いました。松永久秀に一時幽閉された覚慶でしたが、細川藤孝らの協力によって脱出に成功します。そして翌1566年、兄の後継者となるべく還俗し、足利義秋、のちに義昭と名乗って将軍位を目指すことになったのです。僧侶として静かに生きるはずだった人物が、戦乱の表舞台へと引き出されていきました。


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織田信長との上洛と将軍就任

将軍位を目指す義昭は、まず越前の朝倉義景を頼りましたが、朝倉氏には上洛する余裕がありませんでした。そこで当時越前にいた明智光秀の仲介で、尾張の織田信長を頼ることになります。信長を頼りなさいという光秀の助言が、義昭の運命を決定づけました。

明智光秀(本徳寺所蔵)
Wikipediaコモンズ」より引用

1568年、織田信長は義昭を奉じて京都へ進軍し、兄の仇である三好勢を追い払って上洛を果たします。同年、義昭は朝廷から室町幕府15代将軍に任じられ、滅亡寸前だった室町幕府の再興に成功しました。信長という強力な後ろ盾を得て、義昭はついに念願の将軍の座にのぼりつめたのです。このときは、信長と義昭の蜜月が長く続くと思われていました。

将軍となった義昭は当初、信長を「御父」とまで呼んで厚遇し、両者の関係は良好でした。しかし義昭が幕府の権威回復を進めようとすると、信長は殿中御掟などの規則を次々と突きつけ、義昭の権力に厳しい制約をかけていきます。後ろ盾であったはずの信長が、しだいに義昭の自由を奪う最大の重しへと変わっていったのです。しかし、その関係は長くは保たれませんでした。

信長との対立と室町幕府の滅亡

将軍となった義昭と信長の関係は、しだいに悪化していきます。室町幕府の権威によって世を治めようとする義昭と、実力で天下を支配しようとする信長とでは、目指す方向が根本から異なっていたのです。やがて義昭は、武田信玄や朝倉義景らに信長打倒を呼びかけ、信長包囲網を築こうとします。

織田信長(長興寺蔵)
Wikipediaコモンズ」より引用

しかし包囲網の要だった武田信玄が1573年に病死すると、形勢は一気に信長へ傾きます。同年、槇島城の戦いで信長に敗れた義昭は京都から追放され、1336年から続いた室町幕府はここに事実上滅亡しました。室町幕府は初期こそ有力な軍事政権でしたが、この時期には強力な軍事力を持たない幕府になっていました。だからこそ信長のような実力者に頼るほかなく、その実力者と衝突して追われる運命も、ある意味で避けがたいものだったように私には思えます。義昭という人物の評価については、こちらの記事もあわせてご覧ください。


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足利義昭の死因と最期|いつどこで亡くなったのか

いよいよ本題である足利義昭の死因と最期に迫ります。いつ、どこで、何が原因で亡くなったのかを順に見ていきましょう。

足利義昭の死因は不詳とされる

足利義昭の死因は明確には分かっていませんが、晩年に腫物などの病を患っていた記録が残されています。腫物とは、現代でいう腫瘍のようなできもののことです。死因については、この腫物に高齢や長旅の過労が重なったとする説などが唱えられています。

死の少し前、義昭は豊臣秀吉に従属する立場で、朝鮮出兵の拠点であった九州・肥前の名護屋城へ下向していました。すでに60歳を超える高齢で、しかも腫物を患っていたなかでの長旅だったと言われています。戦国時代の60歳は、現代とは比較にならないほどの高齢でした。こうした高齢や病、長旅による過労が命を縮めたのではないかと推測する見方もあります。秀吉の思惑に翻弄された晩年だったとも言えるでしょう。

足利義昭が亡くなったのは1597年・享年61

足利義昭が亡くなったのは、1597年10月9日(慶長2年8月28日)のことです。享年61(満年齢では59歳)でした。この1597年は、天下人・豊臣秀吉が亡くなる前年にあたります。日本が秀吉の命令で朝鮮出兵(慶長の役)を戦っていた、まさにその最中の死でした。

豊臣秀吉
Wikipediaコモンズ」より引用

振り返れば義昭は、1582年の本能寺の変で宿敵・織田信長が斃れてから、15年後まで生き延びたことになります。信長に京都を追われ、もはや表舞台から去ったはずの義昭が、信長の死後もこれだけ長く生きていたという事実は、意外に感じられるかもしれません。室町幕府最後の将軍は、戦国の世がほぼ終わりを迎える時期まで、その生涯をまっとうしたのです。

足利義昭を朝鮮出兵に駆り出した秀吉の狙い

そもそも、なぜ秀吉は高齢で病身の義昭を朝鮮出兵の拠点へ向かわせたのでしょうか。その狙いは、義昭を戦力としてあてにしたからではありません。すでに将軍位を返上していたとはいえ、かつて征夷大将軍を務めた義昭に命令を下すこと自体に、秀吉の思惑があったと考えられています。

つまり秀吉は、武士の頂点である征夷大将軍を経験した義昭をも従わせることで、「自分は将軍よりも上位の存在なのだ」と天下に誇示したかったのです。関白・太政大臣として君臨した秀吉にとって、元将軍の義昭を動員することは、自らの権威を示す格好の舞台でした。義昭はその権力誇示のために利用された側面があったと考えられており、名護屋への下向が体に負担をかけた可能性もあります。また、義昭の死に際して秀吉が冷遇したとする説があることを考えると、その扱いの厳しさがうかがえます。

足利義昭が死んだ場所と寂しい葬儀

では、足利義昭はどこで死んだのでしょうか。大坂で亡くなったとする説のほか、京都やかつての本拠地・備後国の鞆の浦で亡くなったとする説もあり、はっきりとは確定していません。鞆の浦は、京都追放後に毛利氏の保護を受けた義昭が拠点を置き、鞆幕府とも呼ばれた縁深い土地です。

注目すべきは、その葬儀の様子です。武士の頂点である征夷大将軍を務めた人物の葬儀としては、比較的簡素なものだったのではないかと言われています。秀吉からの公的な葬儀の支援は史料上確認されておらず、かつて縁のあった旧臣や大名らの援助によって、葬儀が私的に行われたとする見方もあります。秀吉にとって義昭は、自らの権威を将軍以上のものと示す道具にすぎず、役目を終えた時点で用済みだったのかもしれません。なお、義昭の墓は京都市北区の等持院にあり、足利一族の菩提寺として初代尊氏らとともに祀られています。


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足利義昭の死後に起きたこと|天下は家康へ

足利義昭の死は、戦国時代の終わりが近づいていたことを象徴する出来事でした。ここでは義昭の死後、天下がどう動いたのかを見ていきます。

秀吉の死と関ヶ原の戦い

義昭が亡くなった翌1598年、天下人・豊臣秀吉がこの世を去ります。義昭を名護屋へ向かわせた張本人が、義昭を追うようにして亡くなったのです。秀吉の死によって豊臣政権は求心力を失い、有力大名たちの対立が一気に表面化していきました。

そして1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。徳川家康率いる東軍が石田三成らの西軍を破り、家康が事実上の天下人となりました。義昭が静かに世を去ってから、わずか3年での出来事です。室町幕府最後の将軍の死は、新しい時代の幕開けと重なっていたといえます。歴史の大きな転換点に、義昭の死は静かに位置していたのです。

徳川家康の征夷大将軍就任と江戸幕府

1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。足利義昭が手放した征夷大将軍という地位が、ここで徳川家のものとなったのです。室町幕府の事実上の滅亡から約30年、武家の棟梁の座は織田・豊臣の時代を経て、ついに徳川家へと受け継がれました。

徳川家康
Wikipediaコモンズ」より引用

その後、家康は1605年に将軍職を子の秀忠に譲り、徳川による世襲を天下に示します。さらに1615年の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川の天下を盤石なものとしました。足利義昭が最後の将軍を務めた室町幕府の系譜は、こうして完全に過去のものとなり、江戸幕府による約260年の泰平の世が始まったのです。義昭の死は、その大きな時代の節目に立ち会う出来事でした。

足利将軍家の終焉という節目

足利義昭の死は、単に一人の人物の最期というだけではありません。初代・足利尊氏から続いた足利将軍家が、歴史の表舞台から完全に姿を消したことを意味する大きな節目でした。1336年に成立した室町幕府は、約240年の歴史に幕を下ろしたのです。

義昭は1588年に将軍宣下を朝廷へ返上(正式に辞任)し、出家して昌山道休と名乗っていました。秀吉からは皇族に準じる准三后という高い位を与えられ、御伽衆として秀吉の話し相手も務めています。追放された悲運の将軍というイメージが強い義昭ですが、晩年は一定の待遇を受けて穏やかに過ごした面もありました。波乱の生涯の終着点は、意外にも静かなものだったのかもしれません。


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足利義昭の子孫と本能寺の変黒幕説の真相

足利義昭をめぐっては、子孫のゆくえや本能寺の変との関わりなど、興味深い話題が残されています。ここでその真相を整理していきましょう。

足利義昭の子供と直系子孫の断絶

足利義昭には、義尋という名の息子がいました。義尋は出家して僧侶となりましたが、子をもうけたことが原因で僧籍を追われたと伝わります。その義尋にも2人の子がいたものの、2人とも出家して子を残さなかったため、足利義昭の直系子孫はここで断絶しました。

一方で、足利義昭の子孫を自称する人物が会津藩の松平家に仕えていたという説もあり、その末裔が今も続いているとも噂されています。ただし、これが史実かどうかは定かではありません。室町幕府最後の将軍の血筋が、その後どこへ流れていったのかは、今なお謎に包まれた部分が残るのです。義昭の子孫のゆくえをさらに詳しく知りたい方は、こちらの記事が参考になります。

本能寺の変・足利義昭黒幕説の真偽

足利義昭をめぐる有名な説のひとつに、本能寺の変の黒幕説があります。明智光秀に織田信長を討たせたのは、実は足利義昭だったのではないか、という説です。信長に追放された義昭には信長を恨む動機があり、一見もっともらしく聞こえます。

本能寺跡の碑(筆者撮影)

しかし、この黒幕説は近年の研究では慎重に扱われており、完全には否定されていないものの、有力な説とはみなされていません。その理由の一つとして、本能寺の変の後、光秀から義昭へ「信長討伐に成功した」という明確な連絡が史料で確認されていない点が挙げられます。もし義昭が黒幕だったなら、真っ先に吉報を送った可能性があるからです。光秀が信長を討ったあと義昭を京都に迎えて室町幕府を再興する構想を抱いていたとする説はありますが、義昭が黒幕だったと断定することは難しいのです。

名門・清和源氏の血脈と歴史

あまり知られていませんが、足利義昭の先祖をたどると、源義家などを輩出した清和源氏の血脈に行き着きます。足利将軍家は、源氏の名門として鎌倉時代にも有力な御家人として活躍し、室町幕府を開くまで勢力を拡大していきました。

戦国の世で対立した武田氏なども同じ清和源氏の流れを汲んでおり、ゆるやかな系譜上のつながりが見えてきます。義昭という一人の将軍の背後には、平安から戦国まで数百年にわたる武家の歴史が折り重なっているのです。こうした武家の歴史を知ると、義昭の生涯がより立体的に感じられるのではないでしょうか。


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室町幕府が遺した文化と義昭の再評価

最後に、足利義昭が最後の将軍を務めた室町幕府が遺したものと、義昭という人物の再評価について考えてみます。

軍事力なき幕府が遺した芸術文化

室町幕府は、初期こそ有力な軍事政権でしたが、後期には強力な軍事力を持たない幕府となっていました。その代わりに、芸術や文化の分野では他の幕府を上回るほど優れた遺産を数多く残しています。軍事力が弱かったからこそ、文化の力で諸大名を惹きつけ、権威を保とうとしたとも考えられます。当時は芸術の力が、そのまま政治の力でもあったのです。

金閣寺
Wikipediaコモンズ」より引用

その象徴が、3代将軍・足利義満が建てた鹿苑寺金閣と、8代将軍・足利義政が建てた慈照寺銀閣です。私自身、金閣・銀閣・天龍寺を実際に訪れたことがありますが、金閣は煌びやかで豪華絢爛でありながら少しも下品さがなく、青空や雪景色のなかで黄金が際立つ姿に目を奪われました。銀閣は侘しさのなかに静けさを感じさせ、心が鎮められるような趣があります。足利尊氏が後醍醐天皇のために建てた天龍寺の庭園も、紅葉の季節には息をのむ美しさでした。鎌倉や江戸の建築とはまた違う独特の趣が、室町文化にはあると感じます。

銀閣寺の庭(筆者撮影)

こうした建築だけでなく、室町時代には能や狂言、茶の湯、生け花、水墨画といった、現代に続く日本文化の数多くが大成されました。3代義満の頃に花開いた華やかな北山文化、8代義政の頃に深められた簡素で静かな東山文化は、その代表です。武力ではなく文化の洗練によって権威を保とうとした室町幕府の姿勢が、結果として日本の美意識の土台を築いたといえます。最後の将軍・義昭もまた、この文化を重んじる足利将軍家の系譜に連なる人物でした。

天龍寺の庭園(筆者撮影)

足利義昭は本当に無能な将軍だったのか

足利義昭は、しばしば「信長に利用され、追放された無能な将軍」と評価されがちです。たしかに信長との対立に敗れ、室町幕府を滅亡に導いた将軍ではあります。しかし、その評価だけで義昭の生涯を語ってしまうのは、いささか一面的かもしれません。

滅亡寸前だった室町幕府を、信長の力を借りてとはいえ一度は再興させた事実は、決して小さくありません。軍事力を失いつつある幕府を立て直すには、信長のような実力者に頼る以外に方法がなく、その実力者と袂を分かつ運命もまた避けがたいものでした。足利尊氏から続く200年以上の歴史ある室町幕府の最後の将軍として、義昭は静かにその役目を終える道を選んだようにも見えます。私はむしろ、彼を偉大な将軍と呼んでもよいのではないかと考えています。室町幕府がどのように滅亡へ向かったのか、その真相を知りたい方はこちらもご覧ください。

足利義昭や明智光秀、織田信長が生きた戦国時代の京都を、映像で味わってみたいという方には、大河ドラマで追体験するのもおすすめです。U-NEXTでは、義昭と光秀・信長の関係を描いた大河ドラマ「麒麟がくる」や、戦国京都を舞台にした歴史ドキュメンタリーなどが配信されています。文字で知った人物が役者の演技で動き出すと、義昭の生涯への理解も一段と深まるはずです。

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足利義昭の死因に関するよくある質問

ここでは、足利義昭の死因について検索でよく寄せられる疑問に、Q&A形式でお答えします。記事の総まとめとしてお役立てください。

足利義昭の死因は何ですか?

足利義昭の明確な死因は分かっていません。ただ、晩年に腫物(現代のできもののようなもの)を患っていた記録があります。死の直前に豊臣秀吉に従って朝鮮出兵の拠点・名護屋城へ下向しており、高齢での長旅が体に負担をかけた可能性も考えられています。


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足利義昭はいつ亡くなったのですか?

足利義昭が亡くなったのは1597年10月9日(慶長2年8月28日)です。享年61、満年齢では59歳でした。天下人・豊臣秀吉が亡くなる前年にあたり、朝鮮出兵(慶長の役)が行われていた最中の死でした。

足利義昭はどこで死んだのですか?

大坂で亡くなったとする説のほか、京都やかつての本拠地・備後国の鞆の浦で亡くなったとする説もあり、はっきりとは確定していません。鞆の浦は京都追放後に毛利氏の保護を受けて拠点を置いた、義昭にとって縁の深い土地でした。

足利義昭の墓はどこにありますか?

足利義昭の墓は、京都市北区にある等持院というお寺にあります。等持院は足利一族の菩提寺で、初代将軍・足利尊氏の墓もここにあります。歴代将軍の木像も安置されており、義昭の木像も置かれています。

足利義昭は室町幕府最後の将軍ですか?

はい、足利義昭は室町幕府の15代将軍であり、最後の将軍です。1573年に織田信長によって京都を追放され、約240年続いた室町幕府は事実上滅亡しました。これにより足利将軍家による武家政権の時代は幕を閉じることになりました。


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足利義昭の死因まとめ

ここまで、足利義昭の死因と最期について多角的に解説してきました。最後に要点を振り返っておきましょう。

足利義昭の死因は明確には分かっていませんが、晩年の腫物や過労が影響したとも考えられています。1597年、享年61で亡くなり、その場所は大坂や京都、鞆の浦など諸説あります。秀吉の名護屋城下向に従った末の死であり、葬儀は将軍経験者としては簡素なものだったとする見方もあります。義昭の死の翌年に秀吉が没し、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が天下を握ります。室町幕府最後の将軍の死は、まさに新時代の幕開けと重なっていたのです。

「信長に追放された無能な将軍」と語られがちな義昭ですが、滅亡寸前の室町幕府を一度は再興させた手腕は見過ごせません。末期には軍事力を失っていた幕府の宿命を背負い、200年以上続いた足利将軍家の最後を静かに見届けた人物でもありました。次に京都を訪れる機会があれば、ぜひ等持院に足を運び、室町幕府最後の将軍に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。気になった本能寺の変や室町幕府の滅亡については、関連記事もあわせてお楽しみいただければ幸いです。

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