島津斉彬(しまづ なりあきら)とは誰なのか。そして何をした人物なのか、きちんと知っている人は、あまりいないのではないでしょうか。
恥ずかしいことに、筆者自身も「島津姓だから、薩摩の殿様のはず…」くらいの認識しかありませんでした。
この記事では『島津斉彬』が、どんな人なのかを、簡単に説明しようと思います。
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この記事を短く言うと
・島津斉彬は「松平春嶽」「伊達宗城」「山内容堂」と並ぶ、「幕末四賢侯」と呼ばれた名君
・斉彬は、西郷隆盛・大久保利通などの人材を育てた名君でもある
・島津斉彬の死因には、不可解な点も多く、暗殺説もある
島津斉彬!幕末最高の名君だった?
島津斉彬は江戸時代後期から幕末の大名で、薩摩藩の第11代藩主です。
そして、越前福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)、宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)、土佐藩主・山内容堂(ようどう)らと共に「幕末の四賢侯」として称された人物です。
さらに、同じ賢侯の松平春獄から、「本当の賢侯は島津斉彬公だけだった」と言われるほどの名君でもありました。
斉彬が家督を継ぐ際に、異母弟の島津久光を推す派閥があり、藩内が分裂しかけていたことがありました。
彼は弟に対し友好的に接したり、前藩主で父の島津斉興(なりおき)を相談役として残し、父の時代からの重役たちを、そのままの地位にとどめるなど、藩内を融和的な政策でまとめました。
藩主就任後は「集成館(しゅうせいかん)事業」と呼ばれる研究開発事業により、薩摩藩の近代工業化を推し進めました。
集成館はアジア初の近代洋式工場群のことで、その工場群を中心に、反射炉や溶鉱炉、洋式造船や地雷、水雷、ガラス、ガス灯などを製造し、富国強兵・殖産興業に取り組みました。
西郷隆盛の師匠で、英雄・西郷を育てた!
斉彬の功績として、身分に関わらずに有能な人材を発掘・重用したこともあげられます。
下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通らに仕事を割り振って、近代日本を構築できる人材へと育て上げました。
幕末の長州藩で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた「吉田松陰」のように、薩摩藩で近代日本を作り上げる人材を育てた人物であったと言えるでしょう。
死因は毒殺?最期に秘められた謎とは?
数々の功績を残した斉彬ですが、残念な最期を迎えることになります。
死因は、当時日本で流行していたコレラいう説が有力であります。
しかし、あまりに急に亡くなったのと、嫡子がいずれも夭逝していることもあり、異母弟・久光またはその母親・お由羅の陰謀であるとの噂もありました。
斉彬の子供たちが次々亡くなった後も、斉彬と久光の関係は良好だったため、暗殺であった場合、お由羅が黒幕と考えるのが自然でしょう。
ところが、斉彬を恩人として尊敬していた西郷隆盛は久光が殺したと思っていたため、久光と西郷の関係は悪化していったそうです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
✳?島津斉彬は「幕末の四賢侯」として称された名君だった。
✳?島津斉彬は、西郷隆盛や大久保利通など有能な人材を育てた。
✳?死因は病死だが、異母弟の支持者に暗殺された噂もある。
享年50歳と当時の人としては短命ではなかったはずですが、類稀なる才能の持ち主が急死するとは、本当にもったいないものです。
明治維新の英雄・西郷や大久保らを導いた偉人として、島津斉彬についてもっと多く人に知ってもらえると嬉しいです。
以上となります。
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