承久の乱(じょうきゅうのらん)について、世界一わかりやすく簡単に解説いたします。
かんたんにまとめると以下のとおりです
- 承久の乱とは1221年に起こった、朝廷の後鳥羽上皇と、鎌倉幕府の北条義時の戦い
- 戦いの原因は、北条義時が後鳥羽上皇を脅迫するなど、失礼な態度をとったため
- 結果は、鎌倉幕府と北条義時の圧勝。後鳥羽上皇は敗北し、隠岐(おき)へ流罪・幽閉された
- 承久の乱の結果、日本は天皇やお公家さんが支配する国から、武士が支配する国へ変わった
- 戦いのあと、後鳥羽上皇は怨霊になったという伝説がある
以下でさらにくわしく解説いたしますが、この記事を読めば、承久の乱について、かんたんに理解できます。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
目次
承久の乱とは何かをわかりやすく解説
承久の乱の流れをザッと解説
北条義時が後鳥羽上皇の息子に、征夷大将軍になってくれるようにと要請する
↓
義時の要請が、後鳥羽上皇によって断られる
↓
断られたことに激怒した義時が、兵1000人で後鳥羽上皇を脅す
↓
脅されたことに激怒した後鳥羽上皇が、北条義時を倒せと、全国の武士たちに命令を出す
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討伐の命令を出された北条義時が反撃する(北条義時vs後鳥羽上皇 承久の乱が起こる)
↓
北条義時の圧勝(承久の乱が終わる)
↓
後鳥羽上皇が、隠岐の島へ幽閉される
承久の乱とは、だれとだれの戦いだったの?
承久の乱は、北条義時と後鳥羽上皇の戦いです。
1221年(承久3年)、鎌倉幕府と京都の朝廷のあいだで、戦いが勃発しました。
承久の乱(じょうきゅうのらん)です。
鎌倉幕府の総大将は、幕府の執権という最高の役職についていた北条義時(ほうじょうよしとき)。
源頼朝の妻・北条政子の弟にあたる人物です。

《北条義時》
「引用元ウィキペディアより」
朝廷側の総大将は後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)。
平清盛と権力闘争を繰りひろげた後白河法皇が、天皇へと即位させた人物です。

《後鳥羽上皇》
「引用元ウィキペディアより」
朝廷のトップである後鳥羽上皇が、鎌倉幕府とそのトップである北条義時へ戦いを挑んだ事件が、承久の乱なのです。
承久の乱が起こった原因とは何か?
承久の乱が起こった原因は、北条義時が後鳥羽上皇に対して軍を使って圧力をかけるなど失礼な行動をとり、それに後鳥羽上皇が激怒したためです。
後鳥羽上皇は、北条義時の圧力に怒って、義時を倒そうとして戦争を起こしたのです。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府に戦いを挑んだ理由を簡単にまとめてみると、原因は2つあります
- もともと後鳥羽上皇は、鎌倉幕府が気に入らなかった
- 鎌倉幕府のトップ「北条義時」が、朝廷に圧力をかけたことが気に入らなかった
もともと日本は
- 朝廷(ちょうてい)という政府
が支配していました。
しかし、1185年に源頼朝が鎌倉に臨時政府である幕府を成立させると、鎌倉幕府が日本を支配するようになっていったのです。
本来の政府である朝廷のトップに君臨していた後鳥羽上皇は、そのことに不満をもっていました。
当然です。本当なら日本を支配するべきは後鳥羽上皇なのに、いつの間にか北条義時が日本を支配していたからです。
そんな中で、北条義時は後鳥羽上皇に対して軍をつかって圧力をかけるなど、とても失礼な行動を取るようになります。
それに激怒した後鳥羽上皇が、北条義時を倒そうとして、戦いを始めたのです。
そもそもどうして北条義時は、後鳥羽上皇に対して軍団をつかって圧力をかけるような、失礼な行動を取ることになったのでしょうか?
その原因は、源頼朝の息子で鎌倉幕府三代目の征夷大将軍・源実朝が死んだことにありました。
三代将軍・源実朝の死
鎌倉幕府3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)が、後継者を残さずに亡くなったことが、北条義時が後鳥羽上皇に圧力をかけた原因でした。
1219年、源頼朝の息子で3代将軍にあたる源実朝が、甥の公暁(くぎょう)という人物に暗殺される事件がおこりました。
実朝が亡くなったことで、次の征夷大将軍に就任すべき人物が、一人もいなくなってしまったのです。
そのため北条義時は、後鳥羽上皇の息子を、鎌倉幕府の4代目の征夷大将軍に就任させようとしたのです。
ところが後鳥羽上皇がこれを断ったのです。
断られたことに怒った北条義時は、1000人の兵士を京都へ送って後鳥羽上皇を脅しましたが、それでも後鳥羽上皇は息子を4代目の征夷大将軍にすることを断り続けたのです。
断った理由は簡単です。
征夷大将軍になると、上皇の息子は鎌倉へ行かなくてはいけないわけですが、当時の鎌倉はとても危険で、治安がわるいところだったので、息子を行かせる気にならなかったのです。
断られた義時は、仕方なくお公家さんの九条頼経(くじょうよりつね)という人物を、4代目の征夷大将軍に就任させます。
義時が脅しをかけてきたことに対して、後鳥羽上皇は激怒します。北条義時を呪い殺そうとするほど怒り狂ったといいます。
そのことを知った北条義時もまた、後鳥羽上皇に対して激怒します。
こうして北条義時と後鳥羽上皇は、もはや戦うことを避けられない状況になっていったのです。
後鳥羽上皇が挙兵し、戦争開始
1221年、後鳥羽上皇は、北条義時を倒すために立ち上がりました。承久の乱の始まりです。
院宣(いんぜん)とよばれる上皇の命令を各地に発して、全国の武士たちに「北条義時を倒せ」と命じたのでした。
当時、上皇や朝廷の力は圧倒的であり、誰もが「北条義時に勝ち目はない。後鳥羽上皇の圧勝だろう」と予想していました。
後鳥羽上皇は
「北条義時に味方するものなど、1000人もいないだろう」
と言っていた程です。
ところが後鳥羽上皇が圧勝するはずの戦いを、一人の女性がひっくり返します。
北条政子(ほうじょう まさこ)です
北条政子による奇跡の演説と圧勝!
後鳥羽上皇が圧勝するはずだった承久の乱は、北条政子による奇跡の大演説によって、逆に鎌倉幕府と北条義時が圧勝することとなります。
尼将軍(あましょうぐん)という言葉をご存知でしょうか?
北条政子のあだなです。

北条政子
「引用元ウィキペディアより」
鎌倉幕府をつくった源頼朝の妻であり、同時に北条義時の姉でもあった北条政子は、後鳥羽上皇におびえる鎌倉武士たちに対して、歴史に残る名演説をおこなったのです。
「源頼朝公のご恩は、山よりも高く、海よりも深い。
このご恩に報いるため、後鳥羽上皇の軍団を倒せ」
この演説に勇気づけられた全国の武士たちは、次々と鎌倉幕府に味方して、後鳥羽上皇の軍団を相手に戦う決意を固めました。
鎌倉幕府の軍団は、わずか18人で、鎌倉から京都へと進軍を開始したといいます。
北条義時の息子・北条泰時がひきいたこの18人の軍は、各地で次々と味方を加えていきます。
鎌倉を出発し、京都へ到着するころには、なんと19万人もの大軍団にふくれあがっていました。
それに対する後鳥羽上皇の軍は、全部でわずか2万ほどだったといいます。
義時の姉・北条政子の演説がきっかけで、鎌倉武士たちは勇気を取り戻し、敗色濃厚だった鎌倉幕府が、大逆転勝利したのでした。
後鳥羽上皇はその後、鎌倉幕府に降伏し、日本海に浮かぶ隠岐(おき)へ流罪(るざい)となり、幽閉生活をさせられることになります。
承久の乱によって何が変わったのか?
承久の乱の後、本格的に武士の時代が始まった
承久の乱をきっかけにして、それまで天皇とお公家さんが支配していた日本を、今度は武士たちが日本全土を支配することになりました。
日本はそれまで、朝廷という天皇とお公家さんが組織した政府に支配されていました。
ところが承久の乱によって朝廷が幕府に敗北したため、武士による臨時政府である幕府が、日本を征服して支配することになったのです。
この武士が日本を支配するという状態は、承久の乱がおこった1221年から、西郷隆盛が徳川家康のつくった江戸幕府を滅ぼす1868年まで、約650年ものあいだ続くことになります。
こうして日本は北条義時の活躍により、天皇から征夷大将軍へ、お公家さんから武士へと、支配者が変わることになったのです。
なぜ六波羅探題が設置されたのか?そもそも探題って何?
承久の乱のあと、京都の朝廷を監視して、反乱を起こさないように見張るために、鎌倉幕府は六波羅探題(ろくはらたんだい)というものを京都に設置しました。
六波羅探題とは、京都の六波羅という地に設置された鎌倉幕府の出先機関です。
探題(たんだい)とは、かんたんにいってしまうと、現在の裁判所と警察をあわせたようなものです。
人々の訴訟をとりあつかって裁判所としての役割を果たし、さらには警察として犯罪をとりしまるのが、探題のお仕事でした。
かつて平清盛のお屋敷があった京都の六波羅(ろくはら)という場所に設置された探題(たんだい)なので、六波羅探題(ろくはらたんだい)とよばれたのです。

《平清盛》
「引用元ウィキペディアより」
鎌倉幕府と北条義時は、承久の乱で数多くの武士が後鳥羽上皇と朝廷に味方した様子を見て、また同じような反乱が起こるのではないか、と恐れたのです。
そのため、朝廷が鎌倉幕府に対して戦争を仕掛けたり、武士や軍団を集めたりしないように、京都の朝廷と天皇を見張る必要があったのです。
その監視のために鎌倉幕府がつくったのが六波羅探題だったのです。
この六波羅探題は、1333年まで、京都における鎌倉幕府の拠点として約100年つづきました。
しかし1333年、六波羅探題は足利尊氏の攻撃を受けて滅ぼされ、ほぼ同時に鎌倉も新田義貞によって攻撃されています。

《足利尊氏》
「引用元ウィキペディアより」
鎌倉と六波羅探題、この両方の拠点を攻め滅ぼされた鎌倉幕府は、滅亡することとなるのです。
六波羅探題は、足利尊氏に滅ぼされるまでのあいだ、鎌倉とならぶ鎌倉幕府の重要な拠点となっていたのです。
足利尊氏と新田義貞については、以下のリンク記事で、さらにくわしく開設しております。
後鳥羽上皇の最期!怨霊伝説とは?
隠岐へ流罪になった後鳥羽上皇は、承久の乱から18年後の1239年、後鳥羽上皇は隠岐で亡くなります。
後鳥羽上皇は、何度も何度も京都へ帰らせてほしいと幕府へ願い出ていたのです。
しかし、ついに故郷へ帰ることは出来ませんでした。
「万が一、私が魔物になることがあれば、この世に災いをもたらすだろう。
だがもしも、私の子孫が天皇となってこの世を支配することがあったなら、それは全て私の力によるものである。
その時は、子孫たちよ。私の菩提を弔うように」
後鳥羽上皇が、最期に残した遺書の内容です。
こののち、鎌倉幕府では不幸が続いたと言われています。
そのため、後鳥羽上皇が怨霊になったと噂され、恐れられたのです。
その後、後鳥羽上皇の孫である後嵯峨天皇(ごさがてんのう)が即位。
この後嵯峨天皇が後継者を明らかにしなかったことが一因となって、100年後、あるの人物をこの世に誕生させます。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)をご存知でしょうか?
後嵯峨天皇のひ孫にあたる人物です。

《後醍醐天皇》
「引用元ウィキペディアより」
承久の乱から112年後の1333年のことですが、後醍醐天皇が足利尊氏や楠木正成をしたがえて鎌倉幕府へ戦いを挑みます。
この戦いで、源頼朝以来141年続いた鎌倉幕府は、滅亡することとなります。
もしかすると後鳥羽上皇の怨念が、鎌倉幕府を滅亡させたのかもしれません。
鎌倉幕府については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説いたしました。
後鳥羽上皇について、ひとこと言いたい
後鳥羽上皇といえば、歌人として、歴代天皇の中でも最高の人物といわれているお人です。
さらに、武術でもすぐれた能力を発揮したのだとか。
天皇家の家紋といえば菊の御紋。
その菊の御紋を初めてつかったのは後鳥羽上皇という説があります。
鳥羽伏見の戦いをご存知でしょうか?
幕末、西郷隆盛がひきいた薩長・新政府軍が、徳川慶喜がひきいる旧幕府軍を倒した戦いです。
菊の御紋で飾られた錦の御旗(にしきのみはた)がかかげられた瞬間に、旧幕府軍が崩壊したといわれています。
徳川幕府を倒したのは、後鳥羽上皇がつくった菊の御紋と錦の御旗ともいえるのかもしれません。
後鳥羽上皇の怨念が、力を発揮したともいえます。
そういえば、承久の乱から53年後の1274年に元寇という、日本始まって以来の大事件が起こりました。
それもまさか、後鳥羽上皇の怨霊の仕業だったのでしょうか・・・。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 1221年承久の乱は、鎌倉幕府・北条義時vs朝廷・後鳥羽上皇の戦い。鎌倉幕府の勝利で終わった
- 承久の乱の原因は、北条政子の弟・北条義時が、後鳥羽上皇へ軍事的圧力をかけて、挑発したことだった
- 戦いは鎌倉幕府の勝利に終わり、後鳥羽上皇は隠岐へ流罪。そこで亡くなり、怨霊になったと言われている
以上となります。
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