13代将軍「徳川家定」の「生涯」と「怪しげな最期」を、わかりやすく解説いたします。
「天璋院篤姫」の夫である「家定」の最期は、「暗殺」の可能性が見え隠れする、非常に怪しげなものだった!
そして、妻「篤姫」との関係も、ドラマや小説で語られるようなものではなく、夫婦仲はよくなかった
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徳川家定の生涯と、不穏な最期
徳川第13代将軍「徳川家定」
12代将軍「徳川家慶」の息子にして、11代将軍「徳川家斉」の孫
初代「徳川家康」から、8代「吉宗」までの家系図は、ざっと以下の通り
そして8代「吉宗」から、13代家定までは、ざっとこんな感じ
13代「家定」は、あの有名な「天璋院篤姫」の夫です
『引用元ウィキペディアより』
そんな徳川家定の生涯を簡単に解説いたします。
出生から将軍就任まで
1824年、12代将軍「徳川家慶」の四男として「徳川家定」が誕生。
母は「本寿院」
家定は病弱で、天然痘により顔には「あざ」が残ったと言われています。それが人前にでることを嫌う原因となってしまったのだとか。
一説には「脳性麻痺」であったとも言われています。
12代将軍「家慶」の子の中で、成人するまで生き残ったのが「家定」1人だけだったため、将軍後継者に指名されます。
ただ、父「家慶」は、家定の将来を心配して、後継者を英邁と噂の水戸藩「徳川斉昭」の子「慶喜」にしようと考えていました。
そのため家慶は、将軍後継者としての資格を持つ「御三卿」の1つ「一橋家」を、慶喜に継承させ「一橋慶喜」と名乗らせたのです。
しかし、老中「阿部正弘」たちが、「一橋慶喜」への将軍継承を反対したため、「一橋慶喜」の将軍継承は失敗。
「家定」が13代将軍に就任するのでした。
将軍として
1853年7月、浦賀にペリー率いる黒船が来航。
その19日後に、12代将軍「徳川家慶」が死去。
それに伴い「家定」が13代将軍に就任。
将軍として残した功績は、ほとんどなく、老中「阿部正弘」や、その後任「堀田正睦」が政務を担当しています。
1857年10月、アメリカ総領事「ハリス」を引見し、ねぎらいの言葉をかけています。
「厚情に満足至極!
両国の親しき交わりは久しく続くだろう・・・とプレジデントに伝えるべし」
と、毅然とした態度で言ったとのこと。
その際に、床を足で踏み鳴らすという、癇癪を起こしていた・・・という説もあります。
おそらく、このセリフを丸暗記して、そのまま口にしたのでしょう。
将軍継嗣(けいし)問題
家定は病弱で、子宝に恵まれていません。
いつ亡くなってもおかしくない「家定」・・・そのため、「将軍継嗣問題」が起こったのです。
時は「黒船来航」で揺れる幕末
その難局を乗り越えるには、名君をいただくべき!という意見から、優秀な「一橋慶喜」を後継者に推す声が高まります。この一派が「一橋派」
対して、家定の従兄弟で血縁が近い紀州藩主「徳川慶福(よしとみ)」を後継者に推す「南紀派」
この「一橋派」と「南紀派」が激しく対立することとなるのでした。
怪しい最期(暗殺説)
1858年8月14日、徳川家定は死去。
享年35歳
死因は「脚気」が悪化・・・または感染症の「コレラ」とも噂されています。
この時、日本は「黒船来航」で揺れていました。
そんななか、日本のトップは暗君「徳川家定」
次期将軍に「一橋慶喜」を推す「一橋派」による暗殺説も、噂されていたみたいです。
「一橋慶喜を将軍にするために、邪魔な徳川家定を毒殺した」
という疑いが浮上したのですね。
しかし、家定が病弱だったことは、誰もが知っていた事実ですし、結果だけをみると、家定の次の将軍は「一橋慶喜」ではなく、「井伊直弼」らが推す「紀州・徳川慶福」です。
慶福が、14代将軍に就任し、「徳川家茂」と改名しています。
一橋派が家定を暗殺したにしては、一橋派は全く得をしていません。
家定暗殺は、確かに一橋派からすると、将軍後継に「一橋慶喜」をすえるためには、有益なことかもしれません。
ですが一橋派が全く得していないことを考えると、「一橋派による暗殺」であるとは、考えにくいでしょう。
「一橋派」は、その後「井伊直弼」による「安政の大獄」という弾圧で、次々処罰されています。
暗殺説を逆に井伊直弼に利用された形となってしまったわけですが、これでもしも本当に「一橋派が家定を暗殺」していたのだとしたら、それはあまりにも「下手な計画」だったということになる気がします。
夫婦仲は最悪だった?
大河ドラマ「大奥」では、女優「宮崎あおい」さんが、家定を演じる「堺雅人」さんと、強い絆で結ばれた夫婦を演じておられました。
また、大河ドラマ「西郷どん」では、「又吉直樹」さん演じる家定が、「北川景子」さん演じる「篤姫」を、優しく気づかうシーンもありました。
では、実際に2人の仲はどうだったのでしょうか?
残念ながら実際には、2人の仲はそれほど良かったとは思えません。
家定と篤姫の夫婦生活は、わずか「21ヶ月」
篤姫は当然「大奥」で、家定が通ってくれるのを待つ日々。
対して家定は病弱
それほど2人が頻繁に顔を合わせていたとは思えません。
家定の後継者「徳川家茂」と、その妻「和宮」は、夫婦仲が良かったことで有名です。
しかし「家定」と「篤姫」が、仲が良かった可能性は、結構低いのではないでしょうか。
隠れた名君?それとも正真正銘のバカ殿?
徳川家定・・・・彼は名君だったのでしょうか?
それともバカ殿だったのでしょうか?
結論から言えば、「名君」だとは思えません。
幕末最高の名君とも言われている「松平春嶽」は、家定のことを『暗君』と酷評しています。
家定は「カステラ」や「ふかし芋」の調理が趣味だったため、松平春嶽はそれを揶揄して家定を「イモ公方」と呼んでいたみたいですね。
とはいえ、家定は家来たちと政治について意見を述べ合うこともあり、決して無気力なだけではなかったようですが・・・。
「家定は、織田信長のようにうつけ(バカ殿)のふりをしていただけ」という説があるにはあるのです。
それでも、「押し込め(強制退場)」寸前の状態だったことは間違いなく、残念ながら「名君」である可能性はないと思います。
ドラマ「篤姫」では、堺雅人演じる「家定」が、実は「バカ殿」のふりをしていただけ・・・という設定になっていましたが・・・そもそもバカ殿のフリをする必要性が、この当時としては、「ない」はずなのです・・・。
黒船来航という国家の難局に、バカ殿のふりをするなんて発送は、残念ながら「バカ殿」にしかできないものではないでしょうか。
家定名君説・・・ちょっと厳しいですね
まとめ
本日の記事をまとめますと
・家定の最期は、不穏なものを感じさせるタイミングだった
・家定と篤姫の関係は、それほど良いものではなかった
・家定は、押し込め寸前のお殿様だった
以上となります。
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