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堀田正睦の生涯と最期!阿部正弘に操られ、井伊直弼に失脚させられた

堀田正睦とは、どのような「生涯」と「最期」をおくった人物だったのでしょうか?

わかりやすく解説いたします。

幕府のトップである「老中」を二度も務めたが、「阿部正弘」の操り人形でしかなかった。

「日米修好通商条約」の締結に力を尽くしたが、大老「井伊直弼」に失脚させられた。


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この記事を短く言うと

・老中「堀田正睦」とは、イケメン老中「阿部正弘」のあとを継いだ「老中の首座」

・堀田正睦は開国派で、日米修好通商条約などの調印に尽力したが、結果は伴わなかった

・阿部正弘から裏で操られ、井伊直弼によって老中を罷免された


堀田正睦とは誰?何をやった人なのか?

堀田正睦
『引用元ウィキペディアより』

老中「堀田正睦(ほったまさよし)」

幕府の最高職である「老中」の筆頭で、下総佐倉藩(現在の千葉県)の藩主だった人

堀田正睦が生きた時代は「幕末」

つまり、「ペリー来航」で日本という国が、諸外国の圧力を受けて「侵略される」危機に瀕していた時代。

この時の江戸幕府将軍は、12代将軍「徳川家慶」と、その息子で13代将軍「徳川家定」でした。

開国派だった堀田正睦は、こうした政治状況の中で、諸外国の圧力や、国内での派閥争いに立ち向かうこととなるのでした。



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堀田正睦の功績を、わかりやすく一言で解説

堀田正睦の功績は、簡単に表すと次の通りです。

しかし堀田正睦・・・・それほど大きな功績を残したわけではありません。

・佐倉藩主として、藩政改革に尽力

・老中を二度も務め、諸外国との問題に対処。開国を目指した

以上

最期は、大老井伊直弼によって罷免させられています。

堀田正睦の生涯と最期

堀田正睦の生涯を簡単に表すと、次のとおりです。

出生から藩主になるまで

1810年、佐倉藩主「堀田正時」の次男として誕生。

藩主だった兄「正愛」が亡くなると、兄・正愛の養子となって藩主の座を継承。



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佐倉藩主として

1824年、堀田正睦は「佐倉藩主」に就任

しかし、まだ若かった堀田正睦に代わり、藩の実権を握っていたのは、家臣「金井右膳」という人物

実はこの「金井右膳」・・・・堀田正睦が藩主に就任することに反対し、他家から養子を連れてきて藩主にしようとした人物でした。

結果として、正睦の家来たちの画策により、藩主には正睦が就任。

とはいえ、金井は幕府の権力を後ろ盾にしていたので、正睦は自由に政治を行うことが出来ませんでした。

そんな中でも正睦は諦めず、徐々に地盤を固めていきます。

1833年、金井右膳が死去。これによって堀田正睦は、藩政改革に着手することになります。

藩の民衆に「蘭学(西洋の学問)」を奨励するなど、国際感覚を根付かせようとしたのです。

天保の改革

1841年、幕政へ参加。

本丸老中に任命されて、当時の老中首座「水野忠邦」が行った「天保の改革」に協力することとなりました。

しかしこの「天保の改革」は、強く民衆を引き締めるという、とても厳しいものでした。

そのため正睦は、改革反対を主張。

正睦は改革が失敗すると予想し、その責任を被せられる危険を回避するため、12代将軍「家慶」に、病気を理由に辞任を申し出たのです。

老中を辞任した正睦・・・・これにより、佐倉藩の藩政に専念する事となったのです。



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老中のトップに就任

1855年、老中首座「阿部正弘」に推薦されて、老中に復帰。

この時、阿部正弘から譲られる形で「老中首座」に就任しています。

堀田正睦が老中に復帰したその時、幕府が抱えていた問題は2つ

・圧力をかけてくる諸外国への対応

・当時の将軍は「13代・徳川家定」、その次の将軍を誰にするのか、という問題

諸外国への対応について・・・・正睦は、自領・佐倉藩で蘭学を奨励していたため、諸外国の力を知っていました。

そのため、諸外国に勝てないことを知っていた正睦は、武力で異国を打ち払うのではなく、開国を主張

結果として、攘夷(異国を力で打ち払う)ことを主張していた水戸の「徳川斉昭」とは対立することになりました。。

正睦は、斉昭と対立したことで、その息子「一橋慶喜」とも関係が悪化。

そのため「13代・家定の次の将軍を誰にするか?」という問題についても、「南紀派」を支持して「徳川家茂」を将軍に推すようになりました。

しかし、アメリカが「日米修好通商条約」の締結を求めてくると、それに対して正睦は朝廷の許可を取ることが出来ず、苦悩することになります。

ここで正睦は、それまで推していた「徳川家茂」から、朝廷が時期将軍に推している「一橋慶喜」へと鞍替えしてしまいます。

どうして突然「一橋慶喜」を推し始めたのか?

理由は、朝廷が推している「一橋慶喜」を、正睦が推せば、朝廷との関係を良好に保てるため。そうすることで「日米修好通商条約」の許可がおりると考えたのです。

しかし、そんな中「井伊直弼」が、正睦が務める「老中首座」よりも上の臨時職「大老」に就任

正睦は「一橋派」であったため、「南紀派」だった井伊直弼により失脚させられました。

1858年、正睦は「登城停止処分」となり、老中も罷免

1859年、息子に家督を相続させて「堀田正睦」隠居

1860年、「桜田門外の変」によって「井伊直弼」が水戸藩士の手で暗殺

その2年後の1862年、朝廷と幕府両方から、堀田正睦は「蟄居(謹慎処分)」とされ、実質的に完全に政治生命を絶たれる事となるのです

最期

1864年3月21日、佐倉城三の丸において、堀田正睦・死去

享年55歳

明治維新後に、堀田家は華族「伯爵」を授けられることになります。



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阿部正弘に操られ、井伊直弼に失脚させられた不運な名臣

阿部正弘から推挙される形で、老中に復帰した堀田正睦

更には老中首座という幕府最高の地位も、阿部正弘から譲られることとなります。

しかし、阿部正弘が堀田正睦を推挙した理由は、堀田正睦を評価していたからではありませんでした。

堀田正睦が、阿部正弘と同じ「開国思想」を持っており、しかも老中首座として、阿部正弘への批判をかわす盾にしようとしたのです。

元々堀田正睦は井伊直弼と同じ「南紀派」。

つまり「家定」の次の将軍に「徳川家茂」を推挙する立場でした。

しかし、先程ご説明した理由により、正睦は「一橋派」へ乗り換えています。

そのため、大老に就任した南紀派の「井伊直弼」から睨まれ、老中を罷免させられたのでした。

堀田正睦・・・・かなり実直な人柄だったのでしょう。「裏技・小技・離れ技」が使えない人物ということですね。

元々は「堀田正篤」という名前でしたが、「篤姫」が家定の妻となると、「篤」の字を使うことに遠慮して「正睦」と改名したとも言われています。

慎み深かったのかもしれませんが、政治家としてはもっと積極的に自分をアピールすべきだったのかもしれません



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・堀田正睦は、阿部正弘の後任者として「老中首座」を務めた人物

・佐倉藩主として藩政改革。幕政にも携わり、諸外国への対応と将軍継嗣問題に対した

・阿部正弘から利用され、最期は井伊直弼に失脚箚せられた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


阿部正弘」「井伊直弼」「篤姫」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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