幕末「天璋院篤姫」の養父であり、名門「五摂家」の1つ「近衛」家の当主「近衛忠煕(このえただひろ)」について、その「生涯」と「最期」「家系図と子孫」を、わかりやすく解説いたします。
「篤姫の養父・島津斉彬の伯父。子孫からは、二人も内閣総理大臣が輩出されていた」
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近衛忠煕とは?何をした人なのか功績を解説
幕末のお公家「近衛忠煕」
明治維新を見届け、明治天皇からとても信頼されていたお方。
死後「正一位」という最高の位をおくられた人物。

《近衛忠煕》
『引用元ウィキペディアより』
「近衛忠煕」が残した功績とは、何なのでしょうか?
近衛忠煕の功績
近衛忠煕が残した功績を短く解説いたします。
・「安政の大獄」の原因となった「戊午の密勅」を引き出した
・「公武合体」実現のため、「薩摩藩」に協力し続けた
薩摩藩を支援し続けた「左大臣」「関白」を務めた実力者。
しかし、非常に温和な人で、明治維新の後、中央の政界に積極的に参加することはなかった人です。
近衛忠煕の生涯と最期
近衛忠煕の生涯と最期について解説いたします。
生い立ち
1808年9月4日、名門公家「五摂家」の筆頭「近衛家」に生まれる
父は「近衛基前」
1816年、元服。昇殿を許される。その後も順調に出世を重ねていく
1824年、内大臣に就任
島津家の郁姫と結婚
1825年、薩摩藩の「郁姫(島津興子)」と結婚
郁姫は、薩摩藩9代藩主「島津斉宣」の娘ですが、兄である10代藩主「島津斉興」の養女となってから「近衛忠煕」へ輿入れしています。ちなみにこの時「郁姫」とともに、後に篤姫の教育係を務めることとなる「幾島」が近衛家に来ています。
島津斉興の息子「島津斉彬」からすると、「郁姫」は本当は叔母に当たります・・・・しかしこのような事情があったため、義理の姉ということになっているのです。
一応「斉彬」と「近衛忠煕」は、義理の兄弟という間柄。
その関係によって、斉彬と近衛忠煕は、「公武合体」という目標に向けて協力するようになるのです。
このころ、近衛忠煕は「月照」と清水寺で知り合い、交流をもったものと考えられます。
月照・・・・西郷隆盛とともに錦江湾に身を投げた尊王攘夷派のお坊さんですね。絶世の美男子だったと言われています。
一橋派として、一橋慶喜を推す
将軍継嗣問題・・・・第13代将軍「徳川家定」は病弱で、いつ亡くなってもおかしくない状況でした。
そんな中、「徳川家定」の後継者争いが勃発したのです。
争っていたのは「南紀派」と呼ばれる「徳川家茂」を推す一派と、「一橋派」と呼ばれる「一橋慶喜」を推す一派。
薩摩藩主「島津斉彬」は、「一橋慶喜」を推す「一橋派」でした。
その影響もあってか、「近衛忠煕」もまた「一橋派」の支援をしていたのです。
篤姫を養女に迎える
島津斉彬は、自らの養女「篤姫」を将軍「徳川家定」に嫁がせることを決定。
輿入れ前、篤姫は自らの格式をあげるため、当時「右大臣」だった五摂家筆頭「近衛家」の当主「近衛忠煕」の養女となります。
篤姫は京都の近衛邸で、「幾島」から礼儀作法を仕込まれたと言われています。
1856年、篤姫は家定のもとへ輿入れ
1857年、近衛忠煕は、最高位「左大臣」に就任。
安政の大獄で失脚
強引に次期将軍を「徳川家茂」に決定してしまいます。
1858年、その井伊直弼が、天皇から許可も得ずに「日米修好通商条約」に調印
これに激怒した近衛忠煕は、朝廷に働きかけて「戊午の密勅(秘密命令)」を朝廷に出させました。
「戊午の密勅」とは、朝廷から水戸藩へ、幕府の頭を超えて出された秘密命令・・・。命令の内容は一言で言えば「外国を打ち払え」というもの・・・。
幕府は自分たちの頭越しに、自分たちの家来である水戸藩へ命令を出された越権行為をそのまま見過ごすことができず、関係者を処分していきます。これが「安政の大獄」。
一橋慶喜や、その父「徳川斉昭」も処分され、近衛忠煕もまた、謹慎処分となります
1859年、左大臣を辞職
1862年、関白として復帰。
1873年、息子「忠房」が、近衛家の家督を相続することなく他界したため、忠房の子で近衛忠煕の孫「篤麿」を養子として後継者に指名する
その後は孫「近衛篤麿」の養育に専念していたと言われています。
明治維新後
明治維新後も、静かに京都で孫とともに生活していた「近衛忠煕」
しかし明治天皇が、近衛忠煕のことを強く呼びつけたため、1878年に京都から東京へ移住。
最期
1898年(明治31年)3月18日、死去。
享年89歳。
近衛家の家督は孫であり養子である「近衛篤麿」が継承
家系図を紹介!篤姫や島津斉彬、そして正室や側室について
近衛忠煕の家系図を下にご用意いたしました。
見えにくいですが、なにとぞお許しくださいませ。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」
近衛忠煕の性質は「島津斉彬」の叔母「郁姫(島津興子)」。その縁で、斉彬の養女「篤姫」を自らの養女として迎えています。
系図には書かれていませんが、近衛忠煕には「光蘭」という名前の側室もおり、娘を儲けています。その娘の名前は「尹子(ただこ)」・・「信君」と称していました。津軽藩主にして「第十五国立銀行」の頭取「津軽承昭(つがる つぐあきら)」と結婚しています。
忠煕のひ孫「近衛文麿」は、大東亜戦争末期の総理大臣。
さらにその孫にあたるのが、元内閣総理大臣「細川護熙」
ちなみに細川護熙さんは、戦国武将「細川忠興」の血も継いでいます。名門中の名門というわけですね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・近衛忠煕は、島津斉彬の叔母を妻としている縁から、篤姫を養女とし、一橋慶喜擁立に協力していた
・安政の大獄で謹慎処分を受け、失脚。その後関白として復帰
・のちの総理大臣「近衛文麿」「細川護熙」は、「近衛忠煕」の末裔
以上となります。
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「島津斉彬」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
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