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大隈重信の『右足』と『義足』は今どこにある?足を失った理由がコワイ

「大隈重信」の切断された「右足」と「義足」が、今どこにあるのか?この記事ですぐにわかる!

元・内閣総理大臣「大隈重信」

爆弾をつかった暗殺未遂事件により「右足」を失った話は有名です。

なぜ右足を切断するハメになったのか?

切断した右足を、客に見せびらかしていた逸話についてもご紹介します。


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拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 大隈重信」の右足は現在、佐賀県「龍泰寺」に保管されている。義足は「早稲田大学」と「佐賀市大隈記念館」にある
  2. 大隈重信は1889年「大隈重信 遭難事件」という暗殺未遂事件で、爆弾テロにより、右足を失った
  3. 大隈は、切断した右足を保管し、家に来たお客様に、右足を見せびらかしていたらしい

大隈重信の『右足』と『義足』は、今どこに保管されているの?

早稲田大学の創始者である元内閣総理大臣「大隈重信(おおくま しげのぶ)」。

《大隈重信》
『引用元ウィキペディアより』

その大隈重信の右足が、現在も保管されていることをご存知でしょうか?

結論から言いますと、大隈重信の「右足」は、現在「佐賀県」の「龍泰寺」という、大隈重信の菩提寺に保管されています。

以前は「早稲田大学」に保管されており、誰でもみることができたとのことですが、今ではそう簡単に見ることはできないみたいですね。

大隈が使用していた「義足」であれば、「早稲田大学・大学史資料センター」と「佐賀市・大隈記念館」で見学することができるようですね。



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なぜ右足を失ったのか?

大隈重信はどうして「右足」を失ったのでしょうか?

1889年10月18日、「来島恒喜」による「爆弾テロ」が発生。襲撃を受けた大隈重信は、暗殺されることはありませんでしたが、右足を負傷したのでした。

ドイツ人医師「エルヴィン・フォン・ベルツ」氏によって、右足切断の手術が行われ、大隈重信は一命をとりとめました。

このときから、大隈重信は「義足」を使って生活するようになったのです。

この事件は「大隈重信遭難事件」と呼ばれることになります。犯行の動機は、大隈重信が裁判に「外国人判事」を導入しようとし、それに「来島」が反対していたから。

大隈は何を思ったのか、その切断した右足を「ホルマリン」に漬けて、自宅で保管していたのだそうです。



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大隈は、右足を「ホルマリン漬け」にして、客にみせていた!

右足を保管した大隈重信。どうやら自宅にホルマリン漬けで保管し、自宅に来た客にそれを見せびらかしていたのだとか。

一体どういう目的があって、そんなことをしたのか・・・。

修羅場をくぐった事実を自慢したかったのか?

それとも、客を驚かせて楽しんでいたいたのか?

歴史小説「三国志」に登場する、隻眼の猛将「夏侯惇(かこうとん)」が、戦場で右目を射抜かれたとき

「親からもらった目玉を捨ててたまるか!」

と叫んで、その場で右目を食べてしまった話は有名ですが・・・。

『自分が死んだら、一緒に棺におさめてほしい』・・・みたいな、そんなことを望んでいたわけではないみたいです。なんてったって、大隈さんが亡くなったあとも、右足はしっかりと保管されているのですから。

大隈重信も、親からもらった右足を、捨てるに忍びなかったのかもしれませんが・・・・。まさか「人に見せびらかすために、足を捨てずに保管した」わけではないでしょうね・・。

結構、そんなコワイ理由で、右足を保管していた可能性も、あるかもしれませんね。



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『大隈重信』について「ひとこと」言いたい!

大隈重信は、右足を自宅に保管し、それを客人に見せびらかすような人でした。しかし、たくさんの人から愛された人物でもあったようです。

大隈の葬儀には、「30万人」もの国民が参列し、別れを惜しみました。

ほぼ同時期に葬儀をおこなった「国軍の父」こと「山縣有朋(やまがた ありとも)」は、人もまばらで、さみしげな葬式でした。大隈重信が、どれほど国民から愛されていたのかがうかがえます。

「福沢諭吉」・・・・清廉潔白で有名な作家で批評家だった「福沢諭吉」は、当初「大隈重信」を批判していました。しかし顔をあわせて話してみると、福沢と大隈は意気投合。互いの家を行き来するほどの仲になりました。福沢諭吉からすすめられて「早稲田大学」の創設を決意したほどです。

大隈重信・・・ちょっと変わったところがあるものの、彼は非常に魅力あふれる人物であったのだと思います。

渋沢栄一は、大隈重信について、こんなことを言っています。

「あってみると学生みたいな気軽な人で、少しも『へだたり』を感じなかった」

大隈重信さんは、かなり人懐っこいお方だったのかもしれません。

それにしたって・・・足を保管して客にみせるとは・・・・。変人であったことだけは確かなのではないでしょうか。

 

西郷隆盛」・・・・こちらも清廉潔白で有名な「維新の英雄」。現在の日本において、トップレベルの英雄といえる人物です。実は「大隈重信」と「西郷隆盛」は、不仲で有名でした。清廉潔白な西郷隆盛からすると、「清濁併せ呑む(せいだくあわせのむ)」タイプ、つまり「いいところも悪いところもあわせ持つ」タイプの、「人間味」にあふれる「大隈重信」は、受け入れがたいものがあったのかもしれません。

大隈も西郷を苦手としていたようですが、ただ西郷の「人情味の厚さ」だけは、評価していました。

西郷とだけは不仲だった大隈・・・。とはいえ、大隈が「悪」なわけではなく、相性がよくなかっただけではないでしょうか。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「大隈重信」の右足は現在、佐賀県佐賀市「龍泰寺」という大隈重信のお墓がある菩提寺に保管されている
  2. 大隈重信は、1889年の「大隈重信遭難事件」で、爆弾により右足を失った
  3. 大隈は自分の右足をホルマリン漬けにして、自宅で保管。お客さんにみせて楽しんでいたらしい

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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こちらの記事でも「大隈重信」の「逸話」や「功績」が簡単に理解できるように、極めてわかりやすく解説させていただいております。


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