「大隈重信」の切断された「右足」と「義足」が、今どこにあるのか?この記事ですぐにわかる!
元・内閣総理大臣「大隈重信」
爆弾をつかった暗殺未遂事件により「右足」を失った話は有名です。
なぜ右足を切断するハメになったのか?
切断した右足を、客に見せびらかしていた逸話についてもご紹介します。
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この記事を短く言うと
- 「大隈重信」の右足は現在、佐賀県「龍泰寺」に保管されている。義足は「早稲田大学」と「佐賀市大隈記念館」にある
- 大隈重信は1889年「大隈重信 遭難事件」という暗殺未遂事件で、爆弾テロにより、右足を失った
- 大隈は、切断した右足を保管し、家に来たお客様に、右足を見せびらかしていたらしい
大隈重信の『右足』と『義足』は、今どこに保管されているの?
早稲田大学の創始者である元内閣総理大臣「大隈重信(おおくま しげのぶ)」。
その大隈重信の右足が、現在も保管されていることをご存知でしょうか?
結論から言いますと、大隈重信の「右足」は、現在「佐賀県」の「龍泰寺」という、大隈重信の菩提寺に保管されています。
「大隈重信の右足」は、1999年、この「龍泰寺」へ寄贈されたとのこと。
以前は「早稲田大学」に保管されており、誰でもみることができたとのことですが、今ではそう簡単に見ることはできないみたいですね。
大隈が使用していた「義足」であれば、「早稲田大学・大学史資料センター」と「佐賀市・大隈記念館」で見学することができるようですね。
なぜ右足を失ったのか?
大隈重信はどうして「右足」を失ったのでしょうか?
1889年10月18日、「来島恒喜」による「爆弾テロ」が発生。襲撃を受けた大隈重信は、暗殺されることはありませんでしたが、右足を負傷したのでした。
ドイツ人医師「エルヴィン・フォン・ベルツ」氏によって、右足切断の手術が行われ、大隈重信は一命をとりとめました。
このときから、大隈重信は「義足」を使って生活するようになったのです。
この事件は「大隈重信遭難事件」と呼ばれることになります。犯行の動機は、大隈重信が裁判に「外国人判事」を導入しようとし、それに「来島」が反対していたから。
大隈は何を思ったのか、その切断した右足を「ホルマリン」に漬けて、自宅で保管していたのだそうです。
大隈は、右足を「ホルマリン漬け」にして、客にみせていた!
右足を保管した大隈重信。どうやら自宅にホルマリン漬けで保管し、自宅に来た客にそれを見せびらかしていたのだとか。
一体どういう目的があって、そんなことをしたのか・・・。
修羅場をくぐった事実を自慢したかったのか?
それとも、客を驚かせて楽しんでいたいたのか?
歴史小説「三国志」に登場する、隻眼の猛将「夏侯惇(かこうとん)」が、戦場で右目を射抜かれたとき
「親からもらった目玉を捨ててたまるか!」
と叫んで、その場で右目を食べてしまった話は有名ですが・・・。
『自分が死んだら、一緒に棺におさめてほしい』・・・みたいな、そんなことを望んでいたわけではないみたいです。なんてったって、大隈さんが亡くなったあとも、右足はしっかりと保管されているのですから。
大隈重信も、親からもらった右足を、捨てるに忍びなかったのかもしれませんが・・・・。まさか「人に見せびらかすために、足を捨てずに保管した」わけではないでしょうね・・。
結構、そんなコワイ理由で、右足を保管していた可能性も、あるかもしれませんね。
『大隈重信』について「ひとこと」言いたい!
大隈重信は、右足を自宅に保管し、それを客人に見せびらかすような人でした。しかし、たくさんの人から愛された人物でもあったようです。
大隈の葬儀には、「30万人」もの国民が参列し、別れを惜しみました。
ほぼ同時期に葬儀をおこなった「国軍の父」こと「山縣有朋(やまがた ありとも)」は、人もまばらで、さみしげな葬式でした。大隈重信が、どれほど国民から愛されていたのかがうかがえます。
「福沢諭吉」・・・・清廉潔白で有名な作家で批評家だった「福沢諭吉」は、当初「大隈重信」を批判していました。しかし顔をあわせて話してみると、福沢と大隈は意気投合。互いの家を行き来するほどの仲になりました。福沢諭吉からすすめられて「早稲田大学」の創設を決意したほどです。
大隈重信・・・ちょっと変わったところがあるものの、彼は非常に魅力あふれる人物であったのだと思います。
渋沢栄一は、大隈重信について、こんなことを言っています。
「あってみると学生みたいな気軽な人で、少しも『へだたり』を感じなかった」
大隈重信さんは、かなり人懐っこいお方だったのかもしれません。
それにしたって・・・足を保管して客にみせるとは・・・・。変人であったことだけは確かなのではないでしょうか。
「西郷隆盛」・・・・こちらも清廉潔白で有名な「維新の英雄」。現在の日本において、トップレベルの英雄といえる人物です。実は「大隈重信」と「西郷隆盛」は、不仲で有名でした。清廉潔白な西郷隆盛からすると、「清濁併せ呑む(せいだくあわせのむ)」タイプ、つまり「いいところも悪いところもあわせ持つ」タイプの、「人間味」にあふれる「大隈重信」は、受け入れがたいものがあったのかもしれません。
大隈も西郷を苦手としていたようですが、ただ西郷の「人情味の厚さ」だけは、評価していました。
西郷とだけは不仲だった大隈・・・。とはいえ、大隈が「悪」なわけではなく、相性がよくなかっただけではないでしょうか。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「大隈重信」の右足は現在、佐賀県佐賀市「龍泰寺」という大隈重信のお墓がある菩提寺に保管されている
- 大隈重信は、1889年の「大隈重信遭難事件」で、爆弾により右足を失った
- 大隈は自分の右足をホルマリン漬けにして、自宅で保管。お客さんにみせて楽しんでいたらしい
以上となります。
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