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大隈重信の子孫を現在まで家系図でわかりやすく解説!隠し子の子孫がいた?

元首相で、早稲田大学の創設者「大隈重信」の「子孫」と「家系図」がひと目で分かる記事を用意しました。

「大隈重信」の「子孫」と「家系図」が、ひと目で分かる記事をご用意いたしました。

外務大臣や内閣総理大臣を何度も務めた政治家「大隈重信」の、子孫は現在も続いているのでしょうか?

実は、大隈重信の子孫と噂の人物が、あの「辻元清美」議員に選挙で敗れるも比例復活して、国会議員になっていた!

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 大隈重信は、養子を取ることで「大隈家」の家を残したが、大隈重信の血を引く子孫は、いないかもしれない
  2. 大隈重信の先祖は「菅原道真」だといわれている
  3. 妻「綾子」は、賢妻としてしられており、生涯にわたり夫を支え続けた

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目次

大隈重信の家系図!現在の子孫とは?

大隈重信(おおくま しげのぶ)

肥前藩(佐賀県)出身の政治家で、内閣総理大臣を2度、外務大臣を5度務めた人物です。

《大隈重信》
『引用元ウィキペディアより』

その大隈重信の家系図をご用意いたしました。

家系図

「恐れ入りますが、家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

大隈重信の現在の子孫

大隈重信の現在の子孫は、孫の孫にあたられる理紗さんという名前のライターさんがおられるようです。

大隈重信の実子は、表向きは「大隈熊子」のみとされています。

熊子の夫「英麿」を婿養子にしたものの、熊子と英麿は離婚。

実は、大隈にはもうひとり娘がいました。光子という娘です。

もう一度家系図をご覧いただきたいのですが、家系図では光子は、大隈の妻の兄の娘になっています。

表向き、光子は大隈重信の姪ということになっています。

しかし実際には光子は、大隈重信が女中さんに産ませた子なのです。

その後、光子と大隈信常という人物を結婚させて、その信常を婿養子とし、孫の「大隈信幸」が誕生。

その大隈信幸さんが、4人の娘を残しておられます。

これ以上の詳しい情報はわかりませんでしたが、おそらくこの「大隈信幸」さんの娘さんたちのお子さんが、今も続いておられるでしょう。

ちなみに、信幸さんの娘のひとりである和子さんのお嬢様の理紗さんという方が、ライターさんをしておられるとのことです。

理紗さんは、大隈重信の玄孫(孫の孫)にあたる子孫であり、血がつながった女系子孫です。

大隈重信の長女「熊子」の子供については情報がありません。

熊子さんは「関東大震災」のときに、数々の支援をしたことでも有名な人格者でした。

しかし、子供がいたという情報はなく、もしかしたら大隈重信の長女「熊子」さんの子孫は、すでに途絶えているかもしれません。

余談ですが、大隈信幸さんは2004年に亡くなられ、早稲田大学大隈講堂で、葬儀が行われたとのことです。



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大隈重信の子孫が国会議員になっていた?

自民党から立候補した国会議員の大隈和英さんは、大隈重信の子孫というキャッチフレーズで立候補したものの、実際には子孫ではなかったことで話題になりました。

以前、「大隈重信の末裔」というキャッチフレーズで、自民党「大隈和英」さんという人が、大阪から「衆議院選挙」に立候補していました。

この「大隈和英」さんは、あの「関西生コン事件」で大騒ぎになっている立憲民主党の議員「辻元清美」さんと同じ選挙区で立候補。

「辻元清美」さんに敗れたものの、「比例代表」として復活した人なのです。

実は「大隈和英」さん、「大隈重信」の末裔・子孫ではありません。

この「大隈重信の末裔」というキャッチフレーズは、自民党大阪府連が「大隈和英」さんに確認することもなく、勝手に付けたものだったのです。

これを聞いた大隈さんは驚きました。

そして実際には「末裔ではない」ということを説明し公表したのです。

どうやら「大隈和英」さんは、大隈重信と同じご先祖様をもつ同族。

しかし、大隈重信の先祖の代に枝分かれしたため、大隈重信と直接的な「先祖・子孫」の関係ではないみたいですね。



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大隈重信のご先祖様は、菅原道真なのか?

大隈重信は、自らのご先祖様について、「菅原道真」だと言っていたようです。

「菅原道真」といえば、9~10世紀頃に活躍した「右大臣」様です。

菅原道真
引用元Wikipediaより

菅原道真といえば、あの有名な藤原道長のご先祖さま「藤原時平ときひら」の罠で、九州・太宰府へ左遷されたお方です。

その「菅原道真」の子孫が、佐賀へ移動し、大隈重信までつながっているのだとか。

菅原道真は、左遷されたことで都から追い出され、失意のうちに死去。

その後は、怨霊となって政敵「藤原時平」たちを次々と死に至らしめたため、恐れられ、「学問の神」として祀られた人物。

京都の北野天満宮では、天神様としてまつられています。

京都・北野天満宮

福岡の太宰府と佐賀。

この二つの場所は、位置的にも近いので、もしかすると菅原道真が先祖という説は、可能性はあるのかもしれませんが・・・。

菅原道真が大隈重信の先祖である可能性は、現実的に考えると、低いのではないでしょうか。



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嫁「大隈綾子」は、超賢妻だった!

大隈重信は、生涯二度結婚しています。

一度目の妻とは、長女「熊子」が誕生したものの、その後離婚。

そして「大隈綾子」と再婚しています。

この「大隈綾子」という人が、かなりの賢妻だったようです。

「大隈を1人にすると必ず失敗する」

というのが口癖で、どこへ言ってもついていく。

「第二次松方正義内閣」への参加を呼びかけられたが、大隈は嫌がります。それを説得したのが「綾子」。一度嫌だと言ったら、テコでも動かないと言われていた大隈重信を、あっさりと説得した綾子は、評価を高めます。こののち大隈重信は、「外務大臣」として活躍することとなります。

また、夫が「大隈重信遭難事件」の爆破テロで右足を失ったときも、綾子は毅然と対処。その後は足を失った夫を、文字通り支え続けることになりました。

さらに、「佐賀の乱」で亡くなった大隈の盟友「江藤新平」の息子「江藤新作」や、綾子の従兄弟で幕臣の「小栗上野介」の子「国子」を引き取って育てています。

綾子は、1922年に大隈が亡くなると、その翌年にあとを追うようにして亡くなります。

大隈重信が亡くなり、まるで自らの役目が終わったかのような、そんな最期です。



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『大隈重信』について「ひとこと」言いたい!

大隈重信・・・・「早稲田大学」の創設者であり、元「内閣総理大臣」。

個人的には、政治家としてよりも、「教育者」としてのほうが、その功績は大きいと思います。

「福沢諭吉」をご存知でしょうか?

「早稲田大学」のライバル「慶應義塾大学」の創設者にして、教育者だったお方です。

実は大隈重信が「早稲田大学(東京専門学校)」の創設を決めたのは、福沢諭吉からすすめられたから。

早稲田と慶應、この2つの名門大学は、勉強やスポーツなど、各分野で切磋琢磨し、数えきれないほどの「人材」を世に送り出しています。

これからも、「早稲田大学」という名門は、数多くの人材を育成し、世の中に送り出していくことでしょう。

大隈重信の最大の功績は、早稲田大学を創設したことによる「大隈自身の死後も続く人材育成」なのではないでしょうか。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 大隈重信の子孫は、今も続いているが、実子の子孫は情報がなく、養子の家系が続いている
  2. 大隈の子孫というキャッチフレーズで立候補した「大隈和英」さんだが、それは本人が知らないところで広まった間違った情報だった。
  3. 大隈の妻「綾子」はとても賢く、常に夫「重信」を支え続けた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

これらの記事でも「大隈重信」の「逸話」や「功績」を簡単に理解できるように、極めてわかりやすく解説させていただいております。


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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

  • いちゃもんです
    先祖は菅原道真?の8行目

    福岡・博多の「太宰府」に違和感があります。

    • ご指摘をありがとうございます
      確認し次第修正いたします
      いつもありがとうございます

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