「嘉納治五郎」の「子孫」と「家系図」について、画像つきでわかりやすく解説いたします。
「柔道の父」「日本体育の父」と呼ばれた嘉納治五郎(かのう じごろう)さん。
彼の子供も孫も、柔道の達人だった!
嘉納治五郎さんの甥は、その世界では有名な、伝説のヤクザでした!
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この記事を短く言うと
- 嘉納治五郎さんの息子「履正」さんと、孫「行光」さんは、それぞれ「三代目」「四代目」の「講道館館長」として活動していた
- 「ひ孫」の女子二人は、現在「柔道」とは無関係な生活をなさっておられる
- 甥「嘉納健治」は、西日本で屈指の「興行ヤクザ」だった。元首相「若槻礼次郎」暗殺未遂、宝塚への妨害行為など、数々の逸話が残っている
- 「嘉納治五郎」先生は、柔道の達人で、現役のロシア軍人を投げ飛ばしたこともあるが、弟子である「西郷四郎」や「前田光世」のほうが強かったのではないか。格闘家としてよりも教育者としてのほうが、功績がある
『嘉納治五郎』の子孫と家系図
嘉納治五郎
「柔道の父」「日本の体育の父」と呼ばれた偉人「嘉納治五郎」先生。2019年の大河ドラマ「いだてん」の主人公「金栗四三」の師であり、金栗をストックホルムオリンピックへ送り出した人物です。
その「嘉納治五郎」先生の家系図を、以下にご用意いたしました。
嘉納家は、「酒造業」と「廻船業」で財を築いた名家で、あの「勝海舟」のパトロンに(後援者・支援者)もなったのだそうです。
嘉納治五郎先生が創立した「講道館」は、姉の息子である「南郷次郎」さんが二代目館長を務め、その後「館長」の座は、嘉納先生の息子「履正」さんと孫「行光」さんに受け継がれています。
上の家系図には記されていませんが、西日本屈指の興行ヤクザ「嘉納健治」は嘉納治五郎の甥に当たります。
息子も孫も、柔道の達人!ひ孫の女子二人は、柔道とは無関係!
嘉納治五郎さんと、その甥「南郷次郎」さんのあとを継いで「三代目・講道館館長」を務めたのが、治五郎さんの息子「嘉納履正」さん。
そして、その次に「四代目・講道館館長」を務めたのが、治五郎さんの孫「嘉納行光」さん。この「嘉納行光」さんは、2019年現在もご存命だそうです。
「履正」さんも「行光」さんも、ともに講道館館長を務めておられるということで、かなりの腕前だったことがうかがえます。
息子の「履正」さんは、父「治五郎」さんの意思を受け継ぎ、「柔道」を1964年「東京オリンピック」の正式種目にすることに成功しています。
ちなみに、治五郎さんの「ひ孫」に当たられる「行光」さんの娘二人は、現在「柔道」とは無関係な生活を送っておられるとのことです。
甥は『ヤクザ』の大物
嘉納治五郎先生には、「嘉納健治」という名前の甥がいます。どのような関係で「叔父・甥」の関係となっているのかが不明だったため、上の家系図には記しませんでした。どうやら「嘉納健治」さんは、「嘉納治郎右衛門」という方の息子さんらしいですが・・・。
「嘉納健治」といえば、密輸したピストルで訓練を積み、ピストルの名手として有名だった人。「ピス健」とあだ名された人物です。
彼は「興行ヤクザ」として活動し、西日本で行われる興行すべてに携わったと言われています。もしも嘉納健治の許可なく西日本で興行を行おうものなら、数々の妨害をされたのだとか。宝塚劇場の開設の際、挨拶がなかったことに怒り、数々の妨害行為をしたことは有名です。
また、1933年11月21日に上野駅で起きた「元首相『若槻礼次郎』暗殺未遂事件」の黒幕だったといわれています。その背景には、若槻礼次郎が全権をつとめた1930年の「ロンドン海軍軍縮会議」があります。この会議で、日本は軍艦の保有数を「イギリス・アメリカ」の6割に制限されました。嘉納健治はこの結果に強い不満を持っていたようです。ちなみにこの「海軍軍縮条約」、日本は1936年に脱退。のちの連合艦隊司令長官「山本五十六」らは、この「軍縮脱退」に大反対。その後、日本は「大東亜戦争」へと突き進むこととなります。
嘉納健治は「ボクシングトレーナー」としても有名で、現在の「日本ボクシング協会」の基礎を作ったお方でもあります。
どうやら「興行ヤクザ」としての一面は家族には秘密にしていたらしく、娘二人に対してはかなりの子煩悩。娘たちは父の武勇伝を耳にしても、簡単には信じられなかったとか。
当時はこういった方々も、今とは違って尊敬を集める存在だったのでしょう。現代の感覚で言えば、嘉納治五郎先生の甥だとは信じがたい感じもしてしまいますが・・・。
嘉納治五郎の『強さ』とは?小柄な身体で「ロシア軍人」を圧倒
「柔道の父」と呼ばれた嘉納治五郎ですが、彼個人の「強さ」とは、どれほどのものだったのでしょうか?
やはり「柔道の父」と呼ばれる「格闘家」としての嘉納治五郎先生の強さが、気になるところです。
実は「嘉納治五郎」先生個人の強さも、かなりのものだった可能性があります。
1891年1月、ヨーロッパから帰国する船の中で、ロシア人の軍人に戦いを挑まれて、彼を投げ飛ばしたというエピソードは有名です。この話は「読売新聞」に掲載されました。
現役の軍人を投げ飛ばしたということは、かなり強いということでしょう。特に、嘉納治五郎先生は、身長「158cm弱」と、かなり小柄だったと言われています。大柄なロシア兵を投げ飛ばしたということから、その技術の凄まじさがうかがえます。
しかもロシア人に挑まれたということは嘉納治五郎先生は、ロシアでも名の知れた、かなりの有名人だったと考えられます。
とはいえ、嘉納治五郎先生は、「教育者」として活躍したお方。
格闘家としての実力は、弟子たちのほうが優れていたのではないでしょうか。
例えば、「講道館四天王」と呼ばれた「西郷四郎」「横山作次郎」「山下義韶」「富田常次郎」。司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」にも登場した軍人「広瀬武夫」。グレイシー一族に柔道を教えた「コンデ・コマ」こと「前田光世」。
格闘家としての実力では、「嘉納治五郎」先生よりも、実績のある弟子たちのほうが上だったと思います。
しかし、弟子たちを自分よりも強い格闘家に育て上げたということは、嘉納治五郎先生が、教育者としてとてつもなく優れていたことを意味します。
嘉納先生の功績の大きさが、弟子たちの活躍からも、うかがい知れるのではないでしょうか。
『嘉納治五郎』について、「ひとこと」言いたい!
嘉納治五郎・・・言わずと知れた「柔道の父」。
柔道と聞くと、「グレイシー柔術」などに代表される格闘技「柔術」を思い出す方も多いかと思います。
「投げ技・締め技」が主体の柔道に対して、柔術は主に「締め技」を狙いながらの「ポジショニング」が重視されます。
嘉納治五郎さんが生きた明治の日本では、数々の柔術「流派」が存在していました。そんな中、嘉納治五郎さんが創始した「柔道」は、あくまでも「柔術」の流派の一つとみなされていたようです。
現在では柔道は、柔術とは違い、嘉納治五郎さんが生み出した流派一つだけに統一され、オリンピック種目にも選ばれるほど世界中で行われています。特にフランスでは人気。
オリンピック委員を務め、「柔道の父」だけでなく、「日本の体育の父」とも呼ばれた「嘉納治五郎」さん。
21世紀の柔道の隆盛を目にして、きっと喜んでおられることでしょう。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 嘉納治五郎先生は、勝海舟のパトロンをつとめた名家「嘉納家」の出身。嘉納家は元々「酒造業」「廻船業」で財を成した一族
- 治五郎先生の息子「履正」さんと、孫「行光」さんは、「三代目」「四代目」の「講道館館長」をつとめ、「履正」さんは1964年「東京オリンピック」で柔道を正式種目とすることに成功したお方
- 甥の「嘉納健治」は、興行ヤクザとして有名で、「宝塚への妨害行為」「元首相『若槻礼次郎』暗殺未遂」に関わったらしい。
以上となります。
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