島津久光と久光製薬の関係とは?花火や寺田屋事件のエピソードご紹介

薩摩藩主・島津忠義の父で、名君・島津斉彬の弟「島津久光」

「久光製薬」との関係とは?

島津久光の「花火」「寺田屋事件」のエピソードをご紹介致します


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この記事を短く言うと

・島津久光と「サロンパス」で有名な「久光製薬」は無関係

・廃藩置県に反対した「島津久光」は、「花火」で抗議した

・坂本龍馬襲撃の「寺田屋事件」とは別に、島津久光はもう一つの「寺田屋事件」を起こした


島津久光と「久光製薬」の関係

結論から言いますと、島津久光と「久光製薬」には、何の関係もありません。

幕末・鹿児島・・・島津久光

西郷隆盛大久保利通のような偉人を輩出した薩摩藩

西郷・大久保を見いだしたのは、「四賢侯」と呼ばれた、当時日本を代表する四人の名君の一人「島津斉彬」公

島津斉彬の跡を継いだのが、甥「島津忠義」公。

その島津忠義の父で、実質的に薩摩藩の実権を握ったのが、「島津斉彬」の弟で、忠義の父「島津久光」公。

久光は、後に「左大臣」という最高官位まで登り詰めた人物。

サロンパスで有名な製薬会社「久光製薬」と島津久光・・・何か関係があるのではないか?と言われています。

しかし、何の関係もありません。

久光製薬の創業者「久光仁平」と、島津久光は無関係。

久光製薬は、本社を佐賀県鳥栖市に置いており、同じ九州ではあっても、鹿児島とは繋がりはありません。

久光製薬の前身「小松屋」は、「1847年」に創業。

島津久光が生まれたのは「1817年」・・・同じ時代に生きてはいますが、接点はありません。


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「廃藩置県」に反対し、花火を打ち上げ

島津久光は、兄「島津斉彬」ほどの名君ではありませんでした。

どうやら「廃藩置県」に対して抗議のために、「打ち上げ花火」を連発したみたいです。

島津久光は西郷隆盛と仲が悪く、1862年・・・命令違反を理由に、島津久光は西郷を「島流し」にしています。

2年後、西郷隆盛は島流しから帰還し、大久保利通とともに「明治維新」を成し遂げました。

西郷と大久保は、新政府でともに「参議」として、政治改革に着手。

それは「士農工商」という身分制度を、破壊することにも繋がったのです。

廃藩置県」「廃刀令」など、藩主・武士の権限を否定する改革を断行。

それに強く反対したのが「島津久光」

特に廃藩置県については、先祖が勝ち取った領地を返納することになるため、大反対。

1871年7月14日に強行された「廃藩置県」

それにキレた島津久光は、抗議の意味を込めて、自宅の庭で夜通し「打ち上げ花火」を連発したと言われています。

しかし、明治維新の功労を認められていたため、表立って罰することはできませんでした。

とはいえ島津久光が、政治に携わる地位につけられることは、ありませんでした。

「寺田屋事件」

寺田屋事件・・・・「坂本龍馬」が襲撃された事件のことを「寺田屋事件」と言います。

しかし実は、坂本龍馬暗殺の4年前「1862年」にも、もう一つ「寺田屋事件」が存在します。

1862年、島津久光は「公武合体」という「朝廷と幕府」が協力する体勢を実現するために京都へ。

京都の朝廷に圧力をかけるため、軍を率いての上京でした。

「公武合体」を推進するために上京した久光・・・しかし周囲では「外国人を追い払うために軍を率いて京都へ来た」と勘違いされていました。

薩摩藩の攘夷・過激派は、久光に期待していました。

しかし久光は「過激派」を処分。

薩摩藩士、数名が処刑されました。

この「寺田屋事件」を経て、朝廷は島津久光を信頼するようになります。

そして島津久光はこの後、江戸へおもむき、幕府に対して「幕政改革(文久の改革)」を迫ります。

江戸に入った島津久光の圧力に屈し、結局幕府は安政の大獄で失脚させていた「松平春嶽」が政事総裁職に、「徳川慶喜」が将軍後見職として復帰する事となります。


島津久光と西郷隆盛の不仲の理由」について、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

↓↓↓↓↓


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・島津久光と「久光製薬」は無関係

・島津久光は「廃藩置県」に反対するため「花火」を利用した

・「寺田屋事件」で薩摩藩士を処分した「島津久光」は、後に「文久の改革」を実現した

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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コメント

  1. 通りすがり より:

    コメント失礼します。二点ほど誤りが見受けられます。

    一点目,坂本龍馬が暗殺されたのは寺田屋ではなく近江屋です。龍馬が襲撃される寺田屋事件は確かにありますが,そちらは深手を負っているものの生き延びています。お龍が裸で危機を知らせたという逸話があり,こちらも有名な事件ではありますが,暗殺されてはいません。

    二点目,和宮降嫁は1861年(婚儀は翌2月)で,久光が文久の改革を建白したのは1862年の夏です。ですので久光の幕政改革が和宮降嫁に繋がるというのは誤りです。幕府はもともと公武合体運動を行っていて,和宮降嫁はその具体策です。久光も確かに公武合体派として知られていますし,実際に公武斡旋には一役買っていますが,彼の行った文久の改革の主眼は,安政の大獄によって処罰されていた大名の赦免及び復権等です。

    • rekishiru より:

      貴重なご指摘をいただき、誠にありがとうございます!
      初歩的なミスに恥じ入るばかりです。
      心より御礼申し上げます。
      ありがとうございました。