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大久保利通の妻『大久保満寿子』の生涯!思わぬ運命に翻弄された最期

明治新政府の実質的な首相「大久保利通」の妻「大久保満寿子(おおくぼ ますこ)」について、その「生涯」と「最期」を、わかりやすく解説いたします。

「紀尾井坂の変(きおいざかのへん)」によって、突然破壊された幸福な生活。

その最期は、かなり悲しいものだったみたいです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

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この記事を短く言うと

・大久保満寿子は、内務卿(実質的な首相)大久保利通の妻

・満寿子は、大久保利通との間に「5人」の子供をもうけた

・大久保利通暗殺事件「紀尾井坂の変」から間もなく、満寿子は亡くなっている


大久保満寿子とは何者か?

大久保満寿子(おおくぼ ますこ)

維新三傑の一人にして、明治政府の実質的首相「内務卿」を務めた「大久保利通」の妻

《大久保利通》
『引用元ウィキペディアより』

満寿子は、薩摩藩士「早崎七郎右衛門」の次女

弟は後に海軍の将校となっています。

弟「早崎七郎」は海軍少佐。もう一人の弟「早崎源吾」は海軍少将となっています。

1857年に大久保利通と結婚。この時、大久保利通28歳。満寿子21歳。

どうやら満寿子は、祖父から囲碁を教え込まれ、その影響で祖父を相手によく囲碁を打っていたみたいです。

1990年の大河ドラマ「翔ぶが如く」では、国父「島津久光」に近付こうとする夫「大久保利通」に囲碁を教えていました。

2018年の大河ドラマ「西郷どん」では、初登場の時に「囲碁」を打っていました。

諸説ありますが、大久保利通は当初「島津久光」に取り入って出世するために、囲碁を学んだのだとか・・・・。(最新の定説では、もともと大久保は囲碁が好きだった。)

その後、本当に囲碁が好きになり、負けず嫌いで「囲碁」に負けたら露骨に不機嫌になった・・・と言われています。

大久保満寿子は、1874年に上京し、大久保利通と一緒に暮らし始めます。



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鹿児島での生活は地獄だった

明治維新後、大久保利通は「明治政府」のトップ、事実上の「首相」として政府を運営します。

大久保利通は東京へ行ってしまったわけですが、満寿子は子供達とともに、鹿児島に残って生活します。

この鹿児島での生活が地獄だった・・・。

なぜなら大久保利通が、鹿児島中の士族(元サムライ)から、めちゃくちゃ嫌われていたから。

大久保は「廃藩置県」「廃刀令」「秩禄処分」など、武士の特権を次々と奪い取る改革を強行していたので、鹿児島の士族から「裏切り者」「汚い奴」と考えられていたのです。

「明治維新に貢献した士族の特権を、次々奪い取る。こんな世の中をつくるために戊辰戦争を戦ったわけではない。

武士の特権を次々と奪う大久保は、ひどいやつだ」

ということです。大久保への恨みは、つい最近まで故郷「鹿児島」へ納骨がされなかったことからも、うかがいしれます。

満寿子は、士族たちから石を投げつけられたり、罵声を浴びせられたり、子供達の身にも危険が迫ったのでしょうね。

満寿子は子供達を連れて、1875年頃に、東京へ移住しています。



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大久保満寿子の子供達について

大久保満寿子と大久保利通の間には5人の子供がいました

「大久保利和」「牧野伸顕」「大久保利武」「石原雄熊」、外交官・伊集院彦吉の妻「芳子」

大久保満寿子の子供達は、ほとんどが政治家になっています。

長男「大久保利和」は、貴族院議員

次男「牧野伸顕」は、外務大臣

三男「大久保利武」は、内務官僚から貴族院議員

五男「石原雄熊」は、親戚である「石原家」へ養子に行って、昭和18年に亡くなっています。

(三男「利武」と五男「雄熊」の間には、妾「おゆう」が産んだ四男「大久保利夫」がいる。)

大久保利通が最もかわいがった唯一の娘・長女「芳子」は、後の外務大臣「伊集院彦吉」に嫁いでいます。

ちなみに次男「牧野伸顕」の娘「雪子」は、内閣総理大臣「吉田茂」の妻となっており、安倍晋三政権において財務大臣兼副総理「麻生太郎」へと繋がっています。

麻生太郎さんの妹は、皇室に嫁いでいるので、大久保利通の末裔は皇室にも繋がっているということになりますね。



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お妾さん「おゆう」

大久保利通には、「おゆう」という名前の妾さんがいました。

彼女は主に、京都・東京で大久保とともに生活していたようです。

彼女は京都で人気の「芸姑」さん。京都・祇園の有名店「一力亭」でつとめており、一力亭の主人「杉浦治郎右衛門」の娘、または養女だったといわれています。

つまりは「いいところのお嬢様」だったということ。

彼女は1866年頃から「夫婦」として生活を開始しています。明治維新の2年前から、二人は京都で生活を開始するわけです。

大久保と「おゆう」さんの間には、4人の子供がおります。

四男「大久保利夫」(軍人を目指すが、27歳で他界)

六男「大久保駿熊」(鳥取で農学校教師を務め、農業振興に尽力、42歳で他界)

七男「大久保七熊」(農学者として農業振興に尽力。1943年72歳で他界)

八男「大久保利賢」(ダルマ宰相「高橋是清」の娘と結婚。1958年80歳で他界)末っ子の「利賢」は、大久保利通が亡くなった後に誕生しています。

大久保は明治11年(1878年)に亡くなります。

おゆうさんはその40年後、大正7年(1918年)に亡くなります。

この頃、愛妾はそれほどめずらしいものではなく、正妻「満寿子」は「おゆう」さんの存在を知っていたみたいですね。

それほど大騒ぎにはなっていません。

まぁ、伊藤博文みたいに「人妻」に手を出しまくっている人に比べたら、大久保のように「愛妾」一人もつくらい、かわいいものだったのでしょう。

当時は「愛妾」「側室」など、愛人・一夫多妻は当然の時代でしたからね。



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おゆうが「江戸幕府」を滅ぼした?

この「おゆう」さんが「江戸幕府」を滅ぼし、「明治維新」を成功させたと言っても、過言ではありません。

なぜなら、おゆうのおかげで大久保は「鳥羽伏見の戦い」に勝利できたのですから。

「鳥羽伏見の戦い」とは、「薩長軍」対「幕府軍」の戦い。

しかし戦力差は圧倒的で、「薩長5000名」VS「幕府軍15000名」

幕府軍の総大将「徳川慶喜」は、これだけの戦力差があれば、薩長軍は戦わずに退却するだろう、と考えていました。

ところが大久保は、わずか5000の軍で、15000の幕府軍に戦いを挑んだのです。

当然、薩長軍は追いつめられます。

そんな時、薩長軍から「錦の御旗」がたてられました。

「錦の御旗」とは、「天皇の軍」であることを表す印。この「錦の御旗」に対する敵は「朝敵(朝廷の敵)」「逆賊」と呼ばれ、「天皇の敵」として認識されるのです。

「天皇の敵」となると、何がまずいのか?というと、「天皇の敵」=「日本中の敵」ということになるので、「天皇の敵」には、ほとんど勝ち目がないのです。

敗色濃厚だった「薩長軍」が「錦の御旗」で一気に逆転。「鳥羽伏見の戦い」は「薩長軍」の勝利で終わります。

流れを変えたのは「錦の御旗」。この「錦の御旗」がなかったら「明治維新」は起こらなかったでしょう。

諸説あるものの、この旗をつくったのが「おゆう」さんだと言われているのです。



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満寿子の最期!夫の後を追うかのように眠りについた

1877年、西南戦争で、大久保利通の盟友「西郷隆盛」が戦死。

1878年5月、大久保利通は、「紀尾井坂の変」で暗殺されます。

暗殺の時、大久保利通の懐には「西郷隆盛からの手紙」が入っていたとのこと。

大久保満寿子は、夫・利通が亡くなってから、体調を崩してしまいます。

そして、大久保利通が亡くなってから半年余り・・・1878年12月7日、夫のあとを追うようにして亡くなります。

大久保利通は、非常に子煩悩で、家族を大切にした人でした。そのため、満寿子の喪失感も半端じゃなかったのでしょうね。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・大久保利通の妻「大久保満寿子」・・・囲碁が得意だったという説がある

・大久保利通との間には「5人」の子供がいて、次男「牧野伸顕」は、総理大臣「麻生太郎」の曽祖父

・紀尾井坂の変で、大久保利通が亡くなると、半年余りで大久保満寿子も亡くなった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 大久保さんの命日に読ませてもらいました。京都にある旧邸がなくなるというニュースが京都の新聞のネットニュースに出ていたので時代の流れを感じつつ、麻生さんとかいまも子孫が頑張ってるんだなあと勉強になりました

    • この度は、当サイトをご利用いただき、誠にありがとうございました。
      また、貴重なコメントを頂き、心より感謝申し上げます。
      よろしければ、またぜひぜひ当サイトをご利用いただきたいと思います。
      本当にありがとうございます。

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