この記事では「今川義元と太原雪斎の関係」や「太原雪斎の功績」、そして「雪斎と徳川家康の関係」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「今川義元」と「太原雪斎」について、カンタンに理解できます。
「今川義元」と「太原雪斎」は「師弟関係」であり、「主君と軍師」の関係なのです。
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この記事を短く言うと
1,「今川義元」と「太原雪斎」は、どういう関係なのか?
「今川義元」と「太原雪斎」は、師弟関係であると同時に「主君」と「軍師」という関係でもあった
2,雪斎が残した「偉大な功績」とは?
雪斎は、「武田信玄」「北条氏康」とのあいだで「甲相駿三国同盟」を締結し、「信玄」「氏康」「上杉謙信」ら3人の名将を封じ込めた。
3,「太原雪斎」と「徳川家康」の関係とは?
雪斎は「家康」に英才教育を施した師。また、雪斎は「織田信秀」に人質として囚われた「家康」を、人質交換で救出している。
今川義元と【太原雪斎】は、どういう関係なのか?
「今川義元」と「太原雪斎」は、主君と軍師、という関係です。
同時に、「太原雪斎」は「今川義元」の師匠でもありました。
駿河・遠江の大名「今川氏親」の五男として誕生した「今川義元」は、兄弟が数多くいたために、家督争いを未然に防ぐ目的で、幼くして出家させられます。
【1522年】の頃、まだ「九英承菊(きゅうえいしょうぎく)」と名乗っていた「太原雪斎」は、一人の少年と出会います。
「芳菊丸(ほうぎくまる)」
この「芳菊丸」こそ、のちに「海道一の弓取り」と呼ばれることとなる名将「今川義元」です。
当時から「秀才」と評価されていた「太原雪斎」は、幼い「今川義元」の師匠として、その教育に力を注ぎ込みます。
京都の「建仁寺」「妙覚寺」、そして駿河「善徳寺」など、各地で修行していた「太原雪斎」と「今川義元」に、驚くべき知らせが届きます。
「今川義元の兄で、今川家の当主だった今川氏輝が急死」
この知らせを聞いた「太原雪斎」と「今川義元」は、今川家の家督を継承するために、異母兄「玄広恵探(げんこうえたん)」との骨肉の争いを開始するのです。
余談ですが、今川義元の兄「玄広恵探」は、「桶狭間の戦い」の直前に、「弟・今川義元に予知夢をみせた」という逸話で有名な人物です。
その「予知夢」については、以下のリンク記事で、くわしくご説明しております。
雪斎が残した偉大な功績とは?雪斎は、何をした人か解説
太原雪斎は、「今川義元」の軍師・参謀であり、「軍事・内政・外交」と全ての分野で能力を発揮。
「今川家」の最盛期を支えた、第一の功労者です。
その功績を、一覧で簡単にご紹介いたしますと、次のとおりです。もちろんこれらは、ごく一部に過ぎません。
- 今川義元の家督争い「花倉の乱」を勝利に導き、義元を今川家の当主にした
- 織田信長の父「織田信秀」の軍を、「第二次小豆坂の戦い」で撃破。
- 信長の兄「織田信広」を「安祥城の戦い」で捕縛。
- 「織田信広」との人質交換によって、織田家に囚われていた「松平竹千代(のちの徳川家康)」を救出。
- 甲斐「武田信玄」、相模「北条氏康」、駿河「今川義元」の三者で「甲相駿三国同盟」を締結させ、「信玄」「氏康」「上杉謙信」の動きを封じ込めた。
- 「松平竹千代」に英才教育をほどこし、のちの天下人「徳川家康」の土台をつくりあげた
「徳川家康に英才教育をほどこした」という功績はのちに解説しますが、雪斎が残した最大の功績は、「三国同盟」でしょう。
雪斎を軍師としていた「今川家」は、外交がとても上手でした。
鉄血宰相「ビスマルク」
19世紀に「ドイツ」の宰相として活躍したのが、鉄血宰相「ビスマルク」です。
当時混迷していたヨーロッパの情勢を、その卓越した外交手腕で沈静化させ、見事にヨーロッパのバランスをとった天才「ビスマルク」。
太原雪斎は、それにも負けない功績を残したと、筆者は思っています。
後世にその名を轟かせた名将の中の名将「武田信玄」と「北条氏康」を、同盟という外交で見事に封じ込めたその功績は、義元と雪斎の死後にも効果を発揮しました。
雪斎が亡くなった5年後に、今川義元が「桶狭間の戦い」で亡くなり、今川家は一気に弱体化。
三国同盟を一方的に破棄した「武田信玄」と、今川家を裏切った「徳川家康」が、共同で今川家を攻撃してきたのです。
しかし、雪斎が残した「三国同盟」の威力は死んでいませんでした。
「今川家」のもう一つの盟友「北条氏康」が、今川家に協力して、「武田信玄」「徳川家康」に対抗したのです。
弱体化した「今川家」でしたが、「三国同盟」のおかげで「桶狭間の戦い」から【9年】ものあいだ、名将「武田信玄」「徳川家康」の侵略を阻止し続けました。
「三国同盟」が締結されたのが【1554年】。その翌年【1555年】に、太原雪斎は亡くなっています。
しかし、今川家は「三国同盟の締結から15年」、「太原雪斎の死後14年」、「今川義元の死後9年」ものあいだ、瀕死でありながらも続いたのでした。
これは「太原雪斎」の大いなる功績といって良いのではないでしょうか。
太原雪斎と「徳川家康」の関係!雪斎は家康の「命の恩人」?
「太原雪斎」と「徳川家康」は、「師弟関係」であったという説があります。
それだけではなく、「太原雪斎」は「徳川家康」の命の恩人であるとも言えます。
「徳川家康」こと「松平竹千代」は、【1549年】に人質として囚われていた「織田家」から、太原雪斎による「人質交換」で救出されているのです。
松平竹千代はその後、太原雪斎から英才教育をほどこされ、エリートコースを進んでいきます。
そして【1555年】、太原雪斎は病死。そのとき「松平竹千代」は、数え13歳。
その後、「徳川家康」と名乗った「松平竹千代」は、雪斎から教えられたことを基礎として、天下人へと駆け上がっていくのです。
一説によると、太原雪斎は「徳川家康を教育などしていない」と言われているのだそうです。
家康が駿府にいた頃、太原雪斎は駿府にいなかったのだそうです。
ただ、薫陶を与えるくらいのことは、遠隔地からの手紙でも可能です。
実際、「上杉謙信」は養子の「上杉景勝」に対して、手習いのための手紙を送っています。
「今川義元」は「徳川家康」を、息子「氏真」の家来にしようとしていました。
そのため、「徳川家康」は義元の姪を妻として与えられ、鎧も与えられ、英才教育もほどこされたのです。
雪斎はおそらく、自分の後継者として、徳川家康を「今川氏真」の軍師にしたかったのではないでしょうか。
家康には、それだけの見どころがあったのでしょう。
雪斎が亡くなった「その後」。雪斎が生きていたら「桶狭間の戦い」で義元は死ななかった?
「桶狭間の戦いのとき、太原雪斎が生きていたら、今川義元は死なずに済んだのではないか」
という説を唱える方がおられます。
筆者も、「雪斎が生きていたら、今川義元は死なずに済んだ」と思っています。
理由は簡単です。
もしも雪斎が生きていたら、「今川義元」自身が出陣するのではなく、雪斎を総大将にして、織田信長と戦っていた可能性が高いからです。
「織田信長が負けていた」とは申しませんが、もしも「雪斎」が「信長」に敗北したとしても、問題はありません。
今川義元が生きていれば、今川家が崩壊することはなかったはずなのですから。
「今川家は雪斎がいなくては、まわらない家だった」
後年、徳川家康はこう言っているのです。
雪斎が生きていたら、「桶狭間の戦い」で、織田信長が勝利し、大国【駿河】が衰退することはなかったはずです。
となれば、のちの織田信長の快進撃もなかったはず。
雪斎が「桶狭間の戦い」まで生きていたら、信長の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
「太原雪斎」と「今川義元」の凄さ、活躍を、カンタンに学べる「名作マンガ」をご紹介
「センゴク」というマンガをご存知でしょうか?
豊臣秀吉につかえた猛将「仙石秀久」を主人公にした、人気漫画です。
この「センゴク」というマンガの作者が、「センゴク外伝~桶狭間戦記~」というマンガを描いています。
主人公は「今川義元」、そしてそれを支えた「太原雪斎」もメインキャラクターとして活躍しているのです。
この作品は、「今川義元」が生まれて、「桶狭間の戦い」で戦死するまで、その生涯を描いた作品です。
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楽しみながら「今川義元」「太原雪斎」の生涯を学ぶには、もっとも良いものだと思います。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「今川義元」と「太原雪斎」は、師弟。同時に「主君」と「軍師」という関係でもあった
2,雪斎は、「武田信玄」「北条氏康」とのあいだで「甲相駿三国同盟」を締結し、「信玄」「氏康」「上杉謙信」ら3人の名将を封じ込めた。
3,「雪斎」と「徳川家康」に英才教育をほどこした師にあたる
以上となります。
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ありがとうございました。
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