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【今川義元の評価】義元は最強の武将だった!軍事・内政・外交の実績

この記事では「今川義元の真の評価と能力」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

「桶狭間の戦い」で、あっけなく敗北した「今川義元」が、近年「再評価」されています。

 

ですが「公家の衣装にお化粧・お歯黒、というイメージの今川義元は、本当にスゴイのだろうか?」と、疑問に思ったことはありませんか?

 

これを読めば「戦国時代の当時、今川義元がどのように評価されていたのか」、そして「今川義元が残した実績」を、カンタンに理解できます。

 

実は「今川義元」は、「武田信玄」「上杉謙信」「織田信長」「毛利元就」などの名将たちと、同等に評価されていた名将なのです。


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この記事を短く言うと

 

1,戦国時代の名将「朝倉宗滴(あさくら そうてき)」は、「織田信長」や「武田信玄」「上杉謙信」とならんで、「今川義元」を名将として高く評価していた。武田信玄も、今川義元を極端に恐れていた。

 

2,今川義元は、「寄親・寄子制度」や「仮名目録追加」、そして「三国同盟」などで「軍事・内政・外交」のすべてで実績を残している。名将と呼んで良い人物だった。

 

3,今川義元は、当時「中堅企業」でしかなかった「今川家」を、「日本屈指の大企業」へと急成長させた戦国時代屈指の名君だった

「今川義元」真の評価とは?戦国時代で最強の武将だった!

今川義元は、戦国時代最高クラスの「名将」であったと思います。

越前国の大名「朝倉義景」の親戚で、名将としての評価が高かった「朝倉宗滴」は、今川義元を高く評価していました。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

「朝倉宗滴話記」という、朝倉宗滴が残した書の中には、こんなことが書かれています。

「国持ち大名のなかで、人使いが上手な者はこの6名だ。良い手本となる人たちである。」

すなわちその6名とは、以下の武将たちです。

  1. 武田晴信(武田信玄)
  2. 織田信長
  3. 三好長慶
  4. 長尾景虎(上杉謙信)
  5. 毛利元就
  6. 今川義元


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武田信玄は「戦国最強」と恐れられた名将

織田信長は「戦国の覇者」

三好長慶は「畿内周辺11カ国」を支配した、織田信長より前に君臨していた事実上の天下人

上杉謙信は「軍神」と呼ばれた戦争の天才

毛利元就は「謀神(はかりがみ)」とまで呼ばれた智将で、中国地方の覇者

 

後世に「名将」と評価される人たちばかりです。

 

彼らと並び、「今川義元」は「名将」として、評価されていたのでした。

 

この「朝倉宗滴」という武将は、かなり人を見る目のあったお方でした。

 

1555年】、「桶狭間の戦い」が起こる5年前に、朝倉宗滴はこの世を去っています。

 

その時、宗滴はこんなことを言っています。

「あと3年生きて、織田信長がどこまで成長するのか、その先を見たかった」

 

さらに「宗滴」は、「今川義元」について、こんな事を言っています。

「今川義元は、三河・遠江・駿河を領有している。

よい家来も多くいる。

織田信長の支配する尾張国へ攻め込むなら、集められる動員兵力2万くらいだろう。

しかし、義元の息子・今川氏真は、歌会やら茶会やらと、遊び呆けているらしい。

これでは今川家の未来は、危ないだろうな」

まるで「桶狭間の戦い」とその後の今川家の没落を予言しているようです。

 

「宗滴」の洞察力と予測能力は、人並み外れて優れていたのです。



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これほど優れた洞察力をもっている名将「朝倉宗滴」が、「今川義元」を「武田信玄」や「上杉謙信」「織田信長」と並ぶ名将であると言っているのです。

 

今川義元は、当時から「名将」として恐れられていたのでしょう。

 

実は「武田信玄」も、今川義元を恐れていました。

 

今川義元が生きている間は、決して敵対関係にはならないように注意していたのです。

 

しかし、義元が亡くなると、恐れるものが無くなったとばかりに、駿河へ進行しています。

 

「武田信玄」も恐れさせた今川義元。

 

「最強の武将」と言ってもよかったかもしれません。



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今川義元の実績を軍事・内政・外交から検証してみた

今川義元は、当時から名将として評価されていました。

 

ではなぜ評価されていたのでしょうか?

 

それはもちろん「今川義元」が、数々の「実績」「業績」を出した人だったからです。

 

それでは「今川義元」の「実績」を

  • 軍事
  • 内政
  • 外交

という3つの点から検証したいと思います。



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軍事

今川義元は「寄親・寄子(よりおや・よりこ)」という制度を取り入れました。

 

「寄親・寄子」とは、簡単に説明すると、「各地域に寄親という管理者を任命し、その地域に根づいて生活する者たち(寄子)を統括させて、兵役などを請け負わせる制度」のこと。

 

つまり「今川義元」から「寄親」として指名された者は、寄親が支配する地域から「寄子」と呼ばれる者たちをひきいて、戦争に参加しなくてはいけなかったわけです。

 

これにより、今川家の領内における「最大動員兵力」は飛躍的に増大しました。

 

通常「2万人弱」の兵力しか動員できないはずの「駿河・遠江・三河」の三カ国ですが、この制度のおかげで「約2万5千」を集めることができたのです。

 

軍事において、「今川義元」の手腕が見事に成功していたということです。

 

ただ、今川義元自身が「戦上手だったか」というと、「戦争に勝利した」という実績がほとんどないと言えます。

 

「花倉の乱」や「第二次小豆坂の戦い」など、今川義元が参戦した戦はいくつかありますが、そのほとんどが軍師「太原雪斎」によって行われています。

 

ちなみにどちらの戦いも、太原雪斎の活躍によって勝利しています。



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内政

義元は、自らの領内で「検地」、つまり「土地の生産能力の調査」を実施しています。

 

これにより、どれほどの生産力が見込めるのか正確に予想できるようになりました。

 

それにあわせて、土地開発なども行われていたと考えられます。

 

また、「金山」の開発にも積極的で、その収入は莫大なものとなっています。

 

さらには「東海道」という、幹線道路とそれに並行する「海路」を利用して、物流を活性化

 

駿河を中心とする東海道は、これによりとても豊かになりました。

 

また義元は、父「今川氏親」が定めた「今川仮名目録」という法律に、「仮名目録追加」という法律を追加しています。

 

これによって「幕府の配下である守護大名」から、今川家は完全に独立。

 

いわゆる「守護大名」から「戦国大名(独立勢力)」へと、完全に移行しています。

 

「今川仮名目録」と「仮名目録追加」によって、駿河は「法で治められる国」として、極めて優れた支配体制をつくり上げたのです。



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外交

今川義元は外交についても、優れた手腕を発揮しています。

 

関東の「北条氏康」と争っていたときに、北関東を支配していた「山内上杉家」と同盟を締結

 

これにより、「山内上杉家」と「今川家」が、「北条氏康」を挟み撃ちにする形ができあがり、北条氏康を危機に陥れています。

 

「河越夜戦(かわごえやせん)」

 

「桶狭間の戦い」と「厳島の戦い」、この二つと並ぶ「日本三大奇襲戦」の1つがこの「河越夜戦」です。

 

北条氏康は、山内上杉家の当主「上杉憲政」がひきいる8万の大軍団を、わずか数千で撃破。

 

これで事実上、「今川義元」と「山内上杉家」の挟み撃ちは崩壊します。

 

すると「今川義元」は、軍師「太原雪斎」を通じて「北条氏康」「武田信玄」と「甲相駿三国同盟」を締結

 

これで今川家は、背後に位置していた強敵「武田信玄」と「北条氏康」を封じ込めることに成功します。

 

さらには、「武田信玄」「北条氏康」の共通の敵である「長尾景虎(上杉謙信)」をも封殺することに成功

 

この外交成果は、天才軍師「太原雪斎」によるところが大きいです。

 

そうであったとしても、「太原雪斎」を使いこなして三国同盟を締結させた今川義元の手腕は見事であったと言えます。

 

以上、軍事・内政・外交のどれにおいても、今川義元は優れた能力を発揮していたと言えます。

 

義元の実績をまとめると、以下のとおりです。

  1. 「寄親・寄子制度によって、今川家の軍事力を増大させた」
  2. 「太原雪斎をつかって、花倉の乱・第二次小豆坂の戦いなどに勝利した」
  3. 「検地・金山開発・商業振興・仮名目録追加などで、内政を安定させ、領内を平穏に支配し、豊かにした」
  4. 「山内上杉家との同盟、甲相駿三国同盟など、外交によって有利な状況をつくり上げた」


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今川義元という武将の「真の凄さ」

今川義元という武将の「真の凄さ」とは、すなわち「今川家を日本屈指の勢力に押し上げた」ことにあると思います。

 

今で例えるなら、「老舗の中堅企業を、日本屈指の大企業へと成長させた」ということです。

 

もともと今川家は、足利将軍家の分家「吉良家」のそのまた分家でした。

 

格式は高いものの、「駿河・遠江」2カ国の守護大名でしかなかったのです。

 

守護大名・・・・すなわち「内政」や「税金徴収」をおこなう支配権はあるものの、「軍事」と「外交」の権利は持たない、あくまでも「足利将軍家」から任命された、いわゆる「雇われ店長」のような身分だったのです。

 

ところが義元は、その「雇われ店長」という立場から、あらゆる改革を行い「戦国大名」へと変貌を遂げます。

 

「守護大名」を「雇われ店長」と例えるなら、「戦国大名」は「内政」や「税金徴収」の権利だけではなく、「軍事」「外交」も行うことができる「独立国家」、つまり「誰からの支配も受けない企業の社長」と言えます。

 

義元は、「今川家」を「足利家の部下」から事実上独立させたのです。

 

そして領地も拡大しています。

 

「駿河・遠江」の2カ国から、「駿河・遠江・三河・尾張の一部」の3カ国+1へと飛躍を遂げたのでした。

 

当時の今川家は、事実上の天下人だった「三好長慶」を除けば、日本屈指の勢力を誇っていました。

 

義元は、弱小企業「今川家」を、日本トップクラスの大企業へと急成長させたのです。



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今川義元の天才軍師「太原雪斎」!「雪斎」が生きていたら、歴史が変わっていたのか?

今川義元の軍師「太原雪斎」がもしも生きていたら、「今川義元」は「桶狭間の戦い」で死ななかった、という説もあります。

 

もしも雪斎が生きていたら、義元は死なずに済んだのでしょうか?

 

雪斎は、外交・内政だけではなく、僧侶でありながら「軍事」でも優れた能力を発揮していました。

 

「第二次小豆坂の戦い」では、猛将「織田信秀」がひきいる織田軍団を、見事に撃破しています。

 

このように、雪斎は今川義元の代わりに軍をひきいて勝利をおさめることが、数々あったのです。

 

まるで「織田信長」が、「明智光秀」「羽柴秀吉」「滝川一益」「柴田勝家」に軍を任せ、自分は出陣せずに、各地で勝利をおさめていたように。



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もしも雪斎が生きていたら、今川義元を駿府に留守番させて、代わりに雪斎が大将として「織田信長」と戦っていたかもしれません。

 

そうなれば、たとえ敗北しても、今川義元は生存することとなるので、その後の今川家の没落はなかったはず。

 

雪斎は、「桶狭間の戦い」で今川義元が亡くなる5年前の【1555年】、突然亡くなっています。(おそらく病死)

「今川家は、雪斎がいなくては、国政が上手く回らない家だった」

徳川家康は、のちにそう言ったとされています。

 

雪斎が生きていたら、もしかすると、その後の「織田信長」の飛躍もなかったかもしれません。



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名将「今川義元」について、もっと知ることができる人気マンガ「センゴク」

センゴク外伝~桶狭間戦記~」というマンガをご存知でしょうか?

「今川義元」と、その師「太原雪斎」を主人公にした、今川義元の一生を描いた作品です。

 

人気漫画「センゴク」の作者「宮下英樹」氏の作品です。

 

「今川義元」「太原雪斎」の凄さが、簡単に面白く理解できる作品なので、大変おすすめです。

 

また、当サイトでも「今川義元のすべて」を、簡単に短めに、わかりやすく解説した記事がございます。

よろしければ、ご利用くださいませ。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,名将「朝倉宗滴」は、「信長」「信玄」「謙信」とならんで、「今川義元」を高く評価していた。信玄も、義元を極端に恐れていた。

 

2,義元は、「寄親・寄子」、「仮名目録追加」、「三国同盟」などで「軍事・内政・外交」のすべてで実績を残している名将だった

 

3,今川義元は、「中堅企業」でしかなかった「今川家」を、「日本屈指の大企業」へと急成長させた、名君だった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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