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今川義元の家紋を画像つき解説!義元は「汚れ落とし」を家紋にした

この記事では「今川義元の家紋」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

これを読めば「今川義元がつかっていた家紋の画像」を、カンタンに手に入れられます。

「今川義元」が使っていた家紋は3つ。「二つ引両」「赤鳥」「五七花桐」です。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,今川義元は、「二つ引両」「赤鳥」「五七花桐」という3つの家紋を使っていた

 

2,「赤鳥紋」は、元々は「垢(あか)取り」、つまり「汚れを落とす櫛」を描いた家紋

 

3,今川氏は、元々「室町幕府」を開いた「足利尊氏」の分家にあたる家なので、「足利将軍家」から、足利家の家紋である「二つ引両」の使用を許された

 

「今川義元の家紋」を画像付きで、まとめて紹介!

今川義元が使ったと言われている家紋は3つ。

  1. 「二つ引両」
  2. 「赤鳥」
  3. 「五七花桐」

この3つです。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

 

家紋の画像引用は、画像の下にある「ウィキペディア」のリンクより行なえます。

二つ引両

《二つ引両》
「引用元ウィキペディアより」

 

赤鳥

《今川氏家紋》
【赤鳥紋】
「引用元ウィキペディアより」

 

五七花桐

(以下の家紋は「五七花桐」ではなく「五七桐」です。この二つの家紋は、似ているものの、すこし異なっています。適切な画像をご用意できず申し訳ありません。「五七桐」は豊臣家の家紋です。)

《五七桐紋》
「引用元Wikipediaより」

 



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「二つ引両」とは、「足利尊氏」が開いた「室町幕府」の将軍家「足利家」の家紋です。

 

今川家も「足利将軍家」と同じ「二つ引両」の家紋を使っていたわけです。

 

この家紋の二本線は、「龍」を表していると言われています。

 

 

「赤鳥(あかとり)紋」は、今川義元の「馬印」にも使われているデザインです。

 

櫛(くし)のような形なのに、どうして「赤鳥」なのでしょうか?

 

詳しくは、次の項目で解説します。

 

 

「五七花桐」の家紋。

 

「桐紋」は、とても縁起の良いもので、「日本十大家紋」の1つに数えられます

 

「室町幕府」の家紋であり、「豊臣家」も「桐紋」を使用していた縁起物ですね。

 

現在では「日本国政府」の紋章として、「桐紋」が使用されています。

 

「桐(きり)」は、伝説の神獣「鳳凰が棲(す)む」と言われています。

 

「「足利尊氏」は、主君「後醍醐天皇」から「五七桐紋」をもらって使用したのでした。

 

今川家は「足利尊氏」から、この「五七桐紋」の使用を許されたというわけです。

 

「五七桐紋」は、当時たくさんの家で使われていたため、「五七花桐」へと改造して、区別できるようにしたのでしょう。



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「赤鳥紋」の由来!実は「垢(あか)」を取るためのものだった

今川義の家紋といえば「赤鳥紋」が有名です。

 

「赤鳥紋」

 

「赤い鳥」と書いているわりには、実はそれほど美しい形ではないですね。

 

しかも、「赤い鳥」という名前のはずが、どう観ても櫛(くし)です。

 

もしくは、馬につける「鞍」、その鞍と馬のあいだに挟む「ブランケット」を模したものが、この「赤鳥」の家紋と考えられています。

 

実はこの「赤鳥紋」は「馬の汚れを落とすためのもの」が、デザインの基となっているのだとか



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「赤鳥」とは、すなわち「垢(あか)取り」。

 

「垢(あか)を取るための櫛(くし)」が、この「赤鳥紋」なのです

 

今川家の初代当主「今川範国(のりくに)」が、1337年に駿府浅間神社に参拝したところ「赤い鳥とともに戦え」という、神のお告げを聞いたのだとか

 

もともと「今川家」の家紋は「垢取り」だったので、「赤鳥」と書いて、その後も代々今川家の家紋として利用していたのでしょう。

 

「赤鳥とともに戦う」なんて、かなりかっこいい逸話ですが、実際には「汚れ落とし」の「垢取り」が基となっているのですね。



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今川家の家紋「二つ引両」と、室町幕府「足利将軍家」の関係

今川家は、元々「足利尊氏」の先祖である「足利義氏」の家系です。

 

足利尊氏の先祖にあたる「足利義氏」の息子「長氏」が、「吉良家」という「足利家の分家」を起こしたのです。

 

その「吉良家」のさらに分家が「今川家」です。

「足利が絶えたら吉良家から将軍をたてよ

吉良家が絶えたら今川家から将軍をたてよ」

足利将軍家には、こういう言い伝えがあったのです。

 

徳川将軍家が後継者を出さなかったら「尾張徳川家」または「紀伊徳川家」から将軍を出すように、と「徳川家康」は遺言しました。

 

そのため、徳川家康の直系であった7代将軍「徳川家継」が亡くなると、「紀伊徳川家」から「徳川吉宗」が「八代将軍」となったのでした。

 

それと同じように、「足利将軍家」が後継者を出せなかったら、吉良家・今川家から将軍がたてられる予定になっていたわけです。

 

今川家は足利家の分家の分家であり、「足利尊氏」にしたがって戦った武士「今川範国」には、多大な功績があったのです。

 

そのため「今川家」は、「足利家」の家紋「二つ引両」を使うことを許されたのでした。

 

今川家が「二つ引両」の家紋を使っていたのは、「足利家の一族」であることをアピールし、自らの格式と権威を知らしめようとしたのでしょう。



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もしも「今川家」が天下を取っていたら、「今川義元」が「征夷大将軍」になって幕府開いていた

「桶狭間の戦い」で「織田信長」に敗北した今川義元。

 

4万もの大軍団をひきいて尾張国へ出陣した今川義元は、わずか2千の軍団をひきいた織田信長に敗死したのでした。

 

最近では、この「桶狭間の戦い」にいたるまでの今川義元の遠征軍は

「尾張国を服従させるためだけに、今川義元は4万の軍を率いて出陣した」

と考えられています。

 

しかし以前は「尾張国を滅ぼしたあとは、その4万の軍団で、そのまま京都を制圧しようとしていた」と考えられていました。

 

現実的に考えて、4万の軍で一度に京都まで行けるとは思えません。

 

だが、今川義元が京都を目指していたことは事実です。

 

「武田信玄」「北条氏康」を、三国同盟の締結で封じ込めていた「今川義元」は、確実に京都を制圧する野望を持っていました。

 

もしも「今川義元」が「桶狭間」で死ななかったら、もしかすると「征夷大将軍」になって「幕府」を開いていたかもしれません。

 

「足利が断絶したら吉良家が、吉良家が断絶したら今川家が将軍となる」

 

足利将軍家から、今川家はこのように言われていたので、この言い伝えを根拠として、今川義元は自ら将軍となったはずです。

 

当時は、13代目の「足利義輝」が将軍でした。

 

しかし「足利義輝」には、なんの力もなく、「三好長慶」や「細川晴元」に何度も京都から追い出されていた有様です。

 

そのため、何かしらの口実を見つけて、今川義元は自ら将軍となって「室町幕府」を乗っ取っていたのではないでしょうか。

 

弱体化した「室町幕府」なら、乗っ取りなど簡単です。

 

実際「足利義輝」は、【1565年】に「三好三人衆」「松永久通」によって暗殺されて、事実上乗っ取られているのですから。

今川義元は、「三好三人衆」のように、「暗殺」という強硬手段は使わなかったでしょう。

 

けれど、何かしらの言いがかりをつけて、「征夷大将軍」の位を奪っていただろうと考えられます。

「家紋ステッカー」

以下のリンクで、「家紋ステッカー」が取り扱われています。

くれぐれも、サイズ確認をお忘れなく。

 


 


 

その他にも、数々の家紋ステッカーを取り扱われているようですね。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,今川義元は、「二つ引両」「赤鳥」「五七花桐」を家紋として使っていた

 

2,「赤鳥」の家紋は、元々は「垢取り」、つまり「汚れを落とす櫛(くし)」を描いた家紋だった

 

3,今川氏は、「足利尊氏」が生まれた「足利家」の分家にあたる家であり、「足利将軍家」から、足利家の家紋「二つ引両」の使用を許された

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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