今川義元「ゆかりの地」と「城」を地図でご案内!生誕地と最期の地

この記事では「今川義元ゆかりの地・城」について、「マップ・地図」付きで、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「義元ゆかりの地」へ、迷わずカンタンに行くことができます。

 

「今川義元ゆかりの地」は「駿府城公園」「臨済寺」「桶狭間古戦場公園」などがあります。


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,今川義元「ゆかりの地」としては、「臨済寺」「駿府城公園」「桶狭間古戦場公園」などがある

 

2,今川義元「ゆかりの城」は、「駿府城」「沓掛城」など

 

3,義元が亡くなった「桶狭間の戦い」の古戦場は、現在「桶狭間古戦場公園」として整備され、「織田信長の像」とともに「今川義元の像」が建てられている

今川義元「ゆかりの地」一覧!

「桶狭間の戦い」で「織田信長」に討ち取られた武将「今川義元」。

 

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

その「今川義元」ゆかりの地を、一覧でご紹介いたします。

 

  • 臨済寺
  • 駿府城公園
  • 増善寺
  • 竜雲寺(龍雲寺)
  • 富春院
  • 大聖寺
  • 岸和田城・三の丸神社
  • 桶狭間古戦場公園
  • 高徳院

スポンサーリンク


「ゆかりの地」を、地図でご紹介。

 

「臨済寺」

今川氏の菩提寺。

今川義元の墓がある。

義元の師匠であり軍師でもある「太原雪斎」の寺。

この寺で、徳川家康は修行し、「太原雪斎」からの教えを受けたとされる。

 

「駿府城公園」

今川義元の居城。

義元が本拠地を置いていた時点では、「今川館」と呼ばれ、天守閣を備えた城郭ではなかった。

のちに徳川家康により本拠地とされ、そのときに天守閣がつくられた。

「徳川家康」最期の地でもある。

 

「増善寺」

今川義元の父「氏親」の菩提寺であり、お墓があるお寺。

氏親の木像が安置されている。

ここには「今川義元」が発給した文書が保管されている。

通称「増善寺文書」。

定期的に公開されている。

 

「龍雲寺」

「女大名」とよばれた女傑、今川義元の母「寿桂尼」の墓所。

近年の研究では、「寿桂尼は今川義元の実母ではなく養母」といわれている。

 

「富春院」

今川義元の位牌がまつられているお寺。

また、近年では今川義元の「慰霊塔」が建立された。

 

「大聖寺」

今川義元の「肖像画」が保管されているお寺。

また、義元の「胴塚」がこの寺に残されている。

 

「岸和田城・三の丸神社」

今川義元の首を織田信長から奪還した猛将「岡部元信」の一族「岡部宣勝」の城。

岡部元信が「義元の首」とともに奪還した「今川義元の鉄兜」が保管されている。

 

「桶狭間古戦場公園」

言わずと知れた「今川義元・最期の地」。

現在は公園として整備され、「織田信長」「今川義元」の像がある

 

「高徳院」

今川義元が戦死した地「桶狭間古戦場公園」のとなりに位置するお寺。

今川義元のお墓や石碑、今川義元とともに桶狭間で最期まで戦った「松井宗信」の墓碑がある

 

 


スポンサーリンク


今川義元ゆかりの「城」一覧!

今川義元「ゆかりの城」を、一覧でご紹介します。

 

駿河

  • 今川館(のちの駿府城)
  • 賤機山城(しずはたやまじょう)
  • 持船城 (関口親永居城)
  • 田中城
  • 大宮城

 

遠江

  • 掛川城
  • 高天神城
  • 二俣城
  • 犬居城
  • 曳馬城
  • 宇津山城

 

三河

  • 吉田城
  • 田原城
  • 岡崎城
  • 安祥城

 

尾張

  • 沓掛城
  • 大高城
  • 鳴海城

スポンサーリンク


一覧でご紹介した「城」のうちで、主要な「城」を、地図付きでご紹介します。

 

駿府城(駿河)

今川義元の居城。

とはいえ、天守閣をもつ城郭としてつくられたのは、今川義元の死後。

徳川家康の居城となって、巨大な城郭となった

家康が本拠地とするまでは、「今川館」と呼ばれていた

 

花倉城(駿河)

今川義元の兄「玄広恵探(げんこうえたん)」が籠もった城。

義元の兄「氏輝」が亡くなったあと、義元と「玄広恵探」の間で「花倉の乱」という家督争いが勃発。

「玄広恵探」は「花倉城」に籠城したが、敗北し自害した。

 

田原城(三河)

「竹千代」、つまり幼い頃の「徳川家康」を誘拐し、織田信秀に差し出した武将「戸田康光」の居城。

激怒した今川義元は、戸田家の本家とともに原田城を攻撃し滅ぼした。

「戸田康光」が「竹千代」を織田家へ差し出したことで、竹千代は「織田信長」と出会うことになる。

 

岡崎城(三河)

徳川家康の生誕地。

三河松平家の居城。

竹千代を人質として預かった今川義元は、この「岡崎城」に城代を置き、三河国の支配体制を強めていった。

 

安祥城(三河)

織田信長の兄「織田信広」が城主を務めた城。

今川義元の軍師「太原雪斎」が、この安祥城を攻略し、織田信広を捕縛。

「織田信広」と「竹千代(徳川家康)」が人質交換され、竹千代は駿府へと移った

 

大高城(尾張)

「桶狭間の戦い」のときに、織田軍団に包囲されていた城。

「松平元康(徳川家康)」によって兵糧が運び込まれて、籠城を続けていたが、直後に今川義元が戦死した

 

沓掛城(尾張)

今川義元が最期に立ち寄った城。

桶狭間で討ち取られる日の朝まで、今川義元はこの城にいた。

一説によると、この城を出発した直後、今川義元は落馬し、輿(こし)に乗り換えた。

戦後、「桶狭間の戦い」の戦功第一だった「梁田政綱(やなだ まさつな)」に与えられた。

 

鳴海城(尾張)

「桶狭間の戦い」の際に、今川義元の家来「岡部元信」が、籠もっていた城。

岡部元信は、「鳴海城」を開城して織田信長に明け渡す代わりに、今川義元の首と兜をゆずりうけて駿府城へ帰還した。

 

「駿府城の歴史」について解説

駿府城、つまり駿府・今川館は、室町幕府によって「駿河国」の守護に任命された「今川氏」によって拠点とされた場所です。

 

14世紀、今川氏は「足利尊氏」とともに戦い各地で戦功をあげていました。

 

その中でも「今川範国」という武将が、駿河・遠江の守護に任命されたのです。

 

その「範国」の子「範氏」が、駿河国守護の職を継承して、戦国時代の「今川義元」まで続くことになります。

 

駿府城は、今川義元の時代にはまだ天守閣も、本格的な城郭もありませんでした。

 

そのため、「今川義元」が本拠地を置いていた時代、この場所は「今川館」と呼ばれていたのです。

 

1582年、武田勝頼が滅ぼされて、徳川家康が駿河を支配すると同時に、駿府城の築城が開始されます。

 

その後、「徳川家康」から十男「徳川頼宣」、徳川秀忠の次男「徳川忠長」へと城主が移り変わります。

 

「徳川忠長」が亡くなると、その後「城代」が置かれることとなり、城主が置かれることは有りませんでした。


スポンサーリンク


義元が亡くなった最期の地「桶狭間」は現在、どうなっているのか

「今川義元」が最期を遂げた地「桶狭間」。

 

現在では「桶狭間古戦場公園」という、公園になっています。

 

「桶狭間」は、盆地と呼ばれていますが、実際に行ってみると、「谷間の狭い道」という地形です。

 

ここに陣をおいた今川義元は、豪雨の中で突撃してくる「織田信長」の軍団を防ぎきれずに敗走を繰り返します。

 

狭い道であったため、混乱に巻き込まれて逃げることもできなかった今川義元は、「織田信長」の軍団に討ち取られてしまいます。

 

現在の「桶狭間古戦場公園」には、織田信長と今川義元の銅像が建てられています。


スポンサーリンク


今川義元ゆかりの城「駿府城」のその後!「徳川家康」の居城になった!

今川義元の居城であった「今川館」は、その後「徳川家康」によって「駿府城」という城が建てられています。

 

「駿府城(すんぷじょう)」

 

家康が生涯にわたって住み続けることとなる城です。

 

駿府城は、もともと「今川氏」の本拠地でした。

 

しかし、【1569年】に今川氏真の時代に今川氏が滅びると、「武田信玄」「武田勝頼」によって支配されることになります。

 

1582年】、武田氏が滅亡すると、駿府は徳川家康が支配します。

 

そこで、家康は「駿府」を拠点とするために、城郭建築を開始します。

 

ところが【1590年】に、関東の北条氏政が滅びると、家康は豊臣秀吉の命令で「関東・江戸城」へ本拠地を移さざるをえなくなります。

 

その後、家康は「関ヶ原の戦い」で勝利し、天下人へ。

 

1603年】に征夷大将軍に就任して江戸幕府を開くと、【1605年】に息子「秀忠」へ将軍職を譲って隠居。

 

その隠居所が、この「駿府城」でした。

 

家康は駿府城を大きく改築。

 

途中で火災が起こったものの、家康が最期をむかえるまで、その居城として利用され続けました。

 

家康の死後、この城は家康の十男「徳川頼宣(よりのぶ)」、徳川秀忠の次男「徳川忠長」などの居城となります。

 

「徳川忠長」が自害して亡くなると、駿府城は「城代」が置かれます

 

駿府城はそれ以降、明治維新後に徳川慶喜が入るまで、「城主なし」の状態が続くこととなるのです。

「今川義元」ゆかりの地に関する「御朱印カード」

今川義元にゆかりの地を記念しての御朱印・カードが販売されているようですので、ご紹介させていただきます。

 

桶狭間古戦場

 

今川氏館

 


スポンサーリンク


まとめ

本日の記事をまとめますと

1,今川義元「ゆかりの地」には、「臨済寺」「駿府城」「桶狭間古戦場」などがある

 

2,今川義元「ゆかりの城」は、「駿府城」「沓掛(くつかけ)城」など

 

3,義元が亡くなった「桶狭間」古戦場は、現在「公園」として整備され、信長とともに「今川義元の像」が建てられている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


スポンサーリンク


「今川義元」関連記事

「今川義元」について、よろしければ、以下のリンク記事も、ぜひお役立てくださいませ。


『【今川義元】おんな城主・井伊直虎との関係とは?二人は親戚だった!』の記事はコチラ

『【今川義元武田信玄と北条氏康三人の関係は親戚・義兄弟だった!』の記事はコチラ

【今川義元】肖像画の画像を探してみた!どうしてお公家風の姿なの?』の記事はコチラ

『【今川義元】なぜ織田信長との「桶狭間の戦い」で敗北した?原因は油断』の記事はコチラ

『今川義元の家臣団一覧と【3人の名将】!信長・家康をも苦しめた逸話』の記事はコチラ

『今川義元と太原雪斎はどういう関係?雪斎の功績と、徳川家康との関係』の記事はコチラ

『今川義元の逸話桶狭間の予知夢亡霊の正体と、実の兄を殺した経緯』の記事はコチラ

今川義元と豊臣秀吉の隠された関係!秀吉が義元から受け継いだ名刀とは』の記事はコチラ

『【今川義元の年表】その生涯がひと目でわかる!42年の波乱の一生!』の記事はコチラ

『今川義元はお公家さんだったのか?お化粧とお歯黒をしていた理由とは』の記事はコチラ

『【今川義元と天下統一もし上洛できていたら義元は天下が取れたの?』の記事はコチラ

『【今川義元の評価義元は最強の武将だった!軍事・内政・外交の実績』の記事はコチラ

『今川義元と徳川家康の関係を解説!義元・家康を育てた超天才軍師とは』の記事はコチラ

『今川義元の父母と息子・今川氏真を解説!氏真はバカだから生き残れた』の記事はコチラ

『今川義元の子孫と先祖を【家系図】で解説!子孫は「忠臣蔵」のあの人』の記事はコチラ

『【今川義元と桶狭間の戦い】その謎や疑問のすべてを短く簡単に解説』の記事はコチラ

『今川義元「ゆかりの地」と「城」を地図でご案内!生誕地と最期の地』の記事はコチラ

『今川義元の愛刀「義元左文字」愛用の「鉄兜」は今どこにあるのか?』の記事はコチラ

『今川義元のは桶狭間の後どこへ行った?なぜ義元は敗北したのか』の記事はコチラ

瀬名姫の母親は誰?今川義元の妹か、又は井伊直虎の親戚・佐名姫か!』の記事はコチラ

今川氏真が織田信長殺害に協力?本能寺の変を家康は知っていた!』の記事はコチラ

今川氏真の最期とは?妻・早川殿との子孫はあの有名人で現在も大活躍』の記事はコチラ

北条氏康の義兄は今川義元?二人は血縁もある兄弟だった!』の記事はコチラ

織田信長と桶狭間の戦いを簡単に解説!どのような戦法で勝利したのか』の記事はコチラ

『【桶狭間の戦いとは】簡単にわかりやすく解説!隠されていた真実に驚愕』の記事はコチラ

スポンサーリンク

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

2020年10月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  
ページ上部へ戻る