MENU

今川義元の家臣団一覧と【3人の名将】!信長・家康をも苦しめた逸話

この記事では今川義元につかえた家臣団について、一覧でわかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

これを読めば今川義元につかえた今川家・家臣団を、カンタンに理解できます。

今川義元には、後世にもその名を轟かせる3名の名将が仕えていました。


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

  1. 今川義元には太原雪斎、朝比奈、天野、鵜殿、井伊などの家臣団がいた
  2. 今川家の家臣団の中でも、太原雪斎、岡部元信、朝比奈泰朝の3名は、名将と呼んでよいだろう
  3. 太原雪斎は尾張・三河へ侵攻して信秀・信長親子を追いつめた。岡部元信は桶狭間の戦いと第二次高天神城の戦いで信長や家康を苦しめた。朝比奈泰朝は家康による掛川城攻略戦で、5ヶ月も籠城し、今川氏真を守り抜いた

今川義元の家臣団一覧

「桶狭間の戦い」で「織田信長」に敗北した武将「今川義元」。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

 

その「今川義元」に仕えた「今川家・家臣団」を一覧でご紹介いたします。

 

  • 太原崇孚雪斎(今川義元の軍師。今川家の家臣「庵原政盛」の息子)
  • 朝比奈泰能
  • 朝比奈泰朝(朝比奈泰能の息子)
  • 朝比奈元長
  • 朝比奈信置(朝比奈元長の息子)
  • 朝比奈泰長(朝比奈泰能の従弟)
  • 朝比奈元智(朝比奈泰長の弟)
  • 安部元真
  • 天野景泰
  • 天野元景(天野景泰の息子)
  • 天野景貫(天野景泰の分家)
  • 飯尾連竜
  • 井伊直盛(井伊直虎の父)
  • 井伊直満(井伊直盛の叔父、井伊直親の父)
  • 井伊直親(徳川四天王「井伊直政」の父)
  • 庵原元政(之政・・・太原雪斎の同族)
  • 鵜殿長持
  • 鵜殿長照(鵜殿長持の息子)
  • 鵜殿長忠(鵜殿長持の息子・長照の弟)
  • 鵜殿氏長(鵜殿長照の息子)
  • 鵜殿氏次(鵜殿長照の息子)
  • 岡部親綱(岡部元信の父)
  • 岡部元信
  • 岡部正綱(岡部元信の同族)
    小原鎮実
  • 孕石元泰
  • 久野元宗(くうのもとむね・久野宗能の兄)
  • 久野宗能
  • 菅沼定盈
  • 関口氏純(氏広・親永・・・家康の妻「築山殿」の父であり、今川義元の妹婿)
  • 瀬名氏俊(関口氏純の兄弟)
  • 瀬名信輝(瀬名氏俊の息子)
  • 松平元康(のちの徳川家康)
  • 松井宗信(桶狭間の戦いで今川義元とともに戦死)
  • 松井信薫(松井宗信の兄)
  • 松井宗親(松井信薫の息子)


スポンサーリンク


義元に仕えた「3人の名将」

今川義元に仕えた武将たちの中で、特に活躍した名将といえば、三名あげられると思います。

  • 「太原崇孚雪斎」
  • 「岡部元信」
  • 「朝比奈泰朝」

それぞれ順番に解説してまいります。

 

 

「太原崇孚雪斎」

臨済宗の僧侶で、今川義元の軍師。

 

今川家の「軍事・内政・外交」すべてに力を発揮し、今川家の最盛期をつくりあげた名将。

 

幼い頃に出家した「今川義元」こと「芳菊丸」の教育係を務めました。

 

その後、「義元」の兄「今川氏輝」が亡くなると、義兄「玄広恵探」とのあいだで、家督争いが勃発。(花倉の乱)

 

「雪斎」は義元の母「寿桂尼」と協力して、義元を勝利へ導き、今川家当主に就任させたのです。

 

その後も尾張国の猛将「織田信秀」との戦いに勝利を重ね、三河国の属国化および支配に成功。

 

また、「駿河国」の背後に位置する「甲斐国・武田信玄」「相模国・北条氏康」と「甲相駿三国同盟」を締結し、背後の驚異を完全に排除することにも成功。

 

三河国主の正統後継者「松平竹千代(徳川家康)」を指導し、名将へと育てあげたのでした。



スポンサーリンク


「岡部元信」

父「岡部親綱」とともに、今川義元に仕えた名将。

 

遠江・三河への侵略に功績を残した武将であり、「太原雪斎」が「織田信秀」の軍を撃破した「第二次小豆坂の戦い」や、「安祥城攻略戦」などで勝利に貢献した猛者。

 

その後は尾張国における最前線基地「鳴海城」の守備を担当しています。

 

1560年】、「桶狭間の戦い」で主君「今川義元」が戦死すると、岡部元信は織田信長から「義元の首」を奪還することに成功。

 

その後、駿府城へ帰還した岡部元信は、義元の子「今川氏真」に仕えています。

 

1569年】に今川家が滅びると、「武田信玄」に降伏して臣下となります。

 

1573年】、「武田信玄」が死去すると、その子「武田勝頼」に仕え、遠江国の要衝だった「高天神城」の守備を担当しています。

 

その後、「第二次・高天神城の戦い」で「徳川家康」を苦しめています。



スポンサーリンク


「朝比奈泰朝」

父「朝比奈泰能(あさひな やすよし)」とともに、今川家の最盛期を支えた猛将。

 

母親は、今川義元の「いとこ」。

 

「桶狭間の戦い」では、最前線の「鷲津砦」攻略を担当。その後、義元が亡くなると撤退。

 

裏切りの疑いがあった「井伊直親」を殺害しています。(直親は、徳川四天王「井伊直政」の父)

 

その後も衰退していく「今川家」に忠誠を尽くし、【1568年】、「武田信玄」の「駿河侵攻」に抵抗。

 

駿河国から逃れてきた主君「今川氏真」を保護して、「掛川城」へ籠城。

 

武田信玄と同時に今川家を攻撃していた「徳川家康」の軍団を、「掛川城」で迎撃しています。



スポンサーリンク


3人の名将たちが、「織田信長」「徳川家康」を苦しめた逸話・エピソード

この三名の武将たちは、「織田信長」「徳川家康」という、のちの天下人をかなり苦しめています。

 

「太原雪斎」は、「第二次小豆坂の戦い」で、織田信長の父「織田信秀」を撃破。

 

更には三河・尾張南部の城を次々と陥落させ、織田信秀・信長親子をかなり追いつめています。

 

さらには信長の兄「織田信広」を「安祥城の戦い」で捕縛。

 

「松平竹千代(徳川家康)」との人質交換に利用しています。

 

雪斎の「軍事・内政・外交」によって、日本有数の巨大勢力となった「今川家」は、隣国「尾張国」の「織田信長」を圧迫し、大いに苦しめたのでした。



スポンサーリンク


「岡部元信」は、「桶狭間の戦い」で「今川義元」が戦死すると、尾張国南部の前線基地「鳴海城」に籠城。

 

勢いにのる織田信長の軍団を迎え撃ち、次々と撃退。

 

ついには織田信長から、「開城交渉」をもちかけられます。

 

「岡部元信」は、主君「今川義元の首」の返還を条件に、鳴海城を退去。

 

その後、信長の味方だった尾張国・刈谷城を攻撃し、「水野信近」を討ち取っています。(水野信近は、徳川家康の伯父)

 

1569年】、「武田信玄」による「駿河侵攻」で今川家が滅びると、降伏して「武田信玄」「武田勝頼」親子に仕えます。

 

遠江国の難攻不落の名城「高天神城」を守備し、【1580年】、徳川家康と激突。(第二次高天神の戦い)

 

援軍が来ない中で、「高天神城」を守りながら、徳川軍を何度も押し返しています。



スポンサーリンク


「朝比奈泰朝」は、【1568年】に始まった「駿河侵攻」で奮闘。

 

駿河国から逃げてきた主君「今川氏真」を掛川城で保護。

 

主君を守りながら、「徳川家康」の軍を5ヶ月も撃退し続けたのでした。

 

しかし、【1569年】ついに徳川家康に降伏。

 

北条家へ保護された「今川氏真」は、相模国へ移動。

 

「朝比奈泰朝」も、これに同行しています。

 

このとき、家康は「朝比奈泰朝」の力を惜しみ、家来になってほしいと勧誘するものの、断られたと言われています。

 

「駿河侵攻」では、今川家重臣のほとんどが、今川家を見捨てて「武田信玄」に降伏しています。

 

しかし「朝比奈泰朝」は最期まで、主君「今川氏真」に忠誠を尽くしたのでした。



スポンサーリンク


三人の名将たちの最期

「太原雪斎」は【1555年】に、病死しています。享年60歳。

 

この前年、雪斎はその外交能力を駆使して「武田信玄」「北条氏康」とのあいだで「甲相駿三国同盟」を締結しています。

 

この三国同盟という雪斎が残した最後の置き土産は、「雪斎」や「今川義元」の死後も今川家を守り、「桶狭間の戦い」のあと【9年】ものあいだ、衰退した今川家を存続させたのでした。

 

 

「岡部元信」は1581年】、「第二次高天神の戦い」で戦死。

 

食料が尽きた高天神城の兵士たちは、「岡部元信」を先頭に、徳川軍に突撃。

 

岡部元信は敵将「大久保忠教」に討ち取られ、亡くなります。

 

猛将「岡部元信」の首は、安土城の「織田信長」のもとへ送られたと言われています。

 

おそらく信長は、「岡部元信」のことを覚えていたはず。

 

因縁の猛将の死を、信長は、どのように感じたのでしょうか。

 

享年は70歳を過ぎていたと考えられています。

 

この翌年【1582年】、「天目山の戦い」で「武田勝頼」が自害し、「武田家」は滅亡。

 

その3ヶ月後、「本能寺の変」で「織田信長」は「明智光秀」に討たれています。

 

 

「朝比奈泰朝」は、いつ亡くなったか全く不明です。

 

1569年】、「今川家」が「武田信玄」と「徳川家康」の連合軍に滅ぼされた後、朝比奈泰朝は「今川氏真」とともに相模国へ保護されています。

 

朝比奈が、その後どうなったのかは、不明です。

 

一説によると、徳川四天王の筆頭「酒井忠次」に仕えたと言われています。

 

「徳川四天王」のひとり「井伊直政」の父「井伊直親」を討ち取った朝比奈が、「酒井忠次」に仕えたとは、少し皮肉な感じがします。



スポンサーリンク


「太原雪斎」と「今川義元」活躍を描いた名作マンガ「センゴク外伝~桶狭間戦記~」

豊臣秀吉につかえた仙石秀久を主人公にした、人気漫画センゴク。

 

その外伝が、センゴク外伝~桶狭間戦記~というマンガです。

主人公は今川義元と、それを支えた太原雪斎。

この作品は今川義元の生涯を描いた作品です。

今川義元と太原雪斎の活躍を、楽しみながら知ることが出来る名作です。



スポンサーリンク


まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 今川義元には太原雪斎、朝比奈、天野、鵜殿、井伊などの家臣団がいた
  2. 今川家の家臣団の中でも、太原雪斎、岡部元信、朝比奈泰朝の3名は、名将と呼んでよいだろう
  3. 太原雪斎は尾張・三河へ侵攻して信秀・信長親子を追いつめた。岡部元信は桶狭間の戦いと第二次高天神城の戦いで信長や家康を苦しめた。朝比奈泰朝は家康による掛川城攻略戦で、5ヶ月も籠城し、今川氏真を守り抜いた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



スポンサーリンク


「今川義元」関連記事

「今川義元」について、よろしければ、以下のリンク記事も、ぜひお役立てくださいませ。


『【今川義元】おんな城主・井伊直虎との関係とは?二人は親戚だった!』の記事はコチラ

『【今川義元武田信玄と北条氏康三人の関係は親戚・義兄弟だった!』の記事はコチラ

【今川義元】肖像画の画像を探してみた!どうしてお公家風の姿なの?』の記事はコチラ

『【今川義元】なぜ織田信長との「桶狭間の戦い」で敗北した?原因は油断』の記事はコチラ

『今川義元の家臣団一覧と【3人の名将】!信長・家康をも苦しめた逸話』の記事はコチラ

『今川義元と太原雪斎はどういう関係?雪斎の功績と、徳川家康との関係』の記事はコチラ

『今川義元の逸話桶狭間の予知夢亡霊の正体と、実の兄を殺した経緯』の記事はコチラ

今川義元と豊臣秀吉の隠された関係!秀吉が義元から受け継いだ名刀とは』の記事はコチラ

『【今川義元の年表】その生涯がひと目でわかる!42年の波乱の一生!』の記事はコチラ

『今川義元はお公家さんだったのか?お化粧とお歯黒をしていた理由とは』の記事はコチラ

『【今川義元と天下統一もし上洛できていたら義元は天下が取れたの?』の記事はコチラ

『【今川義元の評価義元は最強の武将だった!軍事・内政・外交の実績』の記事はコチラ

『今川義元と徳川家康の関係を解説!義元・家康を育てた超天才軍師とは』の記事はコチラ

『今川義元の父母と息子・今川氏真を解説!氏真はバカだから生き残れた』の記事はコチラ

『今川義元の子孫と先祖を【家系図】で解説!子孫は「忠臣蔵」のあの人』の記事はコチラ

『【今川義元と桶狭間の戦い】その謎や疑問のすべてを短く簡単に解説』の記事はコチラ

『今川義元「ゆかりの地」と「城」を地図でご案内!生誕地と最期の地』の記事はコチラ

『今川義元の愛刀「義元左文字」愛用の「鉄兜」は今どこにあるのか?』の記事はコチラ

『今川義元のは桶狭間の後どこへ行った?なぜ義元は敗北したのか』の記事はコチラ

瀬名姫の母親は誰?今川義元の妹か、又は井伊直虎の親戚・佐名姫か!』の記事はコチラ

今川氏真が織田信長殺害に協力?本能寺の変を家康は知っていた!』の記事はコチラ

今川氏真の最期とは?妻・早川殿との子孫はあの有名人で現在も大活躍』の記事はコチラ

北条氏康の義兄は今川義元?二人は血縁もある兄弟だった!』の記事はコチラ

織田信長と桶狭間の戦いを簡単に解説!どのような戦法で勝利したのか』の記事はコチラ

『【桶狭間の戦いとは】簡単にわかりやすく解説!隠されていた真実に驚愕』の記事はコチラ

スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次