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今川氏真の子孫の現在!末裔には悪役や名君さらに宇宙工学の博士もいた

名門・今川家の道楽息子・今川氏真いまがわうじざね

氏真は、桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られた今川義元の嫡男です。

妻・早川殿はやかわどのとの子孫は、忠臣蔵で有名な吉良上野介きらこうずけのすけ

令和の現代でも、今川氏真の子孫が大活躍しています!

名将・武田信玄や北条氏康うじやすと渡り合った名将・今川義元の息子の最期は、穏やかなものだったようです

この記事では、今川氏真について詳しく解説いたします。

歴史専門サイト「レキシル」へようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・今川氏真は1615年に江戸で最期をむかえた。徳川家康が豊臣秀頼を滅ぼした年に亡くなった。

・忠臣蔵で有名な敵役・吉良上野介義央きらこうずけのすけよしなおは、今川氏真の子孫にあたる

・名君・上杉鷹山うえすぎようざんや宇宙工学者・上杉邦憲博士も、氏真の血を引いている


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目次

今川氏真の子孫は誰?

今川氏真の子孫・・・あの有名人がいます。

忠臣蔵の【吉良上野介】が、氏真の子孫だった

今川氏真の子孫には、吉良上野介という人物がいます。

今川氏真と早川殿の娘が、家康の従兄弟いとこ吉良義貞きらよしさだに嫁いでいます。

この吉良家から、忠臣蔵で有名な吉良上野介が生まれているのです。

吉良上野介義央きらこうずけのすけよしなおといえば、浅野内匠頭あさのたくみのかみからいきなり切りつけられ、法律を守り通して刀を抜かずに耐え忍んだら、いきなり赤穂浪士あこうろうしに討ち入られてなくなってしまったという不運なお方。

浅野内匠頭に対し、嫌がらせをしていたという説もあります。

一部では、吉良上野介は名君だった、という同情的な見方もあるようですが・・・どういう人間だったのかは、定かではありません。

ちなみに、吉良上野介を討ち果たした赤穂四十七士あこうしじゅうしちし大石内蔵助おおいしくらのすけは、関ヶ原の戦いの前哨戦【伏見城の戦い】で戦死した徳川家の武将・鳥居元忠とりいもとただの子孫といわれています。

→→→→→【鳥居元忠の子孫と最期・死因】についてくわしくはこちら


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ケネディ大統領が尊敬した名君も、氏真の子孫?

今川氏真の子孫である吉良上野介には、上杉鷹山うえすぎようざんという子孫がいます。

吉良上野介の息子は、妻の実家である米沢上杉家に養子に出されて、米沢藩の四代目藩主・上杉綱憲うえすぎつなのりとなっているため、今川の名前は継いでいません。

しかし一応血縁としては、その後の上杉家の当主たちもまた、今川氏真の子孫ということになります。

上杉鷹山は、吉良上野介の息子である上杉綱憲の娘の娘の息子。つまり吉良上野介の孫の孫(玄孫げんそん)が、上杉鷹山なのです。

上杉鷹山といえば、破産寸前だった米沢藩を建て直した名君です。

アメリカ大統領だったジョン・F・ケネディが尊敬していたという名君・米沢藩九代藩主・上杉鷹山うえすぎようざんは、吉良上野介義央の玄孫なので、上杉鷹山もまた、今川氏真の血を引いていることになります。

案外と、色んな人と血が繋がっていたのが今川氏真なのです・・・。

おそらくですが、能力が乏しかったからこそ、誰も今川氏真のことを警戒しなかったのでしょう。

暗愚であることは最高の生き残り術なのかもしれません。

織田信長の次男・織田信雄のぶかつもまた、暗愚で有名だったため、後世まで生き残っていますしね。


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今川氏真の子孫の現在

氏真の血が、上杉家に引き継がれていることは、分かりましたが、どうやらその縁は現代まで続いているようです。

宇宙工学者の上杉邦憲さんは、上杉家の32代目当主です。

上杉謙信から数えると17代目、米沢藩の初代藩主・上杉景勝から数えると16代目当主です。

上杉博士といえば、惑星探査機【はやぶさ】で一躍有名になった東大卒の学者さんですよね。

他にも血縁としては

  • 8代将軍・徳川吉宗
  • 島津家の猛将・島津義弘
  • 後北条氏3代目・北条氏康

など、名だたる方々と繋がりがありますね。

上杉博士の奥様はなんと徳川家の末裔だそうで、奥様の叔父・徳川恒孝とくがわつねたかさんは、前・徳川家の当主だったお方です。

さすがに名門だけあって、名門と繋がりがあるものなんですね。

ちなみに「徳川恒孝」さんは、2011年におこなわれた【家康公シンポジウム】に登場し、同じく招待されていた徳川四天王の末裔の皆様と交流したみたいですね。

→→→→→【徳川四天王の子孫】についてくわしくはこちら

→→→→→【徳川四天王で最強は誰?】についてくわしくはこちら


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今川氏真の最後とは?

1560年の桶狭間の戦いで織田信長に敗北した武将・今川義元いまがわよしもとの息子が、今川氏真いまがわうじざねです。

今川氏真
引用元ウィキペディアより

今川氏真について簡単解説

今川氏真は、今川義元の長男にあたります。

幼名は龍王丸りゅうおうまる

1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れ、戦死しています。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

その時から、氏真は今川家の家督を相続したのです。

しかし、今川氏真は武将としての能力に乏しく、蹴鞠けまりや和歌などに没頭したといいます。

挙げ句の果てには、政務をまったくかえりみなかったといわれています。

そのためか、1568年に、武田信玄と徳川家康の連合軍が、今川氏真の本拠地を攻撃する駿河侵攻するがしんこうが始まります。

氏真の家臣団からは裏切り者が相次ぎ、まったく太刀打ちできずに、氏真は敗走。

そのあと氏真は、居城であった駿河・今川館を捨てて、朝比奈泰朝やすともの守る掛川城へ逃亡してしまいます。

妻の早川殿は、氏真において行かれ、輿こしも用意してもらえず、徒歩で掛川城へ逃亡したといいます。

早川殿
引用元Wikipediaより

その後、掛川城は家康との講和で開城し、氏真は妻の実家・北条家にて世話になることになるのです。

→→→→→【早川殿が賢夫人と呼ばれる理由】についてくわしくはこちら

後に氏真は家康と講和して、浜松城に移り住むことになります。

その後は家康に仕え、徳川幕府でも一定の地位を与えられたといわれています。

余談ですが、2023年の大河ドラマ【どうする家康】において、女優の志田未来さんが早川殿を演じておられました。(ドラマ内での早川殿は、【いと】という名前に設定されていた)

ドラマの中で糸(早川殿)は、幼い頃に石段から落ちて足が不自由になったという設定になっていました。

しかし史実において早川殿の足が不自由であった事実はありません。

なぜドラマでは早川殿の足が不自由であるという設定になったのかは、以下のリンク記事で推測をしております。

→→→→→【ドラマ『どうする家康』において、氏真の妻・早川殿の足が不自由と設定された理由】についてくわしくはこちら


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今川氏真の最後の様子とは?

今川氏真は、1615年に、江戸で亡くなりました。

おそらく品川にあった自分のお屋敷で亡くなったと思われます

享年77歳。

1615年は、大坂夏の陣が終わり、戦国時代の終幕の年でもあります。

今川氏真は、その大坂夏の陣が起こる直前に亡くなっているのです。

家康はこの翌年に亡くなっており、戦国の終わりと同時に、家康に先立って亡くなったこととなります。

この2年前の1613年、妻であった北条氏康の娘の早川殿が、おなじく江戸で亡くなっています。

この当時の日本では、1600年以降ほとんど戦争が起こっていなかったので、平穏無事な最期だったと考えられます。

墓は現在の東京都杉並区今川二丁目にある観泉寺にあります。

子供たちは、二代将軍・徳川秀忠に仕え、氏真の孫・範英のりひで高家今川家こうけいまがわけの初代当主となり、明治まで続くこととなりました。

今川家は明治維新の際の当主・今川範叙のりのぶを最期に、事実上断絶しています。

→→→→→【今川氏真の最期】についてくわしくはこちら

→→→→→【氏真の妻・早川殿の最期】についてくわしくはこちら


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  • 今川氏真は、戦国時代の終わりに江戸で最期を迎えた。穏やかな最期だったと予想される
  • 子孫には吉良上野介義央や上杉鷹山などがいる
  • 令和の現代でも上杉邦憲博士など、有能な子孫が活躍している

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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