この記事では「今川義元」の「父母」と「息子」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
今川義元の両親と息子が、どのような人物で、どんな生涯を送ったのか、ふと疑問を抱いたことはありませんか?
これを読めば「義元の父母と息子」についての疑問を、カンタンに解決できます。
「今川義元の母」は「寿桂尼」という名前で「武田信玄」をも苦しめた女大名。
息子の「今川氏真」は、後世において「バカ殿」と呼ばれた人物なのです。
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この記事を短く言うと
1,今川義元の母親は「寿桂尼(じゅけいに)」。武田信玄をも苦しめたという女大名。しかし近年の研究では、「寿桂尼」は「今川義元」の実母ではなく、養母という説がある。
2,義元の息子「今川氏真」は、戦国大名「今川家」を滅ぼした当主。能力が低く、親の仇である「織田信長」のまえで「蹴鞠(けまり)」を披露したほど。のちに元部下の「徳川家康」につかえた
3,今川義元の父「氏親」は、叔父に当たる「北条早雲」の協力で、今川家の跡目争いに勝利した武将。北条早雲に興国寺城をあたえ、5代100年にわたる名家「小田原北条氏」の基礎を与えてしまったとも言える。
4,「今川義元」の息子「氏真」の娘が「吉良家」へ嫁いでいる。その「吉良家」からは「忠臣蔵」の悪役「吉良上野介」が生まれている。
今川義元の母とは誰?武田信玄をも苦しめた女大名「寿桂尼」
今川義元の母親は、「女大名」と呼ばれた女傑「寿桂尼」です。
「海道一の弓取り」とたたえられた名将「今川義元」。
そんな「今川義元」の母である「寿桂尼」は、当時としては珍しく、政治に参加して、軍事・外交などでも手腕を発揮した女性です。
寿桂尼は、「桶狭間の戦い」で息子「今川義元」が亡くなった後も、孫「今川氏真」を補佐して、今川家を守り続けました。
「敵に塩を送る」
「上杉謙信」が宿敵「武田信玄」の窮地を救った逸話をあらわす言葉です。
内陸国「甲斐」の領主だった「武田信玄」は、同盟国であった「今川家」「北条家」から、「塩」の輸入を止められて、窮地に陥っていたのです。
この「塩の輸出禁止」には、寿桂尼が協力していたという説があります。
「武田信玄」は、「寿桂尼」の「塩の輸出禁止」に、かなり苦しめられたのです。
ちなみに近年の研究で、「寿桂尼」は「今川義元の実母」ではなく、「養母」であると考えられています。
今川義元の息子「今川氏真」の伝説!生き残れた理由は「うつけ」だったから
「今川義元」の息子「今川氏真」は、戦国時代という厳しい時代を生き抜いた人物です。
なぜ生き残れたのかというと、その理由は「今川氏真」が「うつけ」、つまり「バカ殿」だったからです。
【永禄三年(1560年)5月19日】、「今川義元」は「桶狭間の戦い」で、「織田信長」に討ち取られました。
その後、「今川氏真」は「徳川家康」や「武田信玄」に領地を侵略されます。
【1569年】に戦国大名「今川家」は滅亡。
「今川氏真」は、「北条氏康」や「徳川家康」に保護されます。
挙句の果てには、父「今川義元」の仇である「織田信長」の前で、「蹴鞠(けまり)」、すなわち「リフティング」を披露するまでに没落します。
そんな「今川氏真」ですが、子孫を残して「明治維新」まで「今川家」を存続させます。
なぜそんなことができたかというと、「今川氏真」が「バカ殿」だったからです。
能力が低すぎて、だれも「今川氏真」を恐れず、驚異とは考えなかったため、誰も今川氏真を滅ぼそうとは思わなかったのです。
「織田信長」の次男「織田信雄」も、「織田信忠」や「織田信孝」たち優秀な兄弟とは違い、父「信長」から縁を切られそうになるほどの「バカ殿」でした。
しかし、それが幸いしたのか、誰からも滅ぼされず、明治維新まで「織田信長」の子孫を守ることに成功しています。
「うつけもの」
「織田信長」が演じた「うつけ」。
「今川氏真」は「真のうつけ」だったからこそ、生き残れたのでしょう。
「今川氏真」について、以下のリンク記事で、詳しく解説しております。
ちなみに、天下人の太刀として有名な「義元左文字(別名・三好左文字または宗三左文字)」については、以下のリンク記事で、詳しく解説しております。
義元の父「今川氏親」!天才武将「北条早雲」を生み出した男
今川義元の父親は、駿河国の守護「今川氏親」です。
「今川氏親」といえば、名将「北条早雲」の甥。
叔父である「北条早雲」の協力を得て、今川家の家督争いに勝利したことで有名です。
そんな「今川氏親」ですが、幼くして父を失い、父のいとこである「小鹿範満」と家督争いをしています。
この家督争いに勝利した「今川氏親」は、叔父「北条早雲」に「興国寺城」という要衝を与えたのでした。
「北条早雲」はこの「興国寺城」を足がかりにして、「伊豆」と「相模」へ侵略を開始。
「今川氏親」は、妻「寿桂尼」を補佐として、「今川仮名目録」という「法律」を定め、今川家を強大化していきます。
「今川仮名目録」を定めた2ヶ月後の【1526年】、「今川氏親」は病死。
今川家の家督は、「今川義元」の兄「氏輝」が継承します。
その「氏輝」が若くして急死したため、「今川義元」が家督を継承することとなるのです。
「義元」は、父「氏親」が定めた「今川仮名目録」という法律を手本にして、「仮名目録追加」という法律を定め、「今川家」を日本屈指の強国へと押し上げるのです。
義元の息子「氏真」のその後!娘の子孫が「忠臣蔵」の悪役になった?
今川義元の息子「氏真」は、娘を「吉良家」という今川家の親戚に嫁がせています。
この吉良家から、「忠臣蔵」で有名な悪役「吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなお)」が生まれています。
「吉良上野介義央」は、「浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)」に江戸城で斬りつけられました。
そのことが原因で、「浅野内匠頭」の部下「大石内蔵助」に討ち取られています。
この「吉良上野介」の息子「綱憲」は、母が「上杉家」出身だったことから、米沢藩「上杉家」に養子入りして「米沢藩主」になっています。
その後「米沢藩」からは、アメリカ大統領「ジョン・F・ケネディ」も尊敬した名君「上杉鷹山」がでています。
今川氏真の子孫は、「徳川幕府」で「高家」という身分の高い家柄としての待遇を受けています。
氏真の直系子孫は、「明治維新」まで続いています。
以下のリンク記事で、「今川義元」「今川氏真」の「子孫や先祖」を「家系図」をつかって解説しています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,今川義元の母親は「寿桂尼(じゅけいに)」。武田信玄をも苦しめたという女大名。近年の研究では、「寿桂尼」は「義元」の実母ではないという説がある。
2,義元の息子「氏真」は、戦国大名「今川家」が滅亡したときの最後の当主。能力が低く、仇である「信長」のまえで「蹴鞠(けまり)」を披露したほど。のちに「徳川家康」につかえた
3,今川義元の父「氏親」は、「北条早雲」の協力で、跡目争いに勝利した武将。早雲に興国寺城をあたえ、「小田原北条氏」の基礎を与えてしまった人物。
4,「義元」の息子「氏真」の娘が「吉良家」へ嫁いでいる。その「吉良家」から「忠臣蔵」の悪役「吉良上野介」が誕生している。
以上となります。
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