【今川義元の年表】その生涯がひと目でわかる!42年の波乱の一生!

この記事では「今川義元の生涯年表」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

「今川義元が、どのような生涯をおくったのか」について、皆さんは疑問に思ったことはありませんか?

 

これを読めば「今川義元の一生」を、カンタンに理解できます。

 

「今川義元」は、「生まれてすぐに出家させられた苦労人」なのです。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,【1519年】、今川義元は、駿河・遠江の守護大名だった父「今川氏親」の5男として誕生した。母は「寿桂尼」。幼名は「芳菊丸(ほうぎくまる)」

 

2,【1536年】、異母兄「玄広恵探(げんこうえたん)」との家督争い「花倉の乱」に勝利して、今川家の家督を継承。翌年「武田信玄」の姉を妻にむかえて、武田家と同盟を締結した

 

3,【1549年】、「松平竹千代(のちの徳川家康)」を人質として、三河国を属国化することに成功。【1560年】、「桶狭間の戦い」で「織田信長」に敗れて戦死。享年42歳

今川義元の年表①【義元誕生~家督争い】(1519~1536)

「桶狭間の戦い」で「織田信長」に敗れて亡くなった武将「今川義元」(1519~1560年)

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

 

その生涯年表をご紹介いたします。

 

 

1519年】(1歳)

「今川義元」誕生

父親は、駿河・遠江国の守護大名「今川氏親」

母は「寿桂尼」

「義元」は「今川氏親」の五男として誕生。

幼名「芳菊丸(ほうぎくまる)」

 

 

1521年】(3歳)

「武田信玄」誕生

 

 

1522年】(4歳)

「芳菊丸」が出家。駿河国富士郡にあった「善徳寺」に預けられた。


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1529年】(11歳)

「義元」は、のちに軍師となる「太原雪斎(たいげんせっさい)」こと「九英承菊(きゅうえいしょうぎく)」と出会う

 

 

1534年】(16歳)

「織田信長」誕生

 

 

1536年】(18歳)

兄「今川氏輝」と「彦五郎」が同日に休止

僧侶から還俗(げんぞく)して「今川義元」を名乗る(還俗とは、僧侶をやめること)

異母兄「玄広恵探(げんこうえたん)」と家督争い(花倉の乱)が勃発

「玄広恵探」に勝利し、「今川家」の家督を継承。


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義元の年表②【家督継承~織田信秀との戦い】(1537~1548)

1537年】(19歳)

「武田信虎」の娘で、「武田信玄」の姉「定恵院」を妻にむかえて、武田家と同盟を結ぶ(甲駿同盟)

この「甲駿同盟」に反対した「北条氏綱」と開戦。「第一次河東の乱」が勃発

 

 

1540年】(22歳)

「今川義元」が三河国へ侵攻開始

 

 

1541年】(23歳)

「北条早雲」の子「北条氏綱」死去。「北条氏康」が北条家の家督を継承。

「武田信玄」が父「武田信虎」を甲斐国から追放。

「武田信虎」は、娘婿「今川義元」の支配する駿河国へ預けられる。

 

 

1542年】(24歳)

「織田信秀」と決戦(第一次小豆坂の戦い)

信秀の猛攻により「今川義元」敗北


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1545年】(27歳)

「山内上杉家」の当主「上杉憲政」と同盟締結。

この同盟により相模国の「北条氏康」を挟み撃ちとする(第二次河東の乱)。

「今川義元」は、「北条氏康」の軍を、駿河国東部の「河東」で撃破。

「北条氏康」は、「今川義元」へ「河東」の地を割譲することで和睦。(事実上、今川義元の勝利)

その後「北条氏康」は、「上杉憲政」のひきいる8万の大軍団を、わずか数千の軍で撃破(河越夜戦)

 

 

1547年】(29歳)

三河国の国主「松平広忠」の息子「松平竹千代(のちの徳川家康)」が、「今川義元」への人質として駿河国へ出発。

しかし「竹千代」の護送をしていた「戸田康光」が裏切り、「今川義元」へ届けるはずが、尾張国「織田信秀」へ「竹千代」を届けてしまう。

 

 

1548年】(30歳)

織田信秀とのあいだで「第二次小豆坂の戦い」が勃発。

軍師「太原雪斎」の活躍により、「第二次小豆坂の戦い」に勝利。

「松平広忠」が「今川義元」へ従属し、三河国が今川家の属国になり始める


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義元の年表③【竹千代との出会い~桶狭間での最期】(1549~1560)

1549年】(31歳)

「松平広忠」死去。(家来に裏切られて暗殺されたという説がある。)

今川家が、三河国にある織田家の拠点「安祥城(あんじょうじょう)」を制圧。

この城を守っていた「織田信秀」の長男であり、「織田信長」の兄にあたる「織田信広」が、今川軍に捕らえられる。

これにより、今川家の三河国制圧が完了。

「織田信広」と、「竹千代(徳川家康)」の人質交換がされた。

三河国主の正当な後継者「松平竹千代」は駿河の「今川義元」の元へ人質として送られる。

このとき、「今川義元」と「徳川家康」が出会う。

 

 

1551年】(33歳)

「織田信秀」死去

「織田信長」が織田家の家督を継承

 

 

1553年】(35歳)

「今川義元」が、領内に「仮名目録追加」という法律を制定。(父「今川氏親」が制定した法律「今川仮名目録」への追加された法律が「今川仮名目録」)

この法律で「足利将軍家の部下」としての「守護大名」から完全に脱却。「今川家」は、独立した勢力である「戦国大名」へと完全に移行することを宣言する。

 

 

1554年】(36歳)

「武田信玄」「北条氏康」「今川義元」のあいだで、「甲相駿三国同盟」が締結される。(善徳寺の会盟)

義元の嫡子「今川氏真」が、「北条氏康」の娘「早川殿」を妻とする

 

 

1555年】(37歳)

「武田信玄」と「長尾景虎(上杉謙信)」による「第二次川中島の戦い」が勃発。

義元が、この戦いの仲介をすることで終戦。

 

 

1558年】(40歳)

今川義元のもとにいた「松平元康(徳川家康)」が初陣を飾る(三河国・寺部城の戦い)

 

 

1560年】(42歳)

5月、義元が2~4万の大軍団をひきいて、尾張国「大高城」を救援するために出陣。

永禄三年(1560年)5月19日】、「桶狭間の戦い」

尾張国「桶狭間」で、織田信長の攻撃を受けて、「今川義元」敗死。

享年42歳

今川義元の首は、今川家の猛将「岡部元信」の交渉により、岡部元信が占領していた尾張国・鳴海城を織田家に明け渡す条件で奪還される。

義元の胴体は、駿河国へ帰還の途中、腐敗が進んだために、「大聖寺」へ埋葬されたと考えられている。


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「今川義元」の「お墓の場所」について、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。

今川義元の墓所はどこにあるの?愛知・静岡・東京に墓が複数ある理由』の記事はコチラ

 

「今川義元」の「子孫」については、以下のリンク記事で解説しています。

今川義元の子孫と先祖を【家系図】で解説!子孫は「忠臣蔵」のあの人』の記事はコチラ

 

「今川義元」と「徳川家康」が、一体どういう関係なのかについて、以下のリンク記事で、解説しています。

今川義元と徳川家康の関係を解説!義元・家康を育てた超天才軍師とは』の記事はコチラ

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もしも「今川義元」が、「桶狭間の戦い」で死ななかったら、どうなっていたのかを予想

もし今川義元が「桶狭間の戦い」で死ななかったら、おそらく織田家は今川義元に降伏していたでしょう。

 

織田信長が討ち取られることはなかったと思います。

 

降伏後、織田信長は「徳川家康」のように、今川義元の部下として、各地で「今川家の領地拡大」のために戦わされたと考えられます。

 

「上洛」

 

この「上洛」とは「京都へ進軍し、制圧する」ことを意味します

 

今川義元は「桶狭間の戦い」に勝利したあと、一度は本国「駿河」へ帰還したはずですが、最終的な目標である「上洛」を目指すつもりだったと考えられます。

 

おそらく「織田信長」や「徳川家康」を配下として、京都への途中にいた武将たち「美濃国・斎藤家」、「南近江・六角家」、「近畿・三好家」などと戦い、最終的には「京都を制圧」していたかもしれません。


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しかし、今川義元が天下統一することができたとは思えません。

 

おそらく京都を制圧したこところで、寿命が尽きていたのではないでしょうか。

 

1560年】、「桶狭間の戦い」のとき、今川義元は【42歳】でした。

 

当時の平均寿命からして義元には、あと10年、寿命が残っていたかどうか、だとおもいます。

 

「今川義元」が「もしも上洛できていたら」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。

『【今川義元と天下統一】もし上洛できていたら義元は天下が取れたの?』の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,【1519年】、今川義元は、「氏親」の5男として誕生。母は「寿桂尼」。幼名「芳菊丸」

 

2,【1536年】、異母兄「玄広恵探」との家督争い「花倉の乱」に勝利して、今川家の家督を継承。翌年、武田家と同盟を締結

 

3,【1549年】、「松平竹千代(家康)」を人質として、三河国を属国化。【1560年】、「桶狭間の戦い」で「信長」に敗れて戦死。享年42歳

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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